さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

播磨旅行記(6)

2008-11-30 21:18:47 | 旅行記

いよいよ、今回の旅行のメインである姫路城に登城します。
昨晩と同じく、大手門から入城します。三の丸広場を突っ切って、入城口へと向かいます。
さぁといって広げたのが『まっぷるマガジン兵庫』です。この雑誌の、姫路城ガイドに沿って観光・見学を行っていきたいと思います。
まず姫路城の玄関口、菱の門をくぐって入城。
多くの人たちは、菱の門からいの門へと直線でいってしまうのですが、わたしはガイドブックに沿って、左に折れて西の丸へと向かいます。

西の門は、先述の千姫の御殿があったところです。ここから、千姫の持参金で作ったといわれる化粧櫓に向かうんですけどね、今回はせっかくですので、百間廊下と呼ばれる長い廊下を歩いていくことにしました。
百間ですから、三十三間堂のちょうど三倍。一間は約1.82mですので、その百倍、約182mにも渡る非常に長い廊下ということになりますね。実際は、300mにも及ぶといいますから、渡りきるのは意外と長い時間がかかったと思います。
百間廊下といっていますが、実は西の丸長局といいましてね、奥方付女中の集団住居だったのです。今風にいえば、女の園だったわけですね。現代では、そんな女の園もどかどか歩いていきます。
百間廊下のいくつく先は、化粧櫓です。千姫がもってきた化粧料(持参金)で建てられたので、こういう名前がついたといいます。
何でも、当時姫路城がある姫山には神様をまつる社があったそうで、千姫はそこに毎日お参りに行っていたそうです。で、この化粧櫓はその中間地点にあたり、休憩所としておかれたそうです。
ちなみに、千姫の持参金は十万石と言われていますから、やはり家族共々千姫の安否をかなり気にしていたんでしょうね。

看板もなかったんですけど、将軍坂といわれるゆるやかな坂を登ります。
将軍坂とは穏やかではありませんが、何のことはない『暴れん坊将軍』の撮影がここで行われて、そう呼ばれるようになったそうです。
ところで、姫路城にはとにかくたくさんの門があります。その数、実に21。しかも、敵を分散させ、袋小路に追い込んだり、あるいは本丸までの到達時間を遅らせるために、どの門も工夫が凝らされています。
クロス瓦や姥が石などいくつかを見落としながらも、ようやく大天守へとたどり着きます。
大天守は計七階もある高いものです。いろいろ城を見てきましたが、こんなにでかい城を見たのは初めてでしたね。
岐阜城も大きかったですけど、まず岐阜城がのっかている稲葉山が大きいですから、別物ですね。
彦根城もこんなに大きくなかったです。あんなに階段を上りませんでしたからね。
中は、やはり資料の展示が主です。池田氏~酒井氏までの貴重な資料が多く展示されています。
しかし、そこは現存天守。建物自体が立派すぎる資料です。表の白壁とは打って変わって、内は重厚漆黒の木造。戦に備えた作りであることをまざまざと見せつけられます。
天守を支える心柱は、東西二本あります。天守自体の重さは実に約5700tもあるといいますので、それを支えるというのはかなりの大仕事ですね。しかし、昭和の大修理の折り、そのうちの西の柱が腐っていることがわかって、取り替えることになったそうです。
ところが、これが大事になってしまったんです。まず兵庫県内の神社のご神木に白羽の矢が立ちましたが、根本が腐っていたり、上部が折れていたりといろいろと不都合があって見送られました。
やがて、岐阜の山林でちょうどよさげな巨木を発見し、切り出しはうまくいきました。しかし、そのあまりの巨大さに運搬中に折れてしまったそうです。
途方に暮れてしまいましたが、その解決策としてその二つの巨大檜を組み合わせることに。
その檜を運ぶときは、姫路の大手通りをお祭り騒ぎで市民が引っ張っていったそうです。
うーん、いい話ですね。やはり、でかい城があると違いますね。

さて、最上階からの眺めは格別の一言です。殿様になった気分ですね。岐阜城からの眺めには適いませんが、それでもやはり城からの眺めはいいものです。
ところで、姫路城の最上階には、神社があるって知っていますか?
刑部明神を祭ったといわれる社があるんですよ。わたしは、水木しげる(1922~)先生が大好きですから「長壁」という妖怪が姫路城天守に住んでるという話を知ってはいたんですが、まさか刑部明神という神様だったとは驚きです。
長壁は、年に一度正月に、城主にしか姿を見せないという高貴な妖怪で、たいへんな人間嫌いだったそうです。
何でものちの創作ではないかという話ですが、そういう話ができる時点で姫路城がどれだけ知名度があるかってことですよね。
「何ぃ、あの姫路城にぃ?」って感じになるわけですよね。うーん、やっぱり違いますね。

登るのも大変なら、降るのも大変です。けっこう疲労困憊となって、天守をあとにします。
次は腹切丸という物騒な名前の曲輪です。本当の名前は、帯曲輪といいます。天守を人の頭に例えると、このあたりがちょうど帯びに当たるというのでそう呼ばれたそうです。
腹切丸という名前も、ただの例えです。しかも、何の根拠もないらしい。ただ場所が東の端で、隠してあるよう暗くて、じめじめした感じが切腹を連想させるというので、そういわれているそうです。
日本人がそんな連想で腹切なんて名付けるんですから、いわんや外国人をや。といったところでしょうか。
そして、終盤の目玉はお菊井戸。かの有名な「播州皿屋敷」の、あのお菊が放り込まれたという井戸です。
江戸番町が舞台の「番町皿屋敷」は、播磨の称である播州がなまったものだといいます。
物語のあらましは、リンク先を参照していただくことにして、話を進めましょう。
「まっぷる」ガイドの締めくくりは、菱の門をくぐったところにある三国堀です。

と、ここまで来て姫路城見学は終了。
ざっと二時間程度だったと思います。意外なことに、赤穂よりも短かった。
おそらく要因はですね。読むものが少なかったことです。ハコモノ施設好きな人間であるわたしは、遅読のくせに一から十まで読まないと気が済まない人間なので、必要以上に時間がかかってしまうんですよねー。

取りあえず、明日の最終回を目指しまして、今日はここまでです。
今日の一枚は『姫路城』です。うーん、白鷺城とはよくいったものですね。


播磨旅行記(5)

2008-11-29 22:27:18 | 旅行記

ようやく姫路に辿りつきました。さぁ夕食に行く前に、姫路城のライトアップを見に行こうという話になりました。
姫路城のライトアップは、おそらく一年中行われているのでしょうか。日没後、実に午前0時までの間行われているそうです。
まぁなぜ先にいったかといえば、まず、まさかそんな遅い時間までライトアップが行われているとは思わなかったですから、ごはんを食べてからだと間に合わないかと思ったこと。
そして、おなかも減っていなかったので、空かせるための軽い散歩のつもりでもありました。
駅から城までを直線でつなぐ大手前通りを歩いて、城が見えるところまでいきます。
いえ、まぁ至る所から城は見えるんですけどね。山梨でいう富士山みたいなもんです。ただ、富士山はきれいにライトアップはされませんが。
とにかく、姫路城が見えるところまで向かったわけです。
姫路城の周辺は広い範囲で環境が保護されているようで、城を凌駕する存在感を持つ建物はありません。暗闇の中にぼわっと現れる白壁映える姫路城の美しさは格別です。
近くに城見台公園というところがありましてね、その名の通りお城を眺めるにはうってつけの場所です。
それから、大手門が開門されていたので、曲輪内に入って、ライトアップされた姫路城を間近で見ることが出来ました。
離れた場所から見る城も格別ですが、見上げる城本体の美しさも筆舌に尽くしがたい。
姫路城への期待を膨らまして、今日の夕飯に向かうことしました。

今日の夕飯は、居酒屋です。
うおっとり』という、少し変わった名前のところですが、味は格別です。
桃太郎電鉄の姫路の物件といえば、まずはあなご寿司が浮かぶわけですが、その穴子寿司を食べました。
穴子なんか、回転寿司のものもなかなかですけど、それよりもはるかに上回るおいしさです。ふんわりやわらかくて、ふわーと消えてしまうようなうまさ。しっかりとしたうまみもあります。
穴子料理を二つも頼んでしまいました。それぐらいおいしかったですね。
あとおすすめは、竹筒入りのつくねがうまかったですね。味が濃厚。この一言につきますね。
わたしはお酒はあまり得意ではないんですけどね。せっかく瀬戸内の酒所に来たので、少しだけ飲みました。
とてもよかったです。満足満足。

それから、宿に戻って、今日は就寝です。

翌日、朝はホテルの朝食サービスを頂きました。
朝10時には、チェックアウト。荷物を駅のコインロッカーに預けて、向かうは姫路城。
天気はあいにくの空模様。すでにぽつぽつと雨が降り始めています。

姫路は、播磨国の国府でした。
戦国時代、播磨国は赤松氏・小寺氏の支配下にありましたが、姫路城を任されていたのは、のちに羽柴秀吉(1537~1598)の軍師となり、戦国両兵衛と呼ばれた黒田官兵衛孝高(1546~1604)です。
官兵衛は、早いうちから織田家に通じ、特に中国征伐の総司令官であった秀吉と懇意でした。やがて、秀吉の与力となって、信長(1534~1682)亡き後は豊臣家臣として大活躍します。
九州平定後は豊前国中津17万石を与えられ、関ヶ原の後は筑前国福岡52万石を与えられ、当時の覇者たちから畏怖される存在でもあったのでした。
黒田氏ののち播磨国姫路を与えられたのは、秀吉の正妻・おねの兄、木下家定(1543~1608)でした。
関ヶ原後、姫路に来たのは池田輝政(1565~1613)でした。以後、孫の光政(1609~1682)まで池田氏が平和のうちに治めたといいます。
姫路は交通の要衝です。戦略上も非常な重要地点。ここを外様の大名に治めさせるなどということは考えられず、姫路城に入ったのは徳川家譜代中の譜代である本多氏でした。
ここで登場するのが、豊臣秀頼(1593~1615)との悲恋で知られる千姫(1597~1666)です。
千姫は江戸幕府二代将軍、徳川秀忠(1579~1632)と信長の妹、市(1547?~1583)の娘である江与(1573~1626)の娘です。血統としては、申し分ないですね。
その血統を見込まれて、秀吉の愛息子である秀頼と結婚します。なんと、7歳! びっくりですね。しかし、ご存じの通り、豊臣氏は1615年の大坂夏の陣で滅亡します。
そのときは19歳だったのですが、祖父である家康(1543~1616)が不憫に思ってか、千姫を救出します。
秀頼と千姫の仲はとても睦まじかったといいますね。
その後、名槍・蜻蛉切で有名な本多忠勝(1548~1610)の孫である本多忠刻(1596~1626)に嫁ぎ、姫路城も千姫のために大がかりな改修が加えられたそうです。
千姫の話は、またのちに出てきますので、ここではこれぐらいで。
本多氏ののちは、松平氏を名乗る親藩および譜代である榊原氏などが治めましたが、いずれも長続きせず、最終的にはやはり徳川家譜代中の譜代である酒井氏が入り、以後幕末まで安定した治世が続きました。

以上が姫路城のあらましですが、こんなことを書いている余裕はないんですけどねぇ…。
とにかく、あと二回ぐらいでけりをつけるつもりですが…どうなることやら。
さて、今日の一枚は『姫路城ライトアップ』。夜景の写真を撮るのは、たいへん難しいですねぇ。でも、きれいな景色でしたよ。少しでも伝わればいいんですけどね…。


播磨旅行記(4)

2008-11-28 21:30:08 | 旅行記

本丸脇の清水門を通って、赤穂市立歴史博物館に向かいます。
市単位で歴史博物館を持つというのは、これはすごいことだと思うのですが、どうでしょうか。
少なくとも、甲府市には市立博物館などはないわけですからね。あ、市立動物園はありますけど。
こんなことをいっていますが、この翌日、姫路にいってさらにびっくりするんですが…。
やはり、ここでもフューチャーされているのは赤穂義士と塩です。ここでは特に、赤穂の塩に関することが細かに説明されていました。

赤穂の塩は、そりゃ有名ですよ。
上野介が内匠頭をいびった原因は、賄賂をくれなかったからだというのがよく聞く話ですが、中には赤穂独自の製塩法を教えてくれなかったからという話もあるそうです。
すでに弥生時代には製塩が行われていたといいますから、この地での製塩は大変に古い歴史を持っています。
大きく発展したのは、江戸時代のこと。
常陸国笠間からやってきた浅野氏は、大変な普請道楽だったようで、それまで質素だった造りの赤穂城に、五層もあるような身分不相応な大天守を作ろうとします。しかし、当然ながら財政に行き詰まり、工事は頓挫。大変な借金をこさえてしまいます。
そこで赤穂の名産品であった塩を専売品とし、流通経路も確保します。また製塩のための新技術も開発。一大ブランド化し、大きな富を得ることになったのでした。
赤穂の塩は、瀬戸内を抜けて沼津に至り、甲府にも届いていたそうです。
赤穂は海沿いにありながら、天気が晴れの日が多く、荒れることが少なかったために、塩を作るのに適していたそうです。
肝心の製塩法は、これが難しくてですね。いろいろ見てきて、すっかり疲れ果ててしまったわたしには、うまく理解できなかったんですよ。
えーと、まず海の水を砂地に溜めます。そしたら、その水を蒸発させて、塩を砂にまとわりつかせます。その塩のついた砂を鍋に移して水を注ぎ、非常に濃い塩水。これを鹹水というそうです。それにします。今度は鹹水のみを煮詰めて塩を得るんだそうです。
間違っていたらすいません。先に謝っておきます。すいません。
博物館では、こういう製塩の仕組みやそのときに使う道具が大量に展示されています。実におもしろいと思いますし、郷土の産業を理解するにはもってこいの施設ですね。

それから、赤穂はこういう土地柄ですから、地下から水をくみ上げると塩が混じってしまって飲み水には適さないそうです。
そこで浅野氏の偉いところは、清水を山の方から流して飲料水などに使うように上水道を整備したことです。
しかも、本来そのような上水道は城内にしか整備されないものだそうですが、なんと城下町一帯に整備し、領内各地の井戸から新鮮な水を飲むことができるようにしたんだそうです。
城下町を形成するにも必要なことでしたし、何より製塩は重労働。多くの働き手を集めねばならなかったのです。
赤穂の上水道は、日本三大に数えられているほど立派なものだったそうです。

あとは赤穂藩と忠臣蔵関連の資料です。書状などが展示されていました。
博物館ですから、企画展も開かれていましてね。江戸~明治期の広告に見る忠臣蔵ということで行われていました。
いや、非常に良かったですよ。赤穂らしいテーマと丁寧でわかりやすいキャプション。
非常にこじんまりとしてはいたんですけど、見応えのある展示だったと思います。

外に出れば、夕暮れ間近。別に急ぐ旅でもなく、ゆったりと歩いて赤穂駅へいきます。
適度にお土産をかって、赤穂を後にしました。
播州赤穂から相生を経て姫路へと向かいます。
さすが姫路。新幹線が止まるような大きい駅です。さすがに、新宿や東京駅と比べてはいけませんが、県庁所在地でもない都市の駅がこんなに大きいとびっくりしますねぇ。
規模としては、甲府よりもはるかに大きいです。やっぱ、大きい街は気持ちがいいですねぇ。
今回の宿屋は、「コンフォートホテル姫路」です。
駅前のビジネスホテルですが、非常に使い勝手がよかったです。朝食のサービスもよかったですよ。
料理がおいしい旅館やホテルもいいですけど、わたしはこういう気軽なホテルも好きです。
赤穂で少し歩きすぎまして、疲れました。一休みして、今日の夕食に出掛けることにしました。

四日目にしてようやく姫路入りです。
長かった…恐るべし、赤穂。そして、赤穂義士…。
今日の一枚は、そんな赤穂義士の筆頭である『大石内蔵助良雄像』です。撮影場所は、大石神社大石邸長屋門です。


播磨旅行記(3)

2008-11-27 20:37:04 | 旅行記

食事もそこそこに、今度こそ大石神社を目指します。
大石神社は、大石内蔵助邸宅跡に建てられた1900(明治33)年創建の神社です。
詳しいいわれは、リンク先を参照してもらうとしまして、主祭神は大石内蔵助以下四十七士と悲運の義士・萱野三平、浅野家三代、それから浅野家の後に藩主となった森家の祖先となっています。
神社なんていっていたので、まさか城郭内にあるとは思わず、少し迷ってしました。
まず圧巻なのはですね、神社の境内に入る前です。参道の両脇にずらりと四十七士たちの石像が並んでいるんです。
まだ新しいもののようですが、寄進なされた方の名前を見ると、どうやら義士のご子孫の方のようです。先祖伝来の名を名乗っている方もいれば、故あってか別姓の方もおります。
こう見ていって悲しいのは、一部の石像の寄進者が赤穂の企業やお店なんです。血脈が途絶えてしまったのか、ご子孫の方が見つからなかったのかはわかりませんけども。
一介の水呑み百姓を先祖に持つわたしから見ますとね、有名人を先祖に持つなんて実にうらやましい限りですねぇ。

そんな話はいいんです。
参道を歩きまして、境内に入ります。
大石神社の御利益は、何と言っても「大願成就」。受験合格から恋愛成就まで、大きめの願い事なら何でもこいやー、バッチコイヤーぐらいの勢いです。
大きな絵馬が掲げられ、何とひしゃくにも願い事が書いてあります。
そう、2009年ワールドベースボールクラシック日本代表投手コーチに就任した山田久志さんのご子息のものと思われるひしゃくがありました。
ああ、あと半年もないんだなぁと思うと、ぜひよい結果を残していただきたいと願って、そのひしゃくを借りまして手水を頂きました。
まずは拝殿にて賽銭を差し上げまして、お参りをいたしました。
時節柄、七五三でおしゃれをした小さい子どもたちがたくさん来ておりました。地元に根ざした神社なんだなぁと思いました。
おみくじもしましたよ。わたしは見たことないんですけどね、水みくじという不思議なおみくじです。神を水に浮かべると文字が浮かび上がってくるといいます。
結果は大吉でした。おお、なんかついているらしい。全然、そんな気はしないんですけどねぇ。
その後、義士宝物殿を見学。赤穂義士資料を中心とした本館と、森家の資料も展示してある別館を綿密に見ます。
花岳寺にあったものが、大石神社にもあったらどうしようなんて話をしていたんですけどね。何と、こっちにも大石内蔵助が振るったという采配があったんですよねー。
うーん、どっちも本物なんでしょうけど、討ち入りで活躍したのはどちらなんでしょう。
そうそう。本殿回りに忠臣蔵…というか、赤穂事件のあらましを絵と文で表わした、ものすごくわかりやすいキャプションが掲示してあるんですよ。
赤穂なんて、忠臣蔵に興味がある人ぐらいしか行かないでしょうが、非常にうまくまとめられていて、おさらいにはちょうどいいです。脇のエピソードも満載です。
境内をあっちへうろうろ、こっちへうろうろしながら、次にたどり着いたのは、義士木像奉安殿です。
その名の通り、大石内蔵助はじめ赤穂義士47名に主君・浅野内匠頭。そして、討ち入りを前に義と孝の狭間で苦悩し、自ら命を絶った48人目の義士・萱野三平の木像が納められています。
しかも、おのおのにすばらしく簡潔明快な解説文がついているんです。もうここを見れば、忠臣蔵が一通り理解できてしまいますよ。
花岳寺は江戸時代の作。こちらは、昭和28年義士自刃萬250年を記念して企画されたものです。もうそれそれはすばらしい、当代一流の彫刻家たちが腕を振るった木像が安置されています。
有名どころですとね、浅野内匠頭長矩の像を彫ったのは平櫛田中(1872~1979)です。
好きで「開運! なんでも鑑定団」なんか見ている人間ですからね。聞いたような名前もちらほらです。その道の人が聞いたら、バーローと叱られてしまいそうですねぇ。
中でも注目したのは、堀部安兵衛ですよ。
やっぱり、赤穂義士といえば堀部安兵衛武庸(1670~1703)じゃないですか。
だって、赤穂浅野家臣だったとはいえ、堀部弥兵衛金丸(1627~1703)の娘を妻に迎えて婿養子に入ったのは、内匠頭が刃傷に及ぶわずか七年前ですからね。生まれはなんのつながりもない新潟の新発田なんですよ。
命をかけられるものだろうかと、不思議に思ってしまいます。
まぁそんなふうに不思議に思うことは、すでに武士道というものを理解していないということなのでしょうが…。

ああ、いけない。大石神社で思わぬ長文を…。
大石神社は、それから国指定史跡である大石邸長屋門と庭園を見学して後にしました。
その後、赤穂城の本丸跡へと向かいます。
赤穂城は今、再建工事か調査のために一面のっぱらのようなっています。
赤穂城の縄張り…つまり設計をしたのは甲州流軍学者の近藤正純(1604~1662)です。
甲州流軍学はですね、その名の通り甲斐武田家の軍法を学問にまとめたもので、そうしたのは小畠景憲(1572~1663)という武田遺臣です。父と目されているのは、武田二十四将の一人、小畠昌盛(1534~1582)です。
近藤はその景憲の高弟に当たりまして、意外なところに山梨とのつながりを発見しました。
本丸はとても広くて、住居跡の部屋配置はとても興味深いものでした。天守台からの眺めもいいものでした。

さて、今日の一枚は『赤穂城本丸門』です。当時を偲ぶにふさわしい場所だと思います。
よもや赤穂でこんなにかかるとは…。やはり赤穂義士の存在は大きいということなのでしょうか…。


播磨旅行記(2)

2008-11-26 20:41:37 | 旅行記

息継ぎ井戸を後にして、駅前の通りから路地裏に入って、今度は花岳寺へと向かいます。
花岳寺は、代々の赤穂藩主の菩提寺であり、大石家代々の墓所でもあります。創建は1645年で、建てたのは長矩の祖父にあたる浅野長直(1610~1672)です。
赤穂義士の墓所といえば、江戸高輪の萬松山泉岳寺が有名ですが、実は赤穂にも墓所がありまして、それがこの台雲山花岳寺です。
解説してくれた方の話によれば、泉岳寺には骨が、花岳寺の方には髪の毛が納められているそうです。
山門をくぐってまず目につくのは、「大石内蔵助名残の松」です。今あるのは二代目だそうで、脇の休憩所には一代目の幹がおいてあります。樹齢などについてはわかりませんが、何でも内蔵助の母が亡くなった際に寄進したものだそうです。
それから、鳴らずの鐘というのもあります。

大石内蔵助ら赤穂義士が本懐…つまり、主君の死のきっかけとなった吉良上野介の首を討ち取ったのは、内匠頭が切腹し果てたその翌年、元禄15年12月14日(1703年1月30日) のことでした。
この時点で、赤穂義士は犯罪者となるかそうでないかは、実はぎりぎりのところでした。
当時、中国からもたらされた儒教の考えでは、忠義というものが尊ばれており、判断次第ではその忠義に免じて極刑は免れるかも知れなかったのです。
現に、のちの博物館の資料などによりますと、義士助命論者の方が多かったようです。
一方では、義に乗っ取っていようがいまいが、幕府の裁断を仰がず、私闘に及び殺人をおこなったことは違法行為であり、極刑は免れないという話もありました。
その裏には、赤穂義士を「忠義者」として死なせることは最大のはなむけである、という考えもあったようです。
かくして幕府は、被疑者被害者双方の面目が立つ論を採用し、翌元禄16年2月4日(3月20日)。赤穂義士は見事な切腹にておのおのの人生を閉じたのでした。

鳴らずの鐘の話は、その後日談。
赤穂義士切腹の話は、あまり間をおかずに播磨国赤穂にも届けられました。
その話を聞いた赤穂の町民はたいそう嘆き悲しみ、なぜか花岳寺の鐘を衝いて衝いて衝きまくったそうです。すると、驚いたことに、この鐘から音が失せてしまったというのです!
しかも、その間じつに50年あまり。
その50年の間、誰ともなく「ならずの鐘」と呼び始めたということです。
うーん、ミステリー

さて、境内の見学もそこそこに、義士宝物館と墓所を見ることにします。
花岳寺は赤穂藩歴代殿様の菩提寺です。つまり、普通の人はここにお墓を作ることはできません。殿様かその家来ぐらいしかないわけです。
ちなみに、赤穂藩の歴代藩主は、まず播磨一国の大名だった池田氏。
その後、常陸国笠間から入ったのが浅野氏でした。
浅野氏が三代で改易後、下野国烏山から永井氏。
最終的には、森氏が入って幕末へと繋がっていくのですが、松之廊下事件では赤穂藩が取り潰されたわけではなく、赤穂浅野家が潰されたんです。
まぁ考えてみればそうなんですけどね。
花岳寺を建てたのは、浅野さんだというのは先ほども書きました。永井氏はわずか五年の統治でしたので、実際にお墓があるのは浅野さんと森さんです。
国家老という重臣だった大石家もここにお墓があります。
宝物館はまさしくお宝がたくさん。浅野家ゆかりのものから、大石内蔵助が実際に振るった采配まで、浅野家断絶後に赤穂を治めた森家関連の貴重な資料まで、文化財がてんこ盛りです。
中でも、浅野家歴代藩主の肖像画は、本やテレビで見ることができる有名なものです。
それから、この寺には、およそ250年前に作られたという赤穂義士+萱野三平の木像があります。何でも、赤穂義士33回忌から作られはじめ、100回忌に完成したそうです。
実は、のちに訪れる大石神社にも木像があるんですが、そちらとはまた違った素朴な作りが昔を感じさせます。白装束をきた萱野三平が実にもの悲しい。
こういうものをじっくり見ていると、意外と時間がかかってしまうものですねー。

花岳寺を後にして、今度は大石神社を目指していきます。
が、折しも時は昼ということで、先にご飯を食べるかと言うことになりました。
ところが、どうも赤穂市の名物がいまいちわからない。赤穂義士と赤穂塩は、確かに全国に比類のない名産ですが、赤穂のグルメというと…という感じです。
大石神社は、赤穂城内の一角にあるのですが、大手門前に面白いのぼりを発見しました。
「討入そば」と書いてあります。
「討入そば」。
なんと軌新…いや、斬新なネーミング。赤穂銘菓の塩味饅頭の名店、巴屋本舗さんで食べることが出来ます。
なぜ、赤穂でそばなのか。

吉良上野介邸への討ち入り日時が決まりました。
奇しくも、月は違えど亡君・浅野内匠頭の命日である14日です。その日の夜、一同は吉良邸近くのそば屋の二階に集まりました。
表向きは火消し衆の会合ということになっていましたので、怪しまれぬよう火消し装束に身を包み、おのおのの武器はこもにくるんで見つからぬようにしてありました。
そこで最後の晩餐に成るかも知れぬ、今生の別れの酒宴を行い、縁起を担いで手打ちのそばを食したそうです。

以上が、赤穂でそばの由来、らしいです。
手打ちならぬ、討入そばが売られていたわけですね。
味はおいしかったですよ。
わたしは、うどんよりもそば派なので、おいしく食べられました。付け合わせで頼んだ元禄おむすびも、きびなごの煮付けなどもおいしかったです。

というわけで、今日はこのあたりで。
今日の一枚は、『大石名残の松(一代目)』。
このように、切られて赤穂のあちこちに安置してあるようです。


播磨旅行記(1)

2008-11-25 22:01:42 | 旅行記

さて、今日からまたヘタレウンコタレな旅行記が始まりますよ。
今回の表題は、播磨旅行記です。播磨というのは、旧国名ですね。兵庫県の西南部に当たりまして、中心都市は姫路です。兵庫第二の都市です。
主目的は、姫路城見学。白鷺城ともいわれる白壁の美しい不戦の城です。
それ以外は別に決まっておりません。「無計画、無問題」が、わたしが同行する旅の座右。
いえ、まぁいつも何かしら問題は生じるわけですが。

旅はいつものことながら、新富士駅から始まります。途中、静岡でひかりに乗り換え、そのまま相生まで行きます。
え、相生? なぜ相生? 姫路に行くのでは…とお思いでしょうが、一日目は別のところに行くと決めたのです。もちろん、出発前。新幹線の切符を買う直前です。
新幹線は、かなりの混雑。静岡で運良く座れたのはラッキーでしたが、浜松・名古屋と経るうちに、みるみる人が増えていきましてね。京都でがっさりと降りていったのです。新大阪でももっそりと降りて、新神戸に着く頃にはもうがらがらの状態でした。
恐るべし、秋の京都・大阪。

相生から、JR赤穂線に乗り込みます。
そう。一日目は、忠臣蔵でお馴染みの播州赤穂へと向かうのです。
子午線とたこの町、明石でもどうかなと思ったんですけどね。やはり、日本三大仇討ちにはかなわなかったです。日本標準時間よりも、忠臣蔵。つまり、地理よりも歴史ってことですねぇ。
さて、その赤穂線。混雑した新幹線から乗り換えると、そのまったり感がなんともいえず…。
里帰りと思われるキャリーバッグを引っ張る青年や、着物を着込んだ女性。スカートの下にジャージをはいた女子高生など、生活感漂う車内でした。

赤穂に降り立つと、そこはもう忠臣蔵一色。改札をくぐると、正面の壁には赤く堂々とした書体で、そこは白黒の町。至る所に、火事装束を着込んだ赤穂義士が立っております。
荷物をコインロッカーに預け、駅内の観光案内所で情報を集めます。ガイドブックとして、「兵庫まっぷる」も買っていたので、とりあえず道順としては、浅野内匠頭長矩や赤穂義士ら49人を弔っている花岳寺から大石内蔵助良雄宅跡を利用した大石神社、赤穂城趾を巡って、赤穂市立歴史博物館を見学するという、こちらも忠臣蔵一色のそんな観光計画。
駅前ロータリーには、来月14日に開催される赤穂義士祭の大きな垂れ幕が掲げられています。
とにかく、至る所に赤穂義士と塩味饅頭が溢れているのですが、その一部の名前がどうもおかしい。大星由良助義金とか塩冶判官高貞、高師直などです。
赤穂事件があったのは、これは事実なのですが、その事実が爆発的に広まる要因となったのはその赤穂事件を元にした演劇です。
元禄歌舞伎や人形浄瑠璃の代表的演目『仮名手本忠臣蔵』がそれです。
仮名というのは、義士47人といろは47文字をかけたしゃれ。忠臣蔵は、忠実な家臣=大石内蔵助を表し、登場人物は偽名を使っているものの題名を見れば、赤穂事件をモデルにしていることが瞭然となるような隠れたメッセージになっているといいます。
そういうわけで、赤穂で飾られているものには、史実の赤穂事件と演劇の忠臣蔵がごっちゃになっているような印象です。
駅前の通りを南に下っていくと、「息継公園」という不思議な名前の公園が見えてきます。
ここにあるのが、俗に「息継ぎ井戸」といわれる名所になります。

元禄14年3月14日(1701年4月21日)。五代将軍・綱吉(1646~1709)の御代。
播磨国赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(1667~1701)が、高家旗本である吉良上野介義央(1641~1703)に対して刃傷に及ぶという事件が起こりました。
何分、時と場所が悪かったのです。折しも、京から朝廷の使いが江戸に下向しており、江戸城本丸御殿松之廊下という将軍のお膝元。
内匠頭は「私的遺恨」と訴えたが、上野介は「覚えていない」と主張したそうです。
とにもかくにも、朝廷の儀式がおじゃんとなり、城中が血で汚されたというので、綱吉は大変に怒り、内匠頭には即日切腹。上野介は、やり返さなかったことがむしろよかったということでお咎めなしとなりました。
赤穂藩江戸屋敷にいた早水藤左衛門満尭(1659~1703)と萱野三平重実(1675~1702)は、内匠頭の弟である大学長広(1670~1734)の書状をもって、620kmの距離をわずかに四日で走りきって、国を預かる大石内蔵助良雄(1659~1703)に急を知らせたのでした。

これが忠臣蔵の序盤のあらましですが、この息継ぎ井戸は赤穂城まであと少しと迫った急使の二人が、息を整えるために立ち寄ったので、息継ぎ井戸といわれているそうです。
走ったといっても、別に馬とか徒歩ではなく、五人担ぎの特急仕様の籠だったわけですが、それでもかなりの振動とストレスですからね。大変だったと思います。

というわけで、今日の一枚のコーナーです。
毎度お馴染み、駅看板シリーズ。今回は『相生駅看板』です。
なぜ、「播州赤穂」じゃないかって? 撮るのを忘れたからですよ。


姫路にいってきます。

2008-11-21 21:33:01 | 

さて、明日から三連休ですが、この三連休を利用して旅行に行ってきます。
残念ながら、前に話をした信州上田・小布施ではないのですが、じゃあどこかといえば播州姫路です。
実は、国宝四城の筆頭とも言える姫路城が、2009年から2014年、実に5年間に渡って「平成の大修理」の実施が行われるというので、じゃあ今のうちに見に行こうじゃないかという話になったのです。

国宝四城といえば、一般的には姫路・松本・犬山・彦根の四つです。
去年の夏には彦根城を見てきましたし、松本城には行ったことが以前にあります。
これで姫路に行けば、四つのうちの三つを制覇したことになります。
しかも、犬山城は愛知県ですから、国宝四城を制覇する日もそう遠くなさそうです。

また帰ってきたら、うんこたれな旅行記が続くことになると思いますが、よろしくお願いします。


宇宙の落とし物

2008-11-20 22:22:24 | 
飛行士が船外活動中に宇宙に「落とし物」=エンデバー(時事通信) - goo ニュース

打ち上げられた米スペースシャトル「エンデバー」の宇宙飛行士が、18日の船外活動中に修理道具の袋を落としてなくしてしまった。

こういうのって、スペースデブリっていうんですよねぇ。
危険っていいますよね。じょじょに地球の引力に引かれて加速がついて、人工衛星などに衝突すると被害を及ぼすなんて話を聞きました。
うまく大気圏で消滅できればいいんですけど、ヘタすれば地上にまで届いてしまうそうです。
よく宇宙のことはわからなしですし、その他の物理学についても知っているのは平行四辺形の法則みたいなやつぐらいですから、もし間違っていたら、申し訳ない限りです。

後々のことを考えれば、この落とし物ってのはかなりの事件ですよね。
NASAでは、事故に備えて行方を追尾するということですので、一手間がかかってしまうことになりますものね。
始末書とか書くんでしょうかね。いや、もっと具体的な懲罰がつくんでしょうか。
宇宙でも地上でも、落とし物なんかしないに越したことはありませんねぇ。

女性プロ野球選手、誕生!

2008-11-19 21:18:07 | 野球
初の女性プロ野球選手へ 関西独立L吉田さん指名(共同通信) - goo ニュース

来年4月に開幕する野球の関西独立リーグのドラフト会議が16日、大阪市内で行われ、神奈川・川崎北高校2年の吉田えりさんが神戸から7位で指名された。「プロで輝きたいなという気持ちがあった。身を引き締めていきたいと思う」と入団する意向。
日本では50年から2年間、女子のプロ野球リーグが存在したが、男子選手に交じってプレーする初の女性プロ野球選手が誕生する。


女性のプロ野球選手といえば、フィクションの世界ではけっこういます。
水島新司(1939~)さんのマンガ、『野球狂の詩』に出てくる、水原勇気投手。
同じく『ドカベン スーパースターズ編』では、野手としてマドンナ選手が出てきています。
ゲームの世界では、コナミデジタルエンタテインメントの『実況パワフルプロ野球』シリーズには、早川あおい・橘みずきという軟投派の投手と、六道聖という捕手が出てきます。

フィクションが面白いのは、それが少しあり得ないことだからです。
わたしよりも運動神経や優秀な女性の方はたくさんいますが、それでもプロという厳密な世界で男性と同じ土俵に立つというのは、なかなか厳しいことです。
スポーツが男女別に分かれているのも、むしろ公平な観点からでしょう。
それが無謀なことであるかどうかは、また別問題です。
ですが、もし本当にフィクションのようなことが起きるのであれば、それは愉快痛快です。
バッタバッタと…とはいかないでしょうが、女性一人に打ちあぐねるなんて、すごいことではないですか。
ぜひ、がんばっていただきたいと思います。

あー、山梨にもプロ野球チームできないもんですかねぇー。

ガチャピンさん、ヒマラヤ登頂!

2008-11-18 20:26:04 | 

そういえば、今ガチャピンさんがヒマラヤ登山に行っているんですよ。

ガチャピンといえば、稀代の五歳児ですね。世のスーパーチルドレンたちが束になってかかっても、ガチャピンの偉大さには勝てません。
まぁ彼が人間ではなく、恐竜だと言うことは特筆すべきですが、果たして宇宙にまでいった五歳児が世の中にいるでしょうか。
同世代といえば、筆頭にあがるのは『クレヨンしんちゃん』こと野原しんのすけくんですが、彼もまぁいろいろな経験を積んでいますが、さすがに宇宙やヒマラヤまでにはいっていません。

そんなガチャピンさんがヒマラヤのヤラピーク(4700m)に向かったのは、テレビ番組のためでもあるんですけど、その相方をつとめているのがNice-Guyことダンテ・カーヴァー(1977~)さんです。
その様子は、ガチャピンさんのブログで本当の相方であるムック氏が載せてくれています。
やはりヒマラヤ。かなりの苦労をしているようですが、どうやら、ヤラピーク登頂をなしたようです。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
ギネスもんじゃないですか。公称5歳児ですからね。5歳児がヒマラヤを登り切るなんて、すごいことですよね。
あとは無事に下山するだけですが、下山するときが一番大変らしいですね。
気をつけて下ってきていただきたいですね。

え? 本当にすごいのは、中の人ですって?
さぁ…なんのことやら…わたしには、とんとわかりません…。