長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

熊本城 ~やっぱり天下の名城はスゴかった~

2015年09月01日 | こどもと百名城
城が好きならこの城へ行っていない、というのはありえないのではないか。


そう、熊本城。

そして、城オタだなんだと言っていながら、実は厄年になるこの歳まで熊本城を訪れていないことは、私の心の重荷になっていた。根が貧乏性なのと山城が好き、という2つの特性が合わさることで、近場の城を攻めるだけでも数が大量にありすぎて、遠くの城を攻める余裕がなかったのです。

しかし、子供に百名城のスタンプラリーをさせる、という天皇からの治罰綸旨を得た戦国大名のような大義名分を得た今、まずは天下一の称号を得ることも多い熊本城を攻めるべきだろうと考える。

長年の憧れの城。
二泊三日の最終日で疲労もピークでありながらも、父親一人は元気一杯です。


二の丸駐車場から本丸へ向かう途中の堀!
この綺麗に手入れされた芝を見るだけでも、この城がいかに大事にされているかがわかる!

さて、熊本城について簡単に。
大永、享禄年間(1521年~1532年)の頃、鹿子木寂心という地元領主が隈本城を築いたようです。

※熊本城天守閣資料館展示パネルより。鹿子木寂心。近所のおじいちゃん的感じ。

天文19年(1550年)に鹿子木氏は肥後国守護菊池氏を擁立して豊後大友氏に背いて隈本城に籠城したものの落城。その後、城という苗字の一族が城主となり転生6年(1578年)に島津氏に従います。そして大友氏にのこうげきを受けるようです。天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐により城氏は降伏。秀吉は隈本城に3泊し肥後国を佐々成政に与えるも国人領主の反乱にあい鎮圧に手間取った佐々は改易。天正16年(1588年)に肥後国を加藤清正と小西行長に分割して与えられます。

※熊本城天守閣資料館展示パネルの加藤清正。この絵はあまり見たことがない。これが実物に近いような気もする。と、なると、よく歴史資料集に載っている清正の肖像画は現在で言う所のフォトショ修正かけすぎの盛りすぎ的な感じか?

清正が熊本城を大改修して、現在の形の基礎ができ、江戸時代に加藤氏が改易されたのちは細川氏が入城し、手を加えて現在の形が整います。

さらにこの城が終わらないところは、明治時代になり西郷隆盛が江戸時代の武士層(士族)の不満から西南戦争を起こした際、熊本城に籠る新政府軍を攻撃します。
しかし、熊本城は落城させられず手間取るうちに応援部隊がやってきて田原坂で敗戦。
熊本城を攻めた西郷隆盛が「清正公と戦っているようなものだ」と言ったとか言わないとか。

実戦で強さを発揮したことも熊本城の評価が高い理由の一つです。西南戦争の熊本籠城戦が始まる直前に謎の出火で天守が燃えてしまったのは残念。どうも大砲などの標的になることを恐れた政府軍が自焼させた説が有力です。
(このあたりの話は『熊本城みてある記』(熊本市広報課)参照)

さて、この名城へいよいよ侵入。
この日は7月31日。猛暑が続く時期。大変暑かった。

※照りつける直射日光。

子供は今までの旅の疲労もあわさってグロッキー。
娘が「城嫌だぁ。」などと言い出す。
「スタンプ押せるから!」
と、宥めすかしてなんとかお金を払い入城。

「ほら、すごいお城だよ。」
と機嫌を取ろうとするが、
「もう、お城嫌だ!」
と、娘が言う。

ショックを受ける私。
そして、もう思う。
「子供が城好きでなくても構わん。もはやこれまで。厄年まで待ち続けたワシはここで諦める訳にはいかん。」と思う。
クズリまくって騒ぐ娘。さらに意味もなく同調して嫌だと騒ぎ始める息子。暑さと子供のぐずりで怒り出す妻。娘が城を嫌だと言い出したショック。

カイジの「ぐにゃあ」というシーン並みに思考回路が混乱し始めた私。
「ほんなら、もう帰れェ!!」
私は、気づいたら子供に怒鳴っていた。

帰れと言われても、熊本城から名古屋市までは帰りようがないわな、と、気づく。
子供は黙ったので、そのまま進む。

※目が死んでいる子供ら。

我ながら酷い父親と思いながらも、自分の小さい頃は、こんなに旅行など連れて行ってもらえず贅沢三昧のくせに我儘を言いおって、と、怒る自分もいる。
やはり子供が小さいと仲々城巡りは大変なものだと改めて思う。
前々からわかっていましたが。

そして宇土城の櫓を移設したと言われる宇土櫓。

※もはや天守。ちなみに重要文化財。

熊本城は他の城ならば天守並みの櫓が連立する様が壮観です。
中に入ると昔からの櫓だけあって、特に何かある訳ではなく、往時の様を見せてくれているだけ。
子供連れなのでやはり子供には伝わりづらい。ただ、歴史が持つ雰囲気は伝わったようです。あと、直射日光からも逃げられたことが大きいかも。


それにしても、宇土櫓って櫓の割には天守が見える。


櫓と天守のちがいは、四方に窓があるのが天守、天守や本丸方向に窓がなく主君を見下ろすことができないようになっているのが櫓、と、いう機能のちがいを聞いたことがありますが、宇土櫓はそうではない。不思議だ。

天守を移設したものとして名古屋城北西の清洲櫓も清須城の櫓を移設したものと言われています。しかし、これはセオリーどおり、天守方向には窓がないのですよね。徳川系の城は官僚化した発想で作られたからでしょうか?そういう細かいところに気がつく人が偉いというか、そういう細かいところを指摘して自分の権限を誇る小さい人間が組織の中にいたのか。
それは、わかりません。

宇土櫓を登り、反対側の大天守と小天守の連結天守を惚れ惚れと見る。


よくよくみれば、大天守って石垣からはみ出してる。
「熊本城みてある記」によると、石垣から四方に大きな桁(柱)を張り出させて、石垣平面より大きく造った特異な建築です、とのこと。

清正の築城技術を持ってすれば石垣と天守の一階平面を合わせるだけの力はあったと思われる。石落としがある訳でもなく、不思議な作りです。石垣作り出してから「あ、やっぱりもう少し広い方が。」と、言い出したのか。謎です。

そして妻子を引きずって本丸御殿へ。

行きたがらなかった妻子ですが、本丸御殿入り口にクーラーが効いており、入る。現代科学の勝利です。
内部はほんとに見事。大きな梁がむき出しでかっこいい。


内部の装飾については資料が残ってない部分は装飾が描けないので素障子の素襖。


佐賀城の本丸御殿も同じでした。
名古屋城はその点、そうした資料が豊富に残っており再現できるだけに期待できますね。

熊本城本丸御殿で壮麗なのは昭君の間。


一説には豊臣秀頼を迎え入れ、徳川軍と最後の一戦を交えるために設けられた部屋という伝承も。昭君は将軍を意味して、という説もありました、最近では否定されていたのを見ました。

残るは大天守と小天守。


ここで妻子はギブアップ。下の曲輪でかき氷を食べる、と、のこと。私も大天守と小天守は再建なので妻子を連れ回すことを諦める。自分だけで行ってきました。
中は…。


ビル。

名古屋城天守と同じ。
しかし、名古屋城にはエレベーターがあるが熊本城にはない。
ここまで中がビルだと、エレベーターが欲しいと思ってしまうのは悲しい現代人の性。

展示物を見ながら博物館内部を見て回る感じです。


同じ階段でも宇土櫓だとこう。


再建天守だとこう。


天守の見学を終え、どうしても気になる竹之丸からの天守をみたい。竹之丸は天守からの最下段の曲輪だけに登り下りの時間が。妻子を待たしているもののどうしても気になるので、一人で向かう。

この眺め!


お見事。石垣の重なりが見るからに強そう。
しかも、この角度だと天守に唐破風があるのが見えます。格調高そうなのを狙っているのがわかります。
折角なので、竹之丸からの天守まで登る際に動画を撮影しつつ歩くことにする。
2分半かかりました。
動画を編集して、大河ドラマ風林火山のオープニングテーマを被せたら丁度良い長さ。ただし、著作権の問題があるので個人で楽しむことしかできません。私と直接お会いした方にはお見せできるかと。

天守が素ビルでありながら、あまりガッカリしたという評価を受けない熊本城は、多分、こうした天守を取り巻く縄張りのきめ細かさが評価されているのではないかと。

やはり天下の名城にはちがいない。
今度は城好き同士か一人で来たいところ。
一番良いのは「お父さん、熊本城をちゃんと見たいから連れてって!」と、子供に再度言われることですけどねぇ。

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