1月27日の日曜美術館では、“反骨の画家”として『北川民次』氏が取り上げられた。
北川民次 (1894~1989)
『北川民次』氏については、名まえは聞いたことがあるような気もするけれど、どんな方なのか全く知らなかった。
今回の番組で、北川民次氏について新たにいろんなことを知ることができて、とても新鮮だった。
北川民次氏」は、日本では絵描きになることを反対され、兄を頼ってニューヨークに渡り、アルバイトをしながら絵の勉強を始め
られる。
しかし彼は次第にニューヨークの絵画が物足らなくなり、もっと地の香りのする絵画を求めて、キューバを経てメキシコに渡られ
る。(1921年)
当時メキシコは、メキシコ革命(1910~1917)を経て、人種や貧富の差を超えた“新しい国づくり”に邁進していた。
その国づくりの中で、「ディエゴ・リベラ」氏などを中心とした≪壁画運動≫が、大きな貢献をしていた。
国立宮殿の玄関に掲げられた「メキシコの歴史」(ディエゴ・リベラ)
北川民次氏は、そのメキシコの“新しい国づくり”と≪壁画運動≫に強く共感し、自身も、土地に根ざして生きる人々の姿を描く
ようになる。
「トランパム霊園のお祭り」 (1930年)
その後メキシコシティからタスコに移った彼は、子どもたちのために絵画教室を開き、絵によって子どもたちの心を解放すること
に努める。
次は、当時子どもたちが描いた絵だが、彼は、子どもたちの絵の素朴でありながら生き生きした描写に心を奪われたそうだ。
そんな北川氏の活動を聞きつけた『藤田嗣治』氏が、帰国の途中にメキシコに寄り、彼に、日本で活動するように強く帰国を勧
めたのだそうだ。
藤田氏の強い勧めで、北川氏も帰国を決意する。(1936年)
帰国後程なくして描かれた絵。
「メキシコ三童女」 (1937年)
「クスコの祭」 (1937年)
しかし当時の日本には、戦争の影が忍び寄っていた。
彼に強く帰国を勧めた藤田嗣治もその波に飲み込まれるが、彼はそんな動きに全くくみせず、静かな抵抗を続ける。
「ランチェロの唄」 (1938年)
「岩山に茂る」 (1940年)
上の「岩山に茂る」は、康熙2600年の奉祝美術展に出品されたものだが、他の絵画が軍国主義に同調する中味であった中で
異色のものだった。 (彼はこの絵で、不毛の土地に粘り強く繁る植物を描いて、それに民衆の姿を重ねたのだそうだ。)
当然のことながら彼のこのような絵画活動は、時の権力に疎まれ、画材も配給されなくなり、彼の活動は封印される。
そこで彼は、妻の実家の愛知・瀬戸市に戻らざるを得なくなる。
下は、そんな中、家にあった和紙に描いた「戦闘機と男女」(1942年)
1945年、長かった戦争がやっと終わる。
戦後彼が名古屋市の放送局の玄関に掲げた壁画、「芸術と平和」
絵画の面でも、彼は常に庶民の側に立ち、彼の批判精神は衰えることがなかった。
「雑草の如く」 (1948年) 「白と黒」 (1960年)
「夏の宿題」 (1970年)
上の「白と黒」は、安保闘争時に学生に襲いかかる警官の姿を、「夏の宿題」は、教育の統制を描いたものだそうだ。
晩年彼は、絵画から版画に転向される。
その中で、決して目立たず、けれど力強く生きる“バッタ”の姿に、自分を重ねて描いておられるのだそうだ。
こうして北川氏は、終世、権力に屈することなく、庶民の立場に立つことを貫かれた。
彼の絵が好きかどうかはさて置いて、様々な困難にめげることなく、自分の考えを貫かれたことは素晴らしく、なかなかできる
ことではないと思う。
そんな中味ですのにコメントいただいて恐縮です。ありがとうございました!
(パソコンの調子が悪くなってから私も外出などあり、今日になってやっと富士通に電話して聞き、普通に打てるようになりホッとしています。長らく失礼しました。)