夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「おいしく頂けます」はないだろう

2010年09月17日 | 言葉
 今朝のテレビで、東京のもんじゃ焼きが出て来た。もんじゃ焼き専門店会とか言うのがあって、そこの理事長と称する人がもんじゃ焼きの作り方、食べ方を紹介している。そこでその理事長氏が言ったのが「おいしくいただけます」である。多分、彼は「頂けます」ではなく、この仮名表記の「いただけます」のつもりで言ったのだろう。
 えっ? 漢字と仮名とで意味が違うのか、って?
 そう違うのですよ。もちろん、私は違うなどとはこれっぽっちも思ってなどいないが、世間の大方はそう思っているはずである。
 「頂く」は、私の信頼する『字解』(白川静 平凡社)では次のように説明している。

 「丁」は釘の形で、古い字形は釘の頭の平面形である。「頁」(けつ)は頭に儀礼用の帽子をつけて拝んでいる人の姿。それで身体の最上部を「頂」といい、「いただき」、頭頂(頭のてっぺん。ずちょうとも読む)の平かなの意味となる。国語では「いただく」とよみ、ごちそうを頂く、雪を頂いた峰のようにいう。

 「いただき」、頭部の…以下の説明が今一つよく分からない(特に「いただき」、の「、」での繋がりが分からない)事と、「ごちそうを頂く」と「雪を頂いた峰」が同列に置かれているのが私には大きな不満である。
 この二つは本来は違うはずである。「頂」が元々は身体の最上部を言う事から,山の頂点をも言うようになった。その頂点が雪を冠るから、「雪を頂く」との言い方が生まれた。つまり、それはてっぺん(因みにこれは「天辺」から出た言葉)だからこその言い方になる。
 そこで「上」を意識した「上の立場の人から物をもらう」事を「頂く」と言うようになった。それは「もらう」の謙譲の言い方である。こうした場合、もらう側はもらう物をうやうやしく自分の頭上に捧げ持つ。それはまさしく「頂く」なのである。だから「ごちそうを頂く」は「ごちそうをもらう」であって、決して「食べる」ではない。けれども、『字解』のような説明では、それは分からない。
 そして、多くの人が「ごちそうを頂く」の「頂く」をきちんと理解していない。単に「食べる」事だと思っている。国語辞典でさえ、そのように説明しているのがある。だから、その場合の「いただく」は「頂く」とはならず、「いただく」と仮名書きになる。

 最初に述べた「頂く」と「いただく」が違うと言うのはそうした事である。だから理事長氏が「おいしくいただけます」と言ったのは「おいしく食べられます」と言ったのである。
 近所の有名な商店街にこれまた有名な魚屋がある。テレビでもよく紹介される。確かに鮮度と言い、味と言い,値段の安さと言い、抜群の店である。だが、店長とも思える人が「さあ、おいしい○○だよー。ぜひいただいて下さいね」としょっちゅう叫んでいるのが私にはとても耳障りなのである。
 「頂く」は「もらう」「たべる」の謙譲語である。客が「それ頂きます」と言うのは正しい。しかし、店側が客に向かって、客が謙譲の意を表せ、と強要するのは無礼である。で、私は、ははあ、この人は単に言葉を知らないだけなんだ、と思っている。彼は「食べて下さいね」と言っているつもりなのである。
 それと同じなのが、もんじゃ焼きの理事長氏の言い方になる。でも、どうせ言うのなら、「おいしく召し上がれます」である。

 「頂く」を「いただく」と仮名書きにする事が多い。それが当然だとさえ思っている。だから「頂く」の意味などまるで考えない。「頂く」は小学校六年で習う常用漢字である。それは「いただき」でもあり「いただく」でもある事を六年生で習う。そうであれば、なぜ「山の頂き」と「頂く」が同じ漢字なのか、と思う事が出来る。しかし常に「いただく」とだけ書いていたのでは、そうした疑問は全く育たない。「頂く」を習った大人もそれをすっかり忘れている。
 やたらと仮名書きにする事で、日本語がどんどん駄目になって行く。
 日本語は漢字を使う事で現在のように発達して来た。中国語を起源とする漢字熟語だけではなく、やまと言葉を漢字で表記する事も日本語の発展に大きな力になっている。純粋の日本語を表意文字である漢字で表記出来ると言うのはとても素晴らしい事なのである。「いただく」の意味が分かるのだ。それが欠点になる場合もあるが、欠点なら克服すれば良いのだし、利点ならどんどん伸ばせば良いのである。
 朝鮮語では本来の朝鮮語を漢字で表記出来ない。漢字は中国産の漢字熟語に限られる。だから「大学生」を朝鮮語ではハングルで「テーハクセン」としか書けない。そこには「大学」の意味も「生」の意味も存在出来ない。あるいは「学生」の意味も無い。
 朝鮮語ではハングルだけで用が足りているんだから、日本語も仮名だけでいいんだ、などと言う人が居るらしいが、とんでもない馬鹿げた考え方だと私は思う。和語は仮名書きにすべし、などと言う人もこの部類に入る。「和語は」などと言うのであれば、和語とは一体何なのか、と言う事をとことん突き詰めて始めてそうした事が言える。中途半端な事を無責任に言う人間に大きな顔をされるのは迷惑である。