さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

吉良上野介の命日

2008-01-31 21:34:24 | 
昨日が赤穂浪士討入の日ですから、必然的に今日が吉良上野介義央(1641~1703)の命日となります。
元禄15年12月14日深夜、日をまたぐかどうかという時間帯に踏み込んだそうです。
テレビドラマなどを見ている限り、どうやら赤穂浪士四十七士が義央の首を泉岳寺へ届けたのは夜明け間近か、明けてまもなくという感じですから、5~7時間ぐらいかかったってことなんでしょうかね。

まぁその話は昨日もしたんでいいとしましょう。
吉良義央の話をしましょう。
吉良氏といえば、名門中の名門です。なんと言っても、足利氏の支流ということですから、その格の高さたるや徳川氏の母体である松平氏すらも凌駕すると言えます。
今の愛知県西尾市、あるいは幡豆郡辺りを領有したようです。
高知にも、土佐七雄に数えられる吉良氏がありますが、三河吉良氏とは関わりがないようです。
戦国時代中期には徳川氏に接近して、旗本として仕えるようになりました。
義央が討たれ、その跡継ぎである孫・義周(1685~1706)の代になると、討ち入り時の対応の不届きを咎められ、改易の憂き目に遭います。
しかし、義央の弟の孫に当たる吉良義孚(1711~1766)が家名を再興し、現代に至るようです。

ところで、吉良氏はその所領である幡豆郡吉良では、農政に力を注いだ名君といわれているようです。
実際、吉良義央がその領地でどんな施政をしたのかはわかりませんから、軽く悪役だの名君だのといえません。
果たして彼はどんな人物だったんでしょうね。こういうときにタイムマシンでもあれば便利だなぁと思いますね。
仇討ちに巻き込まれるのはごめんですけど。

仇討ち譚の謎。

2008-01-30 22:04:38 | 

日本人は「仇討ち」が好きです。
いや、日本人と限定してしまうとちょっと語弊があるかも知れません。しかし、とにかく日本人はそういう話が好きなのです。
最愛の人の命を奪われ、その敵をとるために敵陣に切り込むというのがアメリカ映画やテレビドラマなどのよくあるパターンですが、敵を倒す旅に出るための大義名分としては、これほど簡潔な理由はなかなかないでしょう。
しかし、日本人が長い間好んでいる仇討ち譚は、それとは似て非なるものではないかなと思います。

日本三大仇討譚といえば、年代が古い順に申しますと、まず1193年(建久4年)の曾我兄弟の仇討ち。
曾我祐成(1172~1193)と時致(1174~1193)の兄弟の、父を殺した黒幕である工藤祐経(?~1193)を討つ話ですね。
次が、1634(寛永11)年、鍵屋の辻の決闘で名高い伊賀越えの仇討ち。
又右衛門こと荒木保知(1599~1638)が有名ですが、保知はただの助太刀。実際の仇討ちは、義理の弟にあたる渡辺数馬(?~?)です。これも仇は弟を殺した河合又五郎(?~1634)でした。
保知がお膳立てをして、数馬が仇を討ったという形なんでしょうか。

そして、最後に1703(元禄15)年の元禄赤穂事件。
仇討ちは、播磨・赤穂藩家老、大石内蔵助良雄(1659~1703)をはじめとする四十七士によって行われました。
たぶん、史上最も有名な仇討ち譚でしょう。他の二つの仇討ち譚と違うところは、肉親を殺されたわけでもなく、恋人でも親友でもないところですよね。
また、敵である吉良上野介義央(1641~1703)が直接、彼らの主君・浅野内匠頭長矩(1667~1701)に手を下したわけではなく、恨みを晴らせずに死んでいった主君の意志を引き継ぎ、果たしたという点も大きな特徴です。
ただの仇討ち譚で片付けるには、いささかもったいないように思います。
とても巧妙に練られたサスペンスのようですよね。事実関係はどうであったにしろ、これが本当にあった事件だというのは疑いようがないのですから、まったく驚かされます。

さて、これらの仇討ち。その裏には政治に絡む黒い噂があるようです。
曾我兄弟の話の裏には、鎌倉幕府の実権を狙う北条一族の謀略。
伊賀越えの話には、立役者・荒木又右衛門の死の謎。
赤穂事件では、幕府の不当な裁判への暗黙の抗議。
など、仇討ちが政争の具に使われたのか、それとも仇討ちと民衆の不満や憶測が結びついただけなのか。
わからぬところではありますが、こういった謎がこれらの仇討ち譚を魅力的なものにする一因なのだろうと思います。

さて、なぜこんな小難しい話をしているかというと、今日1月30日は赤穂浪士の討ち入りがあった日だからです。
え、名高い12月14日ではないのかって?
それは旧暦なんですって。新暦に換算すると、1703年1月30日が討ち入った日らしいですよ。


携帯を忘れてきました。

2008-01-28 21:39:08 | 
どこにって?
仕事場に、です。
仕事場に携帯を置いてきてしまったんです。
仕事にでかけるときに家に忘れてきたって話はよくありますし、わたし自身もよくやる話なのですが、仕事場に忘れてきたってのは初めてです。

今夜半から、山梨では雪が降るなんて話なんですが、明日の朝、何か連絡入ってきたらどうしましょ。
確かに、寒いんです。どうしましょうかね。

携帯を仕事場に忘れてくるなんて、ヘタレ男、ここに極まれり…って感じがしますね。


遠江県と駿豆県

2008-01-27 21:30:58 | 
これはわたしが常々思っている冗談です。

静岡って広いじゃないですか。
令制国でいえば、実に遠江・駿河・伊豆の三国が統合されたものですから、東西に長い県となりました。
おかげで面積7328.52平方キロで13位、人口は379万人で10位(2005年度)と大きい県となりました。
どういう経緯で上記三国が合併されたのかわかりませんが、隣国である山梨(面積約4201平方キロで32位、人口は88万人で41位)から見れば、やはり何となくですが「ずるいなぁ」と思わずを得ません。
だって、大都市の目安となる政令指定都市が、静岡市(人口約70万人)と浜松市(人口約81万人)の二都市あるんですよ。
ずるいと思いませんか。
一府県で二都市以上政令指定都市が存在するのは、神奈川・大阪・福岡ぐらいなものですよ。
この中で静岡ほどの面積を有する府県は、ありません。
この三府県中、一番広いのは福岡ですが、約4838平方キロで29位。
神奈川は約2415平方キロで43位。大阪に至っては、約1892平方キロで46位という広さです。
つまり、人口にしろ面積にしろ、静岡のように恵まれている都道府県はなかなかないのですよ。

だから、わたしは思っているのです。
静岡分割案を考えるのです。
まぁ単純に遠江・駿河・伊豆とわけると、どうにも伊豆のバランスが悪くなるんで、ここは遠江を単独で立ってもらうとして、遠江県を設立。
駿府と伊豆で合併してもらって、駿豆県(すんず・けん)を作るってのはどうでしょうかね。
まぁ…誰に話しても、当然、一笑に付されるわけですがね。

ちなみに、これはあくまでも冗談ですからね。
経済とか社会とか一切何にもこれっぽちも考えておりません。
あしからず…。

14年前の手紙を届けたカレイ

2008-01-26 21:13:23 | 
14年前の風船手紙、底引き網漁で水揚げのカレイがお届け(読売新聞) - goo ニュース

千葉県銚子市の銚子漁港で24日、水揚げされたサメガレイ(体長50センチ)の背中に、14年前、川崎市内の小学生(当時)が風船で飛ばした手紙が張り付いているのが見つかった。

不思議なこともあるものですね。
14年前の手紙が、深い海の中から見つかるなんて。
いろいろと偶然が重なったのでしょうが、しかし普通の学校で配られた防水加工もされていない紙が、14年も海中で形をとどめられるとは思わないですし、サメガレイの体の粘液に保護されていたというのも、なんとなく納得しづらいですね。
わたしなんかはすぐにオカルト現象の類を連想してしまうのですが、実際不思議な偶然の積み重ねですからね。
オカルト現象の一つ…といっても、おかしくないんじゃないかと思います。

このカレイは結局食べられてしまう運命にあるようですが、それもまたしょうがないですね。
きっと永久にこの謎は解かれることはないでしょうが、末永く語り継がれてほしいエピソードですね。

富士山が見えぬ場所

2008-01-24 22:03:44 | 
昨日、甲府が盆地であるという話をしました。
ついでに、といってはなんですけど、我が家から見る富士山の話をしましょう。

山梨といったら、富士山と答える人は少ないかもしれません。
富士山は山梨と静岡にまたがっております。
河口湖をはじめとする富士五湖は山梨にありますし、近頃うどんで有名な富士吉田も山梨の一都市です。
まぁ、やきそばの富士宮ややぶきた茶の富士は静岡なんですけどね。
そんなわけで、富士山はまぁ感覚的には半分は山梨にあります。
そして、山梨は静岡と違って、非常に狭い県です。
つまり、基本的には、山梨県全域から富士山は観測することができるはずなのです。
正月や冬場などでは、「ダイヤモンド富士」が見えるといって多くのファンがやってくるようです。

ところで、山梨はその総面積の実に8割を山地が占めるという、まことに難儀な土地です。人々は山と山の間の、ちょっとした平地に居を構え、集落を結んで住んできたのです。
ということは何が言いたいかというと、平地に住む人間がもし富士山を見ようとしても、間にある程度高い山があると見えなくなってしまうんです。
甲府と富士の間には、御坂山地という険しい山地が連なっております。
最も高くて1793mの御坂黒岳をはじめ、1000から1600mほどの山々が乱立する御坂山地は、山梨でいう国中と郡内を分かつ…つまり、文化圏を隔てるほどの影響力を持つわけです。
甲府の我が家から富士山を見る死線を遮ることなど、造作もないこと。
特に我が家がある地域は、甲府では特に標高が低いところなので、富士山なんか見えません。
天気がいい日に、頭がちょっとのぞく程度。
ここは本当に富士山があるという山梨なのか…と、目を疑いたくなるような光景なのです。
ちなみにいっておきますが、こんなところは甲府では珍しいですよ。
自転車で5分もいけば、御坂山地を凌駕する富士の雄姿を拝むことができるのです。

富士山が見えぬといえば、都留市からも富士山が見えませんでしたね。
意外と見えぬ場所がある富士山です。

雪の日

2008-01-23 21:42:23 | 
久方ぶりに、甲府では雪が積もりました。
甲府は盆地です。甲府の盆地といえば、日本でも著名な盆地であろうと思います。
太宰治(1909~48)が「シルクハットを逆さまにした帽子の底」と評した甲府盆地は、典型的な内陸性気候に区分される過酷な土地でもあります。
夏冬の寒暖の差は激しく、夏は全国でも一、二を争うような暑さとなり、冬も有数の寒さとなります。
「甲斐の底冷え」といわれます。
底冷えとは、晴れた弱風の日に足下の空気が低くなることをいいます。
周囲を高い山に囲まれているわけですから、降水量はそれほど多くはありません。
みな山に降るわけですね。そうすると、雨水は斜面を駆け下ります。自然、急流が増えて、川の氾濫が起きやすくなるわけです。
まぁこの雪も、いずれは甲府に住むわたしの口になるだろうことを思えば、なんてことはありませんね。

甲府はもともと雪が少なくて、わたしが住むところでは一年に一~二度雪が降る程度ですかね。
なので、今年はもう降らないんじゃないかと思います。
静岡で雪が降っても、甲府では降らないというのはよくあることです。
台風も、うまい具合に山梨を避けていくこともしばしばです。
それはそれでいいことなんですけどね。ちょっと寂しい気持ちになることもありますが。
しかし、この盆地がなければ今の山梨は存在しないわけで、そう考えると盆地があってこその山梨、山が連なってこその山梨、海がないからこその山梨と、そう思わざるを得ません。

歴史を巡る

2008-01-22 22:05:56 | 
わたしのヘタレな文章を読んでいれば、どうやらわたしが歴史が好きであるということはお分かりになるかもしれません。
正解です。
わたしは根っからの文系人間で、国語・社会以外はからっきしというダメ人間でした。
しかも、同じ文系教科でも英語はまったくどうにもならないという男でもありました。

そんなわけで、時々ふと思い立って歴史的建造物の見学に赴くことがあります。
前の日曜日も「おお、山梨県立博物館にでも行くか」と思い立って、どうせ御坂に行くんならちょっと遠出して、前々から訪れてみたいと思っていた『勝沼氏館跡』にでもいってみるかという気になりました。
勝沼氏館跡は、今は甲州市の一部となってしまった勝沼町にある史跡です。
勝沼に領地があったから「勝沼氏」を名乗るとは、何とも短絡的な一族のようですが、実はその勝沼氏とは、誰あろう武田一族なのです。
どういう家系かといえば、甲斐の虎・武田信玄(1521~1573)の叔父にあたる一家なのです。
もっと簡単に言えば、信玄の父・信虎(1494~1574)の弟である勝沼信友(?~1535)の家系です。
主に郡内小山田氏や関東方面への抑えとしての役割を担ったようです。
武勇に優れ、まさしく兄・信虎の片腕として活躍した信友でしたが、北条氏との戦いで討たれます。
信友は、信虎の同母弟らしいですから、誕生年を推測してみても四十前後の享年となるでしょう。若くして亡くなったようですね。
その後、信友の家督を継いだのが、嫡男・信元(?~1560)でした。
父譲りの武勇で従兄弟・晴信に協力した信元でしたが、どうしたことか武田領に侵略を企てた長尾家の謀略に乗ってしまい、謀反を疑った信玄により攻め滅ぼされます。
いや、真実はどうだかわかりませんけどね。
年代的には信玄と同世代ということになりますから、きっとそこらへん、複雑な感情が絡まってしまったんだろうと、そんなふうに思います。
こうして、勝沼氏はわずか二代で断絶。信元の嫡男は相模に逃れ、僧になります。
その子孫の方はまだ続いているようですから、人の歴史ってのは深いものです。

さて長くなりましたが、その勝沼氏の館跡にいってみようと。
大して下調べもせずにぶりぶりと車を走らせたのですが、勝沼ってのは観光客に優しくない町だなぁと痛感しました。
まず、看板がないんですよ。
あるのは民間業者のワイナリーとかテーマパークなどの案内板ばかり。
これだけモータリゼーションが進んだ山梨で、この案内板の少なさは致命的です。
あっても距離とか矢印がないもんですから、とんと見当違いの角を曲がってしまうなどするわけです。
20分ぐらい狭い勝沼の町を右往左往して、ようやく到着しました。
確かに史跡としては整備されておりましたが、半分は公園です。遺構はよく残っていたのではないでしょうか。
わたしにはよくわかりませんが、ここに工房があったのかとか、おお、雪隠跡なんて珍しいなぁなどと感慨ふけりながら、20分ほどぶらぶらと見ていた気がします。

まぁ勝沼氏館跡はこれだけなんですけどね。
その後、御坂の山梨県立博物館で館長・平川南(1943~)さんの館長トークを聞いたり、「新春特別企画展・かいじあむとっておきの収蔵品展」を見て帰ってきました。
館長トークは、おもしろかったですよ。たまたま行ったらやっていただけなんですけど、聞けて良かったですね。
今は社会人ですからね、相手が何を狙って話をしているのかを考えながら聞くことができました。
先生が、どういうテーマを伝えようとしているのかを念頭に置いて聞けば、講義ってのはわかりやすいもんなんだなと痛感しました。
大学や高校の頃、この悟りを開くことができていれば、学問生活の充実度が大きく変わっただろうなぁと思います。
その点、テーマの設定や講義の仕方は大変すばらしかったです。
企画展の方は、まぁ企画展とはいっても「収蔵品展」ですから。しかし、普段は見られない品々ばかりでしたからね。
いい品を見ることができたと思います。

こういう歴史にふれることは、わたしにとってはストレスの発散です。
ストレスの発散てのは、ようは好きなことを好きなようにやることなんですよね。
だから、こういう一見しょうもない体験がストレスの発散になるということは、わたしは歴史が好きなんだなぁと思うんです。

好きな中華まんの具。

2008-01-20 21:02:27 | 
ということで、わたしが好きなのはカレーまんですね。

カレーまんは好きなんですけど、食べる回数がそれほど多くないんですよね。
中華まんを食べる機会が少ないわけではないんですよ。ただ、カレーまんを食べる機会があまりないんです。
というのは、わたしが食するのは電子レンジでチンして食べるような感じの中華まんが多いんですが、たいてい手に入れることができるのは肉まんかあんまん、ちょっと変わり種でピザまんといった程度。
つまり、カレーまんを食べようと思ったらコンビニに走るしかないわけですね。
だから、好きなのはカレーまんなんですけど、食べるのは一ヶ月に一度ぐらいですかね。
中華まんを食べる機会はけっこうあるんですけど。残念ですねぇ。

誰か、カレーまんがうまいっていう店とか知らないですかね。

振袖火事の日。

2008-01-19 00:36:25 | 
今日は、「振袖火事の火」だそうです。

振袖火事は別名で、通常、日本史などでは明暦の大火といわれております。
明暦3年1月18日(新暦1655年2月22日)午後二時、本郷から出火した火事は一時沈静化します。
しかし、その沈静を見計らったかのように、今度は小石川から火が立ちます。
その後、麹町からも立て続けに火が出ます。
こうして沈静化しては出火し、出火しては沈静を繰り返して、江戸の実に六割を焼失したという振袖火事。
死者は、実に3万人から10万人といわれておりますから、恐ろしい出来事です。
原因はよくわかっていないそうですが、放火という説もあるそうですから、ますます恐ろしく思います。

まだまだ火事の多い時期が続きます。
火の取り扱いには、心して取り組みたいと思います。