さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

佐久・小県訪問記 前編

2009-08-26 22:00:00 | 旅行記

旅行のネタが重なりますが、先日、信州上田・海野・小諸・佐久を巡ってきたので、その話をしたいと思います。
実は、上田はわたしのあこがれの土地。別に幸村じゃぁありません。むしろ、幸村こと信繁の祖父・幸隆や父・昌幸あたりがお気に入りなのです。
だから、一度は上田の城を訪れてみたいとは思っておりました。
それに、どうも佐久・小県といわれる地域は足を伸ばしにくいのです。ルートとしては、国道141号線(清里ライン)を北上するか、電車なら日本一高いところにある駅として有名な野辺山駅がある小海線を行きます。
どちらも便利とは言えないのですが、いざ行ってみれば清里ラインはカーブも少なく、快適な高原ドライブルート。颯爽とした風が大変心地よい道路です。
一度、上田まで行って、観光しながら降って帰ってくるというルートを設定しました。
到着したのは11時ぐらいだったのですが、先に昼飯を食べようと言うことになりました。

やはり長野といえば信州そば。以前にも戸隠にいったときには戸隠そばを食べましたが、今回は上田の老舗蕎麦屋「刀屋」さんで食べることにしました。
どうやらこのおそば屋さん。わたしたちなどはガイド誌を見てほいほい決めたのですが、そばが鬼のように盛られていることで有名なのだそう。
車は駐車場も少なく、路駐が出来るような場所でもないため、けっこう止めるのに苦労しそうです。わたしらの場合は、運良く一台分空いていたし、車も大きくなかったために労せずして止めることが出来ました。
そういえば、香川ナンバーの車も見ました。うどんの国の人も、そばを食いたくなるものなのですねぇ。
開店11時だというのに、すでに行列ができています。30分ほどで入れたのですが、いやぁすごい人です。
わたしが頼んだのは真田そばというそば。
みそが入れられた器とめんつゆ、出汁汁の入った容器が出てきて、それを好みの分量で割って食するという、いかにも信州っぽいそばです。
待っている間に耳に挟んだのですが、お客さんが「大盛りってどれくらい?」とお店の人に聞いたんです。そしたら、「1キロあります」っていったんですよ。そば1キロって、ものすごいですよ。ご飯一膳150gといいますから、実にその6倍以上。
もちろん、わたしは普通盛りです。出てきたものを見たって、普通盛りでもかなりの分量です。小食である女性なら、中盛り以下でお腹が満たされることでしょう。
そばは茹でたてで、水がびたびたしているのがいい感じです。お給仕の方に食べ方を教えてもらって、食べますと実においしい。味が刻々と変わっていくので、そこも楽しかったですね。
わたしはそばの善し悪しなどわからぬ舌音痴ですが、山梨には「おざら」というテレビなどでは「冷製ほうとう」などといわれているものがあるのですが、まぁ近からずとも遠からずといったところ。そばはしゃきしゃきしていて抜群においしかったですよ。

その後はわたし的目的地である上田城
築城年は、1583(天正11)年。表裏比興の者といわれた謀将、真田昌幸(1547~1611)が築城主です。平城で、決して堅固な城郭ではなかったそうですが、二度にわたる上田合戦では地の利、人の利を生かし、徳川軍を撃退しました。
特に名高いのは、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦の一部として語られる第二次で、38,000の徳川軍をわずか3,500人で釘付けにしたというのですから、その知略の冴えはかなりのものですね。
そんな上田城。関ヶ原後に徳川氏によって破壊されてしまいます。よほど憎かったと見えますが、その後に東軍についた昌幸の長子、信之(1566~1658)が上田に入っていますから、真田の力量は確かなものだったのでしょう。
ちなみに、昌幸と次男の信繁(幸村、1567~1615)は九度山へ配流となります。
ところが、真田氏の上田支配は、22年で終わります。どういう事情があったのかわかりませんが、上田に真田がいるというのは、やはりいい思いはしなかったのでしょうね。加増され、松代藩へと移されます。その後は10代を数え、明治維新を松代で迎えるのです。
続いて入ったのは、漫画『センゴク』で名が知られた仙石秀久(1552~1614)の三男、忠政(1578~1628)でした。隣の小諸藩からやってきた忠政は、上田城を再建しようとしますが、なかなか工事は進まず。彼の死後にひとまずの完成を見ました。
忠政の孫の代(正しくは曾孫)に但馬出石に移封され、次は藤井松平氏が入ります。
藤井松平氏は、以前にも話した十八松平の一つで、三河国藤井を領しました。徳川本家との血縁としては、家康の高祖父(ひいひいじいさん)に当たる長親(1473~1544)の五男、松平利長(?~1560)を祖とするそうです。
そのまま明治を迎え、上田藩は廃藩。上田県となりますが、1871(明治4)年、長野県に吸収され、今日に至ると。
柳沢氏以降天領となり、幕末の舞台から影を潜めてしまった甲府とは違い、幕末期にも重要な地位を占めた上田藩。中村半次郎こと桐野利秋(1838~1877)に斬られた軍学者・赤松小三郎(1831~1867)は上田藩にの出身です。
そんな上田城。残念ながら、維新後に民間に払い下げられ、忠政が再建した本丸や櫓は打ち壊され、畑にされてしまったそうです。
それに危機感を持ったのは、地元の名士だった丸山平八郎氏。彼が本丸付近を買い取り、真田神社が創建される際にはその土地を寄進したというのですから、えらい太っ腹です。
今、こうして上田の城跡が城址公園となり、市民の憩いの場となっているのは、この丸山氏のおかげであると。
残念ながら、城跡を中央線が分断している甲府城址とはかなりの違いですが、まぁ地元の名士が稀代の商人であって、過去の遺産よりも(違う意味で)未来に投資した結果というか。そういう意味では現代的というか昭和的という感じがします。それに甲府は天領でしたし、躑躅ヶ崎館の方が県民の力をつかんでいたという点もあるでしょう…と思いたいです。

こりゃぁ興奮しすぎて長い文章になってしまいました。
続きはまた明日にしたいと思います。
今日の一枚は、「上田城東虎口櫓門」です。この中は資料館になっています。



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あれれ? ()
2009-08-26 23:44:40
あれあれ?
誰と行ったの?
返信する
それは、 (office-2003_p-e_0432)
2009-08-28 20:44:33
アムロだよ。アムロ・レイ。
ガンダムに乗ってたアムロ・レイ。
返信する