さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

めり込んだ歯

2007-07-29 21:30:55 | 

【こぼれ話】激しい頭痛の原因は額に数カ月間めり込んだ歯=豪のラグビー選手(時事通信) - goo ニュース

こ、怖い話ですねぇ。
手術中のガーゼやメスの置き忘れなどという話は、半ば都市伝説として語られていますが、いやぁ笑い話ではありませんね。
こいつは、あれですかね。医療ミスとかいって、訴訟騒ぎとかにならないんですかね。

…ところで、上記の「メス」という言葉を変換したときに、真っ先に出てきたのが

「雌」

という語でした。
うーん、普段どんな文章を打っているかが、かいま見えてしまいますねぇ。


信楽で、なぜ狸なのか。

2007-07-28 20:46:19 | 

信楽の話をしましょう。
信楽は、日本六古窯の一つです。
日本六古窯は、陶磁器研究家の小山富士夫(1900~1975)が名付けた、中世以降現在まで作品が焼き継がれている代表的な窯の名数です。すなわち、
愛知県瀬戸の瀬戸焼
同常滑の常滑焼
福井県丹生の越前焼
兵庫県篠山の丹波立杭焼
岡山県備前の備前焼
そして、滋賀県甲賀の信楽焼です。

信楽での焼き物の歴史は、大変古いそうです。
その始まりは、742(天平14)年、聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきぐう、と読むそうです)の瓦を焼いたことだそうです。
鎌倉時代には、かめやすり鉢などが焼かれ、日本独特の陶磁器産地として発展します。室町時代末期になると、椀などの茶道具の生産が盛んになります。
当時の茶人に好まれたのは、信楽特有の槌による緋色の発色と、自然釉による独特の気色でした。
近代にはいると、その知名度を生かして、陶器の大量生産で発展してきました。

さて、信楽焼といえば「狸」の置物ですね。
「信楽焼=狸」というイメージが作られたのは、実は意外に浅くて、昭和に入ってからだそうです。
狸の焼き物自体は、江戸時代からたびたび焼かれていたそうですが、現在のイメージのルーツとなった狸を作ったのは、藤原銕造(1877~1966)。
京都での修業時代に、腹鼓を打つユーモラスな狸の焼き物を見て、それに案を得て作ったのが縁起物でもあるこの狸だと言います。
狸がなぜ縁起物かと言えば、「他を抜く」ということで商売繁盛のために店の前に置くのがいいとされているらしいです。
昭和10年頃に作られたといわれるこの狸の置物。
1956(昭和31)年、昭和天皇(1901~1989)が信楽を訪れた際、多くの狸の置物に歓迎されたことに感銘を受け、「をさなどき あつめしからに なつかしも しがらきやきの たぬきをみれば」という和歌を詠み、それをマスコミが盛んに報道したことから、爆発的に知名度が広まっていったそうです。
それを受けて、昭和30年前後から盛んに作られるようになったと。

信楽では、一応は焼き物体験をするつもりです。
狸そのものを作るつもりはありませんが、コンセプトは「狸」になると思います。


ハリー・ポッターは、帰ってくるのか。

2007-07-27 22:09:47 | 

ハリポタファン、最終巻読み終えて喪失感(ロイター) - goo ニュース

大学時代に読んだ本があります。
昭和期の代表的な児童文学研究者、瀬田貞二(1916~1979)の講演録『幼い子の文学』(中公新書、1980)という本です。
とある理由で、子どもの本に興味のあったわたしがこの本を読んだのは、当然といえば当然でした。
その本の中で、キーワードになっているのが「行きて帰りし物語」というものです。

子どもが好む物語には、「行って帰る」という構造があるというのです。
例えば、「桃太郎」を例に取りましょう。あれも、鬼退治に行って、お宝を持って帰ってきますよね。
「浦島太郎」も、結末は気の毒ですが、竜宮城に行って、三百年後の未来へと帰ってきます。
日本のおとぎ話に限ったことではありません。
「オオカミと七匹の子ヤギ」や「シンデレラ」などの西洋のおとぎ話でも、同様の構造が見られます。
この構造は、創作童話にも登場します。
アンデルセン(1805~1875)の「人魚姫」でも、結局"泡"という姿になって、海に戻っていきます。
J・R・R・トールキン(1892~1973)の『指輪物語』や、その前身である『ホビットの冒険』も、生まれ故郷の村へと戻ってくるのです。
一見、そういう規則性とはかけ離れていると思われている、ルイス・キャロル(1832~1898)の『不思議の国のアリス』だって、夢の世界から帰ってくるのです。
この形は、童話・児童文学の世界にとどまりません。
アニメ『機動戦士ガンダム』の名言に、次のようなものがありますね。
「ごめんよ、まだ僕に<WBR>は帰れるところがある<WBR>んだ」
この言葉は、まさしく「行って帰ってくる」話であったことを示しています。

そして、問題なのは、その「行って帰ってくる」までに、どのような成長を遂げたか。何を得たかということなのです。
そこに、作者のテーマや教訓を含めることもできます。
ところが、昭和の後期からでしょうか。この「行きて帰りし」という構造が、壊れて来ているようです。
まぁいいです。そんなことは、わたしのただの思いつき半分ですから。

でまぁ、わたしの言いたいことは、『ハリー・ポッター』は古典的名作になりうるか、ということなのですが、どうなんでしょうかね。
これだけ人気のある作品ですから、そう簡単に消えることはないでしょうし、続編が書かれることもないでしょう。
J・K・ローリング(1965~)さんは、それぐらいの覚悟でこの作品を仕上げたはずです。
しかし、文化の構造が多様化し、移り変わりが高速化している今の時代。
これだけの名作が、いつか省みられなくなるのではないかと、ちょっと心配して居るんですよね。

…まぁ、わたしの心配なんて誰も欲しがらないでしょうが。


barista

2007-07-26 21:23:35 | 
まぁ、あれですわ。簡単に言えば、特に書くようなこともないんですわ。
ほんで、つれづれに何か書こうかと。

大学時代の友人が、バリスタになるって話をKから聞いたので、本当かどうか当人に聞きました。
ところで、バリスタというのは、イタリア語です。イタリアのバールと呼ばれる、カフェとバーを足して2で割ったような店に勤め、エスプレッソなどを始めとするコーヒーなどを淹れる、言うなればコーヒーのスペシャリストともいえる職業です。
そんなたいそうな職に、友人が就くというので、そいつはすごいと思ったわけですよ。
さて、果たして正解は、当たらずとも遠からず。
コーヒーチェーンに勤めることになったそうです。
なので、きっと厳密にはバリスタではないのでしょうが、でもコーヒーを淹れる仕事を生業とするというのであれば、バリスタといえるかも知れません。

で、いつの日にか、その友人の淹れたコーヒーを飲みに行こうじゃないかと、Kと話をしたのでした。

なぜ彦根で猫なのか。

2007-07-25 23:50:42 | 

さて、では早速予習その一です。

彦根はただいま、「国宝・彦根城築城400年祭」の開期中です。
そのイベントのキャラクターは「ひこにゃん」といいます。
詳しくは、リンク先を見ていただければいいと思うのですが、なぜ彦根で「猫」なのでしょう。
まぁそれも、リンク先のプロフィールを読んでもらえればわかってしまうのですが、せっかくなので物語をしてみましょう。


昔。…そう、江戸時代の最初の頃の話です。
江戸は世田谷に、豪徳寺という貧乏寺がありました。
もちろん、そんな貧乏な寺にも和尚さんという人がいて、その和尚さんは一匹の白猫とともに暮らしていました。
飼っていたのか、それとも単に住み着いていただけなのかはわかりませんが、とにかくともに暮らしていたのです。
和尚のする世話といえば、せいぜいご飯の準備ぐらいのことでしたが、それでも和尚にとっては少ない収入口からご飯を出していることもあって、毎度ごはんのたびに、
「おう、猫や。お前は毎日ただ飯ばかり食らいおって。一度でよいから、恩返しというものをしてくれんかの」
といって、一人で笑っておりました。

ある年の夏のことでした。
この世田谷の地は、徳川家が治めるようになってから、その忠実な家臣であった井伊家の領地となっていました。
その井伊家の当主は、まだ年若き直孝でした。
武芸を好み、物静かな直孝は、その鍛錬のために鷹狩を好んでいました。
その日も朝早くから、家来6人をつれて鷹狩を行っていました。
ところが。あまりに熱中しすぎて、すぐ近くまで夕立雲が来ていることを気がつきませんでした。
雷のゴロゴロという音を聞いて、ようやく夕立が近づいていることがわかりました。
「殿。こいつは不覚でした」
「…うむ」
気がついたときには、雨がぽつぽつと降ってきており、雨宿りする場所を探すのも間に合いそうにありません。
仕方なしに、そばにあった木の下に避難しました。
雲は妖しく光り、雨脚はじょじょに強くなっていきます。
「殿。こいつは長引くかも知れませんな」
「…うむ」
その時でした。
突然、近くの茂みから白猫が飛び出してきたのです。
直孝と家来たちは、興味深くその猫を見ていますと、猫は少し放れたところにちょこんと座り、右手を挙げて手招きをしました。
家来たちは、どっと笑いました。
これは愉快だ。猫が手招きをしたぞ。と。
愉快に思ったのは、家来たちばかりではありません。直孝も、表情にこそ出しませんでしたが、愉快に思っていました。
「…うむ。じい」
「は。いかがなさいました?」
「どうだ。あの猫の誘いにのってみぬか」
言うが早いか、雨の中へ出て、猫を捕まえようとしました。
するりと直孝の手を抜けて、また離れるとちょこんと座って手招きをします。にゃーおと、今度は鳴きました。
直孝は一城の主とは思えないような無邪気な顔をして、白猫を捕まえようと必死です。
家来たちは顔を見合わせていましたが、猫を追いかけてどこまでもいってしまう直孝をそのままにするわけにもいかず、追いかけていきます。
と、その時でした。
目の前がぱっと明るくなったかと思うと、どおんと轟音が鳴り響きました。
あっと声がして、家来の一人がどさっと倒れ込みました。
直孝ははっと我に返り、振り向くと先ほどまで雨宿りに使っていた木が真っ黒になって、白い煙を上げ、所々に赤い火が見えています。
「…殿。危ないところでございましたな」
「…うむ」
「猫が現れて手招きをしなければ、今頃は揃って命を落としておりましたな」
「…うむ、そうだな」
と、白猫を見ると、相変わらず手招きをしています。
直孝は、雷の衝撃で気を失った家来を馬に乗せるように命じ、この白猫のあとをついて行くことにしました。

白猫は、しばらくいったところにある、荒寺…豪徳寺に入っていきました。
直孝とじいは顔を見合わせると、家来の一人に命じて、寺の中を見てくるようにいいました。
命じられた家来は、寺の中に入ると、白猫の代わりに和尚の姿を見つけました。
そして、今、寺の前に、身分尊きお方がけが人を抱え、雨宿りを望んでいるのだが、という話をすると、和尚は
「おお、さぞお困りでしょう。こんなぼろ寺でよろしければ。何のおもてなしもできませんが」
と答えました。
家来は急ぎ戻って、直孝たちを招き入れました。
馬からけがをした家来を下ろすと、本堂にしかれたふとんの上に寝かせました。
一同は、本堂に上り、わらじを脱ぎました。
「こんなぼろ寺で、白湯しか出すことはできませぬが。まぁ、夕立です。じきに止むことでしょう」
と人数分の茶碗を盆に載せ、和尚が現れました。和尚は、その身分尊きお方がどちらの方か、わかっていないようです。
「…うむ。ところで、和尚」
と、直孝が茶碗を口に運びつつ、和尚に尋ねた。
「この寺に、猫はおらぬか。白い猫じゃ」
いきなり、何を聞くのだろうと和尚は面食らっていましたが、
「ええ、ええ。おりますよ」
と答えました。
ずっと湯をすすると、「…うむ。そうか」といいました。
「その猫は、今どこにおる?」
「…さぁ。雨の日ですと、お堂の下にでもいるはずなのですが」
と、本堂の廊下から頭をのぞき込ませると、白猫が何食わぬ顔で毛繕いをしています。
「おりました。床下で雨宿りをしておりますわい。…して、うちの白猫がいかがしたのですかな。もしかして、小便でもひっかけましたか」
と和尚が言うと、一同がはははと笑いました。
「実はの、和尚…」とじいが、例の話をしました。
一通り話が終わると、
「はは、そんなことがあったのですか」
と頭をぺちぺちと叩きました。
「そう、和尚が飼っておる猫のおかげで、命拾いをしたというわけだ」
普段、あまり笑わない直孝が、また「ははは」と声を上げて笑いました。
ひとしきり笑うと、ふと空を見上げました。
いつの間にやら暗くて重い雲はかき消え、お日様が顔を出しています。
「…うむ。さて、和尚。すっかり世話になったな」
「いえ、何のお構いもできませんで」
と、深々と頭を下げました。
寝込んでいた家来も目を覚ましました。
「おう、大丈夫か。雷にやられたようだ」
と家来を気遣い、声をかけました。
「まだ歩くのは無理であろう。わしの馬に乗るがよい」
わらじを着け、地に降りると、床下をのぞき込み、その白猫に声をかけました。
白猫は、声に答えるようにニャオと鳴くと、床下の奥の闇へと消えていきました。
ふっと微笑むと、立ち上がりました。
「…うむ。和尚。わしは、彦根の井伊掃部頭と申す者だ。もし、和尚の迷惑でなければ、この寺を我が井伊家の菩提寺にしたいと思うのだが。どうだろうか」
「は。」
いきなりの申し出に、和尚はなんと答えて良いかわからない。
「わしの命を守ってくれた猫が住む寺じゃ。何か礼をしたいし、礼をしたいにもこう荒れておったら、井伊家の名折れだ。いかがか、和尚」
「あ、ありがとうございます。なんと礼を申し上げたらよいか…」
「ははは、礼を言うのはこちらの方だと申しておろう」

こうして、豪徳寺は井伊家の菩提寺となりました。
直孝は死後にこの寺の墓地に葬られ、直孝の子孫である井伊直弼の墓もこの地にあります。
直孝の命を守ったあの白猫は、その死後に「招猫殿」を設けられ、今もまだ残っています。
そして、和尚はその白猫の功績を称えて、「招福猫児(まねぎねこ)」を作り、崇めているそうです。


というわけで、彦根藩主だった直孝の命を救った猫をモデルにして、このキャラクターは作られたわけです。
ふー、疲れました。久しぶりにこんな長文を書きましたね。
明日は短い文にしましょう…。


近々、彦根へいってきます。

2007-07-24 21:38:58 | 

今年の夏の旅行は、琵琶湖の南…南東近江を巡る旅です。
目下の目的は、今年築400年を迎える彦根城です。
しかし、目的がそれだけというのも何なので、せっかく日本一の琵琶湖に行くのですから、彦根の周辺も巡ろうということになりました。

まずは、桃鉄でおなじみの近江八幡。
近江商人発祥の地として、有名な近江八幡市は、その一部が国の重要文化的建造物群保存地区選定されており、江戸の風情を今に残しています。
隣町・安土にある安土城址を見るのもいいかと思ったのですが、ここでの見所はやはり「赤こんにゃく」です。
一説によると、派手好きな織田信長がこんにゃくまでも赤く染めてしまったそうです。
わたしは、以前に一度食べたことがありますが、見た目は美術で写生などに使うクロッキーみたいで、食べるまでには少々勇気がいりましたね。
でも、食べてみると「おお、こんにゃくではないですか!」とびっくりしますね。
というわけで、本場の赤こんにゃくを食べてきたいと思います。

さらに、少し離れまして、甲賀市信楽にも足を伸ばす予定です。
信楽といえば、まずは狸。しかし、狸だけで信楽焼が語られるわけではありません。
信楽は、日本六古窯の一つで、大変由緒正しい窯ですね。
軽く陶芸体験もできると言うことですので、できればやってきたいと思います。

今後は、予習もかねて、断続的に滋賀の話を書くつもりです。
…まぁ、計画倒れにならなければよいのですが。


昇仙峡散策

2007-07-22 21:44:09 | 
御嶽昇仙峡といえば、山梨が日本に誇る一大渓谷です。
笛吹川の支流である荒川の上流に位置し、秩父多摩甲斐国立公園を代表する景勝地です。
山梨・国中地方に住む人なら、もしかしたら小学校の遠足でいったという人もいるのではないでしょうか。
あまり、詳しく書くつもりはないのですが、今日は久しぶりにその昇仙峡に行ってきました。
今年の正月にもいってきたのですが、今日は渓谷をてくてく歩いて散策してきました。
3時間ぐらいでしょうかね。全長5㎞の遊歩道を歩きました。
これほど歩くのもまた久しぶり。
正直、疲れました。へとへとですよ、もう。

というわけで、今日はさくっと休もうと思います。
短くて、すいませんねぇ。

16.市川大門

2007-07-21 21:36:21 | 山梨観光マップ

神明の花火大会といえば、江戸時代には日本三大花火大会の一つに数えられていたいわれる、由緒正しい花火大会です。
その起源は、戦国時代。武田家の情報伝達の要であった狼煙にあったといいます。
ちなみに、今年は8月7日(火)。午後七時半から行われるそうです。


市川大門 ichikawadaimon

物 件

種 別

価 格

収益率の変化

1段階

2段階

3段階

市川大門和紙工房

商業

5000万

3%

5%

7%

甘々娘畑

農業

8000万

5%

8%

10%

甘々娘畑

農業

8000万

5%

8%

10%

酒造工場

食品

5億

2%

3%

4%

花火工場

工業

8億

1%

2%

3%

障子紙工場

工業

40億

2%

3%

4%

障子紙工場

工業

40億

2%

3%

4%



花火大会が行われる市川三郷町市川大門地区が、なぜ花火の産地として名を馳せたかといえば、それは和紙の名産地だったからです。
武田家や徳川家など、時代の覇者に愛された和紙は、「肌吉紙」といわれ美人のきめの細かい肌のようだと言われています。
それに関連して、花火の産地でもあり、また障子紙に至っては全国シェア第1位。40%を占めているそうです。
それから、「甘々娘」とは近隣・増穂町だけで生産されているとうもろこしです。
しかし。ただのとうもろこしではありません。ものすごく、甘くてうまいのです。
このうまさはたまりませんよ。
希少価値も高く、値段もそれなりですが、一度食してみてはいかがでしょうか。
市川大門唯一のモデル物件は、「萬屋酒造」さん。
山梨が誇る銘酒・春鶯囀を作っている、老舗の酒蔵です。

次回は、難読地名?
落語でおなじみの、鰍沢です。


五十二

2007-07-20 21:36:29 | 『おなら小説家』
巨星、墜つ。
推理小説界の重鎮、桂木金五郎氏が死去した。
その報せは、死去した直後に草田男の元にもたらされた。
午前三時を回ったときであったか。電話のかねにたたき起こされ、寝ぼけ眼で受話器を取ると、そのあまりにも衝撃的な報せを聞かされた。
電話の主は、金五郎氏の甥であった。

急いで準備をして、帝都から修善寺へと向かった。
まだ電車は始発の時間を迎えていなかったし、乗合自動車で向かうことにした。
もちろん、恵実も同行する。
車の窓から、外の様子を伺う。夜が、明けようとしている。
日の出まではまだ時間はあるが、太陽の光はすでに日本を照らしている。
車の中はすっかり静かで、時間が時間であったし、雰囲気も明るいわけではなかったので、運転手もすっかり口をつぐんでいた。

金五郎氏の病状は、あまりよくなかったらしい。
それでも、環境の良い修善寺に移り住んでからは進行も鈍り、故に快方に向かっていると思われていた。
しかし、ただ「鈍」っただけであり、進行が止まったわけではなかったのだ。
そして、その命の火が今日潰えたというわけであった。
いうなれば、この日は来たるべくしてきたのであった。

推理小説界の重鎮がなくなったことで、その跡目がだれになるかが注目されていた。
その一人が、誰あろう小奈良燃圓…つまり、草田男であった。

「コミックボンボン」休刊について

2007-07-17 21:16:38 | 

月刊漫画誌「コミックボンボン」12月号で休刊(読売新聞) - goo ニュース

がびーん。
またしても、なかなかショックなニュースが入ってきました。
「コミックボンボン」休刊!
こいつは、またショックですねぇ。
しかし、去年から大幅な方針転換をして、それがどうやら悪い方向に傾いていたようですね。

わたしが小学生の時分といえば、少年漫画の筆頭は「週刊少年ジャンプ」(集英社)でしたが、小学校中学年ぐらいまではいささか敷居が高い感じを受けていました。
まぁ結構、アダルティな漫画もありましたしね。
そこで、中学校に上がるぐらいまでは、もっと対象年齢が低い漫画を読むようにしていました。
それが片や「コミックボンボン」(講談社)で、片や「コロコロコミック」(小学館)でした。
同年代の人の話題では、「コロコロとボンボンと、昔どちらを読んでいたか」なんて会話になりやすいですね。

わたしはというと、両方です。
厳密に言うと、この二つに小学館の「小学○年生」を合わせて、買っていました。
といっても、「ボンボン」は2年ぐらいでやめてしまいましたが、「小学○年生」は一年生から六年生まで。
「コロコロ」は、二年生ぐらいから中学校に上がるまで読んでいましたね。
以後は、漫画といえば雑誌ではなく単行本で読むようになってしまい、漫画雑誌とはとんと縁はありません。

何はともあれ、慣れ親しんだ文化がなくなってしまうというのは、何とも悲しいですね。
わたしも、それなりに年を取ったということですかねぇ。