「川合玉堂」の名まえは知ってはいた。
彼の日本画も見たことはあると思う。
ただその時は、その優しい絵に、大して心を動かされることもなく、見過ごしてしまっていたように思う。
先々週の「日曜美術館」でその川合玉堂氏が取り上げられ、それを見たことで、私の彼に対する見方は一変した。
日本のどこにでもありそうな懐かしい風景、その中で生きるごく普通のありふれた人々。
両者に寄せる、玉堂氏の、深い深い愛!
玉堂氏のどの絵にも、根底に、その愛が、静かに貫かれ流れている。
(以下、順不同ですが、彼のそんな絵を、何枚か載せます。)
峰の夕 (昭10) 遠来麦秋 (昭27)
夏川 (昭28) 渡所春暁 (昭13)
二重石門 (昭27) 二日月 (明治40)
上の絵とともに、私が玉堂氏の素晴らしさを更に強く感じたのは、戦時下に彼が描かれた絵を見たときだった。
昭和18年、第二次世界大戦に突入した後の困難な時代に描かれた、「山雨一過」。
写真が小さすぎて分かりにくいが、この絵からは、戦争の難局を乗り越えて生き抜くのだいう彼の決意と、国民へのエールのようなものが感じられる。
しかし戦況は悪化し、画家たちにも“戦意高揚”の絵を描くことが強要される。
多くの画家が、あからさまに戦争協力の絵を描いていくなかで、玉堂氏が描かれたのは、下の「荒海」(昭19)。
この絵には、いわれなき戦で傷つく日本の国土と、その中で生きる人々の、哀しみと苦しみが表現されているように思う。
そして、それに決して負けまいとする強さも!
彼は、学業半ばで出陣することになった若者にも、絵を送って励まされた。
「虎は、千里行って千里帰る」の言葉とともに、若者に送られた「虎」の絵。
しかし戦況は更に悪化し、東京大空襲で彼が長らく住まっておられた家も消失する。
失意の中、疎開先で描かれた絵は、のどかな「早乙女」の絵(昭20)。
そこには、戦争でいかに傷つけられようとも、日本の美しい国土と庶民の営みは決して消滅なんかしない!という彼の強いメッセージが感じられる。
晩年近くなっての、彼の言葉。
「自分は生涯好きな絵を描き続けることができて、大変幸せだった。
ただ残念なのは、有名になりすぎてしまって、絵を描く時間が少なくなってしまったことだ。
もっと沢山の絵が描けたのに‥。 もっと沢山の人に絵を差し上げる事ができたのに‥。」
玉堂氏の絶筆・「出船」(昭32)
彼はこの絵を病床で描き、最後の治療をしてくれた医師に捧げて、しずかに83年の生涯を閉じられた。
彼の、国土とそこに生きる人々への、力みのない、深くて強い愛!
国土を愛し、民を愛するとは、こういうことだ、とつくづく思う。
声高に愛国を叫ぶ今の政治家に、玉堂氏の絵をじっくり見て、考え直してほしいものだと、強く願う。
写真も、TVで写ったのを撮ったのに、とても鮮明で、写真の腕もソウトウなものですね。kaco
素晴らしい画をみせていただきありがとうございました
でも玉堂さんの画を気に入ってもらって、とってもウレシイです