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↑三義民刑場跡と三義民の墓(国分寺)
毎日車で通勤途中で見る三義民刑場跡の看板が気になっていた。三義民刑場跡は館山の東部にあり、現在では安房地域医療センター手前の道を少し入ったところで館山市街から5km程度の距離である。
館山は旧海軍の軍都であったので戦時中のことかと想像していたがことは江戸時代の出来事であった。歴史によると三義民刑場跡は、今から400年前の正徳元年(1711年)北条藩屋代家の領内で起きた一揆・万石騒動で犠牲となった名主3人が処刑された場所でと言われている。
北条藩主屋代越中守忠位(ただたか)は、北条・竹原・山本などの村方27か村、およそ一万石を領していたがその財政は極めて逼迫していた。財政立て直しのため、上席家老相談役の川井藤左衛門は、例年の約2倍もの年貢を農民に課し、このため600名もの農民が江戸に押しかけて、老中の駕篭へ直訴するという大騒動になった。
万石騒動とよばれるこの農民一揆は、湊村の秋山角左衛門、国分村の飯田長次郎、薗村の根本五左衛門の名主たち3人が処刑されるという大きな犠牲が出たが農民側の勝訴で決着をみるがこの供養塔と処刑地は当時を伝える史跡だ。
領民たちはこの犠牲者を三義民とよび、安房国分寺の境内に墓を建て厚く弔られている。
国分寺は7/7のこのブログの「南房総ぐるっと一周ウォーキングPart1<完歩> 千倉から館山まで編(14km)」で千倉から館山のウォーキングの帰路立ち寄っていたが深い歴史的なことは理解していなかった。
今後も通常のウォーキングとは異なるがローカルの歴史探訪としての散策をやってみたい。
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↑三義民刑場跡と碑
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↑三義民の墓がある安房国分寺