靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

67回原爆の日に

2012-08-08 00:33:06 | 思うに
私は被爆三世で(母が胎内被曝)小さな頃から亡くなった親戚の話しや、投下時そして投下後の生々しい体験を聞いて育った。

ここアメリカでは「広島長崎への原爆投下は正当最善の手段だった」という言説が主流。ナチを全体主義の悪を最小の犠牲の上に終わらせるためには、原爆投下が最良の方法だった、そうでもしなきゃもっとひどいことになっていたよ、あれが正しかったんだ。大人も少し歴史を学んだ子供もほとんどがそう思っている。「終わらせてあげたんだ」というような言い方をする方もいれば、「仕方が無かったんですよ」と辛そうに言う方も。

「民間人の大量殺戮が正当化される理由なんてないのじゃないでしょうか」
「でももし原爆投下しなかったら、もっと犠牲者が増えていたに違いないよ」
そんな「もし」を想定しての空をつかむようなやりとりも何度か。

それでも本当に少数派だけれど、絶対にしてはいけないことをしてしまった、アメリカ国民として申し訳ない、と謝られたこともある。

理解しようとすること、当たり前と思っている答えを本当にそうかと吟味してみる姿勢、様々な人々に出会いつつ、ここアメリカで8月6日を迎える度、その大切さをかみ締める。

犠牲者のご冥福を、未来の平和を、お祈りします。


サルサに沈んだ蓋、曖昧な記憶

2012-08-08 00:28:02 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
「誰だ、こんな蓋の開け方をしたのは!?」

リビングルームの子供達がいっせいに夫の手のサルサの器を見る。上蓋が半開きになり、入れ物の縁にそって半分だけはがされた薄い透明の内蓋が、垂れ下がって赤いサルサに沈んでいる。

「僕じゃないよ」「私じゃないよ」子供達が口々に言う。
「じゃあ一体誰なんだ」

就寝時間間近のこと。誰かが本当のことを言っていない、疲れた夫がイライラし始めているのが分かる。子供が嘘をついている時というのは、その仕草や表情からだいたい分かるものだけれど、どうも本当に知らないよう、横から見ていて思う。

記憶をたぐりよせる。週末に購入して、冷蔵庫の隅におさめて、3日ほど前にサルサを食べようとして見たら上蓋に乗っていた豆のディップが横に転がっていたんだった、それでなんで豆ディップがサルサの上から落ちてるんだろうと思って・・・、そこで記憶がぷつりと切れる。あの時・・・、ひょっとして私がサルサの内蓋を開けた・・・?

パジャマに着替えるようにと子供達を各自の部屋へ送り、夫と話す。

「私かもしれない」
 ぽかんとする夫。
「覚えてないんだけれどね」と言いながら記憶がはっきりあるところまでの様子を説明する。
「その後急いでぱっと内蓋開けて、そのままになっていたのかもしれない。○○(次男)が泣いたとかドアのベルが鳴ったとか鍋が吹き零れたとか兄弟げんかが始まったとか電話だとかでぱっとその場を離れて忘れちゃったとか。全然覚えがないんだけれどね」

普段、あれやこれやと同時に様々なことが起こり、その時取り組んでいたことを途中で忘れてしまうということはある。

「マチカ、フライパン火にかけたまま電話に出て忘れちゃったりとかそういうことあるものね。なんだマチカだったんだ」眉を上げながら夫。
「あのサルサどうもママだったらしい」「ママだったんだあ」「もおママたら~」「ママおっちょこちょいなとこあるものねえ」着替え終わった子供たちと夫が笑いながら話している。

そんな言葉を聞いているうちに、そうだ私だったんだ、と思い始めている。あの途切れた記憶の後に、次男が泣き始めサルサを半分開けたまま泣いている次男のところに駆けつけ抱き上げる自分の映像が繋がっていく。ああ私が開けたんだ。

記憶ってこんなに曖昧なものだったっけ。そんなことを思いながら、自分の内のあやふやな記憶が、いかに周りの状況によって作られていくかということに我ながら驚く。サルサを冷蔵庫の隅に見つけた後の曖昧だった記憶が、今は鮮明に描かれている。思い出したというより、継ぎ足されたという感覚と共に。

記憶の蓄積によって「私」が作られると聞いたことがある。記憶を寄せ集めることによって「私はこうだ」という今の「私」ができあがる。だとしたら、まだ生まれて間もない子供の「私」とは、膨大な記憶を持つ大人の「私」よりも、随分と曖昧なものだろう。子供の「私」はあちらに揺れこちらに揺れている。まだまだ作り始めたばかりの「私」。そんな「私」が周りの状況によって作り変えられるということは容易い。曖昧な記憶が、容易に作り変えられるように。

周りの人々の一つ一つの言葉・態度が子供の記憶に刻まれその子供の「私」(自己意識)を作る。子供に向き合う姿勢、その大切さを改めて思った夜だった。


翌朝、そんなことを長男と話す。

「ママのサルサの記憶みたいにね、周りによって曖昧な記憶が作り換えられるなんてことは、しょっちゅうあるのかもしれないね」
首を傾げながら聞いている。
「『私』というような曖昧な記憶も。これからも周りの色々な人が、色々な『あなた』を差し出してくれるだろうけれど、そんな『あなた』にはまり込まず、『あなた』を作り続けていってね。ネガティブなものもポジティブなものも超えて。毎日リセット。『あなた』になり続ける過程に終わりなんてない」
「サルサの蓋からそんな話になっちゃうの?!まあ僕なりに覚えておくよ、そうだ、ちゃんと『記憶』しておくね」
笑いながら立ち上がると、背伸びしながら寝室を後に。

そんな週末の朝。


(ちなみに、サルサは味見してみたところ少し変、ひょっとして購入する前から内蓋が開いていたんじゃないか、ということで落ち着つきました。)