靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

香をたく前に、すること

2014-02-09 11:02:52 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

香をたく前にすること(”When You Need To Borrow Your Father”by YY Jacobsonを参考に):

ユダヤの毎朝の祈りの中に、祭司が寺院で朝の儀礼を行う三千年ほど前の様子を描写した部分がある。その「儀礼の手順」について、何千年にも渡って議論されている。

1.五つのキャンドルに火を燈す → 香をたく → 残りの二つのキャンドルに火を燈す

2.五つのキャンドルに火を燈す → 外の祭壇で動物の生贄 外の祭壇に血をまぶす → 残りの二つのキャンドルに火を燈す → 香をたく


(三千年前の儀礼の描写であり、今は「動物の生贄」という慣習はない)

1が正しいのか、2が正しいのか? 

まず、七つのキャンドルとは、人の持つ七つの側面(愛、強さ、美、勝、一貫性、絆、リーダーシップ)を表し、毎朝一つ一つに火を燈すことにより、人としての一日が始まるとされる。では、最後の二つに火が燈され、一日を始める前に必要なのは、「香をたく」か?それとも「動物の生贄」か?

ユダヤ神秘主義では、人は神性魂と動物魂を持っており、神性魂はより「神」に近い自身、動物魂はこの世で肉体をもち生きていくための生命活力エネルギーに溢れた自身とされる。神性魂は動物魂を抑え付けるのではなく、その生命活力エネルギーをうまく導いていく必要がある。

「香をたく」とは、神性魂へのフォーカスを意味し、「神」と近くなる行為を象徴している。香りの中に溶け込み、喜びと一体感に包まれる。

「動物の生贄」とは、動物魂へ向き合うことを意味する。神性魂の「導き」なしには、暴れ始める動物魂。肉体的個を生かすためのあらゆる欲望に溢れ、自分!自分!とエゴが肥大し、物質的快楽へはまりこみ。「生贄をし、祭壇に血をまぶす」とは、そんな自身の「獣」に向き合い、昇華させることを象徴している。


この記事では、毎朝の儀礼の手順としては、1と2のどちらも正しさの一面を表しているという解釈が取りあげられる。1は、「ヨムキッパー」(年中行事の一つ)の日の手順、残りの364日は、2の「動物の生贄」の手順と。「ヨム・キッパー」とは、人の努力を必要とすることなく、「神性魂」がさらされるとされる祝日。その日以外は、常に自身に向き合い、葛藤と闘いを通し、よりよき方へと足を踏み出していく。



人と人との関係にも、キトラスとカルバノスという二種類あるとされる。
キトラスは「香をたく」のように、喜びと一体感に包まれる関係。
カルバノスは「動物の生贄」のように、自身の「獣」に向き合い、常に葛藤と闘いを通し、よりよき関係になるようにと踏み出し続けていく関係。
ほとんどの場合、両者が絡み合い、一つの関係が作られる。夫婦関係もキトラスとカルバノスが入り組んでいる。



2の「動物の生贄」手順を主張したラビAbayeには、父母がおらず、孤児だったと言われる。リアルな父母という感覚を知ることなく育ったラビAbayeと他のラビRavaが子供時代話し合う場面がある。「神はどこにいるか?」という質問に、答える二人の少年。Ravaは屋根を指差し、Abayeは外に出てはるか遠くに広がる空を指差す。すぐに触ることのできる屋根と、はるか遠くに広がり包み込む空と。


ラビAbayeの視点は、「神」の遠い現代に、どんな姿勢が必要なのかを教えてくれる。香をたき、うっとりとアロマに包まれる前に、自身に向き合い、自身に潜り、溢れる生命活力エネルギーを導いていくこと。果てしなく続く、大空の下で。

このイメージ、覚えておきたいです。


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