書簡というのは、今では当たり前のツールとなりつつあるメールというものとは違いますね。
どういうことかといえば、メールというのは会話的で、書簡というのは非会話的ということです。
俗に、コミュニケーション手段といわれているものは、会話と書簡という大まかに二つの方法があるように思います。この会話と書簡を両極端なものだとすれば、電子メールという方法は、ちょうどその中間ではないかという気になりませんか。
例えばの話をしましょう。
昔から愛の告白といえば、直接会って口で気持ちを伝えるか、それとも、手で書いた書簡という形で気持ちを伝えるかという方法ではないでしょうか。口で伝える場合、100歩譲って電話でもよいことにしましょう。
しかし、この二つの方法を正攻法だとすれば、電子メールで気持ちを伝えるということは、今でも否定的に考える人が多いように思います。
感情を率直に吐露する会話という手段でもなく、理性により感情に芸術性と論理性を持たせる書簡という手段でもないというのは、ある意味ではとても卑怯に映るようです。
なぜ卑怯と映るのかと考えてみれば、やはり電子メールが会話や書簡の合いの子のような、どっちつかずのコミュニケーション手段だからという気がします。
会話というのは、よく言われますが、相手がいて自身がいるという状態から始まります。基本的には、どちらかが「じゃあ」というまで続くわけです。もし片方が、急にぷいといなくなったら、どうしたことかと戸惑うことでしょう。
また、会話はその刹那に思ったことを単刀直入に吐き出す手段ですから、きっと書簡よりも気持ちの入ったものになるはずです。
一方、書簡というのは、一通単位で見れば互いに一方通行です。「拝啓」で始まって、「敬具」で締めます。そこに読み手の入り込む隙間はありません。もし何か伝えたいことがあるならば、直接会う約束を取り付けるか、あるいは、同様に手紙を用いて「前略~草々」と書かなければなりません。また内容が不愉快であれば、返事をする必要すらありません。
だけど、時に書くことは話すことよりも、論理性・芸術性に富み、自分自身を見つめ直す手段にもなります。
しかし、メールというものは、そのどちらの特性も持っています。
基本的には書簡のように一方通行ですし、返さなくても別段支障はありません。また会話のように「刹那の言葉のやりとり」になりがちです。社会に出ればそれほどでもないとは思いますが、学生の自分はとかく会話の代わりに用いがちではありませんでしたか。「刹那の言葉のやりとり」と考えてみれば、メールとは疑似会話と言えなくもなさそうですね。
この電子メールというどっちつかずのコミュニケーションツールを使うことが、時間に追われる平成社会に、どれほどの恩恵をもたらしたかは知るよしもありません。
人と人とのコミュニケーションに関わる時間を、とても少なくしました。もちろん、肝心なところは人と人の対話ではありますが、それ以外の部分、ということです。
「疑似会話」は、電子の世界では今や当たり前ですね。掲示板というツールもありますし、チャットなんていうのはまさしく疑似会話です。「刹那の言葉のやりとり」ですよね。
擬似的な、ということはすなわちヴァーチャルとは言えませんか。本当に声を出して話しているわけではないのに、そんな感覚に陥るということはヴァーチャルってことです。
そう考えてみれば、世の中、ヴァーチャルが満ちあふれているんだなぁと思います。
ヴァーチャルの世界は、今やもともとヴァーチャルの一翼を担っていた電話もテレビ電話と進化を遂げました。使用は一般的でないにしろ、装備は標準的ですよね。実際に顔を合わせているわけでもないのに、そのような錯覚に陥ります。
凶悪陰湿な事件が続いている昨今ですね。
その原因を、ヴァーチャルに求める人がいますが、今やヴァーチャルは世界の常識となりつつあります。ヴァーチャルに触れていない人の方が少ないのですから、結局はヴァーチャルという一般的なものに原因を求めるよりも、犯した人間に原因を求めることが大事だと思いますね。
と同時に、話すことと書くことについて、もう一度考えてみることが大事ですね。
とかく、「擬似的なもの」は無責任に陥りがちです。自らの口で伝え、手で書くこと(指で打つのではなく)により、その言葉には責任が付帯します。
その責任が生ずるから、告白なんかにも用いられてきたんでしょう。「擬似会話」である電子メールが告白という手段にとって否定されるのは、きっとここらへんのこともあると思います。
だから、会話・書簡を軽んずることは、そのまま言葉に対する責任を軽んずることにもつながるんじゃないかと思うんです。
きっとこの両方は永遠になくならない。どんな便利なコミュニケーションの手段が生まれても、です。人が理性に縛られ、責任を重んずる動物である以上は、きっとなくならないんだと思います。
となんだかんだと書いてきましたが、わたしは今年も年賀状を出しませんから、そんなヘタレの言うことは、話半分で聞いてくれればいいんです。
…わたしぐらい、自分の言葉に無責任な人間はいないと思いますねぇ。