鼠丼

神の言葉を鼠が語る

<675>

2016-03-28 00:11:44 | 日記

 毎度!ねずみだ。

 先日、夜遅くに家に戻った時のことである。

 暗がりの向こう側に何やら影が。動いている。人のようでもあるが人にしては小さい。だんだん近づいてくるに従って街灯に照らされはっきり見えるようになる。始めは怪異の類かとも思ったがやはり人であった。

 それは背中が曲がりきった老婆だった。齢の頃ならとうに80歳は過ぎているだろう事は見た目で分かる。買物に使うような車輪付きのバッグを押していたため余計に背中が丸くなっていたのかもしれない。
 地面を舐めるようにして少しづつ、少しづつ前に進み、誰かの家の前に着くと、押していた車輪付きバッグから何かを取り出す。それをポストに入れる。その作業を終えるとまた次の家に。それはとても緩慢な動作に見えた。

 我が家までもうすぐのところだったが、気になった私は暫くその老婆を目で追った。やがて彼女は私の家の前で止まり、件のバッグから何かを取り出した。それはチラシだった。

 普段から「土地買います!」だとかのチラシがポストにねじ込まれているので、余計なチラシを入れて欲しくないという気持が半分、何かに突き動かされたのが半分、私は思わず彼女に声をかけた。自分でもびっくりしたのだが、私の口を突いて出たのは「今晩は、大変ですね。」という言葉だった。
 老婆は本当に申し訳ないという顔で何度も頭を下げながら、「夜分にすみません、新宿の広報紙を配っております。ご迷惑をおかけします。」と言ったのだった。
 彼女から直接チラシを受け取った私をあとに、老婆は一軒、また一軒と広報紙を各家のポストに入れていった。せまい町内に配るとしても彼女の動作から、膨大な時間を要することは想像に難くなかった。

 あの齢になって働かなければいけない何らかの事情があるのだろうが、それにしてもこんな夜遅くにポストにチラシを投函して回らなければいけないのは辛いに違いない。あれで何がしかのお金にはなるだろうが、それほど貰える仕事とも思えない。

 ゆっくりと遠ざかっていく背中を追いかけて、色んなことを聞きたい衝動に駆られた。夜中にそんな仕事をして辛くないのですか?寒い時期は大変でしょう?連れ合いはいるのですか?お子さんはいらっしゃらないのですか?一緒に暮らさないのですか?

 世の中には道端にささやかなドラマが転がっている。私は妻の待つ自分の家のドアを開け、自分の生活に妻が一緒にいてくれることに感謝しながら家に入った。