カナダ
(Canada)
1.面 積 997.1万平方キロメートル(世界第2位、日本の約27倍)
2.人 口 約3,161万人(2006年国勢調査)
3.首 都 オタワ
4.言 語 英語、仏語が公用語
5.宗 教 ローマン・カトリック教(加国民の約半分近く)
6.主要産業 金融、保険、不動産業、製造業、商業
7.GDP(名目値) 13,687億加ドル(2005年)
8.一人当たりのGDP(名目値) 42,414加ドル(2005年)
9.通貨、為替レート カナダ・ドル、1加ドル=102.15円(2006年12月)
10.3文字コード CAN
(外務省HP)
G7の一角として、世界的にも高好感度を誇る北米の大国、カナダです。
ヨーロッパ人がこの地を発見したのは近世のことですが、それ以前にもベーリング海峡からモンゴロイド(インディアン)が、また北欧からはヴァイキングが移り、定住していたようです。
15世紀後期、イングランド王ヘンリー7世(1457~1509)が遣わしたイタリア人航海士ジョヴァンニ・カボート(1450頃~1498)が、カナダ沖のケープブレトン島に立ち寄ったのが、ヴァイキング以来の欧州人による再発見となりました。
その後、フランス人探検家ジャック・カルティエ(1491~1557)が、セントローレンス川に沿ってカナダ奥地を探検し、16世紀半ばには、そのセントローレンス川流域はフランスの植民地となりました。
それから、フランス本国による植民地化が進みましたが、18世紀初頭の世界規模でのイギリスとフランスの争いが、とうとう北米大陸にも飛び火しました。
欧州本国での七年戦争(1756~1763)でフランスらの国が負け、イギリス・プロイセン軍が勝つと、その後のパリ条約(1763)で、カナダのケベック・シティをはじめとするフランス領はイギリス領とされました。
多くのフランス人を残したまま英領となったカナダに対して、イギリス本国は緩やかな対策を講じます。
その後、アメリカ独立戦争(1775~1783)が起こり、アメリカ合衆国が成立(1783)すると、アメリカの王党派と呼ばれる人たちが大挙してカナダに移住。
18世紀までにカナダはその領土を西に広げ、1867年にはアメリカ併合を危惧したイギリスが、カナダに対して自治権を与えました。
外交権が認められ、主権国家としての地位を獲得したのは、1926年のことです。
第二次大戦(1939~1945)以後は、ケベック州の分離論争が激しく展開され、血を見ることも少なくはなかったようですが、それでも観光大国であり、環境大国でもあるカナダの人気は、大変高いものです。
さて、カナダといえば『赤毛のアン』(Anne of Green Gables,1908 )シリーズを思い浮かべる人も多いことでしょう。
思春期から子育てを終えるまでを描いたこの大河小説は、古典的名著として青春小説の金字塔ですね。
かのマーク・トウェイン(1835~1910)も賛辞を送ったほど、当時から注目を集めた作品だったといえます。
作者は、カナダのプリンス・エドワード島出身の児童文学作家、ルーシー・モード・モンゴメリー(1874~1942)です。
彼女自身の一生は、決して恵まれたものではなかったようですが、作品は大変多くの人に親しまれました。
特に『赤毛のアン』シリーズは、彼女の生涯に10冊刊行され、40カ国語に翻訳されるほどの人気シリーズとなりました。
もちろん、日本にも輸入され、1979(昭和54)年にフジテレビの世界名作劇場アニメとして登場し、絶大な人気を博しました。
翻訳作品として登場したのは、1952(昭和27)年のこと。訳したのは、実は山梨県出身者。
大正・昭和の翻訳家・教育者の村岡花子(1893~1968)でした。
村岡の本格翻訳によって、日本の『赤毛のアン』の歴史は始まったといっても、過言ではありません。
村岡花子は1893(明治26)年、山梨県甲府市に生を受けました。
甲府の教会で洗礼を受けキリスト教徒となった彼女は、その後東京へ移住し、カナダ系ミッションスクールへと進みます。
また同時期に、歌人佐佐木信綱(1872~1963)門下となり、言葉に深い興味を抱きます。
彼女の翻訳に必要な教養は、この時期に備わったと思われます。と同時にキリスト教に触れたことは、平和への欧米的考えを理解する手助けになったことでしょう。
彼女が原書『Anne of Green Gables』を手にしたのは、1939(昭和14)年のこと。日米関係の悪化に伴い、故郷へと帰るカナダの友人にもらい受けたといいます。
戦時中は、クリスチャンであることから苦難に見舞われた時期でありましたが、それを乗り越えて1952年の翻訳本出版にこぎつきます。
カナダは建国以来、傭兵が主要な職業となり、多くの男たちが戦場で命を散らしました。
アンが登場する時系列的に最後の作品『アンの娘リラ』(1921)では、彼女の息子も戦地で死んでしまいます。
戦争で割かれた親子の絆、戦争で割かれた友の絆。
感受性の強かったであろう花子が、それらの印象を重ねなかったはずはないでしょう。
平和への願いを託して翻訳に当たり、名翻訳と呼ばれる作品を生み出しました。
(参照:『山梨の文学』、山梨日日新聞社、2001)
花子の功績を称え、東京に「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」があります。
カナダを思い、ルーシー・M・モンゴメリーを思い、村岡花子を思い、アン・シャーリーを思い、そして戦争と絆を思う。
そんな貴重な時間と場所になるはずです。