半年振りの投稿です。今日はお盆の最終日ですが、コロナの為に今年は春のお彼岸もお盆も墓参りは叶いませんでした。
ヨーロッパに遊学していた20余年前を除けば、小生の人生で初めてのことでした。昨日は終戦記念日、とりわけ多少は
戦争を知る世代にとって、お盆の墓参りは感慨深いものがあります。東京大空襲で疎開した福島県の山村も、今は様変わり
しているのに比べ、現在在住している長野県の寒村は、おそらく、当時と余り変わらぬ佇まいであるような気がしています。
それだけに、終戦の日が近づくと、お盆の墓参り、東京大空襲、火の海の中の逃避行、疎開、ひもじい思い、敗戦そして
帰京、池袋や上野駅の地下道にたむろしていた、小生と同じ年くらいの親を亡くした子供たちの姿が、東京にいた時とはと
違って一層鮮やかに蘇ります。
そんな中、昨日、アジア諸国に謝罪した「村山談話」に対する、ネットでの批判の数々を目にしました。嫌中、嫌韓罵倒が
今や王道となっている現実を前にほぼ予想したとおりの反応でしたが、気になるのは、戦争を知らないだけでなく、飽食慣れなのか、
余りにも「唯我独尊」、自尊心と言うより自己愛がばかりが強く、日本の立ち位置や自らを客観的に見ようとする視点の薄弱さでした。
アメリカを頂点とし、日本をはじめとした高所得国でのナショナリズムの台頭は、経済成長の終焉、言ってみるならば「金持ち喧嘩せず」
の時代から、「貧すれば鈍する」の局面に入ったことを意味します。
それでも、アメリカやEU,中国並みに、いざとなれば、自給自足できる国になりうるならいざ知らず、貿易立国の日本では、自尊心と
愛国心だけで生きていけないのです。歴史上、食料、エネルギーをこれほど外国に依存している国は稀なのです。いざとなれば
アメリカさんが助けてくれる、なんていうのは幻想です。第二次大戦での日英同盟の破棄そして日ソ不可侵条約の破棄がいい例ではありませんか。
ヨーロッパの古代史はともかく、欧米の近現代史、できることならさらにそれが東アジア史を紐解けば、自ずと日本の立ち位置にも
理解が及ぶことになるでしょう。「君子豹変」は世界史では当たり前のことなのです。それとも再び鎖国して「美しい日本」を愛でながら
「武士は食わねど高楊枝」といきますか。欧米の思想の根幹は、ソクラテスからデカルトに至るまで「汝自身を知る」ことにありますが、
「美しい日本」でも吉田兼好が次のように言っています。「己を知るを、物知れる人というべし」『徒然草』。
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