靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

回って回ってカヤックな午後

2012-08-12 23:59:44 | 風景・散歩・旅
友人達と、

回る。


きゃはははは~。


外では長男と近所のクラスメート君が、

カヤックを何とかして湖に運ぼうとあれやこれや試して。


少年二人二時間ほど水の上。


後から駆けつけた妹達と交代。


ふ~、きもち~の後は、

よいしょ、


どっこいしょ、


陸に揚げて、木陰に。

近所の人々、カヌー、カヤック置きっぱなし。


ちょっと水の上へ、の毎日。

67回原爆の日に

2012-08-08 00:33:06 | 思うに
私は被爆三世で(母が胎内被曝)小さな頃から亡くなった親戚の話しや、投下時そして投下後の生々しい体験を聞いて育った。

ここアメリカでは「広島長崎への原爆投下は正当最善の手段だった」という言説が主流。ナチを全体主義の悪を最小の犠牲の上に終わらせるためには、原爆投下が最良の方法だった、そうでもしなきゃもっとひどいことになっていたよ、あれが正しかったんだ。大人も少し歴史を学んだ子供もほとんどがそう思っている。「終わらせてあげたんだ」というような言い方をする方もいれば、「仕方が無かったんですよ」と辛そうに言う方も。

「民間人の大量殺戮が正当化される理由なんてないのじゃないでしょうか」
「でももし原爆投下しなかったら、もっと犠牲者が増えていたに違いないよ」
そんな「もし」を想定しての空をつかむようなやりとりも何度か。

それでも本当に少数派だけれど、絶対にしてはいけないことをしてしまった、アメリカ国民として申し訳ない、と謝られたこともある。

理解しようとすること、当たり前と思っている答えを本当にそうかと吟味してみる姿勢、様々な人々に出会いつつ、ここアメリカで8月6日を迎える度、その大切さをかみ締める。

犠牲者のご冥福を、未来の平和を、お祈りします。


サルサに沈んだ蓋、曖昧な記憶

2012-08-08 00:28:02 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
「誰だ、こんな蓋の開け方をしたのは!?」

リビングルームの子供達がいっせいに夫の手のサルサの器を見る。上蓋が半開きになり、入れ物の縁にそって半分だけはがされた薄い透明の内蓋が、垂れ下がって赤いサルサに沈んでいる。

「僕じゃないよ」「私じゃないよ」子供達が口々に言う。
「じゃあ一体誰なんだ」

就寝時間間近のこと。誰かが本当のことを言っていない、疲れた夫がイライラし始めているのが分かる。子供が嘘をついている時というのは、その仕草や表情からだいたい分かるものだけれど、どうも本当に知らないよう、横から見ていて思う。

記憶をたぐりよせる。週末に購入して、冷蔵庫の隅におさめて、3日ほど前にサルサを食べようとして見たら上蓋に乗っていた豆のディップが横に転がっていたんだった、それでなんで豆ディップがサルサの上から落ちてるんだろうと思って・・・、そこで記憶がぷつりと切れる。あの時・・・、ひょっとして私がサルサの内蓋を開けた・・・?

パジャマに着替えるようにと子供達を各自の部屋へ送り、夫と話す。

「私かもしれない」
 ぽかんとする夫。
「覚えてないんだけれどね」と言いながら記憶がはっきりあるところまでの様子を説明する。
「その後急いでぱっと内蓋開けて、そのままになっていたのかもしれない。○○(次男)が泣いたとかドアのベルが鳴ったとか鍋が吹き零れたとか兄弟げんかが始まったとか電話だとかでぱっとその場を離れて忘れちゃったとか。全然覚えがないんだけれどね」

普段、あれやこれやと同時に様々なことが起こり、その時取り組んでいたことを途中で忘れてしまうということはある。

「マチカ、フライパン火にかけたまま電話に出て忘れちゃったりとかそういうことあるものね。なんだマチカだったんだ」眉を上げながら夫。
「あのサルサどうもママだったらしい」「ママだったんだあ」「もおママたら~」「ママおっちょこちょいなとこあるものねえ」着替え終わった子供たちと夫が笑いながら話している。

そんな言葉を聞いているうちに、そうだ私だったんだ、と思い始めている。あの途切れた記憶の後に、次男が泣き始めサルサを半分開けたまま泣いている次男のところに駆けつけ抱き上げる自分の映像が繋がっていく。ああ私が開けたんだ。

記憶ってこんなに曖昧なものだったっけ。そんなことを思いながら、自分の内のあやふやな記憶が、いかに周りの状況によって作られていくかということに我ながら驚く。サルサを冷蔵庫の隅に見つけた後の曖昧だった記憶が、今は鮮明に描かれている。思い出したというより、継ぎ足されたという感覚と共に。

記憶の蓄積によって「私」が作られると聞いたことがある。記憶を寄せ集めることによって「私はこうだ」という今の「私」ができあがる。だとしたら、まだ生まれて間もない子供の「私」とは、膨大な記憶を持つ大人の「私」よりも、随分と曖昧なものだろう。子供の「私」はあちらに揺れこちらに揺れている。まだまだ作り始めたばかりの「私」。そんな「私」が周りの状況によって作り変えられるということは容易い。曖昧な記憶が、容易に作り変えられるように。

周りの人々の一つ一つの言葉・態度が子供の記憶に刻まれその子供の「私」(自己意識)を作る。子供に向き合う姿勢、その大切さを改めて思った夜だった。


翌朝、そんなことを長男と話す。

「ママのサルサの記憶みたいにね、周りによって曖昧な記憶が作り換えられるなんてことは、しょっちゅうあるのかもしれないね」
首を傾げながら聞いている。
「『私』というような曖昧な記憶も。これからも周りの色々な人が、色々な『あなた』を差し出してくれるだろうけれど、そんな『あなた』にはまり込まず、『あなた』を作り続けていってね。ネガティブなものもポジティブなものも超えて。毎日リセット。『あなた』になり続ける過程に終わりなんてない」
「サルサの蓋からそんな話になっちゃうの?!まあ僕なりに覚えておくよ、そうだ、ちゃんと『記憶』しておくね」
笑いながら立ち上がると、背伸びしながら寝室を後に。

そんな週末の朝。


(ちなみに、サルサは味見してみたところ少し変、ひょっとして購入する前から内蓋が開いていたんじゃないか、ということで落ち着つきました。)

サイクリング

2012-08-07 23:59:56 | 風景・散歩・旅
近所のトレールへ。

風を切って、


広場を横切り、


トンネル抜けて、


橋渡り。


途中公園で遊び、


湖到着。


何やら色々な機材を持った人々で賑やか、どうやらテレビか何かのロケ中。

眺める。

こんなに大勢の人があれだけ短いシーンをとるために働いてるんだねえ、と驚く。

帰り道。

サーモンベリー!


あ、鴨が向かってくる!


蜂の巣!


木にも登る。


リフレッシュな午後。

整理、成長を促す要の仕組み

2012-08-04 00:34:14 | 今週の整理
1.8月に入り夏休みもあと3週間ほど。キンダーに入る三女(こちらはキンダーが小学校一年生に入学というような位置づけ。校舎もスケジュールも一年生と同じ)、中学生になる長男、3年生6年生になる次女長女、皆新しいスタートに向け胸膨らませ。教科ごとにファイルを整え、鉛筆やノートなどの文具を揃えながら。夏休みに向けカウントダウンしていた子供たちが、今は新学期に向けカウントダウンしている

2.晴れ渡った夢のような夏日続き一週間の後、曇り雨曇り雨。気温も10度前後と落ちる。さ、寒い再びしっとりと過ごす日々。ガレージに残る箱整理。娘達もジグゾーパズルやアートクラフト作りがはかどっているよう。

3.長男が7泊8日のプログラムを終え帰宅。修了式、日焼けして友達と笑いながら話す姿を見てほっと力が抜ける。10時半就寝5時半起床、航空工学について学びつつ、ハードなフィジカルトレーニングにずっと筋肉痛だったらしい。一点を見つめじっと立つ、行進の仕方、ベッドの完璧な整え方、目上の人への姿勢なども学ぶ。軍従事者の戦争体験や過酷なトレーニングの話も聞く。身体的にも精神的にも生きるか死ぬかの前線にいつでも立てる自分であるということの厳しさを、少し垣間見たよう

4.帰宅翌日からロボット工学のワークショップ。2週間前に5日間参加したロボット工学日帰りワークショップ、週ごとにテーマが変わりあと残り2日間だけれどどうしても参加したいと長男。担当教授に問い合わせると快く承諾。新居から歩ける距離にあるアラスカ大学のキャンパスにて。BPがスポンサーとなりランチつきで無料。身近にこういう機会があるというのは本当にありがたい

5.思春期の子供達にとって、誠実に親身になって育てようという意志のある親以外の大人達の存在が大切だとつくづく感じている。学校の勉強だけでなく、スポーツや部活動など然り、他にも実社会で様々な大人に出会い、様々な分野の生の声を聞き体験できる機会があれば。ティーンにもなれば、働き手としてかなりのことができるもの。図書館や科学館などの公的機関でティーンのボラティアが募られていたり、企業が体験プログラムを設けたりしているのもありがたい。不登校や引きこもりの問題なども、もっと学校以外の場に思春期の子供達の居場所が用意されていけばと思う。農場や様々な分野の企業などに子供が体験でき学べる場があったら。それらを可能とする農場や企業への経済的サポートシステムと共に。思春期の子供達のエネルギーとは凄まじいもの。この溢れるエネルギーをコミュニティーでうまく導いていけたら。育てようとする時間やエネルギーは、社会全体の未来への投資に他ならない

6.変わっていけると思うか、それとももう変わることなどできない固定されたままと思うか。その考え方の違いで物事は随分と変わる

7.子供の成長を促す要の仕組みが、「両手のバランス」。少し強く力の入る利き手で抱え、もう片方の手で押しやるというバランス。両手で抱え込むのでも、両手で突き放すのでもなく。成長とは二つの正反対の働きのせめぎあい、そのダイナミックなバランスによって促されていく

8.「両手のバランス」は「母性スイッチを常にオン父性スイッチを時折オン」の感覚と似ている。母性父性というのは女性男性母父ということではなく、一人の人の内に両性備わっているもの
母性: 無条件・受け入れ・緩み・境界なし・接続・内
父性: 条件付け・突き離す・張り・境界作り・切断・外へ

社会に出れば父性優位。家族という単位を越え、より大規模な集団が共に暮らしていくためにはより父性が必要。無条件に失敗を許されもう一度チャンスを与えられ、といった母性に包まれることはそうそうあるわけでもない。そこで家庭では常に母性スイッチをオンに設定しておくぐらいが丁度よいバランス。母性スイッチを常にオンにしたまま、父性スイッチをところどころでオンにしていく。

母性スイッチが「オフ」になっていると、まず子供が近寄りがたそうになる。特に小さな子供たちの様子に如実に表れる。そして自身を鏡に映すと、無表情であるか眉間に皺がよりいかつい顔になっている。母性スイッチを「オン」にすると、眉間が緩み微笑が生まれる。そして子供たちの顔にも笑顔が広がる。外で仕事を終え、帰宅する前に一度自身の姿を鏡に映してみるのもいい。忘れていた母性スイッチをまず「オン」にして玄関の扉を開ける

9.他人と一直線上に並び、あちらが長いからこちらが短いからと歩みを止めてしまわない。線は人の数だけある。自身の線に立つ。自身に立ち返り一歩一歩、丁寧に疾走。誰か他の人になろうとするのでなく、自分に与えられているギフトを磨き形にしていく。

10.失敗も成功も過程

雨にぬれた緑のにおい、アンカレッジより。
Have a wonderful weekend!

犬競技会

2012-08-03 23:59:43 | 出来事や雑感や (子育て)
休日も仕事の友人の息子君二人と五人を連れて近所の広場での犬競技会へ。

障害物を次から次へとこなす犬達、を観る。

犬と飼い主の息の合った走り、に感銘。犬の種類も様々学ぶ。

通りがかりの犬が、


代わる代わる挨拶してくれる。


赤ちゃん用ベッドにスヤスヤな犬、を眺め。


犬にあんなことができるんだねえ、と感慨深い午後。