今さら100㍍を何秒で走れるか試す気などないし、目の眩むような壁を神経にヤスリをかけるような思いで攀じってみたいとも思わない。
それでも、何かをしようとした時、後期高齢者としての自覚が行動に抑制をかけるということはない。というか、そういうことを普段は殆ど意識すらせずに暮らしている。
牧場へ行って用意した道具を忘れるということはしょっちゅうのことだが、これは腹が立つが仕方ないと半ば諦めている。同じく、人の名前が思い出せなかったり、立てた予定を失念したり、思い違いすることはある。
つまり、頭の方は年齢にかこつけて不承ぶしょう受け入れるほかないが、肉体に関しては有難いことにあまり悲観することはない。これを、実際は安気な錯覚と反省するが、またすぐに忘れて、気分は若いころと同じようなつもりでいる。
そういえば、肉体的に最も衰えを感じるのは股間に鎮座するわが一物で、これはすでにお役御免となってかなり久しい。
ある雑誌からの受け売りの又受け売りになるが、著者がある研究者の言葉を紹介するに、われわれが通過してきた思春期に「安全に生きること、社会的ヒエラルキーのなかでうまくやること、性的欲望をきちんと表現すること、独り立ちすること」を学ぶことで、変化する社会に適応できるようになると述べている。
自分の思春期に、以上4つのことを学んだかと訊かれたら、全く自信がない。そもそも「安全に生きること」、「ヒエラルキーのなかでうまくやる」ことなんかをしっかり学んでいたなら、牛守になっていただろうか。「性的欲望云々」もだが、確かに山の中で一人の暮らしをしているが、これを「独り立ち」と言えるのか。
性的欲望というのは、観念的には死ぬまで存在すると思うが、そもそも「きちんと表現する」ことの意味も理解できないから、学んだ覚えはない。ただ、ときめき、不安、懊悩なら少しは体験したかも知れない。そして、その残滓、などと言ってはいけない、「残り火」なら今も小さな火を燃やし続けている。
日毎にいやでも目にする広告からの感想だが、今や女性の便秘と、高齢男性の性的不具合(勃起不全)は現代の「二大宿痾」と言っても過言ではないような気がする。
幾つになっても特定の女性がいて、ときめき、喜び、それを広言し、はしゃいでいるあの評論家には早く引退して欲しいが、それはともかく、思春期に「性的欲望をきちんと表現する」ことを会得したのだろうか、あの人が。
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本日はこの辺で。