「誕生を記憶する子どもたち」(1988)デーヴィッド・チェンバレン 片山陽子訳 1991春秋社
(2002新装版)
「胎児は見ている」よりも冷静に読める。
でも、書いてあることも主張もスタンスもほぼ同じ。
赤ちゃんの扱い方については読み取るべきだが、残りの半分の霊的な部分はもっと厳密な研究(証明)を求めたい。
『記憶過剰状態と呼ばれ、専門家の関心と称賛と疑念を浴びてきた』(序章より)
胎児や新生児の知性や感情を認めるところだが、記憶に関してはほとんどが事後認識だとしか思えない。一部に本当の記憶はあるだろうが、それは大人の知識で脚色されているのは明らかだ。
また、子どもと親の記憶の整合性については、その経験の定型性を考えれば当然のことであってそれが真実だと言う証明にはならないだろう。8章の終わりで『出生時の記憶の3つの解釈』を否定しているが、その否定の根拠が余りに薄弱で納得できない。それをもって証明にしようとするのは詭弁にもならない。
終章では『出生時の記憶が真実なら』として、著者も疑念を持っていることが伺える。おそらく、当事者たちを相手にする立場として、彼らの言葉を信じるスタンスを取るしかなく、その繰り返しの中で無意識に偏向していくしかないのだろう。付記1で『霊』の存在に言及しているのもその表れだろう。
付記2で『親の罪悪感』について述べているのは、それだけ親からの問い合わせが多かった所為だろう。
『初乳』『胎児の勃起』『お産の最中に笑う赤ちゃん』は興味を惹かれた。
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