さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

めがねが好き。

2006-07-30 21:30:16 | 
わたしは眼鏡が好きです。
それこそ、もう小学校の頃からです。
現在、眼鏡をかけた男女が大変人気がありますが、わたしはミーハーでこんなことを書いているわけではないのです。

めがねの魅力は何かといわれても、わたしは明確に答えることができません。
わたしの眼鏡好きは、イメージから来ているものです。
どういうイメージかといえば、「秀才」とか「知恵」とか「頭がいい」とかいうようなものです。
まだ小学校ですから、貧弱といえばまぁ貧弱なイマジネーションですよね。
アニメや漫画に多大な影響を受けていたことは間違いないでしょう。
その後、「秀才」「頭がいい」→「大人しい」「静か」というイメージの変遷を経て、今日に至るわけです。
このイメージの変遷はそのまま、わたしの好み女性のタイプといえます。

わたしは眼鏡をかけているだけで、その人を素の状態から2~3割増に見ます。
(わたしが)素で100%かわいいと思う人が眼鏡をかけていれば130%に見ますし、
(わたしが)素で50%かわいいと思う人が眼鏡をかけていれば65%ぐらいに見ます。
なので、一般的にあまりかわいくないといわれる人でも、眼鏡をかけているだけで「別に悪くない」と言い放ってしまうこともあります。

身につけるものは、イメージを付加することを目的としているのでしょう。
仮装や変装とは違い、自分を完全に変えるわけではなく、イメージを付け加え、相手に違った印象を与えることがおしゃれや化粧などといわれるようなものなのでしょう。
わたしは眼鏡に、その価値を見いだしたわけです。

え?気持ち悪い?
結構、どうせわたしは単なる眼鏡好きですよ。

「虫」を売る。

2006-07-30 01:05:37 | 
今日、某ホームセンターに行く用があって、いっていきました。
いろいろな商品があふれていましたが、その中でも今シーズンということで、「虫」たちが目につきました。

山梨県はご存知のとおり山に四方を囲まれた、内陸県です。
海が無いぶん、山のレジャーや自然が豊富なのが強みだと思うのです。
なので、虫もたくさんいます。カブトムシやクワガタムシだって、ちょっと山や林に入れば、見つけることができます。

しかし、ここ最近ではこの田舎県山梨でさえ、生きた虫が売られているのを見るのは珍しいことでは無くなってきました。
スズムシやら珍しい外国の甲虫類がたくさん売られています。
子どもをとりまく環境が悪化の一途を辿っていく今日、こういった傾向を否定することはできません。
が、売るなら売るでその環境にも注意を払ってほしいと思います。

というのは、そのホームセンターときたら、狭い虫かごの中で10匹を超えるカブトムシをぶち込み、虫用ゼリー1個当たり三匹以上が群がるという悪環境。
ひどい話です。虫かごの中に、北朝鮮を見たような感じです。

「うんこ」から見える言葉のおもしろさ。

2006-07-28 23:35:12 | 
昨夜、ブラザーKと久しぶりに電話をしました。
普段は短いメールのやりとりなどをしていて、とりとめもないことばかりを書いています。
話し合う内容もまたとりとめもなく、どうしようもないことばかりです。
途中で、なぜか「うんこ」の語源についての話になっていました。

「うんこ」というのは、幼児語でふんばるときに発する言葉「うん」に、親愛の接尾語「こ」がついて「うんこ」というらしいです。
これが有力な説らしいですが、じゃあ「うんち」はといわれればこれまた別の説があります。

「阿吽(あ・ぅん)」という言葉があります。狛犬や金剛力士像など、左右一対の彫刻が口を開けたり閉じたりしています。これは、インドのサンスクリット語が起源で、陰陽を表すそうです。
「あ」が陽で、「ぅん」が陰を表すわけですが、中国仏教では「吽」は大小便そのもを表す言葉で、つまり中国の昔のお坊さんたちは「ちょっとお手洗いへ」というところを、「ちょっと吽しにいってきま~す」なんていってたわけです。
まぁそんなようなものをちょっとあちこちにされても困りますので、自然と一個所に集めるようになります。
昔でいう肥だめ、今でいうトイレですね。
そこを「吽」を「置」いておくところ…つまり「吽」「置」と読んだわけです。
すると、「ちょっと吽しにいってきま~す」が「ちょっと吽置にいってきます」となってそれが日本にやってきて、大便のみを表すようになったということです。
日本にやってきたのは奈良時代。上流社会の人間が主な使用者だったそうです。なので聖徳太子や小野妹子のみならず、歴代天皇も、インテリぶって「あいやしばらく。ちょいと吽置に」なんて使っていたのでしょう。
で、さらに「うんち」が前述のように「うんこ」というようになったと。
つまり接尾語はともかく、「うん」をふんばりと捉えるか、仏教用語として捉えるかということになりますね。

ところで、この接尾語「こ」なんですが、わたしは知りませんでしたので、調べてみると結構現代に生きています。
ちんこ・おしっこ・わんこ(犬)・にゃんこ(猫)・ありんこ(蟻)・ひよこなどなど。
鑑みても、何か小さいものを表したり、小さい子が使うような言葉につくことが多いみたいですね。
「名詞などについて、小さなものの意をあらわしたり、親愛の情を示したりする」 というのは「松井家三代の夢」「日国」こと『日本国語大辞典』から。当て字は「子・児」ですね。

いやぁ、まぁこれらの語源が俗説であって、文献資料がないために証拠不十分だとしても、言葉が形態も意味合いも変えずに長々と1300年もの間生き続けるというのは…。
言葉というのはおもしろいものですね。

聖徳太子の悩み

2006-07-28 00:38:07 | 
わたしは、歴史上の人物たちが行った物事に関して、どういういきさつでそんなことになったのかということを考えるのが好きです。
例えば、聖徳太子が摂政の時に制定された冠位十二階。史実では聖徳太子の事績として称えられていますが、どんなふうにして考えたのか?どんな様子で考えたのか?
ということを想像するのが好きなのです。

冠位十二階は、当時姓や氏に左右されがちだった任用制度を、そういったものに束縛されずに雇えるように、能力に応じた序列の制度化を目指したものです。
その序列は、上から大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智とし、色も同様に紫・青(緑)・赤・黄・白・黒を濃淡をつけて見分ける。
日本初の官位制であり、以後律令位階制(法律によって定められた身分制度)のもとになったものです。

この法律を考えたのが、案は聖徳太子であっても、実は彼一人というわけにはいかないでしょう。しかし、あえて聖徳太子がうんうんいいながら考えたとしたら、どうでしょうか。
聖徳太子といえば、本名は厩戸皇子、最近は厩戸王と記すのが正確なようですね。父は用明天皇、母もまた欽明天皇を父に持つ穴穂部間人皇女という、言うなれば超絶エリートな家系に生まれました。当然、まわりにはエリートな人たちがわんさかいたはずなので、古今東西の知識を彼は知り得ました。
そんな彼が、叔母の推古天皇の摂政になったのは593年のこと。遠縁の蘇我馬子とともにダブルバックアップという形でした。馬子の専横を牽制しつつ、603年に制定したのが冠位十二階でした。
蘇我氏といえば、物部氏との仏教戦争に勝利し、その後の日本の歴史に大きな影響を与えた人たちです。大化の改新あたりの出来事から、あまりよい印象はもっていませんが、この馬子さんも天皇の外戚として、なかなか威張り散らしていたようです。
そこで厩戸さんは考えました。一族とか、二世とか、三世とか。そんなものは能力とは関係ないじゃないか。どうせなら、デキるやつによい仕事を与えてやりたいと。

ほんなら、馬子のおっちゃんには怒られるかも知れないけど、ここはおれががんばらなきゃなぁ。
仕事がデキるやつを偉い役に就けてやるには、まず高い位につけてやらなきゃならんのか。よし、じゃあ簡単な身分制度でも作るか。まずは冠を基本にするとして…そうだ、儒教で習った「徳」とかいう言葉を使いたいなぁ。んー、ほかには思いつかないなぁ。しかし、身分制度が一つじゃ話にならないなぁ。…じゃあその下には「徳」を支える5つの要素をつけるか、めんどくさい。たしか「仁・礼・信・義・智」だったな、よしよし。「徳・仁・礼・信・義・智」にするか。これで6つか。なんかアレだなぁ、中途半端っていうか、もっと細かくしないといけないんじゃねぇの?もっと厳しくしないと能力って見分けられないんじゃないんですか?って何でおれ、自分でつっこんでるんだよ、おい!欧米化!?ってんだよなぁ、おい。まぁそんなことはいいや、別に。えーと、もっと階級を増やせと。…うーーーーん…そうだなぁ、じゃあしょうがないから取りあえず、大と小にしとくか。うん、そうしようそうしよう。決定決定。あーそうだ、冠の色も考えなきゃ。めんどくさいなぁ。もう挫折しそうだよ。めんどくさいなぁ。でもやんなきゃなぁ、隋とか高句麗だか新羅だかいうわけ分からんところに負けちまうからなぁ。それはいやだなぁ。やるしかねぃなぁ、くそー。んでぇ、何だ。あぁ冠の色か。えっとぉ、一番上は「徳」か。こりゃもう決まってるんだ、む・ら・さ・き。いいよな、「紫」。おれ好きなんだよ、紫。よし、決定。あとは…めんどくせぇなぁ。いいや、適当で。えーっとぉ、五行思想になんかあったなぁ。なんだっけかなぁ。たしか五常に対応してるんだったよなぁ…えーっとぉ。なんだっけっかなぁ、ここ、ここまで来てるんだよ。青…があって、赤もあるだろ。ふんで、白と黒だ。あと一つ…なんだったかなぁ。き、き、き、きが付くんだよ。あぁそうだ、思い出した。黄色だ、黄色。よしよしよしよし。で、これを整理して、と。上から紫・青・紅・黄・白・黒と。こうなるわけだな。いいじゃん。いいじゃん、おれ。最高、ファンタスティック。完璧。じゃぁあとはこれを整理すればいいんだ。くそったれ、めんどくせぇ。シット!

ちなみに、聖徳太子が考え出した冠位は実は十二階ではなかったそうです。十二階になったのは、実はもっと後のことだそうです。

歴史なんて、しょせんは人間が作ったものです。こんなふうな歴史の一場面を考えると、愉快な感じがしますね。
こんな風に独り言を繰り返しながら冠位十二階案を考え出したのかと思うと、聖徳太子にも、冠位十二階にも親しみが…わきませんか?

今日は…。

2006-07-27 00:59:45 | 
幽霊の日、らしいです。
1825(文政8)年の今日、江戸の中村座で「東海道四谷怪談」が初演されたことに由来すると聞きました。
東海道四谷怪談(通称「四谷怪談」)と言えば、言わずとしれた浪人民谷伊右衛門と毒殺された妻お岩の話ですね。
不義密通をはたらいた男女が殺され、戸板に縛られ神田川に流されたという実在の事件をヒントに四世・鶴屋南北が作った話です。

残念ながら、わたしは霊感やシックスセンスというようなものを持ち合わせていないので、ソレは見たことはありません。
信じているかどうかと言われれば、まぁ…いるんじゃない?というような軽い返事しかできません。

相当前に読んだ話ですが、ヨーロッパのえらいお医者が臨終時の患者の体重を調べたところ、患者が息を引き取った瞬間に100gだか500gだか軽くなったそうです。
まぁこのお医者の言いたいことは、この体重の変化は魂が抜けていったことの証拠だと。
「ふーん、あぁそう」
なんてぐらいの感想しか出ませんね。

子どもの頃は、故・宜保愛子さんの番組をよく見ていました。
その中で、ノストラダムスの霊に会いに行くみたいな企画があったのを覚えています。世界の終末と心霊をミックスさせた企画だったわけですね。
なんだかんだといろいろあって、無事にノストラダムスの墓にたどり着いた宜保さん、優しくノストラダムスに語りかけます。
もちろん、日本語で。
そのシーンを見て、幼心に
「死んでからだと、日本語もフランス語も関係ないのか?」
と素朴な疑問を思い浮かべました。相当、悩みました。

わたしの中では、生前日本語しか理解できなかった人は、死んでからも日本語しか理解できないものだということになっていました。
つまり、日本の幽霊にユダヤ教やキリスト教の祈祷は通じないし、逆にアラブの幽霊に日本の念仏を唱えても意味がない。と考えていたわけです。
しかし、宜保さんのおかげで当たり前のことと思っていたことが、あっさり崩れてしまったわけです。
たしかに、日本の幽霊は日本語は通じないとしたら、FBIの超能力調査官もお手上げですよね。

一時、非常に悩み苦しんだわけですが、結局こう考えて納得することにしました。
それは「宗教のお祈りには、共通の神聖な力が働いていて、それが時空間を超えて作用する」という考えです。
この考えなら、実は宇宙人の幽霊さえ念仏を効力を持つのです。
しかも、「馬の耳に念仏」かも知れませんが、馬の幽霊には念仏は利くのです。
あほらしいけども、まぁそういうことにしておくか。ぐらいの勢いで、納得して解決しました。

考えてみれば、神様と人間が意思の疎通ができるのだって、実は不可思議なことなんですよね。

2006-07-26 00:15:49 | 『おなら小説家』
二人はめでたく結ばれた。
何せ、世紀の大銀行家馬山玉助氏の令嬢と、現代実業界の神の子との結婚である。それは、それだけで大きなできごととなった。
草田男はその費用さえ―一説では、ン十億円ともいわれる―必要経費と考えていた。
自分が、仕事に専念するためにはそれぐらいの投資は致し方ないと。
一度結婚して、子を授かれば、それだけで両家の親は安心するだろうと。

それにこのイベントはでかい分、儲ける機会も豊富だった。
何せ、世界規模である。政治家・財界人・実業家も欧米にとどまらず、中南米・アジア・アフリカの世界各地から二人の門出を祝った。
同時に、草田男は労せずしてそれらの人々と太い管でつながれた。
それと同時に、強大な後ろ盾を得た草田男には、金のにおいをかぎつけてきた人たちがすり寄ってきた。

草田男にとって、結婚は仕事であった。
親を喜ばせ、義親を安心させるための、仕事であった。
しかし、そのことは言おうとはしなかった。そんなことを口にすれば、実は誰が一番傷つくか、草田男は知っていた。
今や妻となった恵美である。
彼女はよく尽くしてくれた。
仕事に追われ、旅行にも行けなかったが、よく草田男を助けてくれた。
彼女は頭がよかったし、よく動いてくれた。
「仕事の基本は動くこと」であると、彼女は常々いっていた。
その言葉どおり、彼女はよく動いた。何をするにつけても、草田男に先だって動いていた。同行するときは、陰のように寄り添っていた。
優秀な妻であり、そして秘書であった。
かといって、世のはたらく女性の多くに見られるように、ずけずけと自分の主張を述べたり、亭主の仕事ぶりに口出しをしたりはしなかった。
彼女の仕事は、「夫のしごとを手伝うこと」であった。

草田男と恵美の働きで、会社は見る見る大きくなっていった。
小奈良財閥は、もはや世界十指に入るほどの財力を築いた。
結婚して、5年が立っていた。

誤字脱字

2006-07-25 00:37:55 | 
誤字脱字が増えてきました。
携帯メールとパソコン主体の筆記生活のためなのは、疑いようのないところです。
まぁ昔からメモやノート程度なら、漢字間違いぐらい軽くスルーしてしまうような大雑把な人間なのですが、最近は公の文章に気づかずにスルーしてしまうので困りものなのです。

そういえば、新撰組に山南敬助という人がいます。
初代総長というえらい役に就いた人なんですが、鬼の副長・土方歳三の古くからの同志ということもあって、土方の書いた物にもたびたび名前が出てきます。
その中で、時々「三南敬助」と書かれているときがあります。
え?三南?そう、三南なのです。
確かに、“三”と“山”は音は同じですが…こんな間違いはあるのですかと言いたくなりますよね。

しかし、昔はこれが一般的だったのです。何しろ、文字など記録を残すための媒体に過ぎなかったのですから、その意味さえ通じれば問題はなかったのです。
たとえ、人名であったとしても、よかったのですよ。

なので。わたしが会議の「ぎ」を「義」と書いたり、講義の「ぎ」を「議」と書いたりするのも、意味が通じればそれで問題ない…と。

そう思いませんか?

欽ちゃん球団、よかったなぁ。

2006-07-23 22:29:40 | 
萩本欽一さんの解散宣言から四日。新潟にて、萩本欽一さんの口から「復活宣言」が出されました。
何はともあれ、よかったですね。一安心しました。
現在、日本野球連盟に所属しているクラブチームは250を超えているそうです。
様々なプロ野球OBや芸能人が主催したり所有したりしているクラブチームも、21世紀に入ってから、急激に増えていきました。
その先駆けとなったのがご存じ茨城ゴールデンゴールズでした。

プロ野球が目に見えて低迷している最中、その再興を信じて立ち上げたのがこの球団でした。
その心構えについては、この間書いたのでいいとして、このように日本の末端の人たちが野球人気の回復を目指していると思うと、野球ってなんて国民的なスポーツなんだろうって思いますね。
サッカーもその発足当時は、資金難から経営が行き詰まるなどしてしまうことが多かったですが、その危機を救ったのは本拠地となっている地区の住人の熱烈な援助でした。
かくいうわたしの出身地山梨県をホームとしているヴァンフォーレ甲府も、一時はクラブ解散の憂き目に遭いましたが、見事に復活を成し遂げました。
クラブチームの強みは、まさしくこのような地域住民との密接関係にあります。
時には、自治体すら動かしてしまうほど、住民の行動力は影響は大きいのです。

今、プロ野球は地域だけでなく、国全体の野球好きたちの後押しを受けて成り立っています。
そのような環境、実に幸せなことだと思うのです。
ともに勝利を分かち合い、そしてすばらしいプレーには敵味方問わずに賞賛を送る。
もちろん、少しのお負けをつけてくれれば、それにこしたことはありませんが。

ディズニーとジブリの共通性

2006-07-23 00:21:46 | 
わたしの住んでいる甲府市では、周辺の小中学校では昨日から夏休みに入っています。
もはや社会は夏休み一色になりつつあります。
映画館でも、夏休み映画が続々と封切りされますね。
その中で相変わらず注目を集めているのは、子どもやファミリー層を狙ったアニメ映画ですね。
スタジオ・ジブリ『ゲド戦記』(7/29公開)、ディズニー・ピクサー『CARS』(上映中)をはじめとして、『森のリトルギャング』(ドリームワークス、8/5公開)、『ブレイブ・ストーリー』(フジテレビジョンなど、上映中)など目白押しですね。
既存のアニメでも『劇場版ポケットモンスター~ポケモンレンジャーと蒼海の王子マナフィ』(テレビ東京など、上映中)などが健闘しています。

さて、その中でも『ゲド戦記』と『CARS』は最注目株といってよいでしょう。
わたしは、昔からジブリとディズニー映画の類似性が気になってしょうがありません。
といっても、悪い意味ではありません。
ある意味、ヒット映画の条件といってもよいのではないかと、勝手に一人で考えているのです。

双方ともに独自の作風を持ち、技術の高さも世界最高峰。ストーリーにしても、よく練られていて、原作を意識させない話作りはさすがです。
真似とかではありません。それぞれが独自に確立した作風なのですから。

ではどこが似ているのか?
その類似性とは、「キャラクター作りの巧みさ」です。
双方の作品には、マスコット的なキャラクターが必ずと言ってよいほど出てきます。時には主人公(『リロ&スティッチ』のスティッチや『となりのトトロ』のトトロ)だったり、時には脇役だったりします。
分かりやすい例でいえば、『ハウルの動く城』のヒン・カブ・マルクル、『もののけ姫』のコダマ、『ライオンキング』のティモン・プンバァといったところでしょうか。

これらの映画は、連続アニメの劇場版というわけではありませんから、そのキャラクターの作り方はよほど腐心しているものと思われます。
キャラクターがよく作り込まれているので、ある程度話がややこしかったり、テーマが重厚であったりした場合でも、全体の雰囲気が重くなりにくく、卑俗な笑いに走らなくても映画に軽みが出る。
つまり、バランスがとれてメリハリをつけやすくなるわけです。
これが連続アニメのキャラクターなら、そこまでややこしくキャラクター作りができませんので、話もやや単調になってしまう傾向にあると思います。

なんて知ったような口を利いていますが、ただの一鑑賞者なのです。わたしは。
今年の映画、どんな話になるのか。そして、どんなキャラクターが出てくるのか。
非常に楽しみですね。

文学忌と草田男

2006-07-21 23:27:41 | 
今日、7月21日は衛藤雅治の命日だそうです。その代表作から「風鈴忌」と呼ばれています。衛藤は、昭和の中頃に活躍した作家で、代表作『風鈴の音が聞こえる』『花舞台』などは今でも多くの人に親しまれています。

さて、衛藤のように作家をはじめとした文学者の命日に、その代表作や筆名からとって「○○忌」というふうにしたものを、「文学忌」といいます。
有名なところになりますと、司馬遼太郎の「菜の花忌」(2/12)、石川啄木の「啄木忌」(4/13)、太宰治の「桜桃忌」(6/19)、芥川龍之介の「河童忌」(7/24)、正岡子規の「糸瓜忌」(9/19)、三島由紀夫の「憂国忌」(11/25)などといったところでしょうか。
 
わたしが書いているおならのような小説『おなら小説家』の主人公・小奈良草田男は、その名は俳人の中村草田男からお借りしています。
初めてこの名前を聞いたとき、なんて読むのかわかりませんでした。
「くさたお」?
「そうたお」?
「なかむらくさ・でんお」?
「なか・むらくさたお」?
さまざまなふうに読みましたが、結局便覧を読んでいて「くさたお」だとわかりました。
インパクトのある名前ですよね。由来は「腐った男」からきているそうです。

わたしの下品な感性は、こんな名前しか思い浮かばなかったわけです。
誠に恥ずかしい話ですね。
そんな中村草田男の命日は8月5日。「草田男忌」というそうです。
わたしも、「○○忌」なんて送られるような立派な人間になりたいものですね。

ちなみに、衛藤雅治は遺作となった『眉唾』の主人公にこう言わせています。
「わたしは、うそだ。わたしは、いなかった。そうだろう。だってわたしはだれも幸せにすることができなかった。それはつまり、わたしの存在が嘘だったことに等しい」