入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’20年「春」 (57)

2020年05月15日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

                     Photo by Ume氏

 昨日の続きになる。
 
 やがて初子も伊達家に仕え、彼女の容色、利発さが認められて、後の藩主となる綱宗の側室となる。綱宗は生涯において正室を持たなかったようだが、政略結婚が当たり前の時代、伊達家の正室には彼女の出自では無理であったのだろう。
 ところで、綱宗が忠宗と振姫との間にできた子であれば、年齢的に無理がある。振姫も一女、ついで一男をもうけるのだが男の子は早世し、そのため後継者として忠宗の側室である貝姫との間にできた綱宗が選ばれたというわけだ。当然振姫も、忠宗に側室や庶子がいることなど承知の上で、輿入れに臨んだのだと思われる。
 ところが、綱宗は藩主となるも品行は悪く、藩内をまとめることができず、結果わずか21歳で隠居の身とされてしまう。そこで初子の産んだ綱村が、若干2歳にして伊達家の藩主の座に就くことになり、これで初子は名門伊達家当主の母となったのだ。
 あまりにも幼くして藩主となった綱村を初子は懸命に守り、育て、さらに二人の子を産み、47歳にして世を去った。綱村は母の遺訓を守り釈迦堂を建て、「母の遺徳を牛馬にも与えん」と、同地に京都から取り寄せた枝垂桜1千本を植えた。これが世に言う「伊達桜」のことのようだ。

 時代は下る。ここからは、Ume氏がPHと一緒に送ってくれたWikipediaの内容に頼ることにしたい。明治になって仙台市の市長だった遠藤康治という人が八重紅枝垂れ桜の普及に努力したが、その出所は京都御所とか近衛家とか言われてはっきりしない。
 綱村の枝垂桜は、この遠藤が同じ榴丘公園に植えた仙台八重桜と混同されてしまったようで、初子のために植えられた枝垂れ桜は実は八重ではなく、また花の色も白いとか。なお遠藤は、この別名「仙台小桜」を京都の平安神宮にも献上し、関西では「平安紅枝垂れ」と呼ばれ愛されている、とWikipediaにはある。

 さてこれで、駆け足の旅が終わった。言い足りないことも多々あるし、空想を膨らませてみたいこともあったが、堪えた。また、そもそもこの独り言のきっかけは山室川の第1堰堤の枝垂桜だったわけで、あれらを植えた人についての情報はもう少し時間がかかりそう。
 奥出雲の三沢城には行ったが、その時集めた資料や記録は手許から消え、残念な思いをまた新たにした。伊達家の資料は乏しく、多くをWikipediaに頼らざるを得なかった。こういうことは冬ごもりの間に、もっと丁寧にやるべきだ。
 
 参考資料:「上伊那郡史」、「出雲と大和」(村井康彦著、岩波新書)、「尼子の城郭と合戦」(寺井毅著、戎光出版)「尼子一族」(米原正義著、新人物往来社)、「Wikipedia」、他

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