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28.British Virgin Islands

2007-02-22 23:01:41 | 『万国巡覧記』

イギリス領ヴァージン諸島
(British Virgin Islands)

1.面 積  153km2
2.人 口  約22,000万人
3.首 都  ロードタウン
4.人 種  多くが黒人、混血のムラート、白人は少数
5.言 語  英語
6.宗 教  プロテスタント約86%
7.主要産業 観光、漁業、酒造
8.通 貨 USドル
9.3文字コード ISO&FIFA/VGB、IOC/IVB
(Wikipedia)

以前、米領サモアを紹介した際に、東と西をイギリスとアメリカが別々に統治していたという話をしました。
サモアは東サモアはアメリカが治め、西サモアはイギリスが治めていました。
ヴァージン諸島も西はアメリカ、東がイギリス領で今回紹介するのはイギリス領ヴァージン諸島ということになります。

1493年、イタリアの冒険家クリストファー・コランバス(1451?~1506)によって発見されたヴァージン諸島は、西インド諸島の一部に過ぎません。
米英のヴァージン諸島合わせても約160の島しかなく、しかもそのほとんどが無人島です。
英領に限れば、島の数は約60。そのうち、人が生活を営んでいる主な島は、首都ロードタウンがあるトルトラ島をはじめ、ヴァージン・ゴルダ島、アネガダ島、ヨスト・ヴァン・ダイク島の4つ程度だと言うことです。
1648年にオランダが入植をはじめ、1672年にイギリスに併合されました。
主な産業は観光、酒造、漁業で人種の多くは黒人です。

さて、ヴァージンといえば日本語で処女ですね。
この国と同じくヴァージンの名を持つ地域といえば、アメリカのヴァージニア州があります。
この州の名の由来は、イングランド女王エリザベス1世(1533~1603)。弱小国家イングランドを支えた名君、また生涯独身を貫いたことから「処女王」と呼ばれました。
その寵臣ウォルター・ローリー(1552/54~1618)が新大陸アメリカに植民地を築いた際、未婚の女王であったエリザベス1世に敬意を表して「ヴァージニア植民地」と名付けました。
そのヴァージニア植民地が今のヴァージニア州になったわけです。
ところが、このヴァージニア州のヴァージンと、ヴァージン諸島のヴァージンは実は違うヴァージンに由来しているのです。

4世紀頃…といえば、キリスト教がローマ帝国の国教になるかならないかぐらいの時代ですね。
キリスト教のローマ帝国国教化は380年、テオドシウス帝(347~395)の御代ですから、きっとそれ以前の話です。しかしこの時期は同時に、キリスト教がローマ帝国内で支持を得始めていたときでもあります。
そのころはまだブリテン島には国といえる国もなく、小国が乱立している時期でした。
また、遠くローマからの植民が行われていましたが、完全に支配されるということはなかったようです。
そんな頃の話です。
当時、イングランド地方を治めていた国王が、小国の王女ウルスラを嫁に欲しいといいよってきました。
この国王がどこの民族で、ウルスラが何民族なのかはわかりませんが、ウルスラが敬虔なキリスト教徒で、さらにこの異端のイングランド王が、熱心なキリスト教徒であるウルスラの国の住人たちに嫌われていたことは間違いありません。
父親は娘の気持ちを察して断ろうと思いました。ところが、意外にも当のウルスラは、この婚約に応じるといいます。
「お父様。もし王の要求をはねのければ、イングランドは怒りきっとこの国に攻め込んでくるでしょう。この国のように小さい国では、到底勝ち目はありません。ここは、民を守るために、わたしが犠牲になりましょう」
しかしウルスラは、一計を案じていました。
それは、イングランド王に求婚を諦めさせるための、秘策。

結婚するに当たり、ウルスラは一つのお願いをイングランド王にしました。
「ふむ、わしにできることなら何でもかなえて進ぜるが。どのような願いじゃ?」
「ご存じとは思いますが…わたしは、キリスト教を信仰しております」
「ふむ」
「しかし王に嫁ぐに当たり、その信仰を捨てねばなりません。そこで、わたくし、まだ清い身のうちに、聖地を訪れておきたいのです」
この時代の聖地といえば、ローマ。ローマに行きたいというのです。
「おぉ、そのようなことか。ならばよろこ…」
「そのために! そのために乙女を10人、さらにその乙女たち一人に当たり千人の侍女を付けていただきたいのです」
ガーン! 乙女十人とその侍女1万人。さらに、ウルスラ自身の侍女千人を加えれば、なんと一万千人の大所帯となります。
これだけの人数をローマへと往復させるとなると、莫大なお金がかかってしまいます。
これでは、いかに国王といえども簡単に返事をすることはできません。
しかし、国王のウルスラへの好意は本物でした。 国王は、承諾をしました。

こうして国王はヨーロッパ各地から乙女を募り、侍女を集め、洗礼を受けさせてキリスト教徒にさせた後、ローマへと送り出しました。
その旅の途中のことです。当時からキリスト教を保護していたドイツのケルンに立ち寄った際、ウルスラは天使の訪問を受けました。
天使はこう告げました。
「あなたはここケルンに再度至り、殉教の栄光を授かるでしょう」
ガーン。つまり死を宣告されたわけですが、敬虔なキリスト教であり、しかも母国イングランドに帰りたくない理由があるウルスラは、もしかしたらホッとしたのかも知れません。
ローマでは、教皇をはじめとした信徒たちの熱烈な歓迎を受けました。
しかし、これを好ましく思わなかったのが帝国側です。どこぞの妖しい宗教信徒が一万人を引き連れて上洛したのですから、さぞかし危機感をもったことでしょう。
そこで、ローマ帝国は画策します。
この辺境の地からやってきた宗教者たちを、どうにか葬ることはできないか、と。
もしそれができれば、神とやらの権威を失墜させることができるのではないかと考えたのでしょう。
しかし、いまやキリスト教徒の勢力は馬鹿にできないし、もし帝国自身が行動を起こせば領内の教徒が黙っていないでしょう。
そこで帝国は、長年の宿敵である東の民フン族に一行の虐殺を依頼します。

かくして、ローマからの帰路、再びケルンに立ち寄ったところをフン族に包囲され、街は蹂躙され、乙女・侍女たちはことごとく殺されていきます。
その中でも、とりわけ美しいウルスラだけは族長の目にとまり、捕らえられます。そして、族長の前に引き出され、
「どうだ、王女。わしの嫁にならぬか。そうすれば、命だけは助けてやる」
と条件を提示されました。
しかし、ウルスラは
「無礼な! 下がれ、下郎」
と…いったか言わないか。
とにかく、多くの部下の前で恥をかかされた族長は、怒りにまかせてウルスラを射殺してしまいました。

こうして天使のお告げの通り、無事に殉教を遂げたウルスラは聖人として崇められました。
ウルスラは機転が利き、一万人あまりを率い導いたことから、教職を守護する聖人として慕われています。

というわけで、ヴァージン諸島のヴァージンとは、すなわちこの聖ウルスラの伝説から採られたものです。国旗には、聖ウルスラの姿が描かれています。
ちなみに命名者は、発見者でもあるコランバスです。

いやぁ…今日は久しぶりに長い文章になりました。
明日は、もっと力抜いて書こうと思います…。


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1 コメント

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初めての訪問です (kawamoto)
2007-03-05 18:17:24
私のブログにコメントをいただいた元世界銀行副総裁の西水美恵子さんが、4月に日本に帰ってくるので、講演をお願いすることになり、彼女が住んでいる英領バージン諸島がどんなところかと検索して初めて訪問させていただきました。
西水さんによると、
「外交はイギリス、内政は自分たち。出身地のアフリカが母系社会だったせいか、国会議員も企業経営者も女性が多い。」
そうです。
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