さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

これで日本は良くなるか。

2009-08-30 20:53:33 | 
今日は24時間テレビのチャリティ気分を吹き飛ばすかのように、すっかり衆議院選挙一色となっております。
山梨といえば、保守王国として長らく自民党支持が一般的でしたが、今回ばかりは民主党の圧勝に終わりそうです。
これまでも選挙は行ったり行かなかったりだったのですが、今回ばかりはその重要性を認識し、しっかりと行ってきました。

民主圧勝で日本がよくなるか否かはわかりませんが、間違いなく日本史の1ページを飾るであろう瞬間であり、大きな転換点であろうと思います。
このような瞬間に携われたことはある種光栄であり、歴史を作り出すことに参加できたことは素晴らしいことだと思います。
今回は、マスコミ各局が緻密にマニフェスト分析を行ってくれたことで(いえ、毎回してくれているのだと思いますが)、その選択に役に立ってくれたんじゃないかと。

民主党が国民の期待に応え、しっかりと舵取りを行ってくれることを期待したいと思います。

結婚の「覚悟」

2009-08-29 20:35:29 | 
首相「金がねえなら結婚しない方が」 官房長官は釈明(朝日新聞) - goo ニュース

麻生首相は23日夜、東京都内で開かれた学生との対話集会で、参加者から「若者に結婚するだけのお金がないから結婚が進まず少子化になるのではないか」と聞かれたのに対し、「金がねえなら結婚しない方がいい、おれもそう思う。うかつにそんなことしないほうがいい。おれは金はない方じゃなかった。だけど結婚は遅かった。稼ぎが全然なくて尊敬の対象になるかというと、なかなか難しい」と話した。

ちと古い話題ですが、取り上げたいと思います。
まぁ今は晩婚化が進んで、それに伴って出産も高齢化している。
また、子育てに費やす時間がないので子どもの数も少ないと。
そして、子育てにかかるお金も多く、現在のような不景気ですとなおさら不安だと。
本当はもっと深い事情があるのかも知れませんが、こんな認識でよいのでしょうか。
結婚・子育てはお金ありきなのかどうかはわかりませんが、そんな批判するほど的外れな言葉でもないのかなと思います。
よほど、無計画に子どもを作ってしまい、結婚せざるを得ないというよりは、常識的ではないかと思います。
「尊敬」云々のところは、まぁ考える余地がありますが。

わたしは、結婚というのは覚悟が必要だと思っています。
その覚悟というのは、「結婚は人生の墓場」という言葉のような腹をくくるようなものではありません。
当然、結婚というのは一人ではできません。必ず相手がいます。
つまり結婚は、直接的に結婚相手を自分の人生に巻き込んでしまう。
さらに、子どもが生まれたすると、その子どもの人生にはより大きな影響を与えてしまうのです。
自分とは違う人間を、自分の人生に巻き込んでしまう。
それは非常におそろしいことであり、ちゃんと計画を立てて、配偶者や子どもらを不自由なく生活させていくことができるかどうかを見極め、その上で決定すべきことなのだと、わたしは考えているのです。
こういう話をすると、大体は深刻に考えすぎだと笑われたり、一人で生活を支えていくわけでないだろうと窘められたりします。
確かにそうなのかも知れませんが、わたしはその覚悟が大事であると思うのです。
だから、「できちゃった婚」なんてありえないことだと思いますし、結婚離婚を繰り返すとか、そういうことも嫌いです。
大事なのはそういう心持ちなのです。

まぁ経験者の方から見れば理想論と笑われてしまうかも知れませんが、これはあくまでもわたしの精神論ですから。
人の生活に関することは、それはもう思想や哲学以上のものです。
いろんな考えがあって、いいんじゃないかと思います。

めんどくさい時代

2009-08-28 20:56:37 | 
「男性疑惑」セメンヤが公の場で初コメント(スポーツニッポン) - goo ニュース

世界陸上女子800メートルで優勝したものの「男性疑惑」が浮上している南アフリカのキャスター・セメンヤ(18)が大会後初めて口を開いた。セメンヤは帰国後、ズマ大統領と対面。「勝って金メダルを持ち帰ることができてよかった。世界新記録が出たと分かったから、ラスト200メートルは自分を祝福しながら走った」などと語った。

また今日から、こういう話題が増えてきますがよろしくお願いしますね。
このニュースを見たとき、まず思ったのは、何だかめんどくさい時代になったなぁと。
古い時代がよかったとかそういうノスタルジックな話ではありません。
ただ、面倒くさい時代になったと。
男だ女だと判断するのに、数週間もかかる検査をしなくてはならないなんて、これほど面倒くさいことがあるでしょうか。
多様性を認められていい時代になったという見方も、あるかも知れません。
わたしもそういう恩恵を受けている現代人ですから、そういったことを否定するつもりはさらさらありません。
しかし…何というか、難儀な時代になったもんだと思いませんか。
性別ですら、精密な検査をしなければわからないなんて…ねぇ?

佐久・小県訪問記 後編

2009-08-27 21:42:16 | 旅行記

上田城の周りは駐車場も豊富。
わたしたちが止めたのは、城の南側の駐車場。城跡の一部は、野球場や体育館などとなっており、本当に市民公園という感じです。
駐車場のすぐ近くにも、3on3コートやスケートボード場などがありました。
南側の駐車場から本丸址へ登るのは、急な階段があって小さい子どもやお年寄りにはいささか重労働かも知れません。
すぐに見えてくる西櫓は、1600年初期から残る数少ない遺構の一つです。
本丸址には、真田神社という神社があります。主神は真田父子となっており、二度にわたり徳川の大軍を追い返したということで、勝負ごとなどに御利益があり、さらに「おちない」ことから受験の神としても有名だそうです。
わたしは、ここで売っていた日本手ぬぐいのあまりのシュールさに心惹かれて、ついつい買ってしまいました。この戦国ブームの時勢にあきらかに逆行していますが、まぁそういうのも嫌いじゃないどころか、むしろ好きです。
お参りをして、その奥にある真田井戸を見学します。
建築当初から残るといわれる真田井戸は、その中に城外へ抜けるための抜け道もあるそうです。昔の城にはこういう抜け道があるのが当たり前だったのでしょうか。なかったらなかったで、なんと危機管理に疎い殿様だということになったのかも知れません。
それから、東虎口櫓門を見ます。
この櫓、維新後に別の場所に移築されて娼楼(!)として使用されていたそうです。それを、昭和18年から本丸跡へ再移築したそうです。中は簡単な資料館になっていて、上田城の歴史を一覧することができます。
やはり、二度にわたる上田合戦は上田城最大の見せ場のようで、力のこもった展示でした。

それから、門の脇にある真田石を見て、同じく敷地内にある上田市立博物館へ。
わたしはたびたび言っているのですが、市の単位で博物館をもっているなんて、なんてすごいんだろうと思うのです。いえ、規模はピンからキリまでですが、博物館は単なる観光資源ではなく、その収蔵品の研究と成果の発表の場が本来なのですから。規模云々ではないと思っています。
その点、赤穂市立博物館などは規模にしろ内容にしろ、かなりのものだと思うのですが、上田市立博物館は規模は小さいですが、内容はすばらしいんじゃないかと思います。
山極勝三郎(1863~1930)は明治・大正に活躍した病理学者で、日本初のノーベル賞受賞者となる可能性のあった人物です。
うさぎの耳にコールタールを重ね塗り、人工癌を発生させることに成功した。という話を聞いたことがあるかも知れません。それを成し遂げたのが勝三郎でした。
結局、ノーベル賞は逃してしまったのですが、のちに彼の業績は見直され、その分野において高い評価を受けています。
その勝三郎に関する展示や前述の上田合戦、江戸時代の上田の民俗を伝えるものなど、非常に興味深かったですね。

続いて、版画家であり美術教育者でもある山本鼎(1882~1946)の記念館も見ました。
山本鼎の版画は、美術や図工の教科書にも載っているので、見たことがある人は多いのではないでしょうか。名前は知らなくても、作品は知っていると思います。
建物はいささか古い感じですが、二階の展示室は広くてびっくりしました。
山本の仕事は、版画・自由画教育運動・農民美術運動の三つに分けられるそうで、それぞれにきれいな作品が並んでいました。
農民美術運動は、一見すると工芸と見間違えてしまいますが、自己の表現したいものを赴くまま作り出すという点で、絵画で言う素朴派的な独特な郷愁や幻想を感じることが出来ます。

と、すっかり上田城で長くなってしまいました。
本当は小諸によって懐古園もよっていきたかったのですが、時間的に苦しくなってきてしまいました。
海野宿にも寄りたいということで、海野宿を優先します。
海野宿は、1625(寛永2)年に北国街道の宿駅として開設されました。とはいえ、この東御市海野という地には、それ以上に古い歴史があります。
海野氏といえば、滋野三家のうちの一つで信濃では名族中の名族。真田氏ももとは海野氏の流れをくむそうで、幸村の祖父に当たる幸隆(1513~1574)は、海野棟綱(?~?)の息子とも、義理の息子とも、あるいは義理の孫とも言われています。
海野の地を本拠とし、小県に勢力を張っておりましたが、1541(天文10)年の海野平合戦において、武田・諏訪・村上連合軍(!!)の前に大敗を喫し、没落してしまうのです。
つまり、ある意味では真田氏発祥の地であるため、むしろわたしはそちらの方が興味があったのですが、海野宿では江戸時代以降の町並みが観光の中心であります。
この町並みは大変由緒正しいもので、1986(昭和61)年には「日本の道100選」に、1987(昭和62)年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定を受けており、極めて早い段階で整備が行われ、きれいな町並みが残されています。
およそ650mに渡り、伝統的な家々を見ることが出来るそうです。
特徴とされているのが、以下の四点。写真付きでどうぞ。

うだつ(江戸時代のものを本うだつ、明治時代以降のものを袖うだつというそうです。元は防火壁)

海野格子(長短二本ずつを組み、きれいな模様を作り出している)

出桁(二階部分の張り出しのこと)

気抜き(明治期、養蚕の際の換気に使われた開閉式の窓)

まぁこれらのものがあるというのは調べていったのですが、実際に見てみるとわからないものです。海野宿資料館でもらったパンフレットを見て、「あれがそうか」という具合でした。
見つけることができると、なかなか楽しいものです。
宿駅入り口の白鳥神社や先述の資料館、おみやげもの屋などをのぞいて、海野宿を後にします。

次に向かったのは、佐久市
知ってます? 佐久って、日本三大ケーキの町っていわれているそうですよ。
そういえば、「桃太郎電鉄CHUBU」では、佐久の物件はケーキ屋さんばかりでした。
佐久は私用で前にも行ったことがあるのですが、佐久は開けた土地です。大型のショッピングセンターはありますし、著名な店舗だって一通りは揃っています。何より、新幹線が通り、小海線の長野県側の始発駅でもあります。
昔は上田が東信地方の中心地だったそうですが、そういった事情もあって佐久もめきめきと力をつけているそうです。
なぜそんな佐久がケーキの町なのか…それはよくわかりませんでした。日照時間が長く、また果樹栽培も盛んな地域ですので、そこら辺が関与しているのかも知れません。
ちなみに、日本三大ケーキの町。ほかの二つは兵庫県神戸市と東京都目黒区自由が丘
なかなか肩を並べられるような所じゃありませんよ。
佐久市観光協会でもアピールがありませんでしたし、もう少し前面に押し出してもいいんじゃないでしょうか。それこそ、特産の巨峰や杏、桃やプルーンなどを使ったケーキなんかおいしいと思うんですけどねぇ。
まぁいいんです。
わたしたちは、そんな佐久市でケーキを食べます。
テイクアウトもあれですし、どうせならカフェで食べられるようなところがいい。ということで、見つけたのが「西洋菓子フォンティーヌ」さん。
1階が販売、2階がカフェになっております。
さすが、神戸・自由が丘と肩を並べるケーキの町です。実においしいケーキを頂きました。
おみやげもケーキを買いました。このおみやげがうちの人間にとても評判でしてね。
はんじゅくチーズケーキとはんじゅくショコラというのを買ったんですが、ふんわりとろとろしていて大変おいしかったです。

その後は、ちんたらちんたらと甲府に戻ってきたわけですが、ちょっと一日ではもったいない感じがしましたね。
上田には「池波正太郎真田太平記館」があったり、小諸には「小諸城址懐古園」があったり。ちょっと足を伸ばせば軽井沢ですし。佐久には「龍岡城五稜郭」があります。
二日あればあちこち見ることが出来たんでしょうけど。なかなかそれも難しく…。
いつの日にか、また来てみたいと思います。


佐久・小県訪問記 前編

2009-08-26 22:00:00 | 旅行記

旅行のネタが重なりますが、先日、信州上田・海野・小諸・佐久を巡ってきたので、その話をしたいと思います。
実は、上田はわたしのあこがれの土地。別に幸村じゃぁありません。むしろ、幸村こと信繁の祖父・幸隆や父・昌幸あたりがお気に入りなのです。
だから、一度は上田の城を訪れてみたいとは思っておりました。
それに、どうも佐久・小県といわれる地域は足を伸ばしにくいのです。ルートとしては、国道141号線(清里ライン)を北上するか、電車なら日本一高いところにある駅として有名な野辺山駅がある小海線を行きます。
どちらも便利とは言えないのですが、いざ行ってみれば清里ラインはカーブも少なく、快適な高原ドライブルート。颯爽とした風が大変心地よい道路です。
一度、上田まで行って、観光しながら降って帰ってくるというルートを設定しました。
到着したのは11時ぐらいだったのですが、先に昼飯を食べようと言うことになりました。

やはり長野といえば信州そば。以前にも戸隠にいったときには戸隠そばを食べましたが、今回は上田の老舗蕎麦屋「刀屋」さんで食べることにしました。
どうやらこのおそば屋さん。わたしたちなどはガイド誌を見てほいほい決めたのですが、そばが鬼のように盛られていることで有名なのだそう。
車は駐車場も少なく、路駐が出来るような場所でもないため、けっこう止めるのに苦労しそうです。わたしらの場合は、運良く一台分空いていたし、車も大きくなかったために労せずして止めることが出来ました。
そういえば、香川ナンバーの車も見ました。うどんの国の人も、そばを食いたくなるものなのですねぇ。
開店11時だというのに、すでに行列ができています。30分ほどで入れたのですが、いやぁすごい人です。
わたしが頼んだのは真田そばというそば。
みそが入れられた器とめんつゆ、出汁汁の入った容器が出てきて、それを好みの分量で割って食するという、いかにも信州っぽいそばです。
待っている間に耳に挟んだのですが、お客さんが「大盛りってどれくらい?」とお店の人に聞いたんです。そしたら、「1キロあります」っていったんですよ。そば1キロって、ものすごいですよ。ご飯一膳150gといいますから、実にその6倍以上。
もちろん、わたしは普通盛りです。出てきたものを見たって、普通盛りでもかなりの分量です。小食である女性なら、中盛り以下でお腹が満たされることでしょう。
そばは茹でたてで、水がびたびたしているのがいい感じです。お給仕の方に食べ方を教えてもらって、食べますと実においしい。味が刻々と変わっていくので、そこも楽しかったですね。
わたしはそばの善し悪しなどわからぬ舌音痴ですが、山梨には「おざら」というテレビなどでは「冷製ほうとう」などといわれているものがあるのですが、まぁ近からずとも遠からずといったところ。そばはしゃきしゃきしていて抜群においしかったですよ。

その後はわたし的目的地である上田城
築城年は、1583(天正11)年。表裏比興の者といわれた謀将、真田昌幸(1547~1611)が築城主です。平城で、決して堅固な城郭ではなかったそうですが、二度にわたる上田合戦では地の利、人の利を生かし、徳川軍を撃退しました。
特に名高いのは、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦の一部として語られる第二次で、38,000の徳川軍をわずか3,500人で釘付けにしたというのですから、その知略の冴えはかなりのものですね。
そんな上田城。関ヶ原後に徳川氏によって破壊されてしまいます。よほど憎かったと見えますが、その後に東軍についた昌幸の長子、信之(1566~1658)が上田に入っていますから、真田の力量は確かなものだったのでしょう。
ちなみに、昌幸と次男の信繁(幸村、1567~1615)は九度山へ配流となります。
ところが、真田氏の上田支配は、22年で終わります。どういう事情があったのかわかりませんが、上田に真田がいるというのは、やはりいい思いはしなかったのでしょうね。加増され、松代藩へと移されます。その後は10代を数え、明治維新を松代で迎えるのです。
続いて入ったのは、漫画『センゴク』で名が知られた仙石秀久(1552~1614)の三男、忠政(1578~1628)でした。隣の小諸藩からやってきた忠政は、上田城を再建しようとしますが、なかなか工事は進まず。彼の死後にひとまずの完成を見ました。
忠政の孫の代(正しくは曾孫)に但馬出石に移封され、次は藤井松平氏が入ります。
藤井松平氏は、以前にも話した十八松平の一つで、三河国藤井を領しました。徳川本家との血縁としては、家康の高祖父(ひいひいじいさん)に当たる長親(1473~1544)の五男、松平利長(?~1560)を祖とするそうです。
そのまま明治を迎え、上田藩は廃藩。上田県となりますが、1871(明治4)年、長野県に吸収され、今日に至ると。
柳沢氏以降天領となり、幕末の舞台から影を潜めてしまった甲府とは違い、幕末期にも重要な地位を占めた上田藩。中村半次郎こと桐野利秋(1838~1877)に斬られた軍学者・赤松小三郎(1831~1867)は上田藩にの出身です。
そんな上田城。残念ながら、維新後に民間に払い下げられ、忠政が再建した本丸や櫓は打ち壊され、畑にされてしまったそうです。
それに危機感を持ったのは、地元の名士だった丸山平八郎氏。彼が本丸付近を買い取り、真田神社が創建される際にはその土地を寄進したというのですから、えらい太っ腹です。
今、こうして上田の城跡が城址公園となり、市民の憩いの場となっているのは、この丸山氏のおかげであると。
残念ながら、城跡を中央線が分断している甲府城址とはかなりの違いですが、まぁ地元の名士が稀代の商人であって、過去の遺産よりも(違う意味で)未来に投資した結果というか。そういう意味では現代的というか昭和的という感じがします。それに甲府は天領でしたし、躑躅ヶ崎館の方が県民の力をつかんでいたという点もあるでしょう…と思いたいです。

こりゃぁ興奮しすぎて長い文章になってしまいました。
続きはまた明日にしたいと思います。
今日の一枚は、「上田城東虎口櫓門」です。この中は資料館になっています。


横浜訪問記 後編

2009-08-23 22:00:00 | 旅行記

Kが提案します。
船に乗って移動しようと。
K曰く、みなとみらいのぷかり桟橋からシーバスという定期船が巡回して、路線バスのような感覚で乗れるらしい。
電車で移動するのもアレですし、いいんではないかと話がまとまりました。
みなとみらいのパトロールをしている警備員のおじさんがセグウェイに乗っているのを見て驚愕したり、横浜ベイブリッジを背景にして面白い写真を撮ったりしながら、その乗り場へと向かいます。
あまりに写真撮影に熱中しすぎて一本乗り過ごしたりしましたが、15時20分のバスに乗ることができました。


赤レンガ倉庫は、すごい人だかり

一駅目の、赤レンガ倉庫で降りました。磐田のMが赤レンガ倉庫を見たことがないというので、せっかくだし降りようと言うことになったのです。
赤レンガ倉庫といえば、横浜の定番観光スポットですが、まぁわたしも遠巻きに見たぐらいでマジマジと見たことはなかったのでいい経験でした。
敷地の真ん中に砂浜がこしらえておりましてね。そこで無数の子どもらが遊んでいました。
すぐ近くには、「開国博Y150」のブースがありましてね。中華街にOを待たせているにもかかわらず、中を物色して、買い物をしておりました。すいません。
というわけで、結局中華街に到着したのは16時半。まったく、平塚のOには悪いことをしました。ごめんなさい。

まぁとにかく、合流できたというので、中華街を歩き回ります。
磐田のMはこれが、神戸以来の中華街ということで、神戸のそれと比べても大きいので驚いているようです。
神戸の中華街は露店が多く、庶民的なのに対して、横浜の中華街は豪華で、派手なお店が建ち並んでいます。
それぞれにいいところがありますから、どちらがいいということはありませんが、やはり比べてしまうと横浜の繁栄っぷりがよくわかります。
というわけで、日本三大中華街は横浜・神戸と制覇し、残りは長崎であるわけですが、これがなかなか難しいところですねぇ。
さて、一行は関帝廟を見たり、「横浜大世界」という総合エンターテインメント施設をのぞいたりしながら中華街を楽しみます。
…とはいえ、中華街は「食」あってこその場所であり、もはやご飯を食べるところが決まっており、つまり楽しみがあまりなかったわけです。
その点、横浜大世界はトリックアートミュージアムがあったり、様々なお土産屋が入っていたりして暇を潰すにはいいところでしたね。

しばらくぶらぶらして19時になりますと、本日のメインイベントである「金龍飯店」に向かいます。そこで豪華なコース料理を食べるのです。
何と、通常一人1万円かかるところを、Kの見事な交渉とクーポン券によって半額の5千円で食べることができるというのですから驚きです。しかも飲み放題つき。なんと太っ腹なことでしょうか。
料理はどれも本格的。前菜から唸ってしまうようなおいしさなわけですが、フカヒレなんか初めて食べましたけど、なんかもさもさしてましたよ。点心なんて肉まんと見まごうばかりの詰められ放題。いやぁさすが、中華街ですねぇ。
そしてやってきましたのは、北京ダックです。
わたしたちは、北京ダックといえば、まるまる一匹食うもんだと思っていたのですが、出てきてみれば、人数分の香味野菜と包む皮、そしてきれいな焼かれたアヒルの皮が出てきただけでした。
もっとね、こうイメージとしてカートに乗せられてきて、シェフが切り分ける的なものを想像していたんですが…まぁ1万円のもの5千円に値切っておいて何を言うのかって話なんですけどね。


きれいに包まれた北京ダック

以降にも出てきた料理には、何もいうことない素晴らしい料理の数々。皆残さず食べました。大満足で店を出たのでした。
四人でまたの再会を願いながら、みなとみらい線元町・中華街駅に向かいます。
中華街の朝陽門をくぐっていくのですが、その門の下に「洗手亭」と書かれた公衆トイレがありました。そのときにわたしの頭…いや、腹によぎった嫌な予感はのちのち現実のもとなっていくのです。
すでにわたしの腹の中では恐ろしいことが起きていたのです。

わたしの帰りの予定です。
横浜駅を21時24分に出て、東神奈川駅で横浜線に乗り換え。22時27分には八王子につき、22時35分の特急かいじに乗車。甲府着が23時41分。
次の日は仕事もありましたし、まぁ最終よりも一つ早いこの便が無難であろうと。
しかし、わたしがいく旅には常に不測の事態が付きものです。
どうも駅に向かう途中から、腹が痛い。うんこ…そう、うんこの予感。
しかも、ゲーリーが襲来したっぽい。
わたし一人のために、みなを遅れさせるわけにはいかないので、ここは我慢して電車に乗ります。しかしまた、この電車。冷房をがんがんに掛けてわたしの胃腸と肛門を、必要以上に刺激します。
次第に黙り始めるわたし。このときには、KもOもMもわたしの異変に気がつき、気に掛けてくれます。
このとき、Kも胃腸に異変を感じていたようで、冷たいものを飲み過ぎたのだろうといっていたのですが、わたしは油の取りすぎではないかと思っていました。
昼間は濃厚な吉村屋、夜は中華料理。
むしろ、その両方が原因だったのかも知れません。
とにかく、今にも肛門が決壊しそうな感じです。横浜駅について、小走りでトイレに駆け込みます。
しかし、わたしは知っていたのです。この手のゲーリーは、一度ではケリがつかないであろうことを。波状攻撃なのです。
取りあえず、途中で脱糞などしたらえらいことです。一次攻撃が収まるまでトイレに籠ります。
わたしがトイレから出たとき、時計は21時35分を回っていました。つまり、この時点でわたしの帰甲作戦は失敗。最終列車である八王子を23時36分に出るかいじに乗れなければ、わたしの帰りは翌日となってしまう。
これは非常とも言える事態です。
とにかく、横浜駅で平塚のOと別れます。彼には明るい未来が待っているということなので、わたしにもその幸運を祈らせて欲しいと思います。
横浜駅を出て、修善寺のKと磐田のMは新横浜で新幹線に乗るので、そこまでは一緒です。
東神奈川駅で乗り換えるのも一緒…だったはずだったのですが…。
ここで第二波がわたしの肛門を直撃。これはとても適わんと二人でここでわかれをいって、わたしは見ず知らずの東神奈川駅のトイレに籠ります。
磐田のMにもまた、春が訪れたということで、実にめでたいことです。幸せを祈らせてください。
修善寺のKは…まぁわたしの兄弟ですから。何もなくても、常に幸せを祈っています。
東神奈川から八王子までは、実に60分かかりますから、とにかくその60分は発作が来ないようにしなければいけません。
15分はトイレに籠り、万全期して電車に乗り込みます。
八王子でもしばらくトイレに籠り、かいじにはトイレがあるのでいささかの発作が起きても問題はありません。
というわけで、甲府についたのは24時45分。
その後、二日間はゲーリー氏の襲来に悩まされ続けました。わたし、ゲーリーはすぐ来るんですが、早めにお帰りになるんですが、今回はずいぶん長居をなされました。

と、結局4分の1はうんこの話になってしまったわけですが、困ったものです。
こんなグダグダな感じで終わりとしましょう。


横浜訪問記 前編

2009-08-22 22:17:45 | 旅行記

先日、たびたび登場してくる修善寺のK・平塚のO・磐田のMとわたしの四人で、横浜にいってきたのでその話をしましょう。
一昨年には神戸で遊び、去年は岐阜ではしゃいだわたしたちでしたが、残念ながら今年はわたしがヘタレなばかりに長い休みが取れないことになり、じゃあ日帰りながら、横浜でうまいものでも食おうじゃないかという話になりました。
いつものことながら、計画はKに任せて、わたしは北京ダックを食いたいなどと無責任なことをいうばかりでした。
しかし、これがその後に起こる、恐ろしい体験の伏線となっていたのです…。

横浜といっても遠いですから、集合時間は正午。横浜駅中のドトールコーヒーでした。
わたしは甲府から特急で八王子。八王子から横浜線で横浜に向かいます。まぁ二時間半ぐらいですか。
11時半には横浜駅について、その後にKとMと合流します。
残念ながら、Oは仕事の都合で夕方になってしまうということでした。
まず、飯を食わねばということで、Kが前々からわたしたちを連れて行きたいところがあるというので、向かいます。
横浜のグルメといえば、和食でも洋食でもない。ラーメンです。
そして、Kが連れて行きたいというのは、家系ラーメンの源流といわれる「吉村家」だったのです。
横浜家系ラーメンといえば、ラーメンに疎いわたしですらテレビなどで見聞きしたことがある、有名なラーメンの系統です。濃厚な豚骨醤油スープに、食べでのある太ストレート面が特徴だそうです。
わたしなどは、ラーメンにはあまり頓着がないのです。麺よりも飯を好みまして。
例えば、中華料理屋に入ってもチャーハンや天津飯。イタリアンでもドリアやライス。そば屋に入っても天丼を頼むような、そんな野郎なのです。
今時のラーメンというのは食券を買うということすら知らず、そのシステムに驚きました。田舎者なもので、メニューを見て頼むという方式しか知らなかったのです。
そんなわたしにラーメンの味が分かるだろうかと心配だったのですが、大変においしくて驚きました。
もともと豚骨ラーメンが好きでしたし、味もあっさりよりはこってりがいい人間ですから。
きっと、家系ラーメンと相性がよかったんだろうと思います。
わたしが頼んだのは、ラーメン(630円)でしたが、もうこれだけでお腹いっぱい。
オプションで何かつけることはできそうにありませんでした。

三人満足して吉村屋を出ますと、次の目的地へと向かいます。
これからどこに行くかといいますと、パシフィコ横浜で行われています『海のエジプト展 ~海底からよみがえる、古代都市アレクサンドリアの至宝~』展に行くのです。
これはKのリクエストで、前々から見に来たがっていたのでした。わたしはこういうのが好きですから、もちろん二つ返事だったのでした。
横浜駅からみなとみらい線に乗って、みなとみらい駅へ。そこからしばらく行くと、帆船をかたどったような不思議な形の建物が見えてきます。
パシフィコ横浜なんて、テレビなんかでよく聞きますけど、実際に見るのはこれが初めてでした。いやぁでかい。世界最大級のコンベンションセンターというのも、伊達ではありませんね。
行ったのは平日でしたが、何でも飲食店開業希望者向けの展覧会をやっていたらしく、すごい人だかりでした。
『海のエジプト』展が行われていたのは、展示ホールD。平日と言うこともあり、混み具合はそれほどでもなく、この規模の展示会としては空いていた方ではないかと思います。
子ども向けのキャラクターがいて、そのうちの潜水服を着たおじいさんがいたのですが、その人に髭が生えているので「神戸のNだ」などと笑っていました。
別に全然似ていません。共通点は髭のみです。しかもあんな上品な髭ではなく、例えるなら、カビのような髭なのです。神戸のNの髭は。
神戸のNはいいんです。関係有りません。
さて、何を隠そうこの潜水服の髭のおじさんこそ、エジプト沖の海底から数々の遺跡を発掘したフランスの海洋考古学者、フランク・ゴディオ氏だったのです。
ゴディオ氏は、1990年代からチームを率い、エジプト北部、地中海沿岸を中心に調査を進め、1000年以上も海底に眠り続けていたエジプトの遺跡の発掘に成功したのです。
発掘品の多くは、プトレマイオス朝(前305~前30)時代のもので、その歴史は単純に2000年以上あるわけですが、実際に海底に没したのは紀元後800年前後であると推定されているようです。
ゴディオ氏がこの世紀の大発見を成し遂げるためには、ゴディオ氏の周年はもちろんですが、科学技術の発達が欠かせなかったことは展示を見ればわかります。
GPSを駆使し、海中でもスケッチ可能な紙とペンを使って記録し、木製品はそれが劣化しないようにする保存技術も、一昔前では考えられないことだったでしょう。
そんなゴディオ氏率いるチームは、高さ6mにも及ぶプトレマイオス8世のステラ(石碑)やハピといわれる豊饒神を象った巨像(5.4m)など巨大なものから、アクセサリーやコインなどの小さな装身具、あるいは壺や鍋や瓶やひしゃくなどの生活用品まで、実に数多くのものが見つかったといいます。
今も発掘が続いているそうですが、今回は神殿があった町・カノープス、交易と神殿の都市・ヘラクレイオン、そしてプトレマイオス朝の首都であったアレクサンドリアの三都市が発掘されたと言うことです。
さらなる成果が期待されます。
感想としては、さすがに企業が主催する大展示です。並の地方都市の博物館では太刀打ちができないような、素晴らしい展示でしたね。
趣向を凝らした展示は、子どもたちの興味を惹き、大人を飽きさせない。キャプションが小難しいのは、この時代の神々がいろいろと錯綜したからですが、深く考えすぎるとよけいにこんがらがります。深く考えるのはやめておいた方がいいと思います。
それから、碑文の訳が非常に叙情的でわたしなどは読んでいて、「メンドクセ」となってしまうのですが、それはしょうがないですかねぇ。
もともとKは、ハピ神像とともに発見されたファラオと王妃の巨像を見たかったそうで、ある意味ではそれがこの展示のメインでもあったわけです。
それから、印象的だったのは香りの展示です。古代エジプトで香水として使われていたであろうアロマを再現し、実際に感じることができるのです。視覚・聴覚に訴えるのがこれまでの展示ですが、嗅覚に訴えるというのはこれはなかなかできることではありません。
そんなこんなで展示を見るのに2時間ぐらいかかったでしょうか。時計はすでに15時を回っています。
いよいよ、平塚のOと合流するため、中華街へと向かいます。


さようなら、みなとみらい

と、すっかり長くなってしまいましたので、今日はここまでにしましょう。


二人の「ハンス」

2009-08-20 20:31:32 | ハコモノ

久方ぶりに、美術館・文学館にいってきたので、その話をしましょう。

今週末まで、山梨県立美術館では「ハンス・フィッシャーの世界~『こねこのぴっち』の作家がわが子に贈った絵本たち~」展が開かれています。
ハンス・フィッシャー(1909~1958)といえば、とかく絵本作家として名高いですが、彼の本業はあくまでも画家であり、絵本はその余剰生産物であったのです。
しかし、その見事なまでに表現した幼児性と子どもに向けられた深い愛情を持って、絵本こそが彼の名声を高め、それに引きずられるようにして画家としての名声が上がっていきました。
画家としてのフィッシャーは、非常にシュールで、それでいて直線などを多用するロジカルな画風です。
シュールさという点では絵本の方にも現れていますが、絵本の方は子どもが子どもたる性質を表現するようなくるくると跳ねるような曲線が多いことが特長のようです。
この展示の主題は、あくまでも絵本作家としての側面です。
展示も、絵本のストーリーとその原画の紹介が主です。
都会での厳しい生活に疲弊し、身体をこわしたフィッシャーは、生まれ故郷のスイスに引っ越して、自然恵まれ、家族に愛情を捧げる生活を送ります。
その愛情表現として作られたのが、数々の絵本でした。長女には「ブレーメンの音楽隊」を、長男には「いたずらもの」を、次女には「たんじょうび」を送るのです。
展示には、ほかにも学校に描かれるイマジネーション溢れる壁画やフィッシャーが書いた教科書の挿絵などが紹介されていました。
フィッシャーは49才で亡くなりますが、その晩年の作品も展示されていました。
「変身願望」(1958)と題されたその作品は、それまでの作品とは明らかに色合いが違っていて、鬼気迫るものがあったのですが、それこそがフィッシャー作品の本当の姿だったのかも知れないなぁと思いました。
子ども向けのシュールさと自己を表現するシュールさ。まったく別個のものであることは驚きましたね。

さて、本業とは別の分野で、その世界の第一人者となってしまった人物の一人に、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805~1875)がいます。
作家として超一流の才能を持ちながら、今ではむしろ童話作家としての位置づけをされているのは、アンデルセンにとってはどうなんでしょうね。
山梨県立文学館では、特設展として「H.C.アンデルセン「人魚のお姫さま」―青い瞳の涙―」展を開催しています。
アンデルセンといえば、2005年に生誕200年を記念し、日本のみ成らず世界各地で様々なイベントが開かれました。
数あるアンデルセン作品の中でも、特に人魚姫をテーマにした展示でした。
同時に、山梨県出身の言語学者・翻訳家でもある矢崎源九郎(1921~1967)も紹介されていました。矢崎は、俳優の矢崎滋さんの父でもあります。
明治から昭和、平成にかけてのアンデルセン作品の翻訳書が並んでいて、大変興味深かったですね。
何というか、百年というのは短いものだと。それとも、日本人の文化進度の程度が著しいのかと。
それまで約260年に渡って文化レベルが一定に保たれていた時代があったとは思えないほどですよ。
いえ、もちろんそんなことはありませんが、江戸時代264年と明治~平成時代141年の文化の進み具合を比べてみれば、どれだけ駆け足で進歩していったかが分かります。
戦後64年の社会復興も見事ですが、維新後141年での文化発展はそれ以上の「東洋の奇跡」と言えるのではないでしょうか。
そして、アンデルセンは自分の童話作品に、並々ならぬ文学性・芸術性を持っていたんだなぁと痛感しました。
ヨーロッパの文学といえば、教訓や宗教的性質が付きものですし、アンデルセン作品にも色濃いものがありますが、そういうものを差し引いても子どもの心に訴えるものがあるんだと。アンデルセンは豪語していたそうです。
その芸術性の高さ故、大人でなければ理解できないよう深い感情もあり、そういった面もまたアンデルセンの作品が長く愛される理由の一つでもあるのでしょう。

気がついてみれば、二人のファーストネームは「ハンス」。
時代も国も違いますし、作風も取り組む姿勢もアプローチの方法もまったく違う。
全くの偶然ですが、不思議な縁を感じる二人のハンスです。


残念。野球復活ならず…

2009-08-18 20:33:22 | 野球
普及活動を怠った結果が招いた 野球・ソフトボールの五輪競技落選(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース

2016年夏季オリンピックの実施競技の候補から野球とソフトボールが落選した。
13日、国際オリンピック委員会(IOC)の理事会がベルリンで開かれ、追加される2競技の選定が行われた。候補はラグビー(7人制)、ゴルフ、野球、ソフトボール、空手、スカッシュ、ローラースケートの7競技。 (中略) 14人の理事によって投票が行われ、ラグビーとゴルフが残ったのだ。


野球好きの日本人として、この結果は非常に残念ですが、野球を支持するファンはこの結果を重く受け止めねばならないでしょう。
野球が不利な点はたくさんあります。
記事の中でも書かれていましたが、ルールが難解。準備する用具の類が多い。専用球場が必要になる。そして、なんといっても競技人口が少ない。
わたしは野球が好きですが、プレイヤーではありません。
やったことがないというわけではありませんが、それでもゴムボールに、プラスチックのバットぐらいのもので、硬式なんかボールにすら触ったことはありません。
野球好きだとほざいているわたしですら、この有様なのですから、日本外での知名度など低いんだろうと思います。
日本におけるカバディぐらい。「聞いたことはある。あの変なスポーツだろ?」みたいな。
実際、知らない国ではそんなものなのではないかと思うんですよねぇ。
記事の中では、軟式野球がその普及に頑張っているという話があります。
硬式で肥えた目をもつ極東亜・米辺りでは、いささか物足りないかも知れませんが、でも始めるならそこら辺からなのかもと思います。

それにしても…ローラースケートにならずに良かったですね。
わたしの中でローラースケートといえば、「あぶない少年」ですから。
調べてみれば、ローラースポーツ全般は気軽に楽しめるカジュアルスポーツとして、幅広い人気があるそうですよ。
しかも、その競技も普通のスケート競技と変わらず、スピード・フィギュア、そしてホッケーがあるほか、アクション性が高い競技もあるといいます。
さすがに、あぶない少年のようなローラーゲームはないようですが、まぁそりゃそうですよね…。

1本目完了報告

2009-08-16 21:00:37 | 
これまで何回かに渡って、わたしが「人生銀行ONE」という貯金をやっているという話をしてきましたが、このたび、その一円貯金がめでたくペットボトル1本分の満期を迎えました。


これがその写真です。
なんと、約二年かかって625円。
ペットボトル1本分で、625円です。
わたしはこの二年間、この貯金のために一円玉を使わないようにしてきました。
最近は電子マネーなどを使うことが少なくなく、一円玉も出にくいんですが、まぁ予想外に貯まりにくかったですね。

だからといってこの貯金をやめるのかといえば、そんなことはありません。
すでにペットボトル2本目には4円ほどが貯まっておりますので、ただいまは629円の貯金となっております。