長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

大日本史料

2012年02月27日 | 日本史
それは『城所道寿信景』という田峯菅沼の家臣を調べたい、ただ、それだけのことから始まりました。

今までのように、そこそこ資料を集めていれば大方の人物像は現れようて…、と、たかを括って調べ始めましたが、どうにも掴めない。

新城市が発行している『山家三方衆』という本にある「城所道寿が田峯菅沼の中で特別扱いを受けている。」という趣旨の記載は、どうやら甲陽軍鑑に寄っているらしい。
なので、甲陽軍鑑品十七をコピーしてくると、田峯菅沼氏とは別の記載方法となっているが「一騎合衆」という分類がなされている。説明書きに『是はさかひめにて関をとり或陣へ立ても寄合とて牢人衆と一備有。』とあるため、国境付近の守りを固めて合戦時などは牢人衆と一体となって行動する、ということかな?と、理解しました。(が、どうなんでしょうか。詳しい方が見えたら「こう解釈するのだ。」と教えていただけるとありがたいです。)
もっと端的に「一騎合衆」を説明している資料が無いかと仕方なく手当たり次第に関係ありそうな本をコピーしてきたものの説明している資料が無い!、という悲痛な叫びは前々回に書きました。

とりあえず資料を読み始め、甲陽軍鑑品十七にある「惣人別之事」を論評した『武田氏の研究』(吉川弘文館 編者柴辻俊六 S59.3.1初出)の中にある「一「甲陽軍鑑」の武田家臣団編成表について」(小林計一郎)を読んでおりましたところ、甲陽軍艦の記述は当時のなにかの資料を参照したっぽく、それなりに注意して使えば信頼できるんじゃない、という結論に至っていました。「一騎合衆」については「いわゆる一騎合衆は除いているのだろう」と、さらっと書いてくれているため「だからその一騎合衆ってなんなんだよ!!!!」と絶叫したくなり、相変わらず不明なままですが、どうやら武田遺臣団が徳川家康に起請文を提出したことがあるらしく、その家臣団をまず当たるのが武田家臣団調査の常套手段のよう。もっとも、城所道寿は家康に成敗されたらしいので、起請文に名を連ねることはありえないのですが、では、その起請文が見てみたい、と、思う。

で、手当たり次第に検索しまくっていると「大日本史料」というものにぶち当たる。なんか図書館だかで見たことある名前だぞ…、と、思いながら検索をかけていくと、どうやら東大の史料編纂所がデータベース化してみることができるらしい。適当に入力していくと、なんと、見ることができるではないですか。そこのなかに確かに起請文に名を連ねた武将が列挙されている!

おおおお、と、一人感動しておりました。
全くの素人でも、色々と調べることができる世の中になったんですねぇ。
でも、内容が難しいものが多いので、解釈に誤りをおかしそうで、友人の佐渡守のように通信の大学へ通って、しっかりと勉強したいものです。

日本史を専門に勉強されてきた方やお詳しい方からすると「なんだ、うらにわは今頃こんなことに気づいたのか。」と笑われるかもしれませんが、新書レベルを読んで面白がっている、歴史は趣味レベルの人間としては、新鮮な発見だったわけです。

もっとも、発見に感動してブログに書いたのは良いのですが、肝心の城所道寿については全く関係の無いことなので、無駄足踏んだ、ってことを報告しただけになりますが。。。