さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

週末の予定

2008-02-16 21:21:42 | 
週末、わたしは特に予定がない人間です。
だから、気が向いたらふらりとどこに出かけてしまうような、そんな宛ない人間なわけですね。
まぁ大体は本屋に行ったりとかすることが多いんですけどね。
明日は気が向いたら、美術館と文学館にでもいってこようかと思います。
この時期は、まぁめぼしい企画展が行われていないんですけど、その代わり新収蔵品展と銘を打たれて、平成19年度に新規購入した美術品・芸術品の展覧会が行われるのです。
膨大な数の美術品を収蔵する博物館では、いつどこでどのタイミングで収蔵品がお披露目されるかわかりません。
だから、新収蔵品展は絶好のチャンス。
ふらりと行ってくるつもりです。

といっても、しょせんはヘタレのヘタレによるヘタレのための予定ですから、突然変わってしまうこともあります。
まぁ三月頭ぐらいまでやっておりますので、それまでに見られればよいと思います。

学ぶ精神

2008-02-15 22:36:33 | 
ポスター騒動の「蘇民祭」に報道陣170人 岩手(朝日新聞) - goo ニュース

JR東日本がポスターの張り出しを断った騒動で注目された岩手県奥州市の「蘇民祭」が、13日夜半から開かれた。14日早朝まで8時間以上にわたる「裸の男と炎」の奇祭に、例年の3倍に膨れあがった報道機関47社、約170人も含め、大勢の見物人が詰めかけた。

この日は日中も気温が零下の真冬日。五穀豊穣(ほうじょう)を願い薬師堂などを回る祈願祭が始まると、「ジャッソウ、ジョイヤサ」のかけ声が境内に響いた。


物議を醸したこの話題ですが、何はともあれ、無事に開催されてよかったですね。
今や、地方の祭りや伝統行事が観光の目玉になることは珍しくありません。
本当は、伝統行事と観光名所ってのはあまり相容れない存在だと思うんですよね。
伝統は地域内の…あくまでも地域内のものであって、地域に馴染みのない人間を集める観光というのとは、やはり違います。
伝統に「公共性」がないとはいいませんが、地域内の人が了解していれば、ある程度の無礼は許されます。
しかし、そこに多くの人が集まると一般的なルールが適用され、それまで認められていた行為ができなくなることがあるようです。
観光は立派な産業で、それを目当てにお客が来ることによって経済が潤うわけですから、地域としてはちょっとした無礼御免よりもそっちの方を向いてしまうことが多いですね。
伝統や地域文化というものが、果たしてそれでいいのかと言いたくもなります。
考えようによっては、そんなお金で地域の伝統を切り売るような真似が正しいのかともいえましょう。
でも、お金がないと行事自体も成り立っていかない世の中ですから、それも致し方ないのかなと思ったりもします。

まぁポスターなんかの場合は広い範囲に張り出されるわけですから、見たくなくても見てしまう人のことを考慮しなければなりません。
しかし、行事の本番は違います。
見たい人だけ、参加したい人だけがくればいいわけですから、行事のことを事前に学び、どのようなものかを知った上でくることは、これは無礼以前のマナーですよ。
よく知りもせずにやってきて、「なんて卑猥な祭りなんだ」って憤慨しても、どうよって感じではありませんか。
きっと法的にも自治体や地域に落ち度があるといわれるんでしょうけど、わたしに言わせれば
「よく知りもせずにやってきたあなたもよくないのでは」
という感じですね。
ふらっと立ち寄る場合もあるでしょうが、本当は伝統行事はもっとその存在が重くあるべきなんだろうと思うんですよ。
その行事について、よく学んできてこその伝統行事の鑑賞なんだろうと思います。

今の世の中、やっぱり自分から学ぼうとしない人間が多いですよ。
わたしもそうですけどね、もっと主体的に学ばなければいけません。
今の国会の情勢だって、マスコミ操作の賜物ですから。
「新聞・テレビがそういってたから…」
ではなく、
「わたしの情報によるとこうだから、わたしはこう思う」
それがリテラシーってものではありませんか。
正しい知識と自分の判断力(正しくても、間違ってても)。
これが大事だと思います。…まぁ問題は、知識の得どころですけど。

そうはいっても、自分自身もまだまだ勉強不足。
常に学ぶ精神を持ち続けていこうと思います。


バレンタインデーについて考える。

2008-02-14 21:58:17 | 
今日はバレンタインデーですね。
この年になると、チョコレートなんかはあまり気にならないですね。
ザ・サントリー・オールドウイスキーのCMの言葉を借りれば、
「別に喜ぶ年でもなし…」
といったところでしょうか。

今日は、愛を伝える日ということで、「愛」というものについて考えてみました。
愛というのは、当たり前なんですけど、実にいろいろな種類があるんですよね。
男女の…というと先入観ありありですが、まぁ異性でも同性でも赤の他人を愛するもの(性愛)はもちろんですし、例えば、友人を大切に思う心(友愛)や家族を大事にする気持ち(家族愛)、それから師匠を尊敬し弟子を慈しむ心(師弟愛)なんていう形もあります。
宗教によってその解釈はまちまちのようですが、キリスト教でいう「汝の隣人を愛せよ」で有名なアガペー(隣人愛)は特徴的であるといってよいでしょう。
仏教で隣人愛といえば、むしろ「慈悲」ということが一般的なようです。
「慈悲」…最近、聞かない言葉ですねぇ。
さて、ふつう日本で「愛」といえば「性愛」を指します。いえ、やらしい意味ではなく。
言い方を変えましょう。
「エロス」ってやつですよ。あら、逆効果ですか。いや、まぁいいです。
まぁあえて、誤解を恐れずいえば、そうではないですか。結局、意中の相手と仲良くしたくて、今日という日にチョコや贈り物をするわけではないですか。
しかしですよ、さっきも言ったとおり「愛」にはいろんな形があるんです。
日本人の頭の中には、「好きな人と付き合う」的な愛という考えが第一にあるから、おかしくなるんです。
今日は、友人や家族、あるいは弟子・師匠などに対して、「大切に思ってますよ」というような、日頃は口に出せない気持ちをものとともに伝える日なんですよ。
まぁなので、別にそこに「エロス」が入ってきてもいいんですけどね。
しかし、そこしかクローズアップされないのが何とも悲しい。
「隣人愛」や「慈悲」という精神性が、結局定着し切れていない日本(今も、むかしも)という国が悲しく思うわけですよ。

ところで、今日はバレンタインデーですから、必然的にウァレンティヌス(?~269)の命日に当たります。
その実在性は疑わしいようですが、しかし、彼の存在はとても大きかった。
彼がいたといわれる時代はローマ時代です。
当時のローマ皇帝は、戦士たちにもし結婚して家庭を築いてしまったら、死ぬのが怖くなって士気の低下を招くのではないかと懸念して、戦士が結婚することを禁じてしまいました。
それに猛然と反抗したのがウァレンティヌスで、彼は王令に背いて戦士とその恋人の結婚式を執り行い続けました。
怒ったローマ皇帝は、とうとうウァレンティヌスを処刑してしまうのですが、彼のおかげで夫婦となれたものたちやその尊い行いに感銘を受けた人たちにより、彼の命日は「バレンタインデー」とされ、今日まで脈々として受け継がれました。
…とまぁよく知られた話で、これ以外にもいくつかのパターンがあるようですが、この物語でわたしが何を言いたいかというと、「人を愛する」ってことは当然のことではないってことです。
ウァレンティヌスは、人が人を愛するという"当然"と思いがちなこの権利を、彼は自らの「命」を持って主張したんですよね。
あなたが、あなたの恋人を愛することは決して当たり前のことではないんです。
世の中には、愛したくても愛する余裕がない、あるいは愛せない人も多くいる。
だから、本来このバレンタインデーの意義というのは、「愛し合える喜びを分かち合う」ではないかと思うんですよ。

ところで。
このウァレンティヌス。欧米でも「恋人たちの守護聖人」だったそうで、つまりは「エロス」を守る聖人だったわけですね。
すいません、前言撤回します。
「隣人愛」や「慈悲」の心が定着し切れていないわけではなく、すっかり欧米に感化された日本を哀れむべきだったんですね。

※ わたしは宗教の知識が足りません。もし間違えた解釈があっても、「しょせんはヘタレのいうことなり」と笑って流してください。

チョコを食べて、腹を下す。

2008-02-13 21:55:50 | 
別に明日がバレンタインだからというわけではないんですけど、今日、久しぶりにチョコレートを食べました。
いや、チョコを食べることをそれほど珍しいことではないんですけど、何というか大量に食べたのが久しぶりだったんですね。
板チョコ丸一枚というのは、意外と量があるものだということはご存じかと思うんですけど、それをしたんですよ。
小袋に入ったチョコは食べることはたびたびあったんですけど、板チョコ丸一枚なんて食べるのは、十年ぶりぐらい。
チョコを食べると、ニキビがえらい勢いで出るので、中学生ぐらいから食べることすら控えていたのですが、最近また食べ始めて、そして板チョコ一枚食いに挑戦したのです。
そしたら、そしたらですよ。
どうなったかというと…おなかを下しました。
食べてしばらくしたら、「あた、あたたたた…」とおなかが痛くなって、トイレに直行です。

おれの胃腸もすっかりヘタレになってしまいました。
年…は関係ないですよねぇ。

南大門の焼失

2008-02-12 21:21:55 | 
ソウル「南大門」楼閣が全焼・ほぼ崩壊、放火の疑い(読売新聞) - goo ニュース

10日夜に出火したソウル市中心部の観光名所、南大門(正式名称「崇礼門」)は約5時間後の11日未明、木造2階建て延べ約177平方メートルの楼閣が全焼、石組みの土台を残してほぼ全面的に崩壊した。

というわけで、今更ながらこの話題のわけですが、非常に心が痛みますね。
南大門は正式名称は「崇礼門」。1398年に完成した、ソウルで最古の木造建築だったそうです。
ソウルといえば、南大門。テレビなどでもソウルの象徴として、ここからソウルの旅が始まることが多かったですね。
容疑者が捕まったそうですが、理由はどうあれ、これは許されることではありませんね。
韓国の法律には詳しくありませんが、まぁそうはいっても死刑になることはないと思います。
罪状としては、放火や文化財の損壊などでしょう。

日本でいえば、法隆寺(607?)が焼け落ちるものでしょうか。
現に、法隆寺が昭和の大修理の最中だった1949(昭和24)年、修復中の金堂内で火災が発生し、貴重な壁画の一部が損傷してしまいました。
まぁこれがきっかけで、文化財保護法(1950)が制定されたわけで、ただの木造建築が国に住む人間にとっていかに大きな存在であったかということを知らしめる、皮肉な結果になったわけですね。
それから、それ以上に大きな騒ぎとなったのが金閣寺放火事件(1950)ですね。
犯人は当時二十歳そこそこだった学僧だったわけですが、その動機がいろいろな苦悩や厭世感に満ちあふれていたので、多くの人間を魅了し…というと、いささか不謹慎ですか。とにかく、人々を引きつけたわけです。
三島由紀夫(1925~70)は名作『金閣寺』(1956)を書き、水上勉(1919~2004)は『金閣炎上』(1986)を著わしました。
国宝・金閣(舎利殿)が全焼。また、やはり国宝だった足利義満木像をはじめ、6点もの文化財が焼けてしまいました。
このときの学僧が受けた判決は、懲役7年でした。
その後、精神を病み、服役中に病死してしまいます。

いかにも日本人が好きそうな事件ですね。
病んだ若者、権力と美の象徴とその破壊、不義が横行し利で回る現代への反抗。
深い…あまりにも深い事件です。
南大門の方はどうなるでしょう。聞く限り、個人的な恨みのようですから、政治に対する攻撃材料にはなるかもしれませんが、小説の大罪にするにはやや苦しいですか?

受け継がれる社会のゆがみ

2008-02-10 22:23:44 | 
給食費滞納の児童、教師が名指しで非難 水戸(朝日新聞) - goo ニュース

いや、こういう事件はいつか起きるんじゃないかと思っていたわけですが、これらの話はいろいろとごたついていて、その責任の所在が曖昧になりがちですねぇ。
いつからでしょうか、こんなにあらゆることがごちゃごちゃし始めたのは。
わたしにはよくわからないのですが、大きなエポックになったのは97年の神戸連続児童殺傷事件ですかねぇ。
ちょうど、わたしと同年代だったためにえらく教育現場が戦々恐々としていたのを覚えています。
それがどういう関わりを持っているかはしれませんし、本当に関わりがあるかどうかもわからないのですが、何か目に見えぬものが脈々と連なっているように思うのです。
…それが、政治や経済や文化その他がごった煮となった社会というものの、その歪みなのかしれません。

雪は「白い悪魔」

2008-02-09 22:20:34 | 

今日はえらい雪ですね。
昼の一時ほどから降り始めた雪でしたが、今現在もしんしんと降り続いております。
今日はちょっと遠出をしていたので、その経過というものを見てはいなかったのですが、現時点で10cm以上は積もっていますね。

雪ってのは、昔はよかったですよ。
簡単な遊び道具が降ってくるようなもんですから。
それに、授業が潰れる可能性だってある。登校時間が遅くなったり、あるいは授業が外遊びに変わる可能性だってありました。
今でもこういうことがあるのかどうかは疑問ですが、そういう思いがけない楽しみがあったわけですね。
しかし、考えてみれば、その裏には大人たちの苦悩と労力があったわけで、今、雪かきをする身分となってみれば、雪はまさしく「白い悪魔」。
明日は仕事なんですけど、今から朝のことを考えると辟易しますね。


球春到来。

2008-02-08 22:35:17 | 
東京がネドベド獲得へ10億円補強に動く(日刊スポーツ) - goo ニュース

東京が、元チェコ代表の世界的なスターで、イタリア・セリエAの強豪ユベントスMFパベル・ネドベド(35)の獲得に動いていることが、7日に明らかになった。関係者を通じて下交渉に入っており、総額10億円超の補強費を投入する方針だ。ユベントスとの契約が6月末で切れるネドベドも、欧州以外でのプレーを視野に入れている。東京は、欧州主要リーグの移籍市場が開く7月にも、02ー03年度のバロンドール(当時は欧州最優秀選手)に正式オファーを出す。

サッカーにはとんと詳しくないわたしですが、ネドヴェド(1972~)の名前ぐらいは聞いたことがあります。
一人の選手の獲得に、10億円なんて贅沢ですよね。
横浜ベイスターズヴァンフォーレ甲府のような貧乏チームには、実にうらやましい話です。
しかし、だからといって金をたくさん持ち、スーパースター級の選手を多く抱えるチームを好きになるわけではありません。

チームやグループを好きになるには、二つの種類があります。
選手や構成員というような、個人を好きになるか。
それとも、団体それ自体を好きになるか。
どちらが正しいという話ではありません。
わたしはベイスターズのファンですけど、個人的には東京ヤクルトの宮本慎也(1970~)内野手のような、堅実な守備をする選手が好きです。
だからといって、東京ヤクルトのファンになるかといえば、それとはまた別の次元の話ですからね。
そう、個人を好きになるか団体を好きなるかは、全く別次元の話なのです。

しかし、好きな個人や団体が多ければ多いほど、スポーツは楽しくなるものです。
サッカー・野球は、ともに春季キャンプまっただ中…。もうすぐ球春がやってきます。

娯楽こそが技術の発展の燃料なり。

2008-02-07 21:40:00 | 

わたしは貧乏な人間ですから、あまり身にならぬものには見向きはしない質です。
身になる…というのは、形で残るってことで、要はストレス発散等の目的でお金を使うことをしないわけです。
交際費は別ですよ。
友達とカラオケに行くとか、旅行に行くとかは、それは別です。
ただ一人でカラオケいったりとか、漫画喫茶やインターネットカフェにいったりはしないわけです。
言うなれば、殻に閉じこもるってやつですね。
流行にも疎いですし、話題について行くことができないこともあります。

さて、昨日、実にン年ぶりにゲームセンターというところに行ってきました。
ショッピングセンターやボーリング場の遊技場とかゲームコーナーには、まぁぶらぶらするついでに行くことはありますが、メダルゲームやアーケードゲームをするという目的を持っていく、そういうところにはとんと行っておりませんでした。
こういうところも、わたしにとってはつまり一人でいくカラオケや漫画喫茶と同じわけです。
実に久しぶりにいきましたよ。すごい新鮮でした。
やはり、わたしはすっかりこういう場所の情勢に疎くなっておりました。
根本的なシステムは変わらないんですけどね。そのアレンジの仕方が巧妙になっていました。

特に目を引いたのは、バンプレストの『機動戦士ガンダム 戦場の絆』というアーケードゲームです。
詳しいゲームシステムはリンク先の内容を見てもらうとして、なんだか20年前の漫画の世界に現実が追いついてきたなぁと、感慨を持って見ておりました。
平成に入ってから、それまで考えはしたけど実現はまだまだ遠い未来だという技術が次から次へと実用化され、資本主義と自由主義経済の恩恵により、極めて簡単に、そして安価にそれらの技術を手にすることができるようになりました。
このゲームは、まさしくコミックボンボンで連載されていた『プラモ狂四郎』(クラフト団・著、やまと 虹一・著)やコロコロコミックで連載されていた『バーコードファイター』(小野敏洋・画)などを地でいくものではありませんか。
最近は、カードをフィールドの上に展開して遊ぶ『三國志大戦』シリーズ(SEGA)や『Baseball Heros』シリーズ(KONAMI)なども流行っているようです。
いずれ、この『戦場の絆』と『三國志大戦』の機能が合体して、実際に上記の漫画のような機械が登場することも遠くないことなのかもしれないと思ってしまいます。

とはいいつつ、やはりわたしは貧乏人間です。
横目で見ていただけなのですが、文化や科学技術というものは、結局生活と娯楽の発展がモチベーションになっているんですよねぇ。


高橋竹山の津軽三味線

2008-02-05 21:28:34 | 
昨日、暦の上では立春を迎えたわけですが、寒さは変わらず。
週末には雪の心配すらされております。

さて、わたしは実は津軽三味線が好きです。
別に引くことなどはできないんですけど、興味はありますし、何より聴くといい気分になれるんですよ。
学校では、音楽の時間に伝統音楽にふれる機会が設けられているはずです。実物に触れるというわけではなく、音に触れるってことですよ。
尺八・琴・太鼓などが代表格ですかね。
宮城道雄(1894~1956)や八橋検校(1614~1685)などの名前は、たぶん聞いたことがあると思います。
三味線の音色にはいぜんから触れてはおりましたが、三味線という楽器を意識して“鑑賞”したというのは、きっと小学校高学年から中学校ぐらいのときだったのではないでしょうか。
しかし、元来音楽が身につかず、興味もわかない質の人間でしたから、「ふーん、あぁそう」ぐらいの感想しかわきませんでした。
そんな印象が一変したのが、NTV系で放送されていた『知ってるつもり?!』を見ていたときでした。

高橋竹山(1910~1998)という人を知っているでしょうか。
若い人は知らないかもしれません。
出身は、青森県津軽地方。三歳の時、麻疹にかかって弱視となり、二十二、三歳のころには全盲となりました。
幼い頃から津軽三味線をたたき込まれ、門付芸人として生計を立てていきます。
戦争を機に、一時芸人の道から足を洗いますが、戦後に復帰。その障害者であり、極寒の津軽に生きる哀愁と、それでも生きるために引かれた音の力に圧倒され、瞬く間に多くの人の心を引きつけました。
その演奏は日本のみならず、世界的にも認められたようです。

この人のことを、『知ってるつもり?!』で扱っていたのです。
その放送を見ていて、その竹山の演奏する津軽三味線に圧倒されてしまったのです。
古い映像でテレビ越しでしたが、それまで聴いたどの三味線よりも圧倒的な「力」に感化されてしまいました。
感化されたといっても、まだ子どもでしたし、この感動をだれにどう伝えるべきかもわかりませんでしたから、しばらくそのままにしておいたのです。
働くようになって、ある程度はお金が動くようになりましたので、竹山が演奏する音が入ったCDを借りてきて、聞き入るようになりました。
竹山の音は、年を経てもわたしの心を揺るがします。いつ聴いても、元気にさせてくれるのです。

さて、今日は高橋竹山の命日。
じっくりとその音を楽しみたいと思います。