さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

オーストリー、いまだ定着せず。

2007-02-26 21:32:12 | 

以前、オーストリアがオーストリーという国名に呼称を変更したというお話しをしました。
で、そのときはわたしも初耳の事でしたし、一般的な認知もされていない状況でした。今後の定着度は、マスコミの対応次第…というような話で閉じたと思います。

2月22日~3月4日まで札幌で行われているFISノルディックスキー世界選手権が行われています。
それに伴って、スキー大国であるオーストリアという名の露出も大変多くなってきました。
しかし、テレビで見ている限り「オーストリー」という呼称を用いているメディアはありません。
呼称変更後4ヶ月経った今日でも、その呼称は定着していないと考えられます。
NHKもまだ「オーストリア」を使っていますので、NHKが使わぬということは民放でも使いにくいところがあるのでしょう。
実際、外務省のHP上でも依然としてオーストリアという旧名称が使われていますし、このまま「オーストリー」という呼称が廃れてしまうのか、それとも5年ぐらいかけてジワジワと浸透していくのか。
見極めが難しいところです。
何か、「オーストリー」で大きなイベントでもあればその定着を図るための企画も考えられそうですが…。

え、わたしですか。
使いますよ、オーストリー。
ホラ吹いてでも、広めてみましょう。
「え? オーストリーって何かって? オーストリアのことだよ。もう10年も前に呼び方が変わったんだよ」
てな具合に、ひょうひょうとホラ吹きましょう。


その五 甲府

2007-02-25 20:45:17 | 山梨観光マップ

山梨といえば、甲府!
甲府といえば、山梨!
NHK大河ドラマ「風林火山」の舞台となり、今年に入って色めき立っている県庁所在地・甲府へとやってきました。
名実共に、山梨県最大の都市ですから、物件の数も県下最大。16件です。

甲府 kofu

物 件

種 別

価 格

収益率の変化

1段階

2段階

3段階

信玄和菓子チェーン

食品

1000万

?%

?%

?%

ぶどう珍菓屋

食品

1000万

25%

30%

40%

ほうとう鍋屋

食品

1000万

60%

70%

80%

スーパーマーケットチェーン

商業

3000万

?%

?%

?%

武田信玄グッズ

観光

3000万

20%

50%

100%

甲州印田工房

商業

5000万

3%

5%

7%

地鶏農場

農林

1億

3%

4%

5%

あわび煮貝屋

食品

2億

50%

60%

70%

あわび煮貝屋

食品

2億

50%

60%

70%

サッカーチーム

商業

10億

-20%

-5%

5%

こどものくに科学館

観光

20億

1%

2%

3%

駅前百貨店

商業

38億

1%

2%

3%

老舗百貨店

商業

40億

-1%

1%

3%

テレビ

商業

45億

1%

2%

3%

いつも通り、信玄和菓子屋チェーンはスルーします。
次回の石和温泉の回にて、詳しいことを書きましょう。
次のぶどう珍菓屋は、知る人ぞ知る珍しいお菓子「月の雫」で有名な「松林軒」さん。
皮がついたままのぶどうの外側に、糖衣を施した面白いお菓子で、味も上々で何よりも食べたときの驚きが、何とも楽しいお菓子です。
山梨の名物といえば、なんといってもほうとうです。ゲーム中では、「ほうとう鍋」とされていますが、それまで呼び捨てにしていたわたしにとってはたいそう違和感があるのですが…。
麺の形状は、確かにこの間行ってきた名古屋のきしめんに似ているのですが、わたしはこいつは見た目からいっても、まったく別物だと確信しました。
また、甲府には著名な武田神社があるのですが、そこの前身は武田家の居館であった躑躅ヶ館でした。
武田家が当時府中と呼ばれていた甲府に本拠を移したのは、晴信の時代になってからです。
それまでは石和を本拠とし、信玄没後、息子の勝頼は韮崎新府に移っていったことは、韮崎の回でお話しをしたとおりです。
武田家発祥の地は実は韮崎だということですので、父・信玄の威光からの逃避と先祖の地への回帰で、臣民の統率を高めようと図ったのかも知れません。
甲州印伝は、山梨の隠れた名産品なのですが、なめした鹿の皮に漆や顔料などで柄付けした革製品のことです。
巾着や印鑑入れ、眼鏡ケースなどがありますが、大変高価で質も良く和装によく合うものだと思います。
そんな甲州印伝は、「池田屋」さん、「印伝屋」さんなどで求めることができます。
地鶏牧場は、「加藤養鶏場」さん。美食マンガの王道「美味しんぼ」などにも取り上げられた絶品の鶏肉を、一度食べてみてはいかがでしょうか。
わたしは…食べたことはありませんが。…食べてみたいですなぁ。
山梨の土産といえば、ほうとう・信玄和菓子とあわびの煮貝。
これは、定番中の定番といえます。
ただ、高いのが難点です。わたしは長年山梨に住んでいますが、煮貝を食べたことは片手で数えられるぐらいです。
甲府市内に煮貝の有名な店と言いますと、「平野屋」さんと「かいや」さんです。
次のサッカーチームといえば、やはり「ヴァンフォーレ甲府」です。
わたしは、サッカーに詳しくありませんし、ファンクラブにも入っているわけではありませんが、やはり自分の住む地域にプロスポーツチームがあるというのはうれしいものですね。
詳しくは、HPを見てください。
こどものくに科学館は、「山梨県立科学館」です。
甲府駅の北、愛宕山にあります。以前は、駅前の舞鶴城(甲府城の別名)公園内にあったのですが、幾年か前に移動して現在の位置になりました。
併設される「県立愛宕山こどものくに」もありますので、その名を冠することにしました。
甲府駅の周辺に代表的な百貨店は、2件あります。
一つが「山交百貨店」さんと「岡島百貨店」さんです。
どちらがどちらかというのは、物件名とHPを見てもらえればわかるかと思うのですが、値段の付け方と収益は、わたしの先入観に寄るものなので、あまりつっこまないでください。
ちなみに、わたしの馴染みなのは岡島の方です。
そして、最後のテレビ局は「山梨放送」さんです。
県内有数の巨大企業山日YBSグループの筆頭です。本当は、新聞社やラジオ局なども併設されているのですが、ここは代表してテレビ局として出させて戴きました。

さて、すっかり長くなってしまいました。
次回は、いよいよ信玄和菓子屋の謎が明らかにされます。
湯量は1分間に1700リットル! 歓楽街としても有名な石和温泉です。


29.Brunei

2007-02-24 22:00:45 | 『万国巡覧記』

ブルネイ・ダルサラーム国
(Brunei Darussalam)

1.面 積  5,765km2(三重県とほぼ同じ)
2.人 口  36万人(2004年)(外国人在留者含む)
3.首 都  バンダルスリブガワン
4.人 種  マレー系(含その他の先住民族)66%、中華系11%、その他23%
5.言 語  マレー語(公用語)、英語、中国語等
6.宗 教  イスラム教(国教)、キリスト教、仏教、道教等
7.主要産業 石油、天然ガス
8.名目GDP(億ブルネイドル) 92.7(04年)
9.1人当り名目GDP(ブルネイドル) 25,909(04年)
10.通貨・為替レート ブルネイ・ドル、1ブルネイ・ドル=約79円(2007年2月現在)
(注:ブルネイ・ドルはシンガポール・ドルと等価交換されている)
11.3文字コード ISO/BRN、IOC・FIFA/BRU
(外務省HP)

今日は、東南アジアの富豪国ブルネイ・ダルサラームです。
1984年に独立したまだまだ若い国ですが、天然資源が豊富にあるので、大変裕福です。所得税・教育費・医療費などが免除されています。
またこの国を治めるハサナル・ボルキア国王(1946~)は、世界一の富豪と言われるほどです。
世界第3位の面積を持つカリマンタン島の北部に位置し、マレーシア・インドネシアと国境を接しています。
国の形はややいびつで、マレーシアのサラワク州を挟んで二つに分かれています。
東はテンプロン地区、西はブルネイ・ムアラ地区、ツトン地区、ベライト地区からなります。
特に、テンプロン地区は手つかずの密林に覆われていて、テンプロン国立公園として整備されています。

2004年の9月9日。
ブルネイ国のハジ・アルムタディ・ビラ皇太子の結婚の話題が、日本でも大きく取り上げられました。
というのも、未来のお后様は当時17歳の高校生だったのです。
サラ・ペンギラン・サレーさんは、ブルネイ人の父とスイス人の母との間に生まれました。
父は国家公務員でしたが、王室の称号を持つエリートであるといえます。
挙式の費用は48億円といい、有数の豪華な挙式だったといいます。
 
王皇室のウェディングといえば、近年では日本でも黒田慶樹さんと清子さんの結婚が大変話題になりましたね。
イギリスでは、ウェールズ公チャールズ(1948~)とコーンウォール公妃カミラさんとの挙式が、2004年4月に行われました。
また、少し時間はさかのぼりますが、モナコのレーニエ3世(1923~2005)と公妃グレース・ケリー(1929~1982)が著名なところです。
それから王室に嫁いだわけではありませんが、インドネシアの初代大統領スカルノ(1901~1970)と第三婦人として嫁いだデヴィ・スカルノ(1940~)さんも、立派なロイヤルウェディングと言えるのではないでしょうか。

王皇室に嫁ぐということは、おとぎ話のようにはいきませんよね。
もっと複雑な軋轢というか、確執というか。こんがらがった関係なんだと思います。
家族だけではなく、使用人や役人やあるときはマスコミなんかも私生活で土足で踏み込んでくる可能性もあるのですから。
家の中に、戸籍上に家族だけがいるわけではないんですよね。
しかし、それすらも受け入れる度量と気を配る細やかさが必要になってくるのです。
もしかしたら贅沢できるかもしれませんが、それ以上に厳しい制約と多忙なスケジュールがあると思います。

愛でもなければ、嫁ぐようなところではないのかもしれません。
…王室や皇室なんて言うところは。


三十七

2007-02-23 23:50:14 | 『おなら小説家』
旅行から戻った草田男は、推理小説にとどまらず、引き続き歴史小説も発表していた。
じょじょに調子を取り戻し、それぞれの分野で評価を受けていた。
また、「ひげの探偵・球磨熊太郎」の一連の作品は相変わらず人気で、「球磨」連作はとうとう映像化許可の依頼が来るまでになった。
テレビでの映像化は草田男の意向によって却下されたが、映画化は許可され、来年の年末に公開されることが決まった。
まさしく、「ひげの探偵」連作は、燃圓の代表作となったのである。
草田男が指導に赴いている高校では、これを記念してささやかな祝いの席を用意していくれた。
燃圓の存在が世に認知されるほど、世間は燃圓の素顔を知りたがったが、やはり世に出る気にはなれず、未だに謎多き作家だった。
そういった謎に満ちたところや、特異な経歴もあって、小奈良燃圓は時の人になりつつあった。
しかし、それはあくまでも外界でのことであって、当の夫妻にとっては変わらぬ毎日であった。
変わらぬながらも、充実した日々であった。
時は、流れた。

二年後。
上映された「ひげの探偵・球磨熊太郎 殺意のひげ」はなかなかの好評を博し、次回作が決定した。
同時に、テレビでの制作依頼も以前にも増して多くなった。
結局、押し切られる形で許可を下ろし、「球磨」連作も本格的に情報露出がはじまった。

その頃、東京ではある文学賞の受賞の報せに、大騒ぎとなっていた。
芍田川賞といえば、泣く子も黙る日本では最高位の文学新人賞である。
その賞を受けたということは、将来を約束されたとまではいわないが、嘱望された存在であった。
それが、まだ年若き大学生の青年が受けたと言えば、話題になるのも道理であった。
その男の名は、「斧小根立起」。
つい1年前まで草田男にもっとも期待され、しかももっとも失望された男であった。

28.British Virgin Islands

2007-02-22 23:01:41 | 『万国巡覧記』

イギリス領ヴァージン諸島
(British Virgin Islands)

1.面 積  153km2
2.人 口  約22,000万人
3.首 都  ロードタウン
4.人 種  多くが黒人、混血のムラート、白人は少数
5.言 語  英語
6.宗 教  プロテスタント約86%
7.主要産業 観光、漁業、酒造
8.通 貨 USドル
9.3文字コード ISO&FIFA/VGB、IOC/IVB
(Wikipedia)

以前、米領サモアを紹介した際に、東と西をイギリスとアメリカが別々に統治していたという話をしました。
サモアは東サモアはアメリカが治め、西サモアはイギリスが治めていました。
ヴァージン諸島も西はアメリカ、東がイギリス領で今回紹介するのはイギリス領ヴァージン諸島ということになります。

1493年、イタリアの冒険家クリストファー・コランバス(1451?~1506)によって発見されたヴァージン諸島は、西インド諸島の一部に過ぎません。
米英のヴァージン諸島合わせても約160の島しかなく、しかもそのほとんどが無人島です。
英領に限れば、島の数は約60。そのうち、人が生活を営んでいる主な島は、首都ロードタウンがあるトルトラ島をはじめ、ヴァージン・ゴルダ島、アネガダ島、ヨスト・ヴァン・ダイク島の4つ程度だと言うことです。
1648年にオランダが入植をはじめ、1672年にイギリスに併合されました。
主な産業は観光、酒造、漁業で人種の多くは黒人です。

さて、ヴァージンといえば日本語で処女ですね。
この国と同じくヴァージンの名を持つ地域といえば、アメリカのヴァージニア州があります。
この州の名の由来は、イングランド女王エリザベス1世(1533~1603)。弱小国家イングランドを支えた名君、また生涯独身を貫いたことから「処女王」と呼ばれました。
その寵臣ウォルター・ローリー(1552/54~1618)が新大陸アメリカに植民地を築いた際、未婚の女王であったエリザベス1世に敬意を表して「ヴァージニア植民地」と名付けました。
そのヴァージニア植民地が今のヴァージニア州になったわけです。
ところが、このヴァージニア州のヴァージンと、ヴァージン諸島のヴァージンは実は違うヴァージンに由来しているのです。

4世紀頃…といえば、キリスト教がローマ帝国の国教になるかならないかぐらいの時代ですね。
キリスト教のローマ帝国国教化は380年、テオドシウス帝(347~395)の御代ですから、きっとそれ以前の話です。しかしこの時期は同時に、キリスト教がローマ帝国内で支持を得始めていたときでもあります。
そのころはまだブリテン島には国といえる国もなく、小国が乱立している時期でした。
また、遠くローマからの植民が行われていましたが、完全に支配されるということはなかったようです。
そんな頃の話です。
当時、イングランド地方を治めていた国王が、小国の王女ウルスラを嫁に欲しいといいよってきました。
この国王がどこの民族で、ウルスラが何民族なのかはわかりませんが、ウルスラが敬虔なキリスト教徒で、さらにこの異端のイングランド王が、熱心なキリスト教徒であるウルスラの国の住人たちに嫌われていたことは間違いありません。
父親は娘の気持ちを察して断ろうと思いました。ところが、意外にも当のウルスラは、この婚約に応じるといいます。
「お父様。もし王の要求をはねのければ、イングランドは怒りきっとこの国に攻め込んでくるでしょう。この国のように小さい国では、到底勝ち目はありません。ここは、民を守るために、わたしが犠牲になりましょう」
しかしウルスラは、一計を案じていました。
それは、イングランド王に求婚を諦めさせるための、秘策。

結婚するに当たり、ウルスラは一つのお願いをイングランド王にしました。
「ふむ、わしにできることなら何でもかなえて進ぜるが。どのような願いじゃ?」
「ご存じとは思いますが…わたしは、キリスト教を信仰しております」
「ふむ」
「しかし王に嫁ぐに当たり、その信仰を捨てねばなりません。そこで、わたくし、まだ清い身のうちに、聖地を訪れておきたいのです」
この時代の聖地といえば、ローマ。ローマに行きたいというのです。
「おぉ、そのようなことか。ならばよろこ…」
「そのために! そのために乙女を10人、さらにその乙女たち一人に当たり千人の侍女を付けていただきたいのです」
ガーン! 乙女十人とその侍女1万人。さらに、ウルスラ自身の侍女千人を加えれば、なんと一万千人の大所帯となります。
これだけの人数をローマへと往復させるとなると、莫大なお金がかかってしまいます。
これでは、いかに国王といえども簡単に返事をすることはできません。
しかし、国王のウルスラへの好意は本物でした。 国王は、承諾をしました。

こうして国王はヨーロッパ各地から乙女を募り、侍女を集め、洗礼を受けさせてキリスト教徒にさせた後、ローマへと送り出しました。
その旅の途中のことです。当時からキリスト教を保護していたドイツのケルンに立ち寄った際、ウルスラは天使の訪問を受けました。
天使はこう告げました。
「あなたはここケルンに再度至り、殉教の栄光を授かるでしょう」
ガーン。つまり死を宣告されたわけですが、敬虔なキリスト教であり、しかも母国イングランドに帰りたくない理由があるウルスラは、もしかしたらホッとしたのかも知れません。
ローマでは、教皇をはじめとした信徒たちの熱烈な歓迎を受けました。
しかし、これを好ましく思わなかったのが帝国側です。どこぞの妖しい宗教信徒が一万人を引き連れて上洛したのですから、さぞかし危機感をもったことでしょう。
そこで、ローマ帝国は画策します。
この辺境の地からやってきた宗教者たちを、どうにか葬ることはできないか、と。
もしそれができれば、神とやらの権威を失墜させることができるのではないかと考えたのでしょう。
しかし、いまやキリスト教徒の勢力は馬鹿にできないし、もし帝国自身が行動を起こせば領内の教徒が黙っていないでしょう。
そこで帝国は、長年の宿敵である東の民フン族に一行の虐殺を依頼します。

かくして、ローマからの帰路、再びケルンに立ち寄ったところをフン族に包囲され、街は蹂躙され、乙女・侍女たちはことごとく殺されていきます。
その中でも、とりわけ美しいウルスラだけは族長の目にとまり、捕らえられます。そして、族長の前に引き出され、
「どうだ、王女。わしの嫁にならぬか。そうすれば、命だけは助けてやる」
と条件を提示されました。
しかし、ウルスラは
「無礼な! 下がれ、下郎」
と…いったか言わないか。
とにかく、多くの部下の前で恥をかかされた族長は、怒りにまかせてウルスラを射殺してしまいました。

こうして天使のお告げの通り、無事に殉教を遂げたウルスラは聖人として崇められました。
ウルスラは機転が利き、一万人あまりを率い導いたことから、教職を守護する聖人として慕われています。

というわけで、ヴァージン諸島のヴァージンとは、すなわちこの聖ウルスラの伝説から採られたものです。国旗には、聖ウルスラの姿が描かれています。
ちなみに命名者は、発見者でもあるコランバスです。

いやぁ…今日は久しぶりに長い文章になりました。
明日は、もっと力抜いて書こうと思います…。


三十六

2007-02-21 22:00:53 | 『おなら小説家』
この年の冬は暖冬で、12月とはいっても雪も積もらぬ日が続いていた。
北海道も白と焦げた茶のまだら模様が続いていて、どうにも気味の悪い冬であった。
まるで草田男をこの渦巻くような不調から抜け出させないかのようであった。
しかし、北海道であるから、草田男の住むところよりは寒い。普段、部屋の中にいずっぱりの草田男にとっては、やはりこの寒さは耐え難い。
むくむくと着ぶくれた草田男を見て、恵美は腹を抱えて笑ったものだ。
函館の朝市から始まって、森のイカめしを食べ、登別ではくまを見、温泉に入って、札幌に至り、旭川、名寄と経由して日本最北端の町・稚内へとたどり着いた。
旅行に出て、はや7日。明後日には、またもとのところに戻っていなければならない。

宗谷岬に立ち、恵美が改めて尋ねてきた。どうですか、気分は晴れましたかと。
ふむ…と草田男は唸った。
体調や体内時計といったものは、季節に順応しただろう。しかし、その一つの原因となった懸案事項が、まだ解決していない。
何を悩んでいるのかわたしにはわかりませんが、と前置きをしてから、あなたはまずあなたのやるべきことをやるべきなのだと思います。と恵美はいった。
どんなに暖かくとも、冬が来ます。いうなれば、冬も不調です。しかし、どんなに不調でも冬はめげずに来ますよ。夏に笑われないように、やってくるのです。とまるで、子どもを諭すかのように、たんたんという。
そうだな、と草田男は笑った。
冬はやってくる。どんなに暖かくても。夏に笑われぬように、やってくる。
おれは書かねばならぬ。いずれ文壇にやってくるであろう、立起に再び会うために。と草田男は思った。

ディズニーリゾートにいってきました。

2007-02-20 23:27:59 | 

さて、17日から3日に渡り書いておりませんでしたが、別に飽きたとか面倒くさくなったというわけではありません。
サボったのであります!
ただし、サボりたくてサボったわけではありません。とある事情によるのです。
その事情というのは、ちょっと気が向いて東京ディズニーリゾートにぶらぶらと行ってきたからです。

17日の夜に静岡に赴いて、18日の一番はじめの新幹線で東京へ。舞浜駅で降りてディズニリゾートラインに揺られて、東京ディズニーシーへといったのです。
翌19日はディズニーリゾート提携ホテルからのシャトルバスに乗り、今度はディズニーランドに行きました。
その夜には帰ってきたのですが、その日は連日の疲れがたまったので、ふとんに潜り込んで早々に寝てしまったのでした。

そんなわけで、17・18・19日とブログの更新が止まってしまったというわけです。

18日は三寒四温の熟語の、ちょうど「寒」に当たって雨がざんざんと降る中訪れました。
おかげで人は比較的少なかったようで、しかも雨も午後になってからあがったということで過ごしやすかったようです。
翌日は月曜日というわけで、人が少ないのを期待したのですが、しかしいつも通りの人の多さだということでした。
子どもが多く、また外国からいらした方も多かったのが印象に残りました。

その旅程はくわしくは書きませんが、楽しかったですよ。
実に十ン年ぶりのディズニーでしたし、ディズニー自体に思い入れもなかったですので、期待もしてなかったのですが、行ってみれば実に楽しいところでした。
なぜリピーターが多いのか、わかった気がします。
それはスタッフが優秀とか、園内がきれいだとかそういう経営的なことばかりではないと思いました。
それはほんの1割程度でしょうか。もっと、精神的で感情的な理由によるものが多くを占めます。
それは個人の感覚や感情が大きく作用し、一人ひとり感じるところが違うのですが、しかし万人に共通して何かの影響を与える、そんな力があると思うのです。

また、行く機会があれば行きたいですね。
そう思えるところです。ディズニーリゾートは。


27.Brazil

2007-02-15 22:58:52 | 『万国巡覧記』

ブラジル連邦共和国 
(Federative Republic of Brazil)

1.面 積  851.2万km2(我が国の22.5倍)
2.人 口  1億8,352万人(2005年地理統計院推定)
3.首 都  ブラジリア
4.人 種  欧州系(55%)、混血(38%)、その他(アフリカ系東洋系等)
5.言 語  ポルトガル語
6.宗 教  カトリック教徒約90%
7.主要産業 製造業、鉱業(鉄鉱石他)、農牧業(砂糖、オレンジ、コーヒー、大豆他)
8.GDP 7,963億ドル(2005年)
9.一人当たりGDP 4,323米ドル(2005年)
10.通貨・為替レート レアル、1米ドル=2.1レアル(2007年2月現在)(1レアル=約57円)
11.3文字コード BRA
(外務省HP)

南米のブラジルといえば、幼稚園の子だって知っている世界の中でもかなりの知名度を誇る大国ですね。
人口、面積とも世界第5位につけており、成長著しく、BRICsの一角でもあります。
南米大陸の中で、唯一のポルトガル語圏でもあります。
1500年にポルトガルの探検家ペドロ・アルヴァレス・カブラル(1467/68~1520)が到達すると、1549年には総督府が置かれ、ポルトガル人総督が大西洋岸のバイーア(現在の、国内第3位の都市サルヴァドール)に着任します。
その後、数回の遷都を経て首都が現在のブラジリアになったのは1960年のことです。
そのポルトガルからの独立は1822年のことでしたが、事実上のポルトガル支配が続いていましたが、ブラジル人による政治がはじまったのは1889年の軍事クーデター以降ということになります。

政治に関しては1980年代までは冷戦下軍事政権が掌握し、様々な障害があったということですが、現代では格差の撤廃を目標に掲げているルイス・イナシオ・ルーラ・デ・シルヴァ(1945~)を大統領として、発展を続けている状況です。

南米一の広大の面積を持つブラジルは、ウルグアイ・アルゼンチンなど10の国と境を接しています。
北は世界一の流域面積を持つアマゾン川、南はブラジル高原を中心として、さらに湾岸部と内陸部でわかれて、違った気候・文化を持ちます。
住んでいる人たちは大きく分けて4つ。
ポルトガル到達以降入植してきた白人とその奴隷として連行されてきたアフリカ系黒人、さらに先住民と近現代に移り住んできたヨーロッパ、アジア、アフリカ系の移民です。
今では白人と黒人の別もなく、血に血を混ぜているような感じでしょうか。

経済は発達途上とはいえ、国民総生産(GNP)が世界第9位(2004)といいますから、よほどのものです。
ちなみに、日本は世界第2位(2004)です。
戦後、精密機械工業を中心に爆発的に成長したブラジルは、1970年代のオイルショックで一時破綻しましたが、1990年代には復活。
現在は豊富なエネルギー資源を武器に、BRICsの一角として成長を続けています。

話の事欠かないのがブラジルですが、まずはやはりサッカーでしょう。
「セレソン」(「選ばれし者」という意味)という愛称を持つ代表チームはまさしくスタープレイヤーの集まりといえるでしょう。
また、代表選手だけでなくクラブチームも高い水準を誇り、日本など外国で活躍するブラジルのサッカー選手も多くいます。
日本でなじみが深いと言えば、前日本代表監督のジーコ(1953~)さん、鹿島アントラーズのストライカーだったアルシンド(1967~)、ひざまずいて神に祈りを捧げるポーズで人気を博したビスマルク(1969~)さんなど、数々います。
わたしの住んでいる山梨で言えば、去年までヴァンフォーレ甲府で活躍していたバレー選手がブラジル出身と言うことで、しかも今期からバレー選手の抜けた穴を埋めるジョジマール選手、アルベルト選手もまたブラジル出身と言うことで、ぜひ期待したいと思います。

また、ブラジルはモータースポーツも盛んで、「音速の貴公子」アイルトン・セナ(1960~1994)が著名なところです。
セナは1994年5月1日、F1グランプリ第3戦サンマリノGP決勝にて、時速200km/hを超える速度でコンクリートウォールに激突し、4時間後に死亡が確認されました。
わたしの記憶は非常にあいまいです。まだ小学生で、F1のおもしろさが理解できていなかったのです。
なので、いい年をした大人の男の人たちが号泣しながら伝えるセナの死亡事故を、わたしは怪訝な顔つきで見ていたと思います。
しかし、セナの存在は祖国ブラジルでは、ペレやジーコ並の人気を誇ります。
彼の葬儀は国葬を持って行われ、彼の命日である5月1日を「交通安全の日」と定めたほどだそうです。

それから、ブラジリアン柔術などに代表されるように、ブラジルでは格闘技が盛んですし、恵まれた身体能力を生かしたバレーボールも、世界レベルの強さを誇ります。
このようにブラジルでは、広大な土地と多様な自然環境、さらに長い歴史によって培われた豊富な人材を有し、世界に立とうとしているのです。

まだまだブラジルについては書ききれません。
例えば、ブラジルの文化について。あるいは、建築。
また、独特の音楽やリオのカーニバル。
日本から移住した日系ブラジル人のことだって、それはそれはたいそう興味深いことです。
書くことは、山のようにあります…話題に事欠かないのも、高い知名度を誇る大国だからこそでしょう。
これらについてはまた書くこともあることを信じて。今日はここまでです。


名古屋旅行記(番外編)

2007-02-14 22:35:45 | 
今日は名古屋旅行記番外編ということで書きます。
昨日の終わりに書いた通り、わたしの「生まれて初めての体験」について書きましょう。

名古屋からの帰り道でのことです。
私事で静岡県富士宮市に立ち寄る用がありましたので、急ぎの用でもなかったのですが、ついでに寄ることになっていました。
で、わたしはそこで人生初めての経験をすることになりました。

適当に用を済ませて、帰ることになりました。
来たときと同じように、特急ふじかわで帰ることにしようと思い、知人に車で富士宮駅まで乗せてきてもらいました。
そして、「ほんじゃねー」などといいながらわかれて、電車のきっぷを購入。そして、電車の来る5分前にはホームのベンチに座り、うだうだしていました。
どうにも暇なので、携帯電話にダウンロードしたゲームでもしようと、カバンの中に手を手を突っ込んで、探りはじめました。
ところが…。そこにあるはずの携帯電話がありません。
おかしいなぁと思いながら、手はカバンから上着のポケットに。
しかし、ありません。もしかして…と少し焦りはじめました。ズボンのポケットの上からぱんぱんと叩いても、そこに携帯がある様子もありません。
いよいよ焦りはじめて、今度はカバンの奥深くに手を入れて、底からくみ上げるように探りますが、携帯は見つかりません。
もしかして、さっきの友達の車の中に置いてきたかも知れない。これは、連絡せねば…と携帯、携帯とまた探し始めます。
だから、その携帯がないっつーの!と自分で自分につっこみながら、あたふたしますが、その時には電車が来て、もはや富士宮から離れねばならなくなっていました。

わたしのいっていた生まれて初めての敬虔とは、携帯の紛失でした。
携帯を持ってそれなりに経ちますが、携帯をなくしたということはこれまでになく、鍵と手帳と携帯というのは、わたしの中では三種の神器に匹敵する重要なものでした。
その携帯をなくしてしまったということは、相当なことなのでした。
とにかく、その友人に確認をとるまでは本当に車の中に置いてきたのか、それとも別の場所に落としてしまったのかわからないわけですから、甲府までの約1時間はかなりの緊張でした。
結局、携帯は友人の車の中で見つかり、宅配便で送ってもらうことになったのですが、いろいろと行き違いがあって、わたしの手元に戻ってきたのは6日後…2月の10日でした。

最初こそ不便なものでしたが、考えてみればわたしにメールをくれるなんてのは、ブラザーKくらいなものですから、それほど生活に支障があるわけでもなく、そうですね。マイナス面と言えば、個人情報の流出がないかとどきどきしたぐらいのものでしょうか。
とにかく、携帯の紛失という希有な体験をしたことは、まぁ人生の良い経験だったかも知れません。

というわけで、終始屁たれだった名古屋旅行記も今日で終わりです。
また通常営業に戻りたいと思います。

名古屋旅行記(7)

2007-02-13 22:24:44 | 
半日とはいえ、水族館を見るという貴重な体験をしたわたしたちの…いや、わたしのへたれな旅もいよいよ終盤。
最後は、ぜひ名古屋の名物料理を食して終わろうとずーっと考えていたわたしは、ぜひ名古屋のひつまぶしを食べたかったのです。
ひつまぶしとは、19世紀後半から名古屋市内に現れた料理で、ぶつ切りにしたウナギの蒲焼きをごはんに乗せた料理です。
お櫃(ひつ)にウナギをまぶした料理という意味ではなく、もとは「まむし(関西方言で、ウナギの別名)」がなまったものらしいです。
ひつまぶしは、1回の注文で3つの味を楽しめる、実にお得な料理です。
まず、1回目はウナギとごはんのみで頂き、2回目は薬味で味に変化を持たせます。3回目は用意されたお茶か出汁をかけて頂きます。
また、愛知県はウナギの生産高日本一を誇り、まさに日本一のウナギ料理といえそうです。

ところが、富山のA木くんの帰りの電車の時間が迫っていましたので、何とか駅内のご飯屋で昼食をすませようということになりました。
時は1時を過ぎたばかり。
昼ご飯のピークを過ぎたとはいえ、まだあちこちのご飯屋は込んでいる状況です。
しかも名にし負う天下の観光地名古屋ですから、もはやえり好みをしている状況ではありません。
目に付いた定食屋さんに飛び込みました。
それが名古屋駅内のある「名古屋呑食処みかど」さんです。
このレストランの売りは名古屋名物を気軽に食せるということもあるのですが、何よりも月~土曜日の日替わりランチ780円は大変、お値打ちです。
ところが、わたしたちが赴いたのは日曜日ですから、日替わりランチは残念ながらやっていません。
しかも、メニューをみるとひつまぶしがありません。
がーん、何たることか。ひつまぶしがないとは!
しかし、もはやどうしようもありません。
歯が痛くておいしく食べられないのを覚悟して、味噌カツ定食をオーダーしました。

きしめんと並んで頭を横切る名古屋の名物といえば、味噌カツです。
トンカツに、八丁味噌をベースとして出汁、砂糖などで割った甘いソースをかけたものです。
成立年は戦後らしいということですが、すっかり名古屋名物として認知され、今やキング・オブ・名古屋名物といっても間違いではないでしょう。
ソースは、これがまさしくというものはなく、店によって独自の味があるようです。
みかどさんの味噌カツは、味噌ソースが小皿に別に入れられていて、それにつけて食べるというものです。
味噌カツが、串カツのタレから発展したことを考えれば、このスタイルもありだと思いました。
さぞおいしかったでしょう。もし…歯が痛くなければ。
噛むことに懸命になるあまり、味わうことなく食べきってしまいました。
痛い歯が痛まぬように噛むということは、予想以上に精神をすり減らす作業だと言うことを改めて痛感しました。
結局、食べられたのはごはん・味噌汁・味噌カツだけ。香の物ときざみキャベツは泣く泣く残してしまいました。

A木くんは、わたしがまだ味噌カツと格闘中にさくっと完食して帰って行き、残ったK本さんとA川さん、わたしとKはみかどさんを出て、わかれました。
わたしとKは名古屋駅内で土産を買いつつ、15時33分発こだま542号に乗って帰りました。
約60分後には静岡駅でKとわかれ、一人山梨への帰りを急いだのでした。

というわけで後半駆け足になりましたが、わたしの名古屋旅行記は終わりです。
最後の写真は、名古屋駅内レストラン「名古屋呑食処みかどのみそカツ丼ときしめんのセット」です。
わたしが頼んだわけではなく、ブラザーKが注文したものです。写真を取らせてもらいました。
今見ても、実にうまそうですね。やはり、名物は雰囲気で食べるものですね。

ところで、前回予告した「生まれて初めての体験」は事情により、また明日…番外編で紹介したいと思います。
というわけで、勘弁してください。