わたしのヘタレな文章を読んでいれば、どうやらわたしが歴史が好きであるということはお分かりになるかもしれません。
正解です。
わたしは根っからの文系人間で、国語・社会以外はからっきしというダメ人間でした。
しかも、同じ文系教科でも英語はまったくどうにもならないという男でもありました。
そんなわけで、時々ふと思い立って歴史的建造物の見学に赴くことがあります。
前の日曜日も「おお、
山梨県立博物館にでも行くか」と思い立って、どうせ御坂に行くんならちょっと遠出して、前々から訪れてみたいと思っていた『
勝沼氏館跡』にでもいってみるかという気になりました。
勝沼氏館跡は、今は甲州市の一部となってしまった勝沼町にある史跡です。
勝沼に領地があったから「勝沼氏」を名乗るとは、何とも短絡的な一族のようですが、実はその勝沼氏とは、誰あろう武田一族なのです。
どういう家系かといえば、甲斐の虎・武田信玄(1521~1573)の叔父にあたる一家なのです。
もっと簡単に言えば、信玄の父・信虎(1494~1574)の弟である勝沼信友(?~1535)の家系です。
主に郡内小山田氏や関東方面への抑えとしての役割を担ったようです。
武勇に優れ、まさしく兄・信虎の片腕として活躍した信友でしたが、北条氏との戦いで討たれます。
信友は、信虎の同母弟らしいですから、誕生年を推測してみても四十前後の享年となるでしょう。若くして亡くなったようですね。
その後、信友の家督を継いだのが、嫡男・信元(?~1560)でした。
父譲りの武勇で従兄弟・晴信に協力した信元でしたが、どうしたことか武田領に侵略を企てた長尾家の謀略に乗ってしまい、謀反を疑った信玄により攻め滅ぼされます。
いや、真実はどうだかわかりませんけどね。
年代的には信玄と同世代ということになりますから、きっとそこらへん、複雑な感情が絡まってしまったんだろうと、そんなふうに思います。
こうして、勝沼氏はわずか二代で断絶。信元の嫡男は相模に逃れ、僧になります。
その子孫の方はまだ続いているようですから、人の歴史ってのは深いものです。
さて長くなりましたが、その勝沼氏の館跡にいってみようと。
大して下調べもせずにぶりぶりと車を走らせたのですが、勝沼ってのは観光客に優しくない町だなぁと痛感しました。
まず、看板がないんですよ。
あるのは民間業者のワイナリーとかテーマパークなどの案内板ばかり。
これだけモータリゼーションが進んだ山梨で、この案内板の少なさは致命的です。
あっても距離とか矢印がないもんですから、とんと見当違いの角を曲がってしまうなどするわけです。
20分ぐらい狭い勝沼の町を右往左往して、ようやく到着しました。
確かに史跡としては整備されておりましたが、半分は公園です。遺構はよく残っていたのではないでしょうか。
わたしにはよくわかりませんが、ここに工房があったのかとか、おお、雪隠跡なんて珍しいなぁなどと感慨ふけりながら、20分ほどぶらぶらと見ていた気がします。
まぁ勝沼氏館跡はこれだけなんですけどね。
その後、御坂の山梨県立博物館で館長・平川南(1943~)さんの館長トークを聞いたり、「新春特別企画展・かいじあむとっておきの収蔵品展」を見て帰ってきました。
館長トークは、おもしろかったですよ。たまたま行ったらやっていただけなんですけど、聞けて良かったですね。
今は社会人ですからね、相手が何を狙って話をしているのかを考えながら聞くことができました。
先生が、どういうテーマを伝えようとしているのかを念頭に置いて聞けば、講義ってのはわかりやすいもんなんだなと痛感しました。
大学や高校の頃、この悟りを開くことができていれば、学問生活の充実度が大きく変わっただろうなぁと思います。
その点、テーマの設定や講義の仕方は大変すばらしかったです。
企画展の方は、まぁ企画展とはいっても「収蔵品展」ですから。しかし、普段は見られない品々ばかりでしたからね。
いい品を見ることができたと思います。
こういう歴史にふれることは、わたしにとってはストレスの発散です。
ストレスの発散てのは、ようは好きなことを好きなようにやることなんですよね。
だから、こういう一見しょうもない体験がストレスの発散になるということは、わたしは歴史が好きなんだなぁと思うんです。