緒方梅庵先生のお伴で、浪花から戻って半年も過ぎたであろうか、年が明け、能見数馬こと三太は十九歳になっていた。 突然ぶらり旅に出たくなり、新三郎と同行二人(どうぎょうににん)の旅をすることになった。
「新さん、俺、もとの三太に戻りたくなったのだ」
「それでは、旅の間あっしは数馬さんのことを三太さんと呼びましょう」
「ありがとう、新さん」
出立した朝、三太のおっ母さんが見送りにきてくれた。
「気を付けて、なるべく早くいい嫁を見つけて戻って来なさいね」
三太が洪庵先生のお伴などで、度々旅にでるので、おっ母さんは気が休まることがないようである。
「ん? 嫁さがしの旅ではありませんよ、おっ母さん」
三太の出で立ちは、頭には菅笠、打裂羽織(ぶっさきはおり)に野袴(のばかま)、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に草鞋履き、それに大小二本の脇差と、お定まりの武士の旅姿で肩に掛けた振り分けには、旅の必需品と、三太も医者の端くれ、多少の薬剤が入れている。
早朝に旅立ち、水戸街道を江戸に向けて急ぎ旅でもないのに足早(あしばや)に歩いていると、街道から見通しのきく森の中で、女が首を吊ろうとしているのが見えた。
「新さん、あれをどう思います」
「へい、これ見よがしでござんすねぇ」
「走って行って声を掛けるべきでしょうか」
「あっしが見てまいりやす」
女は巨木の横に張り出した太い根っこに上がり。その上の枝に紐を掛けて輪に結んでいた。 その輪に首を入れて二重に巻き付け、今まさに根っこから飛び降りようとしていたが、どうやら新三郎が女の体に入り留まらせたようだ。 首から紐を外して根っこから飛び降りてキョトンとしていた。 やがて三太が女の元へ駆け付け、女の肩を抱いて事情を訊いた。
「お女中、何故に死のうとなされたのですか」
「わかりません」
「何か辛いことがあるのではありませんか」
「ありません」
「では、死ぬことに憧れがあったのですか」
「憧れなどありません」
取りつく島が無いとは、このことだろうと三太は思った。
「ではどうしてここへ来たのですか」
「それもわかりません、ただふらふらっと来ていました」
どうやら、夢を見ていたのかも知れないと三太は思ったが、朝とは言え、既に日が昇っている。 女が嘘を言っていないとしたら、不思議な現象である。
「新さん、これをどう見ます」
「わかりません」
「何か心底(しんてい)に、死のうとする原因があるのではないのですか」
「ありません」
死んだら、素晴らしいところへ行けるのだと思っているとか」
「いません」
「もー、新さんまで同じように…」
三太は、これは心の病気だと診察した。 ここは、住まいまで送って行き、家族を問診する必要があると思った。 本人が気付いていない原因があるのに違いないからだ。
女の両親が出て来た。
「私は、水戸藩士能見篤之進の次男で数馬と申す医者です」 と、挨拶をし、三太が経緯を話すと、両親は驚いたようであった。
「朝から何処へ行ったのかと心配しておりました」
母親が娘を奥座敷に連れて行った。
「それに関して、お父さんは何か心当たりはありませんか」
「さあ、心当たりと申しましても…」 と、父親は暫く考え込んで…。
「思えば、縁がなくて未だに嫁げないことでしょうか」
娘は、二十五歳になるが、未婚だそうである。
「それで、ご両親が焦ったりはしていませんか」
「本人には、全くその気がないようですが、私と妻は気が気ではありません」
どうも、それが原因のようである。 両親の焦りが、娘の心に歪を与えているようだ。
「このまま放置すると、お嬢さんは本当に自殺してしまいますよ」
「先生、私たちはどうすれば良いのでしょうか」
「縁談を押し付けるとか、急かす様な言動は控えて、暫くはそっとしてあげてください」
「その後は、どうすれば…」
「ご両親のお眼鏡に叶った男性を、昔、ご両親が世話になった親友のご子息だと言って、時々家に遊びに来て貰うのです」
「その男を、婿の候補だと言ってはいけないのですね」
「そうです、あくまでもご両親のお客様として扱ってください、そのうちきっと、その男に心を開いて、仲よくなるでしょう」
「それでは、その男性にも協力して貰う必要がありますね」
「その通りです、そうなれば、心の病は完治です、どうぞうまくやってください」
「わかりました、有難う御座いました、治療代の方は如何ほどでしょうか」
「私は旅の途中で、医者としての仕事をした訳ではありません、旅の若造がお節介をやいただけのことです、どうぞお気を使われませんように…」
三太は金を受け取らずに立ち去った。 新三郎は、不服のようである。
「なんだ、なんだ、格好付けずに五両がとこをふっかけてやれば良かったのに…」
「新さん、能見数馬さんにも、そう言ったのでしょう」
「へい」
まだ幾らも歩いていないのに、昼になったようである。 昼間の旅籠は、食事だけでもできる。 三太は旅籠に立ち寄って、一汁二菜の質素な昼食を摂った。
「今度、病を治療したら、治療代を頂戴しなせえ、そうすれば豪華な飯に付けるのだから…」
新三郎は、三太の粗末な昼食を見て、「それ見ろ」と、言わんばかりである。
「へい」 と、素直な三太。
満腹になると眠くなる。 旅人が真っ昼間に眠くなったのでは話にならない。 それを考えてのことか、旅籠の昼飯は量を少なくしているようだ。 空腹が満たされないまま、一里も歩いたところで、街道の脇道から三太の目の前に若い男が転がり出て来た。
「お侍さん、お願いがあります」
この男、顔に悲壮感が顕(あら)わ。
「わかった、とにかく話を聞いて、その願を私に叶えることが出来るかどうか考えましょう」
「街道での立ち話もなんですから、ちょっと脇道に入ってくれませんか」
「承知した」
男は、先に立って道の奥へどんどん入って行く。 三丁(約330m)程入った林の中で、急に立ち止まり振り返るとその場に平伏し、悲痛な叫びのような声で言った。
「私の持ち金が三両あります、これを差し上げますので、私の首を刎ねてください」
三太は驚いた。 人の首など斬った経験はないのだ。 それに意味も分からずに他人を殺すことは出来ない。
「わかり申した、その前に訳を話しなさい」
男は訳も言わすに、ただ首を刎ねてくれと頼むばかりであった。
「そうか、訳は話せないか、ではこの頼み断り申す」
三太が引き返そうとすると、男は泣いて三太の野袴に縋(すが)りついた。 男は訳を話せないのではなくて、話をしている間に怖気付いて死ぬのが恐くなるからだと打ち明けた。
「分かり申した、話を聞いて私が納得したら、其方が気付かぬ隙に首を刎ねてやりましょう」
男は、それならと話し始めた。
「私は、あるお店に奉公している身で、お嬢さんと好いて好かれる仲になってしまいました」
なるほど、女に好かれそうな男の容姿を見て、嘘ではないと三太は判断した。
「そのことを、そのお嬢さんの両親に話したのか」
「いいえ、そんなことを話せません」
主人に打ち明けられないまま、お嬢さんを慕う気持ちが募り、狂おしい日々の中、お嬢さんに駆け落ちを持ちかけられた。 駆け落ちをしても逃げ切れるものではない。 追手に捕まればわが身は死罪、お嬢さんとても軽いだろうが何らかの罰が下るかも知れぬ。 どうせ死ぬのなら、一人でと思い、江戸から逃げて来たが、どうしても勇気がなくて死ねない。 そこでお侍さんに頼めば、恐くなって自分が逃げ出そうとしても、つかまえて殺して貰えると考えたのだ。
「そうか、わかった、だが金で武士を自害の道具に使おうとしたのは感心できない」
例え武士とても、罪のない者を殺害すれば罰を受けねばならない。 ここは自分が一肌脱いでやろうと、三太は決心した。
「私は水戸藩士能見篤之進の次男、数馬と申す者、其方の名は何と申す」
「はい、江戸の乾物商相模屋に奉公していました庄六と申します」
「庄六さん、私は若輩者ながら剣の腕には自信がある、何時でも其方の命を一刀のもとに取ることが出来る、私に命を預けて江戸へ戻らぬか」
「辛くて戻れそうにありません」
「其方も男であろう、当たって砕けろというではないか、当たりもせずに砕けてどうする」
三太よりも年上らしいこの男、三太に肩を叩かれて、どうにか江戸へ戻る決心がついたようである。 江戸へ戻れば、相模屋に行き、主人に会って何もかも庄六に打ち明けさせようと思う。 聞けばこのお嬢さん、長女であるが兄が二人居る。 既に許嫁がいるかも知れないが、それは商略的なものだろう。 娘の幸せを願うなら、好いた者どうしを添わせてやるのが親の愛情というもの。
場合に寄れば、ちょっと卑怯な手を使っても、庄六の命を救ってやろうと、三太は考えていた。
第三回 死にたがる男 -続く- (原稿用紙12枚)
「第四回 名医の妙薬」へ
「新さん、俺、もとの三太に戻りたくなったのだ」
「それでは、旅の間あっしは数馬さんのことを三太さんと呼びましょう」
「ありがとう、新さん」
出立した朝、三太のおっ母さんが見送りにきてくれた。
「気を付けて、なるべく早くいい嫁を見つけて戻って来なさいね」
三太が洪庵先生のお伴などで、度々旅にでるので、おっ母さんは気が休まることがないようである。
「ん? 嫁さがしの旅ではありませんよ、おっ母さん」
三太の出で立ちは、頭には菅笠、打裂羽織(ぶっさきはおり)に野袴(のばかま)、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に草鞋履き、それに大小二本の脇差と、お定まりの武士の旅姿で肩に掛けた振り分けには、旅の必需品と、三太も医者の端くれ、多少の薬剤が入れている。
早朝に旅立ち、水戸街道を江戸に向けて急ぎ旅でもないのに足早(あしばや)に歩いていると、街道から見通しのきく森の中で、女が首を吊ろうとしているのが見えた。
「新さん、あれをどう思います」
「へい、これ見よがしでござんすねぇ」
「走って行って声を掛けるべきでしょうか」
「あっしが見てまいりやす」
女は巨木の横に張り出した太い根っこに上がり。その上の枝に紐を掛けて輪に結んでいた。 その輪に首を入れて二重に巻き付け、今まさに根っこから飛び降りようとしていたが、どうやら新三郎が女の体に入り留まらせたようだ。 首から紐を外して根っこから飛び降りてキョトンとしていた。 やがて三太が女の元へ駆け付け、女の肩を抱いて事情を訊いた。
「お女中、何故に死のうとなされたのですか」
「わかりません」
「何か辛いことがあるのではありませんか」
「ありません」
「では、死ぬことに憧れがあったのですか」
「憧れなどありません」
取りつく島が無いとは、このことだろうと三太は思った。
「ではどうしてここへ来たのですか」
「それもわかりません、ただふらふらっと来ていました」
どうやら、夢を見ていたのかも知れないと三太は思ったが、朝とは言え、既に日が昇っている。 女が嘘を言っていないとしたら、不思議な現象である。
「新さん、これをどう見ます」
「わかりません」
「何か心底(しんてい)に、死のうとする原因があるのではないのですか」
「ありません」
死んだら、素晴らしいところへ行けるのだと思っているとか」
「いません」
「もー、新さんまで同じように…」
三太は、これは心の病気だと診察した。 ここは、住まいまで送って行き、家族を問診する必要があると思った。 本人が気付いていない原因があるのに違いないからだ。
女の両親が出て来た。
「私は、水戸藩士能見篤之進の次男で数馬と申す医者です」 と、挨拶をし、三太が経緯を話すと、両親は驚いたようであった。
「朝から何処へ行ったのかと心配しておりました」
母親が娘を奥座敷に連れて行った。
「それに関して、お父さんは何か心当たりはありませんか」
「さあ、心当たりと申しましても…」 と、父親は暫く考え込んで…。
「思えば、縁がなくて未だに嫁げないことでしょうか」
娘は、二十五歳になるが、未婚だそうである。
「それで、ご両親が焦ったりはしていませんか」
「本人には、全くその気がないようですが、私と妻は気が気ではありません」
どうも、それが原因のようである。 両親の焦りが、娘の心に歪を与えているようだ。
「このまま放置すると、お嬢さんは本当に自殺してしまいますよ」
「先生、私たちはどうすれば良いのでしょうか」
「縁談を押し付けるとか、急かす様な言動は控えて、暫くはそっとしてあげてください」
「その後は、どうすれば…」
「ご両親のお眼鏡に叶った男性を、昔、ご両親が世話になった親友のご子息だと言って、時々家に遊びに来て貰うのです」
「その男を、婿の候補だと言ってはいけないのですね」
「そうです、あくまでもご両親のお客様として扱ってください、そのうちきっと、その男に心を開いて、仲よくなるでしょう」
「それでは、その男性にも協力して貰う必要がありますね」
「その通りです、そうなれば、心の病は完治です、どうぞうまくやってください」
「わかりました、有難う御座いました、治療代の方は如何ほどでしょうか」
「私は旅の途中で、医者としての仕事をした訳ではありません、旅の若造がお節介をやいただけのことです、どうぞお気を使われませんように…」
三太は金を受け取らずに立ち去った。 新三郎は、不服のようである。
「なんだ、なんだ、格好付けずに五両がとこをふっかけてやれば良かったのに…」
「新さん、能見数馬さんにも、そう言ったのでしょう」
「へい」
まだ幾らも歩いていないのに、昼になったようである。 昼間の旅籠は、食事だけでもできる。 三太は旅籠に立ち寄って、一汁二菜の質素な昼食を摂った。
「今度、病を治療したら、治療代を頂戴しなせえ、そうすれば豪華な飯に付けるのだから…」
新三郎は、三太の粗末な昼食を見て、「それ見ろ」と、言わんばかりである。
「へい」 と、素直な三太。
満腹になると眠くなる。 旅人が真っ昼間に眠くなったのでは話にならない。 それを考えてのことか、旅籠の昼飯は量を少なくしているようだ。 空腹が満たされないまま、一里も歩いたところで、街道の脇道から三太の目の前に若い男が転がり出て来た。
「お侍さん、お願いがあります」
この男、顔に悲壮感が顕(あら)わ。
「わかった、とにかく話を聞いて、その願を私に叶えることが出来るかどうか考えましょう」
「街道での立ち話もなんですから、ちょっと脇道に入ってくれませんか」
「承知した」
男は、先に立って道の奥へどんどん入って行く。 三丁(約330m)程入った林の中で、急に立ち止まり振り返るとその場に平伏し、悲痛な叫びのような声で言った。
「私の持ち金が三両あります、これを差し上げますので、私の首を刎ねてください」
三太は驚いた。 人の首など斬った経験はないのだ。 それに意味も分からずに他人を殺すことは出来ない。
「わかり申した、その前に訳を話しなさい」
男は訳も言わすに、ただ首を刎ねてくれと頼むばかりであった。
「そうか、訳は話せないか、ではこの頼み断り申す」
三太が引き返そうとすると、男は泣いて三太の野袴に縋(すが)りついた。 男は訳を話せないのではなくて、話をしている間に怖気付いて死ぬのが恐くなるからだと打ち明けた。
「分かり申した、話を聞いて私が納得したら、其方が気付かぬ隙に首を刎ねてやりましょう」
男は、それならと話し始めた。
「私は、あるお店に奉公している身で、お嬢さんと好いて好かれる仲になってしまいました」
なるほど、女に好かれそうな男の容姿を見て、嘘ではないと三太は判断した。
「そのことを、そのお嬢さんの両親に話したのか」
「いいえ、そんなことを話せません」
主人に打ち明けられないまま、お嬢さんを慕う気持ちが募り、狂おしい日々の中、お嬢さんに駆け落ちを持ちかけられた。 駆け落ちをしても逃げ切れるものではない。 追手に捕まればわが身は死罪、お嬢さんとても軽いだろうが何らかの罰が下るかも知れぬ。 どうせ死ぬのなら、一人でと思い、江戸から逃げて来たが、どうしても勇気がなくて死ねない。 そこでお侍さんに頼めば、恐くなって自分が逃げ出そうとしても、つかまえて殺して貰えると考えたのだ。
「そうか、わかった、だが金で武士を自害の道具に使おうとしたのは感心できない」
例え武士とても、罪のない者を殺害すれば罰を受けねばならない。 ここは自分が一肌脱いでやろうと、三太は決心した。
「私は水戸藩士能見篤之進の次男、数馬と申す者、其方の名は何と申す」
「はい、江戸の乾物商相模屋に奉公していました庄六と申します」
「庄六さん、私は若輩者ながら剣の腕には自信がある、何時でも其方の命を一刀のもとに取ることが出来る、私に命を預けて江戸へ戻らぬか」
「辛くて戻れそうにありません」
「其方も男であろう、当たって砕けろというではないか、当たりもせずに砕けてどうする」
三太よりも年上らしいこの男、三太に肩を叩かれて、どうにか江戸へ戻る決心がついたようである。 江戸へ戻れば、相模屋に行き、主人に会って何もかも庄六に打ち明けさせようと思う。 聞けばこのお嬢さん、長女であるが兄が二人居る。 既に許嫁がいるかも知れないが、それは商略的なものだろう。 娘の幸せを願うなら、好いた者どうしを添わせてやるのが親の愛情というもの。
場合に寄れば、ちょっと卑怯な手を使っても、庄六の命を救ってやろうと、三太は考えていた。
第三回 死にたがる男 -続く- (原稿用紙12枚)
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