さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

言葉の責任

2007-11-30 21:08:44 | 
先日、宮澤賢治と保阪嘉内の手紙のやりとりを見て、いろいろと感ずるところがありましたので、今日も長々となりますが、書いていきたいと思います。

書簡というのは、今では当たり前のツールとなりつつあるメールというものとは違いますね。
どういうことかといえば、メールというのは会話的で、書簡というのは非会話的ということです。

俗に、コミュニケーション手段といわれているものは、会話と書簡という大まかに二つの方法があるように思います。この会話と書簡を両極端なものだとすれば、電子メールという方法は、ちょうどその中間ではないかという気になりませんか。
例えばの話をしましょう。
昔から愛の告白といえば、直接会って口で気持ちを伝えるか、それとも、手で書いた書簡という形で気持ちを伝えるかという方法ではないでしょうか。口で伝える場合、100歩譲って電話でもよいことにしましょう。
しかし、この二つの方法を正攻法だとすれば、電子メールで気持ちを伝えるということは、今でも否定的に考える人が多いように思います。
感情を率直に吐露する会話という手段でもなく、理性により感情に芸術性と論理性を持たせる書簡という手段でもないというのは、ある意味ではとても卑怯に映るようです。
なぜ卑怯と映るのかと考えてみれば、やはり電子メールが会話や書簡の合いの子のような、どっちつかずのコミュニケーション手段だからという気がします。
会話というのは、よく言われますが、相手がいて自身がいるという状態から始まります。基本的には、どちらかが「じゃあ」というまで続くわけです。もし片方が、急にぷいといなくなったら、どうしたことかと戸惑うことでしょう。
また、会話はその刹那に思ったことを単刀直入に吐き出す手段ですから、きっと書簡よりも気持ちの入ったものになるはずです。
一方、書簡というのは、一通単位で見れば互いに一方通行です。「拝啓」で始まって、「敬具」で締めます。そこに読み手の入り込む隙間はありません。もし何か伝えたいことがあるならば、直接会う約束を取り付けるか、あるいは、同様に手紙を用いて「前略~草々」と書かなければなりません。また内容が不愉快であれば、返事をする必要すらありません。
だけど、時に書くことは話すことよりも、論理性・芸術性に富み、自分自身を見つめ直す手段にもなります。
しかし、メールというものは、そのどちらの特性も持っています。
基本的には書簡のように一方通行ですし、返さなくても別段支障はありません。また会話のように「刹那の言葉のやりとり」になりがちです。社会に出ればそれほどでもないとは思いますが、学生の自分はとかく会話の代わりに用いがちではありませんでしたか。「刹那の言葉のやりとり」と考えてみれば、メールとは疑似会話と言えなくもなさそうですね。

この電子メールというどっちつかずのコミュニケーションツールを使うことが、時間に追われる平成社会に、どれほどの恩恵をもたらしたかは知るよしもありません。
人と人とのコミュニケーションに関わる時間を、とても少なくしました。もちろん、肝心なところは人と人の対話ではありますが、それ以外の部分、ということです。
「疑似会話」は、電子の世界では今や当たり前ですね。掲示板というツールもありますし、チャットなんていうのはまさしく疑似会話です。「刹那の言葉のやりとり」ですよね。
擬似的な、ということはすなわちヴァーチャルとは言えませんか。本当に声を出して話しているわけではないのに、そんな感覚に陥るということはヴァーチャルってことです。
そう考えてみれば、世の中、ヴァーチャルが満ちあふれているんだなぁと思います。
ヴァーチャルの世界は、今やもともとヴァーチャルの一翼を担っていた電話もテレビ電話と進化を遂げました。使用は一般的でないにしろ、装備は標準的ですよね。実際に顔を合わせているわけでもないのに、そのような錯覚に陥ります。
凶悪陰湿な事件が続いている昨今ですね。
その原因を、ヴァーチャルに求める人がいますが、今やヴァーチャルは世界の常識となりつつあります。ヴァーチャルに触れていない人の方が少ないのですから、結局はヴァーチャルという一般的なものに原因を求めるよりも、犯した人間に原因を求めることが大事だと思いますね。

と同時に、話すことと書くことについて、もう一度考えてみることが大事ですね。
とかく、「擬似的なもの」は無責任に陥りがちです。自らの口で伝え、手で書くこと(指で打つのではなく)により、その言葉には責任が付帯します。
その責任が生ずるから、告白なんかにも用いられてきたんでしょう。「擬似会話」である電子メールが告白という手段にとって否定されるのは、きっとここらへんのこともあると思います。
だから、会話・書簡を軽んずることは、そのまま言葉に対する責任を軽んずることにもつながるんじゃないかと思うんです。
きっとこの両方は永遠になくならない。どんな便利なコミュニケーションの手段が生まれても、です。人が理性に縛られ、責任を重んずる動物である以上は、きっとなくならないんだと思います。

となんだかんだと書いてきましたが、わたしは今年も年賀状を出しませんから、そんなヘタレの言うことは、話半分で聞いてくれればいいんです。
…わたしぐらい、自分の言葉に無責任な人間はいないと思いますねぇ。

イギリスだけの問題では。

2007-11-29 20:59:12 | 
英国旗、200年ぶりに変更も=ウェールズの赤い竜をデザインに (時事通信) - goo ニュース

【ロンドン28日時事】連合王国の象徴であるユニオン・ジャック(英国旗)が約200年ぶりに変わるかもしれない-。国旗にデザインが採用されていないウェールズの不満を背景に、ホッジ文化担当閣外相が「変更を検討する」と語り、注目を集めている。

ウェールズの旗って、わたしは好きなんですよ。
まぁその、今のUK国旗にいきなり赤い竜が付け加えられることはないと思いたいんですけどね。
今のUK国旗で見慣れてますし、200年ぶりということも考えれば、それだけで立派な文化遺産という気もします。
あるいは、イギリス連邦加盟の諸国旗のように、白赤上下のウェールズ旗の左上辺りにユニオンジャックをあしらうとか。この場合、竜は割愛せざるを得ませんが。
しかし、こう世界の国旗を見回してみても、ユニオンジャックを国旗に取り入れている国々は意外と多いです。
なので、この200年ぶりのデザイン変更問題は、何もイギリス一国の事件ではないということになります。
さぁさぁ。どうなることやら。楽しみに待ちたいと思います。

勇気と希望と、そして少々のお金

2007-11-28 20:56:59 | 

「ティティーナ」って知ってますか。
人名でも、地名でもありません。
20世紀最大の喜劇俳優であるチャーリー・チャップリン(1889~1977)が、1936年に公開された作品『モダン・タイムス』の中でチャップリン自身が歌う、でたらめな歌の"名前"らしきものです。
これは通称のようなものであって、本当の名前はきっとわかりません。
聞けば、「ああ、この歌か」と思うほど印象的なリズムと歌声です。
日本のCMでも使われたりしてますから、きっと聞いているだろうと思います。
You tubeなどの動画配信サイトでも見ることができますから、見てみると面白いでしょう。
最近では、Canonのプリンター・PixasのCMで、音楽だけ使われていますね。

と、なぜこんなことを言い始めたかと言えば、最近ちょっと思うところがありまして、

「この人生は、どんなにつらくとも生きるに値する。
 そのためには三つのことが必要だ。それは、勇気と、希望と、いくらかのお金だ。」

というチャップリンの言葉を噛みしめる機会があったからです。
人間生きていかねばならぬ、と決意を新たにしました。
そう、ただそれだけなのです。


53.Czech

2007-11-27 22:08:36 | 『万国巡覧記』

チェコ共和国
(Czech Republic)


1.面 積  78,866平方キロメートル(我が国の約5分の1)
2.人 口  1,030.6万人(2007年3月現在)
3.首 都  プラハ
4.民 族  チェコ人94%、その他スロバキア人、ロマ人等(2001年)
5.言 語  チェコ語
6.宗 教  カトリック 26.3%、無信仰 58.3%(2001年)
7.主要産業 機械工業、化学工業、観光業
8.GDP 1,424億米ドル(2006年)
9.一人当たりGDP 13,873米ドル(2006年)
10.通貨・為替レート チェコ・コルナ(Kc)、1ユーロ=28.3コルナ(2006年平均)
11.3文字コード CZE
(外務省HP)

中欧の古国チェコは、実は国が成立してから14年という若い国だったりします。
それ以前は、チェコ・スロバキアという名前だったのが、1993年に分離独立を果たしたのです。
だから、古国とはいえ、若い国なわけですね。

古代にはケルト系先住民であるボイイ人が定住しており、その後、スラブ系のチェック人が流入して、今日の民族を形成しました。
ケルト系ボイイ人の名を取って、この地域をボヘミアと呼んだということです。
ところで、ボヘミアってドイツ語読みで「ベーメン」っていうんですよ。
ベーメンっていったら、わたしの中では「ベーメンのフス」の名で親しまれている宗教家のヤン・フス(1369~1415)なんですが、これを習ったときに「ベーメン」の意味がわからなくてですね。「ベーメン、ベーメンって、ベーメンてどこ?」と怒り狂うぐらいにわからなかったんですよ。
で、ある日、進研ゼミだったんだと思うんですけど、「ベーメン(ボヘミア)」って書いてあったんですよ。「なんだよ、ボヘミアだったのかよ。最初からボヘミアって書けばわかりやすいのに…」とがっかりしたのを覚えています。
教科書って頑なですよね。まぁ国民性を考慮してそういう表記にしているのかも知れませんけど、現場とお役所の大きな差なのかもしれません。
いえ、また話が逸れました。
チェコに国家ができたのは、7世紀。スラブ人によるモラヴィア王国がそれです。
しかし、10世紀になると、のちにハンガリーの原形となるマジャール人が侵入し、滅亡。その後、プシェミツェル朝ボヘミアが成り立ち、この時期に本格的なドイツ文化が流入してきました。
また一時は神聖ローマ皇帝の座すら狙えるぐらいの力を誇りましたが、この時期、急速に力をつけてきたハプスブルク家のルドルフ1世(1218~1291、のちの神聖ローマ皇帝)によって攻められ、それが因で断絶してしまいます。
プシェミツェル朝が滅亡すると、ドイツから派遣された ルクセンブルク家の世襲王が統治し、ルクセンブルク朝となります。
ボヘミア王カレル1世(1316~1378)が、カール1世として神聖ローマ皇帝となると、プラハに大学が建てられるなど文化が高まり、首都プラハはヨーロッパの文化の中心となりました。
フス戦争(1419~1439)が起こったのも、ちょうどルクセンブルク朝の御代でした。
ルクセンブルグ家が断絶すると、今度ボヘミア王の地位に就いたのは、かの名高きハプスブルグ家でした。以後、20世紀までの約600年にわたり、ハプスブルク朝となります。
特に名高いのは、16世紀に現れたルドルフ2世(1552~1612)です。神聖ローマ皇帝をも兼任したこの王が即位したことを受け、プラハは以前にも増して、政治・文化の中心地として繁栄します。
ところが、ルドルフ2世が没すると、欧州最後の宗教戦争・世界最初の国際大戦と形容される三十年戦争(1618~1648)が起きてしまいます。
ボヘミアは、スウェーデン相手に大敗を喫し、領地を激しく蹂躙されます。どれぐらい激しかったかと言えば、4万あった村落が8000まで落ち込んでしまったといいますから、かなりのものです。
またプラハに収蔵されていた美術品もスウェーデンに取られてしまったと言いますから、いや戦争とは実に恐ろしいものですね。
18世紀には、この時期に流行った民族主義は、チェコにも影響を与えます。
スラブ人による汎スラブ主義が唱えられましたが、オーストリア・ハンガリー帝国の成立を契機にして、チェコはじょじょにロシア寄りになっていきます。
またこの時期に起こった産業革命は、中央ヨーロッパのこの地域にも押し寄せ、チェコはヨーロッパ有数の工業地帯となりました。
第一次世界大戦(1914~1918)でオーストリア・ハンガリー帝国が滅びると、スラブ民族によるチェコスロバキア共和国が成立します。第二次世界大戦(1939~1945)中には、一時地図上から姿を消しますが、のちに復活。
その後はソビエト連邦の影響を強く受け、共産主義政権が成立。1960年にはチェコスロバキア社会主義共和国となります。
1968年には、俗に「プラハの春」と呼ばれる改革運動が起こりますが、これはソ連の介入に遭い、中途に終わります。
1989年にビロード革命が起こり、共産主義政権が倒れます。1993年にスロバキアが分離独立を果たし、現在に至ります。ちなみに、EUへの加盟は2004年のことです。
…長くなりました。これもみんな「ベーメン」のせいです。

歴史でも触れましたが、チェコといえば、実に多くの偉大な芸術家を輩出しています。
例えば、作曲家のベドルジフ・スメタナ(1824~1884)、アントニン・ドヴォルザーク(1841~1904)。
それから、アールヌーヴォーの代表的なデザイナーであるアルフォンス・ミュシャ(1860~1939)もチェコ地域の出身ですね。
さて、わたしなんかはロボットのアニメや漫画が好きなので、浮かぶのはカレル・チャペック(1890~1938)だったりします。
チャペックは、チェコ語で労働を意味する「robota」という言葉から、ロボットという語を作ったと言います。まぁ『RUR』(1920)を読めば分かるのですが、実際にはスーパーだリアルだというようなものではなく、今の言葉でいえば人造人間とかアンドロイドとかに近いものです。
皮膚はもちろん、内蔵や血管に至るまで本物そっくりに造り、ねじやボルトなどはまったく使っていないようです。ただ意思や感情がなく、命令されたことしたできませんので、そこは現代的なロボットといえそうです。
チャペック自身は、金属だらけの人間型のロボットは不本意だったらしいですから、そこは何とも言えないところですね。
『RUR』の主旨とは変わってしまいますが、わたしが最近の社会問題を見ていて思うのは、やはり労働の問題ですよね。
日本国民の三大義務は、ご存知の通り、教育・勤労・納税。人は働かねば、この国にいることはできません。働かざる者、"住む"べからずなのです。
しかし、まぁわたしなどは半分ニートのようなものですから、こんなことは言える立場ではないのですが、日本人は勤労過ぎるほど勤労だと思います。
働いた者がみな、すべて報われるとは限りません。
そして、成功者もまた、みな働き者とは限らないのが社会の仕組みです。
だから、というのもおかしな話ですが、ちょっと休み休みいきましょう。そして時には、おならでもしてみてはいかがでしょうか。
これが本当の息抜き。なんつって。


手紙に見る、賢治の苦悩

2007-11-25 23:19:59 | 

さて、今日気が向いて、山梨県立文学館にいってきました。
気が向いて、というかやっていた企画展が本日まででしたので、これは見なければちょっと公開するかもと思い、向かったのです。
その企画展というのが、「宮沢賢治 若き日の手紙 ―保阪嘉内宛七十三通―」です。

宮沢賢治(1896~1933)の無二の親友…というと誇張になるかも知れませんが、しかしその人生に少なからず影響を与えた人物がいます。
山梨県韮崎の出で、保阪嘉内(1896~1937)といいます。
賢治の伝記にも頻繁に登場する嘉内は、生まれ年は賢治と同じです。しかし、東京帝国大学の受験に失敗し、翌年に盛岡高等農林学校に入学したときは、賢治の一つ下の学年となりました。
入学後、寮での相部屋となった二人は、思想、というよりもむしろ感性が合致したんじゃないかと思います。すぐに気を許し合う、最良の友達となりました。
実際に親交があったのは、盛岡時代のほんの数年です。というのも、嘉内が卒業を待たずして、学籍除名の憂き目にあったからでした。皮肉にも、賢治は同年に卒業を果たし、研究生として勉強を続けることになりました。
しかし、二人の親交はこの事件を契機に、さらに深いものへと変わっていくのです。
学籍除名が発表されたときは春休み中で、嘉内は里帰りの最中でした。そこで、その第一報を知らせたのは賢治でしたし、幾度となく手紙を送り、彼を励ましているのです。
嘉内が母親を亡くしたときにも、実に三度に渡り手紙を送り、母親の死を悔やみ、嘉内を励ましています。
その後、二人はじょじょに距離を置くようになります。もちろん、物理的なものではなく、精神的な距離です。その精神的な距離は感性の問題ではなく、間違いなく、思想的な問題でした。
というのも、賢治が若い頃から法華経の熱心な信者であったことは有名な話です。その死後、身延は久遠寺に賢治の詩碑が建てられたほどです。
二人が袂を分かつ原因となったのも、宗教でした。法華経への帰依を熱心に求める賢治に、嘉内が拒絶したのです。
賢治は精神的に孤独になりました。以後、農村に住む人々と文学に明け暮れるのです。
嘉内は紆余曲折の末、県下では名士として一目置かれる存在となります。
賢治の文学は一部の新鋭作家群には認められますが、結局、理想を実現にすることができず、そういう意味では不遇な人生を遂げたといえそうです。
嘉内も、理想を心に秘めたまま、40でその人生の幕を閉じました。

展示は、面白かったですよ。
午後2時半ぐらいから見始めたんですけどね。あっという間に、二時間半。気付いたときには閉館時間10分前となっていました。
展示の主役は、賢治から嘉内宛のおよそ73通の手紙・葉書です。
なので、読むのにとても時間がかかるんです。長いものになりますと、原稿用紙数枚に裏表書かれたものとかありましたので、えらい時間、展示の前に張り付いていたことになります。いや、迷惑なお客ですね。
勝手知ったる県立文学館ですから、展示方法に関しても別段問題ありませんでした。良かったと思います。
感想としては、なんというか手紙ってのは面白いものだなと、書簡展示に目を開かれた思いです。
賢治はよほど嘉内を信頼していたのでしょう。結構、正直な内容が書かれていたように思います。
伝記などを読みますと、盛岡高等農林学校研究生修了後、賢治は父親との折り合いが悪く、非常に苦悩していたと言われますが、書簡には実に生々しくその思いが綴られています。
どんな評伝や伝記を読んでも、この生々しいほどの苦悩の後は理解することはできないと思いますね。
そういう点で、この企画展は見ることができてとてもよかったですね。

まだ書きたいこともあるのですが、また後日ということにしたいと思います。


家計簿宣言

2007-11-24 23:14:44 | 
わたしは、きっと浪費家の部類に入ると思います。
月にどれくらい使えば浪費家という称号を手に入れられるかはわかりませんが、きっと月の収入のうち、生活費以外で自分のために使う割合が高ければ、浪費家といえるのでしょう。
安月給なわたしではありますが、その自分のために使うお金の割合が多いような気がします。
しかし、実際どれほど無駄遣いをしているかはわかりません。
そこで、近々、家計簿ってものをやってみようかと思います。
いえ、続けられるかどうかはわかりません。
何せ、子どもの頃から幾度となく、お小遣い帳の類にチャレンジしてきたのですが、どうにもうまくいきませんでしたので。
今回もどうなることやら。生まれてこの方、まともな経済感覚を身につけているとは思えないわたしです。
きっと、やってみることに価値があるような気がします。

がくがく

2007-11-23 22:37:36 | 
またやってしまいました。
あれです、書いたのに投稿の段階でデータが飛んでしまう、あのミスです。
ミスっていっても、こっちのミスじゃありません。
間違いなく書き終わって、投稿ボタンを押したら、たぶん書くのに長時間かかったからだと思うんですけど、なんかパスワード入力画面になっておじゃんになりました。
もうすっかりやる気をなくしてしまいました。
通常は、ワープロソフトで下書きをします。で、コピー→ペーストで貼り付けるんですけどね。
今日みたいに直接、編集画面に書くときに限って、こういうだっちもないミスが起きるので嫌になってしまいますよ。

はー、やだやだ。
がくがくしちゃいますよ。

チーズフォンデュ+ご飯

2007-11-22 21:49:09 | 
チーズフォンデュといえば、スイス・フランス・イタリアなどのアルプス山岳部で食べられるフォンデュと呼ばれる家庭料理の、代表格です。
いつの時代からか、日本でも食べられるようになり、特に冬場などでは鍋料理の一種としてそれなりの地位を確保しつつあるようです。
また、フォンデュにはチョコレートを利用するときもあり、そちらのチョコレートフォンデュはデザートとして人気があるようですね。

と、なぜこんな話をしているかというと、今日うちでチーズフォンデュをしたからです。
わたし自身は、ちゃんとした料理屋でチーズフォンデュを食べたことがありますのでそれがどういうものかを知っているつもりなのですが。
しかし、うちでやりますと、ご飯と味噌汁とチーズフォンデュが机に上るという、実に風変わりな光景が広がります。
結局、ハンバーグでもステーキでも、ラーメンでもスパゲッティでも、その脇には常にご飯があるのが我が家の風景です。

山梨県民の日

2007-11-20 23:30:32 | 
お気楽な身分といわれそうですが、今日は山梨県民の日ということで、わたしは仕事が休みでした。
ここのところ、事情により休日出勤することが多くて、まぁその代休というわけで昨日・今日と連休でした。

旧暦の明治4年11月20日、甲府県から山梨県に改称されたことを記念して制定されました。
新暦に変換すると12月31日になってしまうというので、あえて新暦に変換せず、11月20日を県民の日とすることにしたそうです。
高校までは、県民の日と言えば休みだったんですが、大学に入ってから市立だったにもかかわらず休みにならなかったのでたいそう困惑したことを覚えています。
まぁ確かに、全国から学生を募集する大学の場合、山梨県民の日だと言って休みにするのはナンセンスかも知れませんね。
それから、わたしの住んでいる甲府には市制祭(10月17日)があって、小中学校は確か休みではなかったかなと思います。
そう考えると、休みだらけの子ども時代でしたね。
大学時代の他県からの人にそういう話をすると、とても驚かれましたね。
市制祭は特殊としても、「○○県民の日」の類は全部の県にあるものと思っておりましたので、わたしはそっちの方にびっくりしました。

とにかく、わたしの一週間は、今週は水曜と木曜だけ。
あと二日で終わってしまいます。

オシム監督を、惜しむ。

2007-11-17 22:09:43 | 
オシム監督119番、フランスから…日本の知人つかまらず(読売新聞) - goo ニュース

いや、またこれはとても心配な報せが入ってきましたね。
「生きていて」はもらいたいかも知れませんが、しかしこのまま想像絶するであろうプレッシャーがかかるサッカー日本代表を続けることは困難かも知れませんね。
第55代総理大臣・石橋湛山(1884~1973)は、同じく脳梗塞に倒れたときその「政治的良心」に則して、わずか2ヶ月での退陣を決意しました。
まぁ難しい決断ですし、オシム監督のサッカーについて正しい判断も下すことはできませんが、さて日本サッカー協会はどういう決断を下すのでしょうか。