設楽町名倉付近の船渡橋の戦いで奥平信光が戦った相手の遠山氏は織田信長に唆された、という説が一般ですけど、そうじゃないだろうということが、ただ言いたいだけでしたが、ちょっと行き詰った、というのは以前書きました。
※3日分あります。
で、まぁ、この時期の遠山氏の動きなどについて最近積極的な発言を恵那市教委の三宅唯美さんという方がされており、結構私の「織田信長じゃないんじゃない?」的な考え方と合致するので、最後はそれで締めよう、と思っているのですが、その前に遠山氏と東濃を巡る情勢を調べ始めたら、どんどんとさかのぼって行ってしまい、もう当分収拾が付かない状況になっています。ので、それをとりあえずご報告しておきます。
どこまでさかのぼったのかと言うと、応仁の乱です。
美濃には土岐氏という有力守護大名がいましたが、その守護代である斉藤妙春(さいとうみょうちん)という有名な家臣がいます。この人、美濃勢をまとめて相当勢力があり、応仁の乱の情勢に大きな影響力を持つまでに至ります。
で、現在の岐阜市を中心とした勢力である斉藤妙春を牽制するために、東軍細川氏は信濃の小笠原氏を動かして、岐阜の背後東美濃を襲わせます。そして、小笠原氏は木曽にいた木曽氏と結んで東美濃に進出。しばらく東濃を治めていました。その配下として遠山氏は東濃地方を治め続けていたものの、肝心の小笠原氏が武田信玄の下伊那進駐により崩壊。主がいなくなった国人領主である遠山氏は自立の動きを見せ、東濃地方を征圧したようなのです。
で、東濃地方を経由して飛騨へ攻め入る動きを見せた武田軍の動きに併せて行動していたようなのです。
三宅氏は、織田信長の叔母を妻に貰ったものの特に織田方と同調した動きを見せていない、と、主張されています。
そして、この時期の織田信長は西美濃には斉藤義龍がおり完全に反信長、三河との連絡網である現在の名古屋市守山も弟の織田信勝に封鎖されており、三河への連絡路が遮断されている。敵の背後を突く意味で遠山氏に同盟を持ちかけたとしても、遠山氏を配下のように扱える状況にはない、というのが私の推論です。それを裏付けるように遠山氏は武田氏配下としての行動を見せている、という研究結果もある。
どうしても岩村遠山氏と言うと女城主の織田信長の叔母のイメージから、「遠山っちゃ
織田信長の関係だろう。」という印象が強いようですが、そうではなくて、遠山は武田か独自の勢力に近い、ということと、そうなった場合の山家三方衆の置かれた立場、というものを見直してみたい、と、考えているわけです。
しかし、奥平家は今川に従っていた、という歴史もある訳でして(三岳城代を勤めている)、そうなると今川氏親、氏輝、義元、そして今川家と武田家、北条家の外交関係なども検討していかないと、山家三方衆の立ち位置が自分なりに理解・解釈できない。
で、奥三河の小さな戦いを調べていたはずなのに、応仁の乱の東軍細川勝元と西軍山名持豊(宗全)の同盟関係から、美濃守護代斉藤家、斉藤家の尾張への影響、斉藤道三の美濃簒奪、そして今川家から武田、北条、と、奥三河じゃない周辺地域のことを調べ始めてしまいました。
現在、各種資料を読んで年表などに整理し、それぞれの相関関係を洗っているのですが、仕事と育児に追われてなかなか読み込めないのと、本業で夜も拘束されることが多くなってきて、遅々として進んでおりません。
もっとも、こうしてたまにブログに書くことで、自分の中の整理にもつながります。
ま、素人の趣味の域を出ませんが、意外と調べていると楽しいものです。
※3日分あります。
で、まぁ、この時期の遠山氏の動きなどについて最近積極的な発言を恵那市教委の三宅唯美さんという方がされており、結構私の「織田信長じゃないんじゃない?」的な考え方と合致するので、最後はそれで締めよう、と思っているのですが、その前に遠山氏と東濃を巡る情勢を調べ始めたら、どんどんとさかのぼって行ってしまい、もう当分収拾が付かない状況になっています。ので、それをとりあえずご報告しておきます。
どこまでさかのぼったのかと言うと、応仁の乱です。
美濃には土岐氏という有力守護大名がいましたが、その守護代である斉藤妙春(さいとうみょうちん)という有名な家臣がいます。この人、美濃勢をまとめて相当勢力があり、応仁の乱の情勢に大きな影響力を持つまでに至ります。
で、現在の岐阜市を中心とした勢力である斉藤妙春を牽制するために、東軍細川氏は信濃の小笠原氏を動かして、岐阜の背後東美濃を襲わせます。そして、小笠原氏は木曽にいた木曽氏と結んで東美濃に進出。しばらく東濃を治めていました。その配下として遠山氏は東濃地方を治め続けていたものの、肝心の小笠原氏が武田信玄の下伊那進駐により崩壊。主がいなくなった国人領主である遠山氏は自立の動きを見せ、東濃地方を征圧したようなのです。
で、東濃地方を経由して飛騨へ攻め入る動きを見せた武田軍の動きに併せて行動していたようなのです。
三宅氏は、織田信長の叔母を妻に貰ったものの特に織田方と同調した動きを見せていない、と、主張されています。
そして、この時期の織田信長は西美濃には斉藤義龍がおり完全に反信長、三河との連絡網である現在の名古屋市守山も弟の織田信勝に封鎖されており、三河への連絡路が遮断されている。敵の背後を突く意味で遠山氏に同盟を持ちかけたとしても、遠山氏を配下のように扱える状況にはない、というのが私の推論です。それを裏付けるように遠山氏は武田氏配下としての行動を見せている、という研究結果もある。
どうしても岩村遠山氏と言うと女城主の織田信長の叔母のイメージから、「遠山っちゃ
織田信長の関係だろう。」という印象が強いようですが、そうではなくて、遠山は武田か独自の勢力に近い、ということと、そうなった場合の山家三方衆の置かれた立場、というものを見直してみたい、と、考えているわけです。
しかし、奥平家は今川に従っていた、という歴史もある訳でして(三岳城代を勤めている)、そうなると今川氏親、氏輝、義元、そして今川家と武田家、北条家の外交関係なども検討していかないと、山家三方衆の立ち位置が自分なりに理解・解釈できない。
で、奥三河の小さな戦いを調べていたはずなのに、応仁の乱の東軍細川勝元と西軍山名持豊(宗全)の同盟関係から、美濃守護代斉藤家、斉藤家の尾張への影響、斉藤道三の美濃簒奪、そして今川家から武田、北条、と、奥三河じゃない周辺地域のことを調べ始めてしまいました。
現在、各種資料を読んで年表などに整理し、それぞれの相関関係を洗っているのですが、仕事と育児に追われてなかなか読み込めないのと、本業で夜も拘束されることが多くなってきて、遅々として進んでおりません。
もっとも、こうしてたまにブログに書くことで、自分の中の整理にもつながります。
ま、素人の趣味の域を出ませんが、意外と調べていると楽しいものです。
遠山氏は室町幕府奉公衆で、そのうち一派が伊勢宗瑞に与して江戸城代になったと読んだ事がありますが、東美濃に落ち着く前は知りませんでした。ご説明参考になりました。
ちなみに富永氏も後北条氏の重臣になった一派がいるほか、石巻・多米の各氏も三河出身のようです。
これからちょくちょくお邪魔させていただければ思います。宜しくお願いします。
伊勢宗瑞は三河にも出兵していますし、東三河になると今川の影響力も大きいため後北条氏との関係も意外とあるのですね。
ブログの更新も途切れ途切れですが、是非おいでください。歴探へのブックマークも張らせてください。よろしくお願いします。
名倉舟渡橋についてですが、「岩小屋」は設楽町東南の「岩古谷山」だと私は推測しています。流れとしては……1)岩小屋で反今川方が籠城する2)岩村衆が後詰に向かう3)名倉で撃退される、という流れだと考えています。で、籠城したのは河合源三郎と菅沼大膳だと。これは7月4日伊藤貞守宛書状から推定しています。謀叛を起こしたものの失敗して岩小屋に逃げたとすると辻褄が合うんですよ。田峯菅沼氏は永禄3年に今川方として武節守備に当たっているのが確認できますが、永禄元年も武節は田峯菅沼氏の管轄だったと考えると、「何故岩村衆は武節を通過できたか」という疑問は解消します。
田峯菅沼の久助がその後今川氏に重用され武節を保持できたのは、(ここからはかなり憶測ですが)寝返って父大膳を売ったのが評価されたのではないかと思っています。
などと長文になってしまいましたが、色々と意見交換などできたら嬉しいです。奥三河は複雑で面白いですよね。
ブックマーク紹介ありがとうございます。あのような専門的なサイトにリンクしていただいて恐縮です。
岩小屋の見解、船渡橋の今川に対する反乱、という視点はなるほど!、と感心しました。確かに、前後の状況が綺麗に説明が付きます。
個人的にはこの時期の今川と武田の関係が南信州の付近ではどうなっていたのか、という点が非常に興味があります。対立関係にないのでしょうけど、奥三河と東美濃、南信州をめぐっては、微妙な感じではなかったかと思わんでもないですが、いかがお考えでしょうか?
天文末年と推定される天野氏宛ての武田晴信・長坂虎房の書状では、岩村遠山氏との仲介を依頼しています。長坂虎房は駿府で天野安芸守に会った繋がりで書状を出していますが、今川義元に事前了解は取っていたものと思います。
ちょうどその頃今川氏は尾張の岩崎まで前線を進めています。その一方で強引な三河経営のつけが回り、奥三河と高橋荘(寺部)を中心に色々と反乱が起きます。これが発展して、今川・武田に圧迫された遠山・広瀬・鱸の連合軍が形成されると考えています。
永禄元年には高森城が武田に、寺部城が今川に制圧されます。ここで3氏連合は事実上瓦解。その翌年9月、晴信は木曽氏宛て書状で「濃尾連合に対抗すれば今川方の希望にも添う」と書いています。緩衝地帯がなくなったことを受けて、敵対していた織田・斎藤が同盟したのでしょう。2~3月に信長が上洛できたのも斎藤氏との同盟があったから可能だったとすると自然に思えます。彼が慌てて帰国するきっかけになった「雑説」は武田・今川方の動きを指すと思っています。
※この考え方だと、秋山虎繁に宛てた織田信長書状が微妙な気がしますが、この部分は未検討です。
設楽の山奥?のひっそりとした集落です。
昔はすぐ近くの打ち捨てられた神社の神主をしていたそうで伊勢神宮の行事の際には末席ながら参加していたとも聞きました。
家自体は繁栄した時期もあるようですが何度も火災に合い(放火?)母家を含め蔵も新しくなっていて過去の資料は消失していると聞いています。
もっと詳しく聞いておけばよかったのですが既に祖父母は他界しました。
今となっては調べようがありません。
<数代前の家系図位しかありません
以前突然学者さん?歴史好きの方?が突然訪れ驚いたと聞きました。
ごくごく普通の民家であり、年配の親族が静かに暮らしています。お伝えする事もお見せするものも既にないので配慮をお願いします・・・。
火災は大変残念ですね。もし残って見えたら、貴重な資料もあったかもしれません。
結構歴史好きの方が「資料無いか」と訪れて驚かれることがある、というのは、あるお寺を拝観した際に、御庫裏さんから話しかけられて、話が弾んだ際にお聞きしたことがあります。
結構無礼に近い申し出もあったとその時聞きました。
礼儀や配慮は歴史に限らず必要ですよね。
美濃苗木城、遠山勘太郎の娘を信長の養女としたのち、輿入れした、という話を
「定本 武田勝頼」だったかなんだったかで読んだ気がしますので、私は美濃の遠山家はずっと武田方だと思っていました。
愛知県にいると、どうしても織田信長という巨人の影響力が大きくなります。また、徳川家臣団の場合、徳川家に如何に忠誠を誓ったか、を、歴史を改ざんしてまで家系図に記したりする形跡があります。
また、西三河の南部には確かに信長の影響力があったりするので、ややこしい部分があります。
ただ、西三河南部と北部、東三河は、同じ三河とはいえ、領主が違うと言ってもよいので、分けて考えないといけない気がします。既にそうした先行研究はあるとは思いますが、自分なりに整理を始めようとしております。
それにしても、足助や奥三河北部の人に聞くと結構「武田方だった。」という人に出会います。なので、地域地域できちんと抑えていかないといけないなぁ、と、思う次第です。
こないだ歴探の高村さんと話をしていた際にも「国レベルじゃなくて郡レベルで把握しないと、うまく整理ができない。」という点で一致していました。
長くなってしまいましたが、現在のところはそんな感じです。また、ぜひご意見をお願いします。