靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、お兄ちゃんはモンスター

2014-01-19 13:06:13 | 今週の整理
1.昨日から雨しとしと。下二人、草が見えてきた~! 春が来る! とはしゃいでます。(笑) 毎年こうして緩む時期があるのですが、ここ二週間ほど暖かく外遊びもしやすいです!


2.友人が夫さん手作り日本酒をおすそ分けしてくれた。何でもかなりアルコール度強いらしく。友人は料理中に飲み、気づいたらトイレで寝ていたという。夫さんは新年から酔っ払い、階段の手すりに頭をぶつけ病院で額をグルーでひっつけたという。こ、これが、そ、その・・・、と震えながら受け取った。(笑) 私はお酒は飲める方ではないのですが、夫とちびちびいただきました。お、おいし~、酒の味などよく分からない私でさえ、おいし~! これはついつい飲み過ぎるよねと納得。このアメリカ人夫さん、パンや日本酒やビールやらと趣味でせっせと作られている。どれも職人技、あっぱれ。ありがとう!


3.長男が参加するロボティックスの集まり、担当教授が突然先月他の大学へ移ってしまい、ちょっとカオス状態に。冬休み中も何度かミーティング場所に出かけるも、建物が施錠されていて中止となったり。先週末の試動会もいつどこで何するか前日まではっきり分からなかった。五人チーム内もゴタゴタで進まず、小学校からクラスメートだった子と今のチームを抜け二人だけで新しいチームを始めたいと長男とそのお友達で実行してみたり。まあそれは今更遅かったのですが。まだ今年から始まったばかりの集まり、スタッフも皆試行錯誤状態のよう。
 それでも長男一週間に一度ほど、アラスカ大学の学生さんに時々見てもらいながら、お友達とロボット組み立てプログラミングしと過ごせていること、楽しくてしょうがないようです。ロボティックスへの没頭振り。自分のパッションが何にあるのか、自分をよく観察してみるといいよ、と進路について話すのですが、彼も彼なりに自分を見つめ、色々と考えているようです。


4.かじりかけの洋ナシが台所のカウンターで茶色くなっている。もうこれ捨てないとだめだね、と三女と次男。かして、と小さな手から受け取り、包丁片手に表面を削いでみる。うわあ!と二人。中は真っ白なんだねえ!
 このイメージを胸に。表面に惑わされず、人に物事に、こんな「白さ」を見出していきたいです。


5.六歳三女と四歳次男が十四歳長男をやっつけるという遊びを時々している。家の中を勢い良く走り回り、きゃ~ぎゃ~それはもうすごい騒ぎ。ああ、こうやって従兄弟のお兄ちゃんに遊んでもらったなあと思い出しながら、行き過ぎて怪我するまでにはならないように時々声を挟んで。 
 昨夜は一騒動がおさまると、三女が真っ赤な興奮した顔で、何やらクラフトセクションでごそごそ。しばらくして、長男の部屋のドアの隙間から手紙を差し入れている。後で長男が笑いながら見せてくれた手紙:

おにいちゃんへ、 
おにいちゃんは、とってもくさくてきたないモンスターです。
でも、おにいちゃんサイコー!





6.今朝は今から知り合いの長男君のバルミツバ(ユダヤの13歳男の子のお祝い。これで大人への仲間入り。日本の昔の元服式のよう)。朝儀式があり、夜はパーティー。私は儀式に子供達と参加し、夜は長男長女だけの参加。パーティーには300人近く集まり7時から11時まで続くと! 長女とキンダーからクラスメートの長男君、この日のために様々な宗教的準備も積み重ね、ユダヤの子供達にとってそれはそれは大きな節目、おめでとう!


今日は儀式が終わったら、長男NPO迎えに行って、上の子達と買い物、そして長男ロボティックスの後長男長女パーティーへ。長女はパーティーから友人宅へスリープオーバー。明日は、課題宿題散歩の一日!


とここまで書き、時間切れでバル・ミツバ会場へ。オーソドックス派による本格的な儀礼に、ユダヤそしてユダヤでない人何百人も招かれた盛大な集まり。ヘブライ語で一時間近くリズムにのせて『トラ』を読み上げる主役J君。まだ声変わりしていない透き通った声が心に響きました。本人、そして涙涙の両親のスピーチも素晴らしく。感動の時でした。またまとめて報告します! その後はNPOに長男迎えに行き、今夜のパーティーのスーツを買いにいくも、サイズが合ったものがなく。長女によると、今夜の主役のJ君、何でも紫のジーンズで登場するらしく「レスフォーマル」とのこと、そこでネクタイ襟付きシャツに黒ジーンズということに落ち着きました。こういうことはこんな直前にしてちゃだめですねえ。(笑) 今からロボティックスに長男迎えに行き、パーティーへ降ろします! キンダーから一緒に大きくなった友人君の特別な日を、こうして共に祝えることに感謝を込めて!


皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

ロボティックス試動会へ。


やってるやってる。


冗談言い合って、


真剣に相談しあって。


カメラを向けていると気がつくと、何その顔・・・。


待つ四人は、こんな遊び。



近所の小学校へ下三人連れそり!


うまる~!


ふ~、ふかいね。


次女ひっぱってくれる。

ひゃっほ~。

ママ、おもい・・・。


ほっ、今夜のパーティー、なんとかなった!

いってらっしゃい!

長女の涙、許すということ

2014-01-19 13:02:58 | 子育てノート
次女のスペリングビーの最中、隣の夫の携帯に長女からテキストメッセージが入る。「ママ何で迎えに来てくれないの!?」と。あれっ、今日はクロスカントリー部の練習が四時半まであるはずじゃないと思い、次の瞬間、あああああ~!と思い出す。

木曜日はピアノがあるから、部活を休むことになっていて、そしてそのピアノ、午前に先生から電話があり、体調が悪くて病院に行くことになったので急遽違う日に移しましょうということに。長女の携帯にピアノレッスンキャンセルの連絡を入れるの、すっかり忘れていた。

夫はすぐに仕事へ戻る必要があり、私も長女を中学に迎えに行っていたら三女と次女の学校終了時間の迎えに間に合わない。長女に学校の図書館で待っていてと伝えるも、もう閉まっているとのこと。

ということで校舎の入口で一時間ほど待つことになった長女、次女と三女と次男を連れて駆けつけ、ごめんねすっかり忘れてしまってと謝るも、無言で車に乗り込み静か。運転しながら、全くもってママの手違い勘違い、本当にごめんねと言うも、助手席で窓の外を向いたまま。頬をこすり、時々鼻をすすり、気づかれないように振舞っているものの、な、泣いてる・・・。あの気の強い長女が・・・。(長女が泣く姿というのは、本当に小さな頃の記憶にしかないほど)


ここ何日かスペリングビーで盛り上がり、ピアノももっぱらずっと三女にかかりっきり(多忙な長女は「気晴らし程度」でいいねというスタンスになっていて)。

その上元々長女は手のかからない方で、こちらがあれこれ言わずとも生活面から勉強面から自分でさっさと進めていく。長男の成績などはネットでちょこちょこ見て、ハラハラドキドキちょっとこれ大丈夫なわけ~! と声をかけることはあるけれど、長女については、波も穴もほとんどなくこなしていくので、見て!と促されて見るといった程度だったり。

手がかからないと、あれやこれや起こり続け手のかかる子に張り付いている内に、ますます後回しの後回しに。長女も毎日必死で頑張っているだよなあ、そうはっとする。



その夜は、長女により心を配ってみる。閉じた心、押して引いて押して引いて、少しずつ寄り添い。迎えに行って以来沈んでいた表情に、少しずつ笑顔が見えるようになり、学校であったことなどぽつりぽつりと話し始め。そして文句も出始める。何で連絡してくれなかったの!部活も休んじゃって待ちぼうけで。何度も何度も。こうして言葉にしてくれると、前に進み始める。謝り、これからの改善策を話し合って。そして、こちら側の状況も少し話してみる。四歳から十四歳までのそれぞれ違うニーズを抱える子のケアをするということ。

「ごめんね。ママもパパもね、他にももっとしてやれたならなあと思うことたくさんあってね。それでも身体は一つしかなくて。でもね、ママもパパもあなた達のこと本当に大切に思っているということだけは、覚えていてほしい」

最後にそう伝えると、じっと考える様子。



就寝時間、自分の部屋に向かう前に、長女がいつものようにハグしに来る。ハグが終わり、それでも座ったまま、私の顔を見つめている。そして言った。

「あのねママ、私はママをforgiveするね」

少し照れた笑顔。またハグして、おやすみなさいと言い合い。



「許す」ことで自由になるのは、他の誰でもない自分自身。

長女はそんな感覚を、少し掴んだのかなと思う。感謝を込めて。

スペリングビー、晴れやかな笑顔

2014-01-19 13:02:49 | 子育てノート
木曜日にスペリングビーの校内大会。三年生以上の各クラス二人ずつ代表二十六人が講堂の前に。

 この日をどきどきと迎えた次女。毎日とはいきませんでしたが、冬休みも少しずつスペルの練習。学校が始まってからは担任の先生が、代表の二人で「授業を抜けて問題出し合い練習時間」をちょこちょこと取って下さったよう。

 私も練習に時々付き合ったのですが、「間違えてしまった」時の次女の反応の凄さに(文字通り「のたうちまわる」)、もうこんなに悶絶するくらいなら、スペルのこと忘れてしまったらとつい言ってしまったことも。

 「間違えるからね、どういう点に気をつけたらいいか分かって、より良くなっていくんじゃない。二度同じの間違えたらね、もうそれはそこが弱いってピンポイントできたことで、後はそこに集中すればいいのだし、どう見てもどんどんよくなってるってことでしょ」と話し合い何度か。そして一つ間違えると、怒りと動揺で次にできるはずのものもできなくなり、となる度、「間違えて心をそんなに乱していたらねもったいないのよ、『深呼吸、リセット、新しい気持ちで次へ』、これはどんなことにも言えるのよ」そう何度か落ち着く練習。

それで初めと比べ、随分と取り乱すことも少なくなり。「間違えた単語」について再び触れるのさえ難しかったのが、「ママ、その単語マークしてね」と落ち着いて言えるようになり、練習もテンションばりばりぴりぴりの雰囲気から、笑顔のこぼれるリラックスしたものへと変わっていきました。

 このスペリング練習を通し、何が一番よかったかと言えば、こうした「失敗に対しての姿勢」を繰り返し学んだことです。



 それにしても、rやlが一つか二つか、cかsか、orかerか、ail かaleなど、細かいところまで正確にスペルするのって、改めて難しいことだなあとつくづく思いました。その上私の発音も怪しいもので、私が読み、次女言い直し、スペルする、というパターンがしょっちゅう。何だか練習を手伝うと余計難しくしているようでもありました。(笑)

例えば、forayは「r」一つで disarrayは二つ。follicle, scintillation, mollify, tracticallyなどは「l」二つで propulsion, decathlon, flagitiouslyなどは一つ。stridency, armisticeは「c」だけれどporosityは「S」。doctor, chancellorは「or」でoleander, bewilder は「er」。ailmentは「ail」でmoraleは「ale」。その他にも、genoise(ぜのあ~)、 panache(ぱなーしゅ)などフランス語読みも混ざり、shiatsuなんて日本語も出てきたり。

私自身、かなりの学びの時となりました。

もっと本格的に練習するとなると、語源ルーツなどもしっかり把握してパターンを覚えていくということになるのですね。



ということで次女、校内大会前日は学校から帰ると明日に備えてゆっくり休むんだと大張り切りで宿題を終わらせ、ざざっとスペルを見直し、八時には一人電気消してベッドに。それでも結局九時過ぎにどうしても寝られな~いと起きてきて、一緒に夜の感謝の言葉言い合いなどしてました。(笑)

当日、もうとにかく、力を出し切れたということであればいいなと見守り。

初めに、2008年のスペリングビー米国全国大会で八位だったというアラスカ・ジュノー出身のParkさんという女の子からの話があり。一日八時間から十時間練習したそう! ここ三週間ほど一日平均三十分くらい練習してきたかなという次女、家に帰ってからもこのこと何度も興奮して話してました。

元校長で今は学区長(superintendent)のG氏が、一人一人に単語を読み上げていく。二十六人、一回目、二回目ラウンドと、次第に難しくなる。簡単なものほど、ついうっかり分かっているのに言い間違いということが練習でもあり、それで初回ラウンドでアウトというパターンだけは避けてあげたいと思っていたので、二回過ぎた頃には、もう私もほっとリラックス。

結局次女は五回目七人まで残り、そこで四人アウト。ということでその四人と共に四位に

motion, hermitage, chancellor, aubergineときて、最後spectaclesをs-p-e-c-t-a-c-l-sと言ってしまい。上の子達に言わせると、何でhermitage, chancellor, aubergineが言えて、spectaclesを間違えるわけ? ということのようですが、四年生にとっては、どれも同じように聞きなれない言葉なんですよね。(笑)



最後三人。六年生五年生、そして三年生の女の子!この女の子、 Redundant、decrepitude、pandiculationなどと五・六年生に負けじと頑張るものの、結局三位に。大きなお兄ちゃん達に混ざって、手の平に指で単語を書きながら必死で答える様子がもう可愛いくてしょうがなかったです。

六年生の男の子、ferrule, rebarbative, wherewithalなど正解で優勝し州大会へ。この男の子は必ず、単語の意味、品詞などを質問者G氏に尋ね、考えてから答えるんですね。そういった知識を総動員してスペルする。見ていると次女も含め、シラブルなどに区切って感覚的に覚えている子が大半なのですが、先へ進むほど、こういった体系的な知識が必要になるのでしょうね。スペリングの奥の深さを感じました。

次女も悔しいながら、晴れやかな笑顔。こんな体験ができたこと、本当に感謝です!


二十六人ずらりと前へ。


こうしてひとりずつ前に出てマイクの前でスペル。かなりのプレッシャーにもなりえそうです。がたがたと震えている子もいたと次女。


七人に残った!


早い内に規定の形に表す練習をするということ

2014-01-19 13:01:14 | 子育てノート
次男と毎日一時間ほど、「勉強」のようなことをしている。といって、子供は遊びから一日中学んでいるようなものなので、この「勉強」というのは、そうして一日中学んでいることを、「規定の形に表わす練習」というようなイメージで捉えている。

上の子達も、四歳くらいから、少し集中した「勉強の時間」を持つようにしてきたのだけれど、皆この時間を楽しみにしていた。こちらから無理やり座らせてとなると大変だろうけれど、子供の方から「ワークしよ!(皆この時間を『ワーク』と呼ぶ)」と声をかけてくることの方が多く、それで毎日続けられてきた。

の時期の子は、とにかく「楽しさ」を体験させることが大切だと思う。そしてその楽しさは何といっても、「できた!」という喜びの積み重ねから来る。

その子の様子を見てハードルを変えつつ:
1.歯が立たなさそうぎりぎりな課題の「できた!」
2.少し簡単な課題の「できた!」

1で始め2へ、そして1で終わると意識しつつ、体調良好意欲満点の時はより1を、疲れていたり気持ちが乗らなさそうな時は2をと、その場その時に応じて柔軟に。

歯が立たなさ過ぎでもなく、簡単過ぎでもなく、最も大きな喜びは、その子のその時の全力を用いてたどり着く「できた!」を体験する時。

こうして続けていると、この「ワーク」の時間が、本人の中で毎日欠かせない楽しみな時となっていく。



上の四人、皆五歳六歳時に、認知テスト、学力テスト(読み・算数)、IQテストと受けてきたのだけれど、この「ワーク」の時間が、結果的にそれらのスコアに繋がっている。特に学力テスト、普段日本語を聞いているのに、英語ネイティブの子達と比べ上位二パーセントにつけるというのは、「準備」なしでは難しい。また算数も、時間の読み方やコインの計算など、練習なしではきつい。

それでも、早い内からこうした「ワーク」をすることなく、小さな頃はもっとふわふわとした世界を存分に楽しみ、小学校高学年くらいから徐々に「きちんと形にすること」を身につける、というのも一つの方法だと思う。そういった場合は、幼い時期はテストなどをしてみれば低いスコアが出るのだけれど、単に「規定の形に表す練習をしたかしてないかという差」というだけで、その「賢さ」には何の違いもない。私自身は、むしろ小さな頃は存分にふわふわと飛び回った方が、後々より「考える幅」ができるのじゃないかとも思っている。

この「ふわふわ感」というのは、「多様な答えに遊ぶ」というようなものだろう。例えば1+1=という問題に、2だけでなく、田、窓、1などの答えを楽しんだり。「水平思考(Lateral Thinking)」と言われるもの。

こうした「ふわふわ感」を大事にしていきたいという気持ちが私の根底にはあり、早いうちから「きっちり規定の形に表す」ことに偏り過ぎないための、よいバランスをとってくれている。

そもそも、早い時期にこういった「ワーク」時間を持つこと自体、詰め込みではない「水平思考」も重視してくれる環境(「ギフテッド」プログラム)で学習して欲しいという願いから始まっていて。そこに入るためには、試験をパスしなければならない。それでパスできるところへもっていこうとしつつも、その子の様子を見、無理があり過ぎるようなら待ってみようというスタンスで今まできている。

早い内にテストなどのスコアに表れる働きかけをすることは確かに可能、それでも長い目で見たその子の全体的な成長を大切にできる働きかけを目指したいです。




もう一つ、幼児期に少し集中したワークの時間を持つことのメリットには、凸凹の把握があるように思う。ワークを通し、ぎょっとするような凹を見つけることがある。短期記憶だったり、形の把握だったり、左右上下後ろ前がこんがらがっていたり。幼児なのでこんがらって当たり前ともいえるのだけれど、他のできる面と比べ、少し度合いが過ぎているかなと思われる部分。

私は専門家ではなく、今まで我が家の五人プラス少し友人の子と接してきた体験からなのですが、まだそれほど「癖」がついていない内だと、こうした凹部分もより調整しやすいのじゃないかと感じている。脳のうっすらとした溝をなぞってより深く刻むイメージ、弱い筋肉を鍛えるイメージで少しずつその弱い部分を集中して鍛えていく。
大きくなったら自然にできるようになっていくことがほとんどだという前提の上での話ですが。

こういうことは、しなかったから/したから、今こうなっているといったデータが取れているわけではないので何ともいえないのですが、「癖」の強い家の子達、早い時期の「ワーク」がなかったら、もっと凹面が強く出ていたということもあったのかもしれないなとも感じている。

「ディスレクシア」は早期に働きかけるのがいいというのが、専門家による定説ではあるよう。だからといって、夫の体験(重度ディスレキシアの診断歴を持つ)などを見ても、大人になってからでも本人の「意欲」次第でどうにかしていくことができる場合もある。ましてや小学中学生ならば、本人の「意欲」を盛り上げていくことで、伸ばしていくことはまったくもって可能なのでしょう。



最後に、接する側の心構え整理

・結果からこの子はよくできる・できないとジャッジするのでなく、「できるようにどうサポートするか」にフォーカスし続ける。

・自分を見てきて一番感情が乱れきつくあたってしまいがちな時というのが、うわあこんなこともできるんだねと喜んだ後、簡単に見えることにとても苦労してしかも間違えたりするとき。「期待」が曲者だなあとつくづく。自分がヒートアップしてきたなと思ったら、「できないで当たり前」くらいのスタンスに下げてみる。

子供の成長は単純な一直線じゃないと思い出す。横ばいも下降も、外には見えない回路をあれこれ行き来し繋げている成長の過程。

よい結果を出すことを全力でサポートしつつも、心の奥では、結果を手放す

日々思い出していきたいです。


五人の学習を見てきて感覚的に掴んでいること、まだうまく言葉に表せないのですが、少しずつまとめていきたいです。

山へ上らないという境界

2014-01-19 13:00:22 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


「山へ上らないという境界」について、三つの解釈(“Borders Built of Roses” By Rabbi Y.Y. Jacobsonを参考に):

モーセがシナイ山に上ると、神が言う。「人々の間に、ここからはこの山を上ってはいけないという境界を設けなさい。どんな人も動物もその端に触れるのならば、生きてはいられない。」
そしてモーセは十戒(『トラ』)を受け取る。
神はもう一度言う。「山を下りて人々に告げなさい、山へ上ってはならないと。多くの『神に仕える者』(priests)達が境界を越え主へと上り寄ろうとするだろう。境界を越えてはいけないと伝えなさい。」モーセは答える。「あなたはもう既におっしゃったじゃないですか、シナイ山へ上らないよう境界を設け聖別(sanctify)するようにと。ですから人々は上るはずがありませんよ。」神は言う、「下りなさい、そして人々に伝えるのです。」そこで、モーセは山を下り人々に告げた。
(Yisro 19:12『トラ』)

この箇所について、何千年も議論がされている。境界を設けるとはどういうことなのか? なぜ「神」は二度も同じことをモーセに言ったのか?

ここでは三人のラビ(18世紀―20世紀)による解釈を。それぞれの解釈に理解のエッセンスと学びがある。


一.「バラによって作られる境界」が与えられたということ。

「境界」には二種類ある。
1.物理的な境界。明らかに目に見え、具体的で触ることのできる境界。
2.目に見えることなく抽象的メタフィジカルな境界。


1は動物でもぶつかり前に進むことができないが、2は理解しない動物や子供はやすやすと越えられる。「神」が一度目に言った「境界」とは1を指し(端に触れるなら動物でも生きていられない)、二度目のは2の境界を指している。

2とは、1のように明らかな罰があるわけではない。越えるならばこうなるといった恐怖を脅かすものでもない。『トラ』(広義には「人生の知恵」)を受け取った後の境界とは、2を指している。

2とは、「バラやユリの花で作られた境界」(Song of Songs 7:3『トラ』)とされるもの。その美しさその香りに、踏みにじりたくないと心の中に芽生える繊細さのようなもの。それは正義、公平さ、一人一人の尊厳、理想、夢であり。自身の真を大切にし、より理想に近い自分の人格を傷つけず、より高い自分に嘘をつかない、より高い魂を妥協しないというようなこと。

罰せられるからではなく、踏みにじりたくないという繊細さにより、境界を越えない。

『トラ』を受け取ることにより、人々が与えられたのは、こうした「バラによって作られた境界」。



二.一瞬一瞬自らに「境界」を問うことが大切だということ

動物も自然も、あらゆる存在は「法則」によって規則正しく動き続けている。ただ「人間の心」だけがパターンを越えた選択の幅を持っている。その複雑な「人の心」の指針となるのが『トラ』とされる。トラを受け取り、モーセは言う「神よあなたはもう既に境界を越えるなとおっしゃったじゃないですか、だから人々はもう越えるわけがないのです」と。それでも「神」は繰り返す、「越えてはならないと告げなさい」と。

『トラ』を受け取ったのだから、人生の知恵を知ったのだから、自分達はもう「善き人々」になったというわけではない、一瞬一瞬の選択の繰り返しの大切さを、「神」は教えようとしていたということ。



三.肉体や物質を置き去りにして「上る」のではなく、肉体や物質的世界にこそ、天を下ろしてくるのだということ。

『トラ』を与えられ、「神」にキスしようと山を駆け上ろうとする人々が増えるだろう。「山に上る」とは、世俗を離れ、聖域へと足を踏み入れることを象徴的に表した言葉。

「山へ上るな」とは、世俗に留まるということ。世俗の中に、『トラ』(人生の深い知恵)のエッセンスを実現していくということ。

『トラ』(人生の深い知恵)に触れ、二つの流れができる:
1.何時どのように祈り何時何をどのように食べ何時何をどのようにしと戒律に細密忠実に従い、自分達は境界をしっかりと守っているとする流れ。
2.瞑想、祈り、エクスタシー、センセーションなど形なきものを追い求め、物理的な境界を置き去りに、山を駆け上ろうとする流れ。

1と2を重ねる。物理的な境界を大切にしつつ、祈りを、「神」に触れる喜びを、世俗に、日常に行き渡らせていく。


結婚式で、壇上に上がるための階段の幅が狭く、誰が先に行くべきかと話し合いになる。あなたにはより多くの弟子がいるのだから先に、いやあなたの方が高齢なのだからあなたが先に。そこへ一人が言う、階段のないところから上りましょう。大切なのは結婚の祝いなのであり、こういう時は柔軟に壁(階段を上るという決まり)を突き抜けていきましょう。そこへ一人が言う「壁(決まり・境界)を突き抜けるのではない、ドアを広げ、ドアを通るのです。階段を継ぎ足して広くしましょう」

境界を越え突き進むのではなく、この世俗物質世界の境界の中に現実的な変化を起こしていくということ。




一.バラを踏みにじらない繊細さ、二。一瞬一瞬の自身を見つめていくこと、三、肉体・物質面と心面を共に大切に、心の奥深くにある「山」を形に実現していくということ、心に留めていきます。