Your Eyes Only
<1>
12月の3度目の金曜日の夜。会社での飲み会が往々にしてそうであるように、その日の飲み会もつまらない、ストレスが更にたまるだけのものだった。
心地よい酔いが得られないまま終電近くの電車に揺られ、車窓の向こう側を過ぎてゆく町の明かりをぼんやりと眺めていた。
最寄り駅のひとつ前の駅に止まった電車は、なかなか発車しようとしない。程なく車掌の「ただいま前の電車が車両点検をしており、当電車もしばらく停車いたします。お急ぎのところ申し訳ありません。」という、まったく申し訳なさそうに聞こえないアナウンスがあった。
どうしたものかと思ったが、家まで歩いてもさほど遠くないことが分かっており、また酔っていたことも手伝ってふと電車から降りてしまった。
改札を抜けて人通りがほとんどない商店街を抜ける。手元のスマートフォンで時間を確認すると午前1時を少し回っていた。妻には今日飲み会があることは事前に知らせてあったので、特に急ぐでもなく歩く。20年前ならなんでもなかったこの寒さが50歳になった体にはひどく寒く感じられ、一瞬電車を降りてしまったことを後悔する。
コートの襟を合わせながら尚も住宅街を歩く。何度か歩いたことのある細い通りだったが、深夜だったこともあり、少し不安な心持がした。
その住宅街の中、少し向こうにボーっとした明かりが見える。そのまま歩を進めると程なく店の看板であることが確認できた。バーである。「Shot Bar Your Eyes Only」
と読めた。「こんな処にバーがあったって客は入らないだろうに。」一人ごちて通り過ぎたが、なんとなく気になって足を止める。
会社での飲み会がつまらない事が最大の理由だったが、ふだん一人では決して入らないだろうショットバーに入ってみたくなったのだ。冷えた体を暖めたかったのかもしれない。
程よく照明が落ちており、古いジャズが流れていた。トニー・ベネットの「ストレンジャー・イン・パラダイス」だ。カウンターだけの小さな店で、カウンターの向こうでは初老の男がグラスを拭いている。ほとんど真っ白の髪を短く刈っている。品の良い顔をあげこちらに軽く会釈をし、いらっしゃいませと短く言った。店内は暖かく心地よい。
コートを脱ぎながら椅子に腰かけると「ウィスキーをストレートで。何がある?」と聞いた。彼はそんなに多くはおいていないんですが、と前置きをしていくつかの銘柄を示した。そのうちの一つを指定すると、ウィスキーが出される間に薄暗い店内を見回す。かなり古い稠度をそろえたのか、それとももともと新しかった内装が年を経て古くなったのか、いずれにせよ映画のセットのような雰囲気を醸し出している。
<2>
ウィスキーは喉を温めながら落ちていった。一緒に出されたナッツをカリリと噛みながら、チェイサーを口に運ぶ。
「こんな住宅街でバーをやったって客が来ないだろう。」
ふた口目のウィスキーが胃に届いたころそう言うと、初老の男は笑いながら静かに言った。「ええ、たしかに。一日に一人来れば良いほうです。まあ狭い店ですし老後の趣味でやっているので。」
蝶ネクタイに黒のベストを品よく着こなしている。銀行員か役所の仕事でもやっていたのか、背筋がのびている。落ち着いた物腰もこの店の雰囲気を良くしていた。
深夜で、しかも住宅街の中にあるせいだろう、客はほかに誰もいなかった。またナッツを口にした。ウィスキーでそれを流し込む。たまに一人で飲むことはあるのだが、こうしたバーでじっくり飲むのも悪くない。
「良い店だね。」
お世辞のつもりで言ったのではないが、初老の男は口の端に笑みを浮かべ軽く頭を下げる。
店の奥からもう一人、バーテンダーが出てきた。初老の男と同じように白いシャツに黒いベストを着ている。首にはこれもまた同じような蝶ネクタイ。この店には似つかわしくない若い女である。
「いらっしゃいませ。」
20代前半と思われるその女性はこちらにむかって軽く頭を下げた。まだ顔に幼さが残っている。それでも物静かな動作と笑い顔がこの店の雰囲気に合っている。初老の男といい、この若い女性といい、ジャズが静かに流れるこの店の調度品の一つのようだ。
「おかわり、いかがですか?」
ウィスキーを飲み干し、帰ろうかもう一杯飲もうか迷っていたところに、後から出てきた若いバーテンダーが声をかける。私は見るともなしに彼女の顔を見た。薄暗い店の明かりのせいで先ほどは気づかなかったが、彼女とはどこかで会ったような気がする。そう言えば声にも聞きおぼえが。
「じゃあ、もう一杯だけ。同じものを。」
私はそう言いながら彼女の顔をもう一度確認する。
似ている。
私が妻と出会うよりずいぶん前、かれこれ30年近く昔、20代の初め頃に付き合っていた女性がいた。由紀というその女性は、待ち合わせに来る途中、交通事故であっけなく命を落としてしまった。老人の運転する車が信号を無視して交差点に突っ込んだのだ。横断歩道を渡っている彼女を含め3人の命をあっという間に奪ってしまった。何千万回も彼女の名前を叫んだが、当然のことながら由紀の笑い顔を見ることは二度となかった。
その後10年以上恋愛から遠ざかっていた。そんな折友人何人かの集まりに参加していたのが今の妻だ。友人が連れてきたその女性は由紀に雰囲気が似ていた。初めは会えば二言三言会話を交わす程度だったが、その後数回会ううちに閉ざしていた心を妻が開けてしまった。由紀を失ってぽっかり空いた心の隅間を彼女が少しずつ埋めてくれた。由紀の事を彼女には話し、それが理由で恋愛からも遠ざかっていたことを正直に打ち明けた。それでも妻は受け入れてくれた。そしていつしか人生を共に歩むパートナーとして認識するようになる。勿論由紀のことは過去のこととして色あせる事無く存在し続ける。今までもそしてこれからも。
目の前にいる女性が、当時の由紀に似ている。いや瓜二つだ。
「どうされました?」
彼女に聞かれて、なんとか「・・・いや、昔知っていた女性に似ているので。」と答えた。そんなはずはない。彼女はどうみても20代前半だ。由紀が生きていれば私と同じ歳になっている。
<3>
失礼を承知で昔付き合っていた彼女に似ていることを告げた。彼女は初老の男と顔を合わせると照れたように「そうですか、ありがとうございます。」と笑った。笑うときに無意識に左手を口元にあてる仕草も由紀の仕草のそれだった。
勿論由紀が生きているはずもなく彼女が由紀本人であるはずもなかった。しかし目の前にいるのは当時の彼女だった。
あれやこれや聞くのも失礼だと思い、「いや、他人の空似だよ。」と付け加えた。
それでも聞いてはいけないことを聞いてしまった。いや、正確には聞くべきでないことを聞いてしまった、というのが正しい。
「失礼を承知で聞くのですが、お名前は?」
「やっと思い出した?私の事なんか忘れちゃったのかと思ったわ。」
彼女はいたずらっぽい笑顔でこう言った。
状況を飲み込めない私が混乱しているのを見ながら、初老の男が静かに話を引き継ぐ。
「信じられないかもしれませんが、確かにその娘はお客さんの知っている女性ですよ。詳しくお話しすると長くなります。残念ですがそろそろ閉店の時間ですので。」
椅子から立ち上がって初老の男に思わず声を荒げて言った。
「いや、ちょっと待ってくれ。そんなはずがない。だって彼女はどう見たって20代前半だろう。由紀が生きていれば50歳だ。なんだ?どういう仕掛けになっているんだ?何か調べたんだな?初めから知っていて…」
そこまで言うと私は混乱した頭と焼け付いた喉を冷やすためにチェイサーを口に運んだ。初老の男は笑いながら「・・・ここは、そういう店なんです。」と答えた。今まで何千回と繰り返したような、子供をなだめるような、そんな優しい言い方だった。
酔っているのだろうか?何かトリックがあるのだろうか?目の前で起きている事が理解できなかった。初老の男はなおも続ける。
「この店は深夜にしかやっておりません。来週金曜日にもう一度いらしてください。そうすればまた彼女に会うことができます。ただし今夜の事は一切口外しないでください。」
由紀にコートを渡され店の外に出る。聞きたいことは山ほどあるのだが、疲れ果てていた。
彼女の背中越しにジョニー・マティスの「ミスティ」が流れている。由紀がささやくように言う。
「来週の金曜日に待っているから。でも忘れないでね。Your Eyes Only 他言無用よ。」
目の前でドアが閉ざされた。一気に寒さが現実に引き戻す。数十秒だろうか、何か起きる事を期待したが再びドアが開くことはなかった。
<4>
次の金曜日が待ち遠しかった。一週間ほとんど仕事が手につかない。土曜、日曜、月曜と毎日店の前に立ってみても店の看板に明かりが灯ることはなかった。店の前に立ち尽くす50歳の男は周囲からは奇異に映っただろう。
妻や同僚にその話をしようとする度に「他言無用よ。」という由紀の言葉が蘇り、言葉を飲み込んでしまう。
金曜日になった。妻に今夜も遅くなるから先に寝ていてほしい旨伝える。二週連続で午前様なんて珍しいわねと言われ、ああ、年末だしどうしても断れない飲み会なんだと言いながら家をでる。会社を定時きっかりに出ると隣駅の改札を駆け抜けた。まだ賑わいのある商店街を抜け、足早に住宅街へ。Your Eyes Only の看板を目指す。
ところが店の扉は閉ざされたままである。よく見ると名刺程度の大きさの紙に「営業時間23時~26時」とあった。肩を落としてどうしようかと逡巡したが、家に戻るわけにもいかず、いったん駅までもどり居酒屋で時間をつぶすことに。
11時少し前にまた Your Eyes Only に戻ると看板に明かりが灯っている。店のドアを開けるとこの前と同じように初老の男が「いらっしゃいませ。」と笑みを浮かべて頭を下げた。隣には由紀がおり、同じように「いらっしゃいませ。」と会釈した。ヘレン・メリルが歌う「帰ってきてくれたら嬉しいわ」が静かに流れている。
正直なところ、彼女が居るかどうか半信半疑だった。コートを脱ぎながら肩で息をしていると、「まるで初恋の女の子に会いに来たようね。」と由紀がいたずらっぽく笑った。それにつられて笑うと「いや、この店が本当にやっているのか少し不安だったよ。」と思わず本音がこぼれた。
ウィスキーのストレートとチェイサーが目の前に置かれる。少し間をおいてマスターが話し始める。
「・・・この店にいらっしゃったお客様は、自分の一番懐かしい思い出に再会することができます。その思い出の具現化されたものが彼女なのです。しかもある程度酔った状態でないと具現化されない。お客様の場合は彼女だったわけですね。ですからあるお客さんにとっては男性だったりもします。お客さんは先週も酔った状態でこの店にいらっしゃいました。だから彼女に会うことができたのです。今週も同様です。」
初老のマスターはそう言いながら店の外にでると看板の明かりを落としてしまい、「これで今日はお客様以外店に入ってこないでしょう。ゆっくりくつろいでください。」と言った。
とりとめのない話が次から次へと溢れ出る。事故のことには触れず、ただ懐かしい思い出話をつづける。マスターは店の隅で邪魔にならないようにグラスを拭いていた。由紀との会話に割って入るような真似はせず、古い稠度品の一部になっているかのようだ。
「ねえ、奥さんはどんな人?」
「由紀に似ているかもしれない。質素で優しくてしっかりしている。」
「そう、私に似ているんだ。良かった。」
「ねえ、店の外では会えないのかい?」
「ごめんね、分かっていると思うけど私はこの店の中でしか存在していないの。言い換えると貴方がこの店に来てくれる時だけ私は存在できる。だから・・・、」
「だから?」
「また来週来てくれる?」
「ああ、勿論だ。」
カウンター越しに握った彼女の手は温かかった。
「でも、約束してね。他言無用よ。」
「Your Eyes Onlyだね。約束する。ねえ、写真を撮っても良い?」
「可愛く撮ってね。」
マスターにお願いして由紀との写真を撮ってもらう。古い調度品をバックに由紀が顔を近づけてくる。彼女の香りがした。
<5>
それから数週間、色々と理由をつけて金曜日の夜を「Your Eyes Only」で過ごした。妻はすでに諦めており、「必ず2時過ぎに帰ってくるなら良いけど、まさか浮気じゃないわよね。」と笑っている。「何を言っているんだよ、浮気できるほど小遣いも貰ってないじゃないか。」とやり過ごす。
これは浮気なのだろうか?たった3時間、懐かしい話をするだけだし、彼女は店にいる時だけの存在だ。それでもスマートフォンの中には彼女の写真が残っている。これは浮気なのだろうか。もう一度自問する。妻には申し訳ないと思いつつも、男というのは都合の良い生き物だな、と苦笑した。
とある休みの日に昔の写真をこっそり取り出してみた。昔由紀を撮った写真があったはずである。30年近く前に撮った由紀がそこにいる。当時流行った髪形の彼女が口元に左手をあてて笑っている。スマートフォンの中の写真と比べると、髪型以外は当時のままの由紀だ。
確かに浮気と言っても良いかもしれない。今の妻を愛していることに変わりはなく、この先由紀との間に何かの進展があるわけでもない。それでも妻以外の女性に心を奪われている自分を認めざるを得ない。昔の思い出に浸って気持ちよく揺蕩(たゆた)っているだけだと自分に言い聞かせる。もしかしたら現実ではないのかも、と。
偶然出会った女に恋をして、毎晩女のもとに通っていた男。不審に思った周囲がある晩つけてみると男は毎晩墓地に入り込み骸骨に頬ずりしていた、という昔話があったが、あれと同じだ。それでも良い。夢の中の逢瀬である。
久しぶりに会った同僚と飲みに行くことになった。彼は大阪に転勤し奥さんと一緒に向こうで暮らしていた。15年ぶりに東京に戻って来たのだ。しかし転勤して間もなく彼女が病気で亡くなってしまった。それ以降、彼は独身を続けているらしい。
もともと奥さんは私たちの職場にいた女性で、職場ではアイドル的な存在だった。彼が見染めてあっという間に結婚してしまった時は、周囲のひんしゅくを買ったものだ。
居酒屋で杯を重ねているうちに彼女の奥さんの話になった。
「あいつには悪いことをしたよ。俺なんかと結婚しなければ死ななかったかも知れない。」
「いや、それはどうだろう。彼女がお前と結婚しなかったからと言って、彼女が病気にならなかったとは限らない。むしろお前と結婚したから彼女は幸せなまま死んだとも言える。そんな事を嘆いたまま人生を送っても、彼女が喜ぶとは思えない。」
「そうだろうか、本当にそうなのか会って確かめたいよ。」
彼のこの言葉に口に運びかけたグラスが一瞬止まる。同時に由紀の悪戯っぽい声が聞こえる。「他言無用よ。」
「そうか、会いたいか。そうだろうな。」
「ああ、たまに夢の中に出てきてはくれる。でも覚めない夢はない。」
「Your Eyes Only」という店の名が喉まで出かかる。また由紀の声が聞こえた。「他言無用よ。」
<6>
結局その日、Your Eyes Onlyの事は口にしなかった。もし話してしまったら永久に由紀に会えないような気がしたのだ。これで良いのか迷った。奥さんを亡くした同僚には悪いが、せっかく会えた由紀に会えなくなることは避けたい。
だがその一方、心のどこかで同僚に同情している自分がいた。
私には現実の世界に妻がいる。毎晩私を待っていて温かな夕飯を用意してくれて、おそらくはこのまま毎日を一緒に歩んでくれる妻が。奥さんを失った同僚は「せめて夢の中でも良いから会いたい。」と願っている。
Your Eyes Onlyに通い始めて何回目かの夜、私は初老のマスターに私の同僚の事を話した。マスターは相変わらず静かに聞いていた。話が終わるまでずっとグラスを拭いていたが、暫くするとその手を止め、グラスを置く。
「おそらくその方がこのバーにいらっしゃれば亡くなった奥さんに再会できるでしょう。しかしその方にこの店のことを話すという事は、もうお分かりになっていると思いますが、お客様は二度とこの由紀さんに会うことはできなくなるという事です。それでもよろしいのですか?」
やはり予想通りの答えが返ってきた。隣で聞いていた由紀はずっとうつむいたまま自分の爪をいじっている。心なしか寂しそうである。
「そうだな。すまない、今の話は忘れてほしい。」
グラスを口に運び、一旦口をつけるが飲まずにカウンターに置き誰に言うともなく言った。由紀を見る。
目の前にいるのは紛れもなくかつて愛した由紀であり、手を伸ばせばその手の温もりも感じられる。ところがこの店のことを誰かに話した瞬間、永遠に届かない存在になるという。
閉店を待たずに店を出た。しばらく歩いて振り返ると、店の看板がまだボーッと真夜中を照らしている。
数日ののち、社内で同僚に会った。飲むことになり、よく利用する会社近くの居酒屋に入ろうとしたが、思い直し少し離れた場所にある静かな小料理屋の暖簾をくぐった。
「どうだ、美しい奥さんは元気か?」
同僚がビールを注ぎながら聞く。ああまあなんとか、と返したが、どうしても話が亡くなった彼の奥さんの話になる。共通の話題、つまり彼女が職場にいた頃の話になると、「あの頃彼女は他に好きな男がいたらしい。それを知らずに半ば強引に口説いたんだ。あんな事をしなければ良かった。」と自嘲気味に笑う。
「いや、それは彼女の病気とは関係ないだろう。お前の奥さんにならなかったら、誰かの奥さんとして病気で亡くなったのじゃないか?」
「そんなものかな。もう一度会って確かめてみたいよ。」
彼のどこか遠くを見るような顔を見ているうちに、ついに言ってはならない言葉が口を突いて出た。
「彼女に会えるかもしれんぞ。」
<7>
心の中、待てそれ以上話すな、と言う声が。その一方で、同僚を癒せるのはあの店しかない、という声も。さらに、もしかしたら彼の身には奇跡が起きないかもしれない、もしそうだったら無駄になってしまう、という声も。
どうしたのかとこちらを見ている彼に向かって話し始めるまで、たっぷり30秒はかかった。
次の金曜日、私はあえて店には行かなかった。妻からは「あら、もう浮気はやめたの?」と揶揄われ、まあね、と答える。確かに浮気だったと思った。深夜中々寝付けず、起き上がると一人でウィスキーをグラスに注ぎながら由紀の事を考える。左手を口元にあてて柔らかに笑う顔を思い出した。会えるのが当たり前になってから何度か握った暖かい手を思った。それがかなり昔のような気がする。
その時、不意に別れを伝えていなかった事に気づく。
「しまった!」
同僚に話す前に、もう一度由紀に会っておけば良かった。
居ても立っても居られなくなり、急いで着替えると家を出る。車で行こうかとも思ったがウィスキーを飲んでいることを考えて、いったん手にした車のキーをポケットの中に入れ、古い自転車を引っ張り出した。ところがこういう時に限ってタイヤがパンクしており使い物にならない。舌打ちして走り出した。
普段の運動不足が祟って、すぐに息が上がる。それでも必死に走り続けると、程なく何度も通った住宅街に辿りつく。あの角を曲がればあの店だ。
ところが。
先週まで確かにYour Eyes Onlyがあった場所が空き地になっている。愕然とした。確かに両隣の家は先週のままだ。しかし店があった場所だけぽっかりと空いており、雑草が風に揺れている。何年も放置されているようだ。
「なんだ、どうなっているんだ!」
無駄とはわかっていたが、声に出さずにはいられなかった。
その周囲を何度も行ったり来たりしたが、状況は変わらずただ冷たい空気が首元に滑り込んでくる。聞こえるのは自分の呼吸する音と、通過する車の音だけだった。
何分そこに立ち尽くしていただろう。ついには座り込んでしまう。
とんでもないことをしかしてしまった事だけは分かったが、もはやどうする事もできなかった。由紀が悪戯っぽく笑って言う。「他言無用よ。」
ノロノロと立ち上がった。風が耳元をすり抜ける。ふと思い立ちポケットからスマートフォンを取り出す。写真を確認した。由紀と二人で撮った写真を。しかし確かに保存してあったはずの写真が見つからない。長いため息が漏れる。
その時、ナット・キング・コールの「恋に落ちた時」が微かに聞こえてきた。凍てつくような寒空にそれはまるで天から降ってくるような、そんな聞こえ方だった。
<了>
<1>
12月の3度目の金曜日の夜。会社での飲み会が往々にしてそうであるように、その日の飲み会もつまらない、ストレスが更にたまるだけのものだった。
心地よい酔いが得られないまま終電近くの電車に揺られ、車窓の向こう側を過ぎてゆく町の明かりをぼんやりと眺めていた。
最寄り駅のひとつ前の駅に止まった電車は、なかなか発車しようとしない。程なく車掌の「ただいま前の電車が車両点検をしており、当電車もしばらく停車いたします。お急ぎのところ申し訳ありません。」という、まったく申し訳なさそうに聞こえないアナウンスがあった。
どうしたものかと思ったが、家まで歩いてもさほど遠くないことが分かっており、また酔っていたことも手伝ってふと電車から降りてしまった。
改札を抜けて人通りがほとんどない商店街を抜ける。手元のスマートフォンで時間を確認すると午前1時を少し回っていた。妻には今日飲み会があることは事前に知らせてあったので、特に急ぐでもなく歩く。20年前ならなんでもなかったこの寒さが50歳になった体にはひどく寒く感じられ、一瞬電車を降りてしまったことを後悔する。
コートの襟を合わせながら尚も住宅街を歩く。何度か歩いたことのある細い通りだったが、深夜だったこともあり、少し不安な心持がした。
その住宅街の中、少し向こうにボーっとした明かりが見える。そのまま歩を進めると程なく店の看板であることが確認できた。バーである。「Shot Bar Your Eyes Only」
と読めた。「こんな処にバーがあったって客は入らないだろうに。」一人ごちて通り過ぎたが、なんとなく気になって足を止める。
会社での飲み会がつまらない事が最大の理由だったが、ふだん一人では決して入らないだろうショットバーに入ってみたくなったのだ。冷えた体を暖めたかったのかもしれない。
程よく照明が落ちており、古いジャズが流れていた。トニー・ベネットの「ストレンジャー・イン・パラダイス」だ。カウンターだけの小さな店で、カウンターの向こうでは初老の男がグラスを拭いている。ほとんど真っ白の髪を短く刈っている。品の良い顔をあげこちらに軽く会釈をし、いらっしゃいませと短く言った。店内は暖かく心地よい。
コートを脱ぎながら椅子に腰かけると「ウィスキーをストレートで。何がある?」と聞いた。彼はそんなに多くはおいていないんですが、と前置きをしていくつかの銘柄を示した。そのうちの一つを指定すると、ウィスキーが出される間に薄暗い店内を見回す。かなり古い稠度をそろえたのか、それとももともと新しかった内装が年を経て古くなったのか、いずれにせよ映画のセットのような雰囲気を醸し出している。
<2>
ウィスキーは喉を温めながら落ちていった。一緒に出されたナッツをカリリと噛みながら、チェイサーを口に運ぶ。
「こんな住宅街でバーをやったって客が来ないだろう。」
ふた口目のウィスキーが胃に届いたころそう言うと、初老の男は笑いながら静かに言った。「ええ、たしかに。一日に一人来れば良いほうです。まあ狭い店ですし老後の趣味でやっているので。」
蝶ネクタイに黒のベストを品よく着こなしている。銀行員か役所の仕事でもやっていたのか、背筋がのびている。落ち着いた物腰もこの店の雰囲気を良くしていた。
深夜で、しかも住宅街の中にあるせいだろう、客はほかに誰もいなかった。またナッツを口にした。ウィスキーでそれを流し込む。たまに一人で飲むことはあるのだが、こうしたバーでじっくり飲むのも悪くない。
「良い店だね。」
お世辞のつもりで言ったのではないが、初老の男は口の端に笑みを浮かべ軽く頭を下げる。
店の奥からもう一人、バーテンダーが出てきた。初老の男と同じように白いシャツに黒いベストを着ている。首にはこれもまた同じような蝶ネクタイ。この店には似つかわしくない若い女である。
「いらっしゃいませ。」
20代前半と思われるその女性はこちらにむかって軽く頭を下げた。まだ顔に幼さが残っている。それでも物静かな動作と笑い顔がこの店の雰囲気に合っている。初老の男といい、この若い女性といい、ジャズが静かに流れるこの店の調度品の一つのようだ。
「おかわり、いかがですか?」
ウィスキーを飲み干し、帰ろうかもう一杯飲もうか迷っていたところに、後から出てきた若いバーテンダーが声をかける。私は見るともなしに彼女の顔を見た。薄暗い店の明かりのせいで先ほどは気づかなかったが、彼女とはどこかで会ったような気がする。そう言えば声にも聞きおぼえが。
「じゃあ、もう一杯だけ。同じものを。」
私はそう言いながら彼女の顔をもう一度確認する。
似ている。
私が妻と出会うよりずいぶん前、かれこれ30年近く昔、20代の初め頃に付き合っていた女性がいた。由紀というその女性は、待ち合わせに来る途中、交通事故であっけなく命を落としてしまった。老人の運転する車が信号を無視して交差点に突っ込んだのだ。横断歩道を渡っている彼女を含め3人の命をあっという間に奪ってしまった。何千万回も彼女の名前を叫んだが、当然のことながら由紀の笑い顔を見ることは二度となかった。
その後10年以上恋愛から遠ざかっていた。そんな折友人何人かの集まりに参加していたのが今の妻だ。友人が連れてきたその女性は由紀に雰囲気が似ていた。初めは会えば二言三言会話を交わす程度だったが、その後数回会ううちに閉ざしていた心を妻が開けてしまった。由紀を失ってぽっかり空いた心の隅間を彼女が少しずつ埋めてくれた。由紀の事を彼女には話し、それが理由で恋愛からも遠ざかっていたことを正直に打ち明けた。それでも妻は受け入れてくれた。そしていつしか人生を共に歩むパートナーとして認識するようになる。勿論由紀のことは過去のこととして色あせる事無く存在し続ける。今までもそしてこれからも。
目の前にいる女性が、当時の由紀に似ている。いや瓜二つだ。
「どうされました?」
彼女に聞かれて、なんとか「・・・いや、昔知っていた女性に似ているので。」と答えた。そんなはずはない。彼女はどうみても20代前半だ。由紀が生きていれば私と同じ歳になっている。
<3>
失礼を承知で昔付き合っていた彼女に似ていることを告げた。彼女は初老の男と顔を合わせると照れたように「そうですか、ありがとうございます。」と笑った。笑うときに無意識に左手を口元にあてる仕草も由紀の仕草のそれだった。
勿論由紀が生きているはずもなく彼女が由紀本人であるはずもなかった。しかし目の前にいるのは当時の彼女だった。
あれやこれや聞くのも失礼だと思い、「いや、他人の空似だよ。」と付け加えた。
それでも聞いてはいけないことを聞いてしまった。いや、正確には聞くべきでないことを聞いてしまった、というのが正しい。
「失礼を承知で聞くのですが、お名前は?」
「やっと思い出した?私の事なんか忘れちゃったのかと思ったわ。」
彼女はいたずらっぽい笑顔でこう言った。
状況を飲み込めない私が混乱しているのを見ながら、初老の男が静かに話を引き継ぐ。
「信じられないかもしれませんが、確かにその娘はお客さんの知っている女性ですよ。詳しくお話しすると長くなります。残念ですがそろそろ閉店の時間ですので。」
椅子から立ち上がって初老の男に思わず声を荒げて言った。
「いや、ちょっと待ってくれ。そんなはずがない。だって彼女はどう見たって20代前半だろう。由紀が生きていれば50歳だ。なんだ?どういう仕掛けになっているんだ?何か調べたんだな?初めから知っていて…」
そこまで言うと私は混乱した頭と焼け付いた喉を冷やすためにチェイサーを口に運んだ。初老の男は笑いながら「・・・ここは、そういう店なんです。」と答えた。今まで何千回と繰り返したような、子供をなだめるような、そんな優しい言い方だった。
酔っているのだろうか?何かトリックがあるのだろうか?目の前で起きている事が理解できなかった。初老の男はなおも続ける。
「この店は深夜にしかやっておりません。来週金曜日にもう一度いらしてください。そうすればまた彼女に会うことができます。ただし今夜の事は一切口外しないでください。」
由紀にコートを渡され店の外に出る。聞きたいことは山ほどあるのだが、疲れ果てていた。
彼女の背中越しにジョニー・マティスの「ミスティ」が流れている。由紀がささやくように言う。
「来週の金曜日に待っているから。でも忘れないでね。Your Eyes Only 他言無用よ。」
目の前でドアが閉ざされた。一気に寒さが現実に引き戻す。数十秒だろうか、何か起きる事を期待したが再びドアが開くことはなかった。
<4>
次の金曜日が待ち遠しかった。一週間ほとんど仕事が手につかない。土曜、日曜、月曜と毎日店の前に立ってみても店の看板に明かりが灯ることはなかった。店の前に立ち尽くす50歳の男は周囲からは奇異に映っただろう。
妻や同僚にその話をしようとする度に「他言無用よ。」という由紀の言葉が蘇り、言葉を飲み込んでしまう。
金曜日になった。妻に今夜も遅くなるから先に寝ていてほしい旨伝える。二週連続で午前様なんて珍しいわねと言われ、ああ、年末だしどうしても断れない飲み会なんだと言いながら家をでる。会社を定時きっかりに出ると隣駅の改札を駆け抜けた。まだ賑わいのある商店街を抜け、足早に住宅街へ。Your Eyes Only の看板を目指す。
ところが店の扉は閉ざされたままである。よく見ると名刺程度の大きさの紙に「営業時間23時~26時」とあった。肩を落としてどうしようかと逡巡したが、家に戻るわけにもいかず、いったん駅までもどり居酒屋で時間をつぶすことに。
11時少し前にまた Your Eyes Only に戻ると看板に明かりが灯っている。店のドアを開けるとこの前と同じように初老の男が「いらっしゃいませ。」と笑みを浮かべて頭を下げた。隣には由紀がおり、同じように「いらっしゃいませ。」と会釈した。ヘレン・メリルが歌う「帰ってきてくれたら嬉しいわ」が静かに流れている。
正直なところ、彼女が居るかどうか半信半疑だった。コートを脱ぎながら肩で息をしていると、「まるで初恋の女の子に会いに来たようね。」と由紀がいたずらっぽく笑った。それにつられて笑うと「いや、この店が本当にやっているのか少し不安だったよ。」と思わず本音がこぼれた。
ウィスキーのストレートとチェイサーが目の前に置かれる。少し間をおいてマスターが話し始める。
「・・・この店にいらっしゃったお客様は、自分の一番懐かしい思い出に再会することができます。その思い出の具現化されたものが彼女なのです。しかもある程度酔った状態でないと具現化されない。お客様の場合は彼女だったわけですね。ですからあるお客さんにとっては男性だったりもします。お客さんは先週も酔った状態でこの店にいらっしゃいました。だから彼女に会うことができたのです。今週も同様です。」
初老のマスターはそう言いながら店の外にでると看板の明かりを落としてしまい、「これで今日はお客様以外店に入ってこないでしょう。ゆっくりくつろいでください。」と言った。
とりとめのない話が次から次へと溢れ出る。事故のことには触れず、ただ懐かしい思い出話をつづける。マスターは店の隅で邪魔にならないようにグラスを拭いていた。由紀との会話に割って入るような真似はせず、古い稠度品の一部になっているかのようだ。
「ねえ、奥さんはどんな人?」
「由紀に似ているかもしれない。質素で優しくてしっかりしている。」
「そう、私に似ているんだ。良かった。」
「ねえ、店の外では会えないのかい?」
「ごめんね、分かっていると思うけど私はこの店の中でしか存在していないの。言い換えると貴方がこの店に来てくれる時だけ私は存在できる。だから・・・、」
「だから?」
「また来週来てくれる?」
「ああ、勿論だ。」
カウンター越しに握った彼女の手は温かかった。
「でも、約束してね。他言無用よ。」
「Your Eyes Onlyだね。約束する。ねえ、写真を撮っても良い?」
「可愛く撮ってね。」
マスターにお願いして由紀との写真を撮ってもらう。古い調度品をバックに由紀が顔を近づけてくる。彼女の香りがした。
<5>
それから数週間、色々と理由をつけて金曜日の夜を「Your Eyes Only」で過ごした。妻はすでに諦めており、「必ず2時過ぎに帰ってくるなら良いけど、まさか浮気じゃないわよね。」と笑っている。「何を言っているんだよ、浮気できるほど小遣いも貰ってないじゃないか。」とやり過ごす。
これは浮気なのだろうか?たった3時間、懐かしい話をするだけだし、彼女は店にいる時だけの存在だ。それでもスマートフォンの中には彼女の写真が残っている。これは浮気なのだろうか。もう一度自問する。妻には申し訳ないと思いつつも、男というのは都合の良い生き物だな、と苦笑した。
とある休みの日に昔の写真をこっそり取り出してみた。昔由紀を撮った写真があったはずである。30年近く前に撮った由紀がそこにいる。当時流行った髪形の彼女が口元に左手をあてて笑っている。スマートフォンの中の写真と比べると、髪型以外は当時のままの由紀だ。
確かに浮気と言っても良いかもしれない。今の妻を愛していることに変わりはなく、この先由紀との間に何かの進展があるわけでもない。それでも妻以外の女性に心を奪われている自分を認めざるを得ない。昔の思い出に浸って気持ちよく揺蕩(たゆた)っているだけだと自分に言い聞かせる。もしかしたら現実ではないのかも、と。
偶然出会った女に恋をして、毎晩女のもとに通っていた男。不審に思った周囲がある晩つけてみると男は毎晩墓地に入り込み骸骨に頬ずりしていた、という昔話があったが、あれと同じだ。それでも良い。夢の中の逢瀬である。
久しぶりに会った同僚と飲みに行くことになった。彼は大阪に転勤し奥さんと一緒に向こうで暮らしていた。15年ぶりに東京に戻って来たのだ。しかし転勤して間もなく彼女が病気で亡くなってしまった。それ以降、彼は独身を続けているらしい。
もともと奥さんは私たちの職場にいた女性で、職場ではアイドル的な存在だった。彼が見染めてあっという間に結婚してしまった時は、周囲のひんしゅくを買ったものだ。
居酒屋で杯を重ねているうちに彼女の奥さんの話になった。
「あいつには悪いことをしたよ。俺なんかと結婚しなければ死ななかったかも知れない。」
「いや、それはどうだろう。彼女がお前と結婚しなかったからと言って、彼女が病気にならなかったとは限らない。むしろお前と結婚したから彼女は幸せなまま死んだとも言える。そんな事を嘆いたまま人生を送っても、彼女が喜ぶとは思えない。」
「そうだろうか、本当にそうなのか会って確かめたいよ。」
彼のこの言葉に口に運びかけたグラスが一瞬止まる。同時に由紀の悪戯っぽい声が聞こえる。「他言無用よ。」
「そうか、会いたいか。そうだろうな。」
「ああ、たまに夢の中に出てきてはくれる。でも覚めない夢はない。」
「Your Eyes Only」という店の名が喉まで出かかる。また由紀の声が聞こえた。「他言無用よ。」
<6>
結局その日、Your Eyes Onlyの事は口にしなかった。もし話してしまったら永久に由紀に会えないような気がしたのだ。これで良いのか迷った。奥さんを亡くした同僚には悪いが、せっかく会えた由紀に会えなくなることは避けたい。
だがその一方、心のどこかで同僚に同情している自分がいた。
私には現実の世界に妻がいる。毎晩私を待っていて温かな夕飯を用意してくれて、おそらくはこのまま毎日を一緒に歩んでくれる妻が。奥さんを失った同僚は「せめて夢の中でも良いから会いたい。」と願っている。
Your Eyes Onlyに通い始めて何回目かの夜、私は初老のマスターに私の同僚の事を話した。マスターは相変わらず静かに聞いていた。話が終わるまでずっとグラスを拭いていたが、暫くするとその手を止め、グラスを置く。
「おそらくその方がこのバーにいらっしゃれば亡くなった奥さんに再会できるでしょう。しかしその方にこの店のことを話すという事は、もうお分かりになっていると思いますが、お客様は二度とこの由紀さんに会うことはできなくなるという事です。それでもよろしいのですか?」
やはり予想通りの答えが返ってきた。隣で聞いていた由紀はずっとうつむいたまま自分の爪をいじっている。心なしか寂しそうである。
「そうだな。すまない、今の話は忘れてほしい。」
グラスを口に運び、一旦口をつけるが飲まずにカウンターに置き誰に言うともなく言った。由紀を見る。
目の前にいるのは紛れもなくかつて愛した由紀であり、手を伸ばせばその手の温もりも感じられる。ところがこの店のことを誰かに話した瞬間、永遠に届かない存在になるという。
閉店を待たずに店を出た。しばらく歩いて振り返ると、店の看板がまだボーッと真夜中を照らしている。
数日ののち、社内で同僚に会った。飲むことになり、よく利用する会社近くの居酒屋に入ろうとしたが、思い直し少し離れた場所にある静かな小料理屋の暖簾をくぐった。
「どうだ、美しい奥さんは元気か?」
同僚がビールを注ぎながら聞く。ああまあなんとか、と返したが、どうしても話が亡くなった彼の奥さんの話になる。共通の話題、つまり彼女が職場にいた頃の話になると、「あの頃彼女は他に好きな男がいたらしい。それを知らずに半ば強引に口説いたんだ。あんな事をしなければ良かった。」と自嘲気味に笑う。
「いや、それは彼女の病気とは関係ないだろう。お前の奥さんにならなかったら、誰かの奥さんとして病気で亡くなったのじゃないか?」
「そんなものかな。もう一度会って確かめてみたいよ。」
彼のどこか遠くを見るような顔を見ているうちに、ついに言ってはならない言葉が口を突いて出た。
「彼女に会えるかもしれんぞ。」
<7>
心の中、待てそれ以上話すな、と言う声が。その一方で、同僚を癒せるのはあの店しかない、という声も。さらに、もしかしたら彼の身には奇跡が起きないかもしれない、もしそうだったら無駄になってしまう、という声も。
どうしたのかとこちらを見ている彼に向かって話し始めるまで、たっぷり30秒はかかった。
次の金曜日、私はあえて店には行かなかった。妻からは「あら、もう浮気はやめたの?」と揶揄われ、まあね、と答える。確かに浮気だったと思った。深夜中々寝付けず、起き上がると一人でウィスキーをグラスに注ぎながら由紀の事を考える。左手を口元にあてて柔らかに笑う顔を思い出した。会えるのが当たり前になってから何度か握った暖かい手を思った。それがかなり昔のような気がする。
その時、不意に別れを伝えていなかった事に気づく。
「しまった!」
同僚に話す前に、もう一度由紀に会っておけば良かった。
居ても立っても居られなくなり、急いで着替えると家を出る。車で行こうかとも思ったがウィスキーを飲んでいることを考えて、いったん手にした車のキーをポケットの中に入れ、古い自転車を引っ張り出した。ところがこういう時に限ってタイヤがパンクしており使い物にならない。舌打ちして走り出した。
普段の運動不足が祟って、すぐに息が上がる。それでも必死に走り続けると、程なく何度も通った住宅街に辿りつく。あの角を曲がればあの店だ。
ところが。
先週まで確かにYour Eyes Onlyがあった場所が空き地になっている。愕然とした。確かに両隣の家は先週のままだ。しかし店があった場所だけぽっかりと空いており、雑草が風に揺れている。何年も放置されているようだ。
「なんだ、どうなっているんだ!」
無駄とはわかっていたが、声に出さずにはいられなかった。
その周囲を何度も行ったり来たりしたが、状況は変わらずただ冷たい空気が首元に滑り込んでくる。聞こえるのは自分の呼吸する音と、通過する車の音だけだった。
何分そこに立ち尽くしていただろう。ついには座り込んでしまう。
とんでもないことをしかしてしまった事だけは分かったが、もはやどうする事もできなかった。由紀が悪戯っぽく笑って言う。「他言無用よ。」
ノロノロと立ち上がった。風が耳元をすり抜ける。ふと思い立ちポケットからスマートフォンを取り出す。写真を確認した。由紀と二人で撮った写真を。しかし確かに保存してあったはずの写真が見つからない。長いため息が漏れる。
その時、ナット・キング・コールの「恋に落ちた時」が微かに聞こえてきた。凍てつくような寒空にそれはまるで天から降ってくるような、そんな聞こえ方だった。
<了>