長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

豊臣秀吉と泥鰌

2012年07月29日 | 戦国逸話
最近本業で休みがほとんど無く、平日夜も仕事だらけでしたが一息つきました。久々にブログを書かねば、と、ネタ探しを。
最近話題にしている『甲子夜話(かつしやわ)』を読んでも「これだ!」というものがなく、甲子夜話の作者松浦静山の先祖松浦鎮信が書いた『武功雑記』を読んでいたら、「ほぉ」というものがありましたのでご紹介を。

○豊臣秀吉と泥鰌(武功雑記 巻十 2頁)
 徳川家康の配下に河合善右衛門というものがいた。自分の田んぼの畦(あぜ)を見事に作ったところ、豊臣秀吉がまだ身分が低かった頃、泥鰌を掬おうとして河合の畦を踏み壊して通っていくのを見て「憎い奴だ!」と、皆で秀吉をボコボコにした。
 秀吉が天下を取った後言うには、「三河に河合というものはいたが、今は何している?」
 皆「その者は既に無くなっておりまして、今は子孫も定かではありません。」と申し上げると秀吉は「その者がいれば、昔の話をしようと思ったのだがのぅ。」と言ったとか。

 秀吉が矢作川の橋で寝ていたところを起こされたのが蜂須賀小六との出会い、などという話が有名ですが(矢作川での小六との出会いは後世の創作の可能性が高い)、秀吉が三河をウロウロしていたことは間違いなくあったでしょうから、泥鰌はその時の話でしょう。

 河合善右衛門にしてみれば、田んぼに水を張るため苦心して水が漏れないように畦の泥塗りをし終えたのでしょう。やれやれ、綺麗にできたわい、と思っていたら、どこからともなく見慣れぬ男がやってきてぶち壊していかれた訳なんで「この野郎!」となったのも、いたしかたないのかもしれません。
 奥三河では「へぼ」という地蜂の子を食べる習慣があり、地蜂の巣を見つけるため追いかけていくときに、うっかり他人の土地を踏み荒らしてしまうことがあり、「へぼ追い禁止」という看板が立っているところもあります。
 秀吉はへぼではなく泥鰌を追っかけて、うっかりと畦を壊してしまったのではないかと思われます。わざと壊す必要もないですからね。それでエラい目に遭わされてしまったようです。回りが見えなくなるほど没頭すると言うのは若さの特権ですから。

 ところで、翻刻版には「・・・御尋候。何れも其者はとく相果・・・」とあり、どうも秀吉は河合について聞きまわっていた感じがあります。『何れも』と複数人が回答しているようなので。

 そこまでして河合を探していたのは何故なのか?
 と、いう疑問があります。

 「・・・秀吉公其もの今に居はば。昔の体を云ふものをと被仰候。」と締めくくられています。秀吉の述懐にある「昔の体を云ふものを」という件ですが、
①昔は貧乏でぼこぼこにされたが、今となっては、あの頃の嫌味を言うことで、こんなに偉くなった自分を確認しよう。
②昔は貧乏でぼこぼこにされたが、未だに恨みが消えていないので、恨みをはらしてやろう。
 という二つが考えられます。
 徳川家康の配下であれば、そうそう秀吉も②のような対応が取りたくても取れない可能性がありますので、①っぽい感じもしないではないのですが、そこは戦国時代。聚楽第の番所に『猿関白』と落書きされて犯人探しをして捕まらなかったので、番所に当直していた全員の殺害を命じた秀吉です。②、ということも十分考えられます。

 ちなみに似た話が徳川家康にもあります。
 駿河での人質時代、隣の家に徳川家康が飼っていた鷹が間違って降りることがあり、「三河の小倅は大概だ。」と罵っていた今川家家臣孕石主水は、今川⇒武田と領主を変えた後徳川家に捕まり、家康は孕石だけは許さず切腹させたといいます。

 ま、今となっては、秀吉がどちらであったのかは知る由もありませんが、やっぱり戦国の世。
 「昔の話がしたかったのだがの・・・。」と言った秀吉の笑顔は怪しく歪み、目の奥には鋭い光が宿っていた、という方が戦国時代ではないかと。

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