設楽町にある田峯城。設楽城は東栄町にあります。ややこしい!
設楽氏が築いたのが東栄町の城。この設楽氏、いつのまにやら新城市へ移動して設楽原決戦の勝楽寺前激戦地近くの川路城へ移動しています。どうやら、武田方の圧迫を受けてのようです。と、今回は田峯城の話でしたね。。。
この辺りの有力領主菅沼氏の宗家、田峯菅沼氏の居城です。作手の奥平氏、長篠の菅沼氏と併せて『山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)』と称せられています。もっとも、弘治二年に田峯菅沼当主菅沼定継は今川氏に背き、菅沼一族が分裂。今川氏の支援を受けた布里菅沼定直を始めとする弟達に破れ、まだ幼い定継嫡子は命を定直に助けられ、養育されます。これを布里合戦と呼びます。
従来、郷土史料には、定継は織田と同盟を結んだことにより今川に背いたと言われていましたが、近年、弘治二年のあたりに今川義元が大規模な検地を三河で実施し、増分(縄延び)した部分を新恩給付する形をとり、実質的に課役を増大させるとともに、従来の国人領主層の支配下にある国人領主の家臣団を直接支配して国人領主層の力を弱めようとしたらしく、それが、弘治二年の三河における反今川蜂起となった、という見解が出されています。
実際、布里合戦は宗家田峯菅沼とそのすぐ下の弟が反今川。三男以下は親今川となっています。奥平も似たような動きをこの時見せています。そして何より、弘治二年の織田信長は布里合戦の起こる5月の直前の4月に舅の斉藤道三が義龍に殺される事態となって、弟織田信勝との関係では最悪の状況といっても良い。とても三河に手を出す余力など無い状況にあります。それに、奥三河の領主が織田と結んで今川から寝返るには、織田の援軍が望める状況に無いといけません。この時、尾張の東側は織田信勝が抑えていますし、西三河の松平を通り越して奥三河と接触するのは無理があるし、距離もかかる。すると、思いっきり尾張の北側を経由するか、いっそ東美濃(現在の国道257号)を経由し、稲武方面(現在の国道153号)を経て到達するしかないと思います。ところが、弘治2年の257号と153号の結節点にあたる武節城(現在のどんぐりの湯付近)は、実は武田の城となっているのです。
これでは、奥三河は織田からの援軍が望めない状況にあるといえます。それなのに、織田に通じて寝返ることは考えにくい。それだけに、今川の検地に対する反乱説という説は、実際の反乱を起こしている層を考えても一致しています。また、別の話で詳しく書きますが、織田ではない一族がバックについていた、という、ことになりつつあります。田峯城からどんどん逸れていってしまうので、この話は、この辺りで一旦やめます。
さて、この田峯城。父を倒した叔父に養育された若い当主を抱えた状況で、元亀年間の武田侵攻や長篠合戦を迎える形になってしまいます。その頃になると、突如として現れるのが筆頭家老「城所道寿信景」です。「城所道寿(きどころどうじゅ)」が一般で「きどころみちひさ」と書いているものもありますが、熊谷丘山の『奥三河の伝承』には「道寿信景」とあるため、道寿というのは、出家後の名前かなんかでしょう。
田峯城の最も高い部分にあたる主郭のすぐ下、大手門を仰ぎ見る形の左手側にある曲輪を「道寿曲輪」と呼び、城所道寿が住んでいた、とされています。
田峯城自体は、尾根の先端を自然地形を活かしながら、円形の曲輪を連続させて敵の侵入路が常に曲輪の下を通らせる、という点が見所になります。
残念ながら、現在主郭部分に発掘などによる想定などとは全く関係の無い、一般的な武家屋敷をなぜか建築しており、その際、どうも主郭の状況をかなり破壊したように見受けられます。
ちょっと頂けないのは、主郭に『大手門』の再現施設がどうみても搦手門の位置におり、逆に大手からの入口になる門を『搦手門』として復元施設を作ってしまっていることです。私はかなり混乱しましたが、どうやら大手門と思われるものをここに再現したのだよ、と、言っているだけ、と、数週間後に知り合いに教えてもらいました。まぁ、再現施設を建てるのは悪くはないですが、もう少し、その城の持つ歴史に気を配っていただけたらな、と、いうのは私ら城ヲタの願いです。
さて、話が飛びましたが、道寿曲輪。
観音寺城などは、有力家臣がそれぞれ城の中に曲輪を持っており、領主である六角氏の曲輪が規模や高さの違いがわかりにくく、それが六角氏の領主権力をストレートに反映したものである、と、よく説明されています。
道寿曲輪の位置からすると、相当当主に近い存在だったといえます。が、後から名付けられた可能性もあるかも知れませんね。
さて、この城所道寿。
この城のエピソードに深くかかわっています。そして、長篠合戦でも結構重要な脇役として登場してきます。
長くなってしまいましたので、エピソード紹介と城所道寿の謎については、明日以降にいたします。
設楽氏が築いたのが東栄町の城。この設楽氏、いつのまにやら新城市へ移動して設楽原決戦の勝楽寺前激戦地近くの川路城へ移動しています。どうやら、武田方の圧迫を受けてのようです。と、今回は田峯城の話でしたね。。。
この辺りの有力領主菅沼氏の宗家、田峯菅沼氏の居城です。作手の奥平氏、長篠の菅沼氏と併せて『山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)』と称せられています。もっとも、弘治二年に田峯菅沼当主菅沼定継は今川氏に背き、菅沼一族が分裂。今川氏の支援を受けた布里菅沼定直を始めとする弟達に破れ、まだ幼い定継嫡子は命を定直に助けられ、養育されます。これを布里合戦と呼びます。
従来、郷土史料には、定継は織田と同盟を結んだことにより今川に背いたと言われていましたが、近年、弘治二年のあたりに今川義元が大規模な検地を三河で実施し、増分(縄延び)した部分を新恩給付する形をとり、実質的に課役を増大させるとともに、従来の国人領主層の支配下にある国人領主の家臣団を直接支配して国人領主層の力を弱めようとしたらしく、それが、弘治二年の三河における反今川蜂起となった、という見解が出されています。
実際、布里合戦は宗家田峯菅沼とそのすぐ下の弟が反今川。三男以下は親今川となっています。奥平も似たような動きをこの時見せています。そして何より、弘治二年の織田信長は布里合戦の起こる5月の直前の4月に舅の斉藤道三が義龍に殺される事態となって、弟織田信勝との関係では最悪の状況といっても良い。とても三河に手を出す余力など無い状況にあります。それに、奥三河の領主が織田と結んで今川から寝返るには、織田の援軍が望める状況に無いといけません。この時、尾張の東側は織田信勝が抑えていますし、西三河の松平を通り越して奥三河と接触するのは無理があるし、距離もかかる。すると、思いっきり尾張の北側を経由するか、いっそ東美濃(現在の国道257号)を経由し、稲武方面(現在の国道153号)を経て到達するしかないと思います。ところが、弘治2年の257号と153号の結節点にあたる武節城(現在のどんぐりの湯付近)は、実は武田の城となっているのです。
これでは、奥三河は織田からの援軍が望めない状況にあるといえます。それなのに、織田に通じて寝返ることは考えにくい。それだけに、今川の検地に対する反乱説という説は、実際の反乱を起こしている層を考えても一致しています。また、別の話で詳しく書きますが、織田ではない一族がバックについていた、という、ことになりつつあります。田峯城からどんどん逸れていってしまうので、この話は、この辺りで一旦やめます。
さて、この田峯城。父を倒した叔父に養育された若い当主を抱えた状況で、元亀年間の武田侵攻や長篠合戦を迎える形になってしまいます。その頃になると、突如として現れるのが筆頭家老「城所道寿信景」です。「城所道寿(きどころどうじゅ)」が一般で「きどころみちひさ」と書いているものもありますが、熊谷丘山の『奥三河の伝承』には「道寿信景」とあるため、道寿というのは、出家後の名前かなんかでしょう。
田峯城の最も高い部分にあたる主郭のすぐ下、大手門を仰ぎ見る形の左手側にある曲輪を「道寿曲輪」と呼び、城所道寿が住んでいた、とされています。
田峯城自体は、尾根の先端を自然地形を活かしながら、円形の曲輪を連続させて敵の侵入路が常に曲輪の下を通らせる、という点が見所になります。
残念ながら、現在主郭部分に発掘などによる想定などとは全く関係の無い、一般的な武家屋敷をなぜか建築しており、その際、どうも主郭の状況をかなり破壊したように見受けられます。
ちょっと頂けないのは、主郭に『大手門』の再現施設がどうみても搦手門の位置におり、逆に大手からの入口になる門を『搦手門』として復元施設を作ってしまっていることです。私はかなり混乱しましたが、どうやら大手門と思われるものをここに再現したのだよ、と、言っているだけ、と、数週間後に知り合いに教えてもらいました。まぁ、再現施設を建てるのは悪くはないですが、もう少し、その城の持つ歴史に気を配っていただけたらな、と、いうのは私ら城ヲタの願いです。
さて、話が飛びましたが、道寿曲輪。
観音寺城などは、有力家臣がそれぞれ城の中に曲輪を持っており、領主である六角氏の曲輪が規模や高さの違いがわかりにくく、それが六角氏の領主権力をストレートに反映したものである、と、よく説明されています。
道寿曲輪の位置からすると、相当当主に近い存在だったといえます。が、後から名付けられた可能性もあるかも知れませんね。
さて、この城所道寿。
この城のエピソードに深くかかわっています。そして、長篠合戦でも結構重要な脇役として登場してきます。
長くなってしまいましたので、エピソード紹介と城所道寿の謎については、明日以降にいたします。