さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

趣味、読書

2006-09-30 20:11:03 | 
趣味や特技が重視される時代です。
履歴書にだって、趣味や特技を記載する欄が設けられています。
選定される人間の、性格や深層人間性を判断するのには、それらのことは必要なのかも知れません。
確かに、趣味の欄に「ロリコン」とか書かれていたら、採用する側としてはとる気はしませんよね。
それに、これは特技だというようなものを持っていた方が、持っていない人よりは付加価値はつけてしかるべきかも知れません。

まぁわたしの場合は、趣味といえるようなものも、また特技といえるようなものもありませんので、履歴書を書くような場合には非常に苦労しました。
下手なこと書けませんから。「漫画」とか「テレビゲーム」とか書いたら、子供じみた危ないやつなんて思われちゃいますからね。
例え本当のことでも、書いたらダメなんです。そういう時代ですよね。
ということで、趣味の欄はいつも「読書」です。
「読書」といっても、7割は漫画なんですけど。でも、漫画は本ですからね。間違いはないです。と思います。

特に気にいっている作家さんはいないのですが、結構何でもつまみ食いしながら読んでいます。
継続的に読んでいるものといえば、
『美味しんぼ』(画・花咲アキラ、作・雁屋哲、小学館)
『ドカベン』シリーズ(画・水島新司、秋田書店)
『はじめの一歩』(著・森川ジョージ、講談社)
といったところでしょうか。

というわけで、趣味をカミングアウトしたので、今後は読んだ本の中から何か書けたらよいですね。

プロとアマをつなぐ希望

2006-09-29 22:07:34 | 野球
野球のネタが二日続きますが、ご容赦ください。

先日、プロ野球の高校生ドラフトが行われ、33名の高校生に“内定”が出されました。
わたしは、プロ野球には興味があって、ある程度の知識は持っているつもりですが、ことアマチュアについては興味がありません。
1996(平成8)年のアトランタオリンピックでは、プロ・アマ混合チームで銀メダル獲得という一定の成果を上げましたが、2000(平成12)年のシドニーオリンピックでは、メンバーをプロで固めながらも4位と惜敗。2004(平成16)年のアテネでも、プロのみのチーム構成で銅メダルと辛酸を舐めたわけです。
まぁこの雪辱は、WBCで果たされたわけですが。
何が言いたかったというと、わたしとアマチュア野球をつなぐものは、ドラフトしかなくなってしまったと。
甲子園の時期にあちこちぶらついていたことからもわかるように、高校野球すら関心薄だったのですから、大学野球や社会人野球はニュースでちょろっと見るぐらいのものでした。
わたしにとっては、ドラフトで選ばれて初めて、知りうることになるのです。

まぁ、ぱっと高校生ドラフトの指名選手を見ただけでも、見たことがあるのは駒大苫小牧の田中将大投手、愛工大明電の堂上直倫内野手、八重山商工の大嶺裕太投手ぐらいのものですね。
これら33名の選手が正式にプロ野球選手として活躍するのは、来春からということになりますが、実際に一軍で力を発揮するのはもっと先でしょう。
来年のうちに一軍で活躍を見込まれる人もいるでしょうし、育成3~5年程度を見込んでいる人もいるでしょう。
プロという目標を達成して安堵せず、さらに高見を望んで気合い入れていってもらいたいと思います。

祝、日本ハムファイターズ1位通過!

2006-09-28 19:58:58 | 野球
熾烈な1位争いを制し、日本ハムが公式戦最終試合で、トップで通過しました。
これは、まぁ実質的なリーグ優勝だと思うのですが、名目上はまだ通過点に過ぎません。
プレーオフ制度施行三年間、ペナントレース終盤は熱い戦いが続きました。
見応え十分、高校野球にも勝るとも劣らない、名試合が展開されました。

今年のペナントレース開幕直後、日本ハムの台頭を予想した人は少なかったのではないでしょうか。
日ハムの戦力増強がうまくいったという印象がなかったからでしょうか。
6位楽天、5位日本ハムという予想が大半を占めていたと思います。
ソフトバンクがやや順位を下げ、西武はまぁ予想どおり。
オリックスは大幅な戦力増強を図りましたが、うまく機能しなかったでしょうか。
ロッテが大きく順位を下げましたが、WBCが少なからず影響を与えたかなと思います。

しかし、まだ今年を振り替えるには早いですよね。
プレーオフがあり、日本シリーズがあり、KONAMI CUPがあります。
海を渡った大リーグでも、これからが正念場。世界一の称号目指して、熾烈な争いが続いていくわけです。

まぁわたしが応援する横浜ベイスターズは、ペナントレース序盤から蚊帳の外だったわけですが、それでも毎試合わたしの携帯に送られてくる試合速報を楽しみに待っていたわけです。
やっぱ、野球は面白いなぁと思うんです。
好きなチームがあるだけで、負けて腹が立って、不甲斐なくてむしゃくしゃして、投げ勝ってホッとして、打ち勝ってすかっとして。毎日が楽しめるんですよね。

何はともあれ、日本ハムファイターズのみなさん、そしてファンの皆さん。あめでとうございます~。
そしてチャンピオンフラッグ目指して、邁進していってほしいですね。

十七

2006-09-27 21:38:04 | 『おなら小説家』
食卓の上には、手紙が開いてのせてあった。
室内履きをはかずに走ったものだから、つるつると滑りながらも必死にたどり着いて、手紙のつづきを読み始めた。

しかし、このまま数多の凡才の中に、天才の輝きが埋もれてしまうことはあまりにも惜しい。なので、わたしの友人で東京の推理小説雑誌をやっている桂木というのがいて、彼に見せると大変喜び、うちの雑誌に載せたいと申し出てくれた。追って沙汰を待つのがよかろう。

桂木…日本推理小説界で桂木といえば、桂木金五郎しかいない。雑誌『炎』の主宰であり、稀代の推理小説家である。その才能は、江戸川乱歩をしのぐとも、横溝正史の継承者などとも謳われ、右に出るものはいない。
草田男は、手の震えが止まらない。
遠いあの日、いつの間にか忘れていた夢が、十余年を経て叶わんとしている。震えは止まらない。
なんだ…夢が叶う瞬間というのは、これほどまでに人を動揺させるものなのか。武者震いなのか、それとも夢が叶ってしまうことへの怯えか。
どちらにせよ、草田男の震えは止まらない。
気が付けば、うしろには微笑む恵美がいる。
手紙、全部読んでなかったのねと、微笑んだ。
そうか、そうだったのかと、草田男もようやく安心した表情をした。
やったじゃないの。と恵美がいうと、やったなぁ、お前のおかげだよと二人で握手をした。

その翌日には、例の桂木氏から連絡があり、一度会いたいといってきた。
草田男は思わず、はいと言いそうになったが、堪えて、わたしは実は身分あるもので、できれば秘密にしておいていただきたい。と伝えた。
桂木氏は、ふむというと、今回の小説は出来がよいので、雑誌に載せさせていただく。今後も、作家活動続けたいのであれば、わたしに連絡をくれれば力になる。と仰ってくれた。草田男の目には涙が滲んでいた。
また、恵美の目にも、涙が浮かんでいたのだった。

CMが好き。

2006-09-26 21:50:23 | 
わたしは、CMが好きです。
たった15秒(あるいは、30秒…長いものになると、一分のときもありますが)の中、膨大な情報を詰め込まなければいけないのですから、その15秒は非常に濃密なものになります。
しかも、いろいろ詰め込みすぎて煩雑になってはいけない。
CMが「Interesting」な存在でなければ、コマーシャルの主要な目的である「PublicRelation」という役目は果たされません。
こういうところ、コマーシャルというのは資本主義を最も表しているものではないかと思うのです。
コストよりも時間や人材を集中させ、費やしたコストはCMの効果によって取り戻し、利益を出す。
恐ろしく効率的で資本主義的な手段ではないですか。

CMは、商品の売り込み以外の目的でも流すわけで、最近はそういうのも多いですね。
ガス湯沸かし器とか、旧式ストーブですか。これは回収及び弁償の告知目的なわけですが、vodafoneがsoftbankになるというんでそのためのCMも盛んに流れていますね。売り込み目的以外というならAEONの「お客様感謝デー」のCMもその部類でしょう。
商品・サービス以外にも、店自体の告知も結構見られます。地方にはその手のCMが結構多いのではないかと思います。山梨県内のテレビCMも、そういうパターンのものが多いですね。
まぁCMにはいろいろなパターンがあると。わたしは関知できない世界ですから、もっと雑多な分類が可能なのだと思います。

こんな風にわたしはCMが好きなので、その好き嫌いが激しかったりします。
結構、ぼろくそに言ったりもします。
わたしは、好き嫌いは顔には出しますが、口には出さないタイプなのですが、CMに関しては顔で嫌い口でも斬ります。

最近では、某携帯電話会社の某携帯電話のCMが、鬼のように面白くないので怒りに震える毎日です。
そこで、あのキャラクターを引っ張るかと。
そして、そんな名前をつけるかと。
挙げ句に、小児に何をさせるのかと。
考えれば、「予想外の動きをすること=そんなところが好き」というキャラクタと商品の共通式が見出せるわけですが、なんて面白みのないCMなのかと。

「漫才やコントのように考えなくても理解できるような、しかし浅すぎない」ものというのが、すなわち「Interesting」の第一歩でしょう。

「Interesting+Message」

わたしは、そんなCMがいいと理想だと思うのです。
なんつって、わたしには作る能力も減ったくれもないので、軽い冗談と受け流してください。

タボン・リーについて

2006-09-25 22:59:57 | 
今日は、タボン・リー(Thavorn Lee)のお話です。
タボン・リーはご存じでしょうか?
山梨県都留市を大いに発展させる契機になった人です。また㈱リー商事の創業者で、立志伝中の人物です。

リーは、1856年にアメリカのマサチューセッツ州コンコードに生まれました。
家族は開拓民として西海岸に移り、リーは広大な太平洋を眺めながら育ったのです。

日本にやってきたのは1881(明治14)年、リーが25歳のときです。
アメリカ船籍のエドウィン・ハイダム号に乗って、初めて上陸したのは横浜でした。
目的は、当時日本の主な輸出品であった生糸でした。
その時、横浜に雨宮敬次郎が来ていました。
敬次郎は幕末に山梨に生まれた実業家で、この当時は新しく始めた石油業のために横浜を訪れていました。敬次郎は36歳。
友人から敬次郎を紹介されたリーは、敬次郎の実績と人柄に大いに興味をもち、また、敬次郎も片言ながら必死に異国の人間とコミュニケーションを取ろうとするリーに対して、興味と親愛の情を抱きました。
懇意となった敬次郎とともに山梨を訪れたリーは、荒涼とした谷村町(現在の都留市)に目をつけました。
敬次郎から金を借り受けて土地を買い、多盆実業学校(現在の私立日本手工業大学校)を設立。
その後、生糸をはじめ、水道や木の実せんべいなどの販売で財を成しました。
日本を訪れて5年後には日本人の妻をめとり、1913(大正2)年に58歳で亡くなりました。
訪日以来、故国の土を踏むことはなかったといいます。

リーの功績は、都留市の経済的発展を助けただけでなく、学校などの設立や市民教育機関の設置など文化的にも大きく発展させたのです。
今ではその名を知る人も少なくなりましたが、都留文科大学のロータリーには今もタボン・リーの胸像がひっそりと立っています。

さて、タボン・リーは祖国に帰ることはありませんでしたが、手紙は頻繁に出しています。その一説を引用しましょう。
「父様、母様。日本はすばらしいところです。この国には神様がおわします。まるで、すべてが嘘のように、時間が過ぎていきます。もしかして、この経験自体が実は夢なのではないかと思ってしまうほどです。」
と、日本を手放しで賞賛しているところを見ると、よほど日本が気に入っていたようですね。

セロ?

2006-09-24 17:59:11 | 
一昨日、投稿した「童貞から、見えてくるもの」。
そこに、ありがたいことにトラックバックが付せられておりました。
何のトラックバックかと思いましたら、「セロ巻きラムネ」。
よくお菓子屋で売っている赤や青や黄のセロハンに、直径5mほどの円柱型のラムネが五玉ほど巻かれている。
昔よく見ることができた、ラムネですね。

まぁ、このトラックバックを見て、理解できませんでしたね。
だって、キーワードとしては「宮沢賢治」でしょ、「命日」「ニュートン」「童貞」ぐらいでしょ。
あと有力なのは「賢治童話」?
と不思議に思って読み返したら、該当すると思われた箇所を発見しました。
『セロ弾きゴーシュ』
え? セロはセロですけど、いやぁこれはどうでしょうかね。

「セロ巻きラムネ」

『セロ弾きゴーシュ』

しかも、題名が「童貞」ですからね。
これほど不適切なトラックバックはあるでしょうか。

ちょっと面白かったので、トラックバックはこのままにしておきます。

母校の校庭が狭くなっていくこと

2006-09-24 00:03:32 | 
先日、わたしの母校で運動会がありました。
母校は、市内でも一番の広さの校庭を持っているということで、この年になって、わたしが昔遊んでいた校庭は、相当なものだったんだなぁと、思うようになりました。
都会で校庭が屋上でゴム張りとか、猫の額ほどだとか聞くたびに、恵まれていたんだなぁと懐かしくなります。

ところが、最近、わたしの住んでいるところは急速に人口が増えています。
畑ばかりの街だったのに、ここ数年でボコボコとつくしのように、気づかないうちに家が建っていくのです。
利便性はいいです。
モータリゼーションが進む山梨県。車さえもっていれば、この街は便利です。
小学校は豊富だし、中学校も公立私立あります。高校も近いし、バスも通っています。駅だって、電車の本数は多くはないですが、通勤通学には使えます。ショッピングセンターも車で無理なく行ける範囲にあります。
県庁・市庁だって、渋滞にさえ気をつければ、20分とかからず行けます。
生活を続ける上では、たいそう便利な土地ではあります。
そういうこともあって、今日日、わたしのまちは新興住宅地と化しているわけです。

で、人口が増えるということは当然、子どもも増えるということで、その母校が今増築と改装工事中なのです。
工事中は使えない教室が多いですから、校庭の5分の1ほどが校舎代わりのプレハブ小屋で埋められています。職員室も、プレハブに移動したということです。
そんなわけで、校庭が狭いんですね。ただでさえ校庭が狭くなっているのに、運動会の応援に来ている親も多いわけで、ドーナツの穴程度の狭い中で、子どもたちがいろいろやっているのですよ。
校庭の拡張工事でもしない限り、この広さという問題は解決しないわけで、かといって地価が上がっている地域ですから、そう簡単に物事が運ぶわけもないと。

難しい時代になりました。
「昔は…」なんて言葉が口をついて出てきてしまいました。

童貞だからこそ、見えるもの。

2006-09-23 01:36:39 | 
昨日21日は、宮澤賢治忌になります。
遺作『銀河鉄道の夜』(1933?、未完)をはじめ、『セロ弾きゴーシュ』(成立年不確定)『やまなし』(1923)『注文の多い料理店』(1924)といった、当時のどの文学派閥にも寄らず―あるいは寄れなかったのか―独特の世界を築いた作家、あるいは『春と修羅』(1924)に代表される詩人でもあります。
さて、賢治には自己の中で思い入れが強かったといわれる作品が、4本あります。
この4本は、賢治のメモに列記されており、賢治が自選作品集を作る際に、取り入れようと思っていた作品だといいます。
すなわち、賢治童話四本柱といえるものだと思います。

『風の又三郎』(1931~33)
『グスコーブドリの伝記』(1932)
『銀河鉄道の夜』(1933?、未完)
『ポラーノの広場』(不明)

の四本ということになります。
どれも特徴的な作品ではありますが、『グスコーブドリの伝記』と『ポラーノの広場』は似たような印象を受けますね。
『風の又三郎』と『銀河鉄道の夜』は、それぞれ独特の色を持つ作品です。
特に、『銀河鉄道の夜』が遺作になったということが、彼の人生を象徴しているような気がしています。
賢治の思想は、法華経の献身的精神があるとされていますが、わたしは宮澤賢治の書いた童話の根本にあるものは、献身愛を踏み台にした自己犠牲にあると思っています。
他人のためなら、死をも厭わないというその精神こそが、彼の思想の最たるものではないかと思うのです。
仏教は、人のために死ぬということを、認めていないと思うんですよね。
どんな宗教だって死ぬことを肯定することはないでしょう。

さて、今回はそんなことはどうだっていいのです。

みなさんは、宮澤賢治が女性を知らなかったということ…つまり、生涯童貞であったということご存じでしょうか。
わたしはこのことを書いた本『童貞としての宮沢賢治』(押野武志著、筑摩書房、2003 )を本屋を見つけて以来、「宮澤賢治=童貞」という固定観念に囚われてしまったのです。
しかも、ニュートンも「わたしは生涯童貞であった」ということを、死の床で自白しているということを聞きました。
その瞬間、童貞と非童貞の大きな精神的溝というものが、実はとてつもなく広くてでかいのではないだろうかと思い始めました。
「30過ぎの童貞は魔法が使えるようになる」という都市伝説がありますが、これもあながち間違いではないかなと思ってしまうのです。

今でこそ万有引力なんて当然のできごとですが、その時にそんな突拍子もない考えを思いつくなんてのは、童貞だからこそだと思うのです。
宮澤賢治の作品だって、あんな突拍子もない設定の童話を書けるのは、童貞だからこそだと思うのです。

女性に向く本来の欲望―つまり性欲が、あるプロセスを経て、創作なり研究なりの創造的活動に向かうのです。
性欲は、三大欲求の一つですから、それに費やす時間やエネルギーはかなりのものです。
そのエネルギーが特定の事象に向くのですから、成果を上げることができたは、当然といえば当然なのかも知れません。

しかし、何事も成し遂げるということは、たいそう難しいことです。
欲求を殺すということは、人間的な部分を殺すということでもあるのです。

十六

2006-09-22 01:39:59 | 『おなら小説家』
それから二週間ほどたったある日。
郵便受けには、草田男が待ち望んでいた手紙が入っていた。
差出人は、「『何なん!? 何プス』編集部」。
「何なん南プス」は、山梨県南アルプス市の狭域情報誌である。
狭域とはいっても、その配布地域は北は信州野辺山から、南は身延、河口湖まで実に広い地域に渡る。
雑誌の内容がおもしろく、見る見る配布地域が広がっていった。

草田男はその雑誌の編集部に、小奈良燃圓(もえん)というペンネームで原稿を送った。もちろん氏素性は隠して、である。
たまたま書いたものがいい出来だったので、もし編集長のめがねにかなうようなら、掲載を検討してほしいという旨の手紙を同封した。
その手紙の返事がきたのである。
その手紙には、次のようなことが書かれていた。

手紙を拝見した。大変おもしろい作品で、よくかけている。ぜひ掲載したい…ところだが、われわれの雑誌とは趣旨が違いすぎるので、掲載することはできない。

ここまで読んだところで、やはりか…と落胆し、手紙を封書に仕舞い、食卓の上に放って書斎に閉じこもってしまった。
子どものように、机に伏せっていると気が休まって、いつの間にか寝てしまった。

どれくらい寝ていただろうか。ドアをノックする音で目が覚めた。
呼ぶ声を聞けば、それは恵美だった。
のそりと立ち上がってドアを開けると、そこには満面の笑みの恵美がいた。
何があったのかと、頭が混乱した。食卓の上に不採用の通知を放ってあったのだから、恵美もきっと読んだはずである。
それとも、彼女は読まずに別の用件で喜んでいるのだろうか。
よくわからなかったが、恵美が、あなたやったじゃない、といっているのを聞くと、やはり例の件のことらしい。
しかし、不採用なのにやったじゃないとは、一体どういうことなのだろうか。
傷口にからしを塗りたくるような、そんなひどい真似をするような彼女ではなかったのだが…どういう風に吹き回されたのだろうか。
怪訝な表情で恵美の顔を見つめていると、草田男はなにかに気づいたように、大きく目を見開いて、恵美を押しのけてダイニングへと向かった。