夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

選挙戦が始まった

2009年08月19日 | 政治問題
 うるさい選挙カーが走り回っている。能無しの連呼と他党の批判。批判なんて、○○党は駄目です、なんて言ったって、何の効果もありゃしない。それよりも、どうせうるさいのなら、自分の公約をきちんと述べればいいのに。もっとも、眉に唾して聞いている人の方が多いと思うけど。
 知り合いに聞くと、もう投票する人は決めてある、と言う人が多い。そう、普段からの行動で大体の事は分かっている。この時とばかりに素晴らしい事を言っても、それが本当に出来そうかどうかくらいは、既に想像が付いている。私ももう決めてある。
 だから無駄な努力を、とも思うが、まあ、決めかねている人も居る事だろうから、そうした人にとってはいいのかも知れない。でも、選挙カーの騒音(失礼)を聞いて、得る所があるのだろうか、と人ごとながら心配になる。まさか、うるささで印象に残った人に投票するなんて事は無いでしょうね。

 折から新型インフルエンザでの死者が3人となった。いずれも何らかの病気を持っていた人だから、インフルエンザが原因とは言い切れないが、用心に越した事は無い。病気で体が弱っている人が狙われる訳で、そう言えば、選挙も思考の弱っている人を狙って宣伝を繰り広げているような気がする。
 言い過ぎでしょうかね。
 でも、本当に「ああ政権が交代したんだなあ」と思えるような政治体制になって欲しいと思う。自民党と民主党の連立を望んでいる人も多いようだけど、と言う事は、どちらにも信頼が置けないって言う事でしょうね。でも頼みに出来る所は無い。どっちも駄目で、だから仕方なく、と言う事だろうと私は思っている。
 選択肢の無い選挙なんて、本当につまらない。日本を背負って立つような人を社会が育てて来なかったのだから、今更言っても始まりませんが。

パソコンの独占企業

2009年08月18日 | 文化
 独占禁止法とは独占によってその企業が大儲けをし、利用者が大損をするのを防ぐ手段のはずだ。だから戦時中には、多くの企業が分断された。大日本ビールはアサヒビールとサッポロビールに分断された。その隙にキリンビールが伸びた。もっともそのキリンビールも昔日の面影は無いが。東京の小田急電鉄は分断されて、支線の井の頭線が京王帝都電鉄の路線になった。だから同じ京王帝都なのに、京王線は変則広軌で、井の頭線は狭軌だ。
 それなのに、現在はどんどん寡占化が進んでいる。どちらを見ても吸収合併だ。銀行なんてホント選択肢がほとんど無い。それで企業が良い方向に発展出来ると思うのか。好き勝手をして儲けられるんだから、良い方向に向く訳が無い。
 その事をパソコンでつくづくと感じた。事はウインドウズでインターネットエクスプローラー(IE)がおかしくなった事から始まる。アクセスが不能になった。結局は使っているセキリュリティーソフトが悪さをしていたのだが、IEがおかしくなったと思ってもおかしくはない。
 そこで新規にIEをダウンロードしたいと思う。しかしインターネットその物が不通になっているのだからダウンロードなどで出来るはずが無い。そこでマックでダウンロードしようと考えた。ところが、IEのダウンロード画面はけんもほろろにダウンロードを拒否する。使い手の事などまるで考えてはいない。
 IEはウインドウズの標準ソフトなのだが、マイクロソフトはウインドウズの盟主なのだから、どうしたって高飛車になる。
 ウインドウズはソフトとハードが別々だが、マックはソフトとハードが一体になっている。一時、アップル以外のハードが作られたが、今やマックしか存在しないと言える情況だ。だからすごくお高くとまっている。マックの使い方に疑問があっても、アップルは答えてはくれない。質問なら3千円とかの金額を支払う必要がある。しかし疑問は本当につまらない事だったりもするし、簡単に答えてもらう事が出来たりもする。例えば電源ケーブルが外れていたために、パソコン自体が立ち上がらない情況だってある。それなのに、電源が抜けていないか、と助言してもらうだけで3千円とかを支払わないといけないのだ。何と馬鹿馬鹿しい事か。

 結局、パソコンの世界でも寡占化の弊害がもろに出ている。今日、パソコン無しで済ませる人は少ない。私はインターネットとメール、ブログ、原稿作成にパソコンは欠かす事が出来ない。原稿はすべてDTPで作っている。見出しとか、本文の体裁とか、きちんと想定をしながら書かなければ、思うような物は書けない。
 それなのに、そのパソコンが時々暴走する。何でも出来ますよ、と売り込んで来たのに、実際は何も出来ないどころか、すべてを頼っていたから、かえって重症に陥らせてしまう。
 昔「大きい事はいい事だ」と言うCMがあったが、そうした軽薄な考えに毒されて、小さくても心の籠った行動が軽視されている。大きい事は駄目な事なのだ。自民党は第一党だ、との先入観があるから、長い間独占的な政治を許して来た。そしてまるで駄目になった。しかし今度の選挙で自民党は第一党の座から滑り落ちるだろうと、多くの人が見ている。代わって第一党となるのが民主党だが、それもまたまるで期待をしていない、と言うか、端からあきらめている人々も少なく無い。
 そろそろ、小さい者達に目を向けてみましょうよ。地に足の着かない連中が何かを出来るなどとは誰も思ってはいない。
 地に足の着いている、一本筋の通った人々の出現を我々は大きな期待を持って待っているのだ。その人達が実力を発揮出来るも出来ないも我々の支持如何なのだ。多分、両党とも、名も無い庶民の声を聞かされる羽目になると思う。そう思わないと、何の望みも無いではないか。相変わらずお高く止まった議員達の自分勝手な意見など、今度こそ通させてはいけないのだ。
 パソコンの話だったのに、政治の話になってしまう。それほど今の政治は行き詰まっているのだ。政治家って、はっきり言うと、人間じゃないもんね。まさしく人間だ、って言う政治家に会ってみたいもんだ。

古代史の解釈への大きな疑惑がある

2009年08月15日 | 文化
 今、古代史の疑問についての原稿を書き直している。一年以上前に出来上がっているのだが、ある時ふと、今までとは全く違った方面から見直してみたら、と思い付いた。本になるかならないか、雲を掴むような情況なのに、全くご苦労なこった、と我ながら思うのだが、思い立った以上、やめる訳には行かない。
 古代史の謎の部分を、ほとんどすべての歴史学者と言ってもいいが、勝手気ままに解釈して結論を出している。日本にわずかに残されている歴史書の記述を基に、中国の歴史書がまるで違った記述をしていれば、簡単にそれを否定する。中国の歴史書の間違いだと。似た部分があれば、それを強引に日本の歴史にくっつけようとする。登場人物の名前が違えば、中国側の書き間違いだと安易に結論付けている。
 そうした事が日本史の常識となって、私は子供の歴史の教科書を見た事が無いが、多分、その常識を踏襲しているに違いない。初心者向けの日本史のシリーズはまさしく、でっち上げた日本史の常識をそっくりそのまま頂いている。
 戦後の日本人は「恥」を知らなくなった、と言われている。その「恥知らず」が学問でも横行しているのである。日本の歴史は我々の財産である。それを一握りの学者が私有出来る道理が無い。だから私はそうした歴史学者の非常識な考え方を批判する本を書いている。
 だが、それは実に大変な仕事になる。何がおかしいのかを、現実にある史料に即して述べる必要がある。その史料の理解が非常に難しい。原文はほとんどが漢文である。それを親切に読み下し文にし、更には口語訳を付けてくれている本がある。そうした本しか我々には参考に出来ない。
 ところが、その口語訳がかなりいい加減な場合が少なくない。学者のいい加減な解釈をいい加減な史料でする事は出来ない。当たり前だ。その漢文の解釈が非常に難しい。

 それとは別に学者の論理のおかしさもまた大きな問題である。どうにも論理が繋がらない。でも本人はそれで論理がきちんと組み立てられていると確信している。矛盾した事や論理が成り立たない事が平気でまかり通っている。だが、多くの場合に、論理の途中の筋道を抜かして、結論だけを述べたりするから、素人の我々は簡単にそれに引っ掛かってしまう。早い話、倭の五王(これは中国の歴史書にしか出て来ない)の一人である「武」と、同一人物とされている雄略天皇は生きている時代にずれがある。それは明確に歴史書に書かれているのにも拘らず、多くの学者が「雄略天皇である倭王の武は」などといった説明を平気でしている。
 そのあっけらかんとした、と言うか、堂々たる確信的な言い方で、我々は簡単に納得してしまっている。あまりにも堂々としているので、疑いを挟む余地が無い。詐欺師に大物が多いのと同じである。あまりにも堂々たる態度に、まさか詐欺とは思えないで、大勢の人が巨額の詐欺に遭っている。つい最近もあったばかりだ。

 素人の私でさえ、原文を忠実に解釈する事が出来ているのに、なぜ学者ともあろう者が出来ないのか不思議でたまらない。非常に不勉強である。日本語の文章の解釈が出来ない学者さえ居る。文脈が理解出来ないのだ。そんな人が原文の漢文の理解が出来るだろうか。
 駄目な考えの分かり易い例を一つ挙げる。
 古墳から「ワカタケル」と無理して読めば何とか読めそうな文字が発掘された。これは本当に無理をして何とか読んでいる情況なのだ。これから述べるようなおかしな理屈を幾つもこね回して、何とか読めているだけの話である。で、雄略天皇に違いないと結論付けた。雄略天皇の名前の「オオハツセワカタケ」と同じだと言うのだ。古事記は「ワカタケ」を「若建」と書いている。「出雲建=イズモタケル」の場合は「建」を「タケル」と読んでいるのだから、「若建」を「ワカタケル」と読むのは当然だ、と言うのである。
 まあ、百歩譲っても、それではそれ以後は「オオハツセワカタケ」を「オオハツセワカタケル」と読むのかと言うと、そんな事はしないのである。「オオハツセワカタケ」が「オオハツセワカタケル」などになる道理がないのである。
 「出雲建」が「イズモタケル」と読む事は学者はみな知っている。それでも雄略天皇の「若建」を「ワカタケル」などとは読まなかった。そんな読み方をしたら雄略天皇ではなくなってしまう。それをこうした時だけ、簡単に今までの真面目な態度を裏切って、安易な結論に跳び付くのである。これが果たして学問と呼べるだろうか。

身近な人の突然の死に呆然として、そして怒った

2009年08月13日 | 社会問題

 住んでいる所の管理人が外出中に倒れ、救急車で搬送された、と掲示板に貼り紙があった。妻が見て来てそう言ったので、私も慌てて見に行った。しばらく管理人が不在になる、との事以外には何も書かれていなかった。それが先週の木曜か金曜だった。
 管理人は土曜日は隔週休みで、日曜日は全休。月曜になっても管理人室は閉まったままだ。そして住人から私は病名が心筋梗塞だと教えられた。きのうの木曜日、ゴミ出しの時にエレベーターで知り合いの奥さんに会ったので、管理人さん、大変でしたね、と声を掛けた。心筋梗塞だそうですね。それでまだ入院中なんでしょうか、と聞いた。するとその奥さんは小さく笑った。何で笑うんだろうと不思議に思ったが、それ以上は聞けなかった。
 資源ゴミの日だから、ゴミ置き場からコンテナに入った資源ゴミが持ち出されていた。管理人不在なので住人が面倒を見ているらしい。ゴミを捨てながら、先の奥さんが、あまり言ってはいけないらしいんだけど、亡くなったのよ、と言う。
 私は飛び上がるほど驚いた。救急車で運ばれたと言う、その前日くらいに彼と話をしたばかりだ。何でも積極的にやる人だった。それで私は信頼して、色々と相談もした。もちろん、彼の相談にも乗った。最近、彼はボランティアに近いが利益も目的としているある仕事を立ち上げようと企画していて、ホームページに載せる文章を校正してくれと頼まれた。私が校正や執筆をしている事は知っている。彼には私の著書を差し上げてある。直すには直したが、ボランティアなのか利益目的なのかがはっきりとしないので、文案も何か中途半端になっている。これではホームページを見た人が半信半疑になる。あなた自身、その点が明確になっていないのではないか、と私は言った。そこが難しい所なんで、と彼は言い、悩んでいる風だった。その話はそのままになっていた。
 彼は何しろ、口先だけではなく、即実行の人なのだ。それをつくづくと感じたのが駐輪場の事だった。駐輪場は毎年抽選で置き場所が変わる。何番から何番までがAの所、と言うような指定がある。だが、7台入る場所のど真ん中に支柱が立って場所を正確に半分に分けている。そこにどうやって4台と3台を置け、と言うのか。端の人はいいが、真ん中の人は置き場所が分からない。
 これじゃあ無理だよ、と私は彼に言った。では、線を引こう。そう言うと、その日の内にチョークで線を引き、番号を書いてきちんと仕切った。私はつくづく感心した。口先ばかりの人が多い今日この頃、何と実行力のある人なんだと。すると今度はそれをペンキで塗ると言う。材料代だけもらって無料奉仕をすると言う。
 これは当然にカネを掛けて専門業者に頼むべき仕事である。私はそんな大変な事する必要ありませんよ、と止めた。同じ太さで線を描き、しかも数字まで描くのだ。道路に「止まれ」などとペイントするのにはちゃんと道具が揃っている。素人が完全に手作業でやるのは難しいと思った。だが、彼はとうとう60台分以上の区切りを自分でペイントした。出来も良かった。そうした実行力は何にでも生かされていた。だから私は信頼したのだ。

 そんな人が突然に亡くなった。その驚愕と悲しさと悔しさと同時に、なんであの奥さんは笑ったんだろうと疑問に思った。彼女は昨年ご主人を亡くしているが、ご主人は自営の医院の院長だった。そうか、心筋梗塞とは死ぬ事を意味しているのか。心臓マヒと同じなのか、と思った。だから、死にましたよ、と言っているのに、入院しているのか、と聞いた事になり、笑ったのだろう。
 でも念のために心筋梗塞を調べた。急性なら発症から3日以内に死ぬとあるが、30日以上も持つ症状もある。やはり笑った意味が分からない。
 そして掲示板には何の知らせも貼ってない。何でだろう。息子に亡くなった事を話したら、彼もショックを受けていた。駐車場の事やバイクを置く事などで、色々と世話にもなっている。変なマンションで、場所があるのにも拘らず、バイクを入れさせてくれないのだ。自分の駐車スペースにバイクまで置く余裕は無い。理事会でそうと決めてあるから、とけんもほろろである。
 管理人に色々と相談をしている住人はたくさん居る。お世話にもなっている。それなのに、管理会社からは何の音沙汰も無いのである。家庭の事情もあろうが、不幸を伏せておくのは筋が違うだろう。救急車で運ばれたと掲示したくらいなのだから、黙っている手は無いだろう。
 そうしたら今日13日になって、掲示が出た。「8日に永眠されました」とある。何? そんな大事な事、何で今までほっといたんだ。たまたま管理会社から掃除に派遣された管理人が居たので、なんで教えてくれないんだ、と聞いた。マンションの役員さんには連絡してあるはずなんですがねえ、と言う。役員だって倒れた事を知っているんだから、その後の事は気になっているはずなのだ。
 そうか、管理人だから自分達とは直接的な関わりは無いと考えたのか。そうとしか考えようが無い。だとすると、私はマンションの役員達に強い不信感がある。仕事だとはいえ、管理人は日頃から我々と直接に接しているのだ。そんな身近な人の突然の死に全く無関心とは、人間とは思えない。どう考えても、やっている事がおかしいではないか。
 日頃管理人とはあまり顔を会わせる事の無い息子でさえ、お通夜はいつなの? と聞くくらいなのに。私達が、倒れたんだって、と心配をしている時、既に彼はこの世の人ではなかった。亡くなったと知って、お通夜は? などと思っている時には多分、既に葬儀も終わっていたのだろう。
 人の命のはかなさをつくづくと感じたと同時に、人の冷たさもまた強く感じた出来事だった。そんな冷たい人間が役員をしている所になんか、住みたくない。役員を変える手はあるが、住んでいる人間は変えられない。


東名高速道路の路肩を造っているのは「もりど」か「もりつち」か

2009年08月12日 | 言葉
 駿河湾を震源とする地震で東名高速道路の路肩が崩れた。テレビでのニュースでは盛んに「もりど」と言っている。「盛り土」と書いて、なるほど建設業界では「もりど」と読むのかと感心した。各種の専門業界ではそれぞれ特殊な言葉がある
 医学では「口腔」は「こうこう」ではなく「こうくう」と読む。法令用語では「立木」を「たちき」ではなく「りゅうぼく」と読む。「りゅうぼく」なら我々は「流木」としか思わないが。法律用語では「遺言」は「ゆいごん」ではなく「いごん」だ。もっともこの場合は我々の「ゆいごん」の方が変則的とは思うが。
 「盛り土」だが、今朝のテレビでは「もりつち」と言っている。手元の4冊の小型国語辞典ではすべて「もりつち」で、1冊だけ「もりど」とも書いてるのがある。大型の1冊にも「もりど」はある。だが、その2冊でも「もりど」では項目は立っていない。
 となると、「もりど」と言っていたアナウンサーとか解説者が間違っているのか。それにしても「もりど」なのか、と思わせてしまうのは、勝手な業界用語があるのが原因だ。大体、「俺達はこう読むんだからね」と言うのが勝手である。そんなに「俺達」だけが大事なら、一般の仕事に入って来るなよ。一人で勝手にやってろ。

 校正の仕事をしていて、「へ」と「に」を書き分けない人が多いのに驚いている。ほとんどがすべてを「へ」で処理している。「へ」は名詞の「辺=へ」と語源が同じで、「の方に」と方向性を示すのに使われる。それに対して「に」は到達点を示す。
 だからJR東海のCMは「そうだ、京都に行こう」だ、と書こうと思って、あれあれ、「京都へ行こう」だったかな、と自信がなくなった。
 この二つの言い方なら、私は断然「京都に行こう」を採る。「に」で「京都に対する熱い思い」が表せる。「へ」なら、「ほなら、京都でもいてみまひょか」ぐらいにしかならないと思う。
 もっとも、JR東海の場合なら、「京都へ」なら「京都に向かって」だから、途中下車しても良く、結局は京都までの運賃を払ってもらえる事になりそうだから、どちらだって構わない、とも言えそうだ。
 「へ」の「方向性」はその途中経過に注目している場合もあるはずだ。「に」はその点で、途中経過は無い。そこが京都の場合なら、「熱い思い」かそうではないかに分かれるのだと思う。
 すべてを「へ」で表してしまう人の場合には、私はそれを文脈を理解しながら「へ」と「に」に分けて直している。でも、何でこんなに言葉にいい加減な人が原稿を書いているんだろうと不思議に思う。

 そうそう、「会社へ行く」と「会社に行く」の違いで、「へ」は方向性に注目し、「に」は到着点に注目した表現ではあるが、会社を目指している事に相違はなく、この文脈では意味はほとんど同じと言える、などと説明している専門家が居る(「問題な日本語」)。
 こうしたいい加減な説明を専門家がしていて、そうした本が売れている事が私は本当に不思議でたまらない。
 「会社」は場所と言うか区域と言うか、そうした面では狭い範囲になるから、「へ」でも「に」でも本質的な意味は変わらないのである。だから仕事をするためでも、忘れ物を届けにでも、どちらでも「へ」でも「に」でも通用するのである。範囲が一点とも言えるくらい狭いが故に「方向性」が「到着点」にもなるのだ。ただし、「方向性」と「到着点」では、やはり気持が「に」の方が熱いはずだ。
 それなのに、この専門家は全くとんちんかんな説明をする。
 「投票に行く」「旅行に行く」などでは「へ」は使えない。
 方向性を前面に押し立てた「前へ前へ進め」「国会は解散の方向へ」などでは「に」は使いにくい。

 あったり前じゃないか。「投票」「旅行」はそれが「到着点」とも言える行為の目的なのである。「前へ前へ進め」「解散の方向へ」が方向性を前面に押し立てた言い方なんだから、「に」は「使いにくい」のではなく、「使えない」のである。
 「到着点」と「方向性」の違いを認めているのにも拘らず、その本当の意味が分かっていない。
 「京都へ行く」でも「京都に行く」でもどちらでも通用するのは、「京都」の範囲が曖昧だからなのだ。京都のどこでも良い、との思いなら「京都へ行く」になるだろうし、京都のある特定の場所を想定しているなら「京都に行く」になるのだ。この場合に「京都へ行く」と言う人を私は信用出来ない。
 結局、言っている、書いている本人の思いがどこにあるのかが重要になる。だから目的が曖昧になりそうな場合には十分に注意する必要がある。まあ、目的が曖昧だ、と言う事がそもそもはおかしいのだが。

麻生総理の読み間違いばかり批判するなよ

2009年08月11日 | 言葉
 テレビで言っていたが、長崎の平和記念式典での挨拶で、またもや麻生総理が漢字を読み間違えたと言う。「傷跡」を「しょうせき」と読んだと言う。聞いている分には分からないが、私も、あまり熱心に聞いてはいなかった事もあるが、気付かなかった。社民党の福島党首が批判しているし、インターネットで検索すると、「またやったか」とか「ルビ振っとけよ」とか、相変わらずのお叱りとからかいがわんさと載っている。その中に面白い意見もある。

 読み間違えるのは問題だけど、それを鬼の首を取ったように放送するマスコミも程度が低い。社民党は論ずる価値も無い。
 こんなところくらいしか突っ込みどころがない麻生はなかなかいい政治家。鳩山なんて本気で突っ込んだら刑務所行きもあり得るからな。
 これを「しょうせき」って読む方が難しいだろう。
 
 同感だ。
 東京新聞には要旨しか載っていないから、インターネットで全文を探して読んだ。で、これは総理の挨拶に限らないのだが、全体に字音語が多過ぎると思う。まあ、普通に使われている言葉ではあるが、老若男女、小学生だって居るのだから、易しく、分かり易い言葉にするのが当然なのである。私が関与している小学校の校長は、ほかの校長もそうだろうが、挨拶では絶対に原稿を読んだりはしない。すべて自分の言葉で語り掛ける。その場合に、果たして難しい言葉を使うだろうか。文章にして読むから難しい言葉を平気で使うのである。自分が人と話している時の事を考えれば、誰にだって分かる事だ。
 総理の挨拶に出て来る字音語の幾つかを挙げる。
 哀悼の意
 被爆の後遺症
 筆舌に尽くしがたい
 焦土と化しました
 尽力された
 敬意を表します
 核廃絶決議を提出
 言及し
 核軍縮・不拡散
 非核三原則を堅持し
 鑑み(これは和語)
 被爆者健康手帳の取得を容易にする
 祈念

 「後遺症」などは言い換えようが無いだろうが、それでも「ひばくのこういしょう」には何かひとごとのような感じが私にはしてしまう。「後遺症」もそんなにこなれた言葉とは言えない。何しろ「後遺症が残る」なんて言う専門家さえ居るのだ。
 「焦土と化しました」などは「焼け野原となりました」で良いではないか。「尽力された」は当然に「尽くされた」で良い。
 中でも「核軍縮・不拡散」なんて、すぐに理解出来るか。「非核三原則」にしたって同じだ。しかも「堅持」と来たもんだ。「手帳の取得を容易にする」などと言わずに、「手帳が簡単にもらえるようにする」と言って何の不都合があるか。

 格好を付けようとするからどうしても字音語が多くなる。我々の心に直接訴え掛ける力の無い字音語で、どうやって気持を伝える事が出来ると言うのか。結局、テレビの時代だと言って、絵で見せる事ばかりに夢中になっているから、言葉を磨く事が出来ない。言葉は、当たり前だが、文字によって支えられているのではない。音声によって支えられているのである。
 ところが、悲しい事に日本人はその音声を磨く事をして来なかった。安易に文字に頼って字音語をどんどん増やしてしまった。字音語でしか的確に表現出来ない言葉は仕方が無い。けれども、きちんとした和語(漢字にしなくても意味の分かる言葉)があるのなら、そちらを使うべきなのである。
 挨拶の最後の「祈念申し上げ」など、最悪である。何で「記念しなきゃなんないの」と思う人だって居る。何で「お祈り申し上げ」って言えないんだ。

 長崎市長の平和宣言はもっとずっと易しい言葉になっている。「易しい言葉」は「優しい言葉」でもあるのだ。もちろん、核保保有国に対しては「優しく」あってはならないが。それでも「憲法の不戦と平和の理念」などは難しい。「日本の憲法が誇りにしている戦争をしない、平和を守ると言う強い思い」などならもっと分かり易くなると思う。無いものねだりになるだろうが、「オバマ大統領が核兵器のない世界を目指すと明言しました」なども、「核兵器のない世界を目指すとはっきりと約束しました」なら、もっと力強くなるのではないか。
 ついでにこれは私の純然たる好みの問題だが、
「すさまじい炎に焼き尽くされた廃墟の静寂。」と
「すさまじい炎に焼き尽くされて廃墟となった街は物音一つ立てる事が出来ない。」
「7万4千人の死者の沈黙の叫び。」と
「7万4千人の死者は叫ぶ事も泣く事も出来ない。」
では、どちらの方が訴える力が強いだろうか。もちろん、体言止めに強さがあるのは承知している。しかし、これは詩ではない。何よりも我々の心からの、いや、体からほとばしり出る叫びなのである。

●地震でも通常の番組を放送し続けたテレビ局
 今朝、大きな地震があった。雷には怖がらない愛犬がけたたましく吠え立てる。免震構造など無い十二階だからものすごく揺れる。テレビをつけた。東京では地上アナログ放送のチャンネルは、1、3、4、6、8、10、12である。色々と回してみると、みな地震の放送に切り替わっている。津波警報が出ている。既に到達したとも言っているが、第二波、第三波もある。津波はたとえ50センチであろうと、ものすごく強い力があると言うから、津波注意報は重要だ。
 それにこのところの雨で土砂崩れを起こし易い所が各地にある。厳重な警戒が必要である。
 それなのに、ただ一局だけ、のほほんと通常の番組を放送し続けていたテレビ局がある。テレビ東京である。私は何度もチャンネルを変えて様子を見たから、通常の番組を放送していたのは多分間違いは無い。同局はやっと40分も経った所で地震のニュースに取り組み始めた。
 同局は視聴率が低い。CMを主とする収益でも民放局の最下位にある。後発だしなあ、と思っていたが、こうして地震への取り組みを見ると、なるほど、視聴率が低いのはもっともだ、と納得が行く。テレビ局は限られた貴重な電波を使わせてもらっているのである。公共の役に立つのだ、と言うのが建前になっている。もちろん、それは本当に建前だけだから、私は全く信用などしてはいないが。
 それでもこのテレビ東京のやり方はひど過ぎる。確か日経新聞と同じ資本系列だったはず。間違っていたらごめん。多分、ほかの局がやっているから自分一人くらいはいいだろう、と高をくくったのだろう。一番儲かっていないんだから、大目に見てよ、との甘えがあるのかも知れない。でも、他局だってきちんとCMは流しているんだから、どうにもその魂胆が分からない。
 以前、根室地方で大きな地震があった時、在京民放局は通常の番組を続けた。多分、東京には影響が無いと踏んだのだろう。しかし今回は違う。東京は震度4なのだ。震度4が続いている。震源が違っても危険な事には変わりない。
 こんな局に大事な電波を使わせる事は無い。免許を取り上げられたって文句は言えないだろうと思う。「鑑定団」が評判だって、「ポチタマ」が評判だって、思い上がってはいけない。

フジテレビの小倉キャスターは長崎の平和祈念式典の中継を見ていた

2009年08月10日 | 社会問題
 夏休みから戻った小倉キャスターが顔を見せた。オープニングトークは長崎の平和祈念式典の事だった。さすがに注意深く見ていらっしゃる。その話を聞いていて、昨日、私が言い落としていた事があるのに気が付いた。
 原稿に目を落としながら「読み上げている」市長が、一度だけ、原稿を見ずに参加者達に向かって「話した」事柄がある。それが核開発国の十カ国の指導者の名前だった。きちんと十カ国の名前とその指導者の名前を挙げ、呼び掛けた。「核を廃絶して下さい」と。

 間違ってはならない重要な固有名詞を、十個も暗記出来る。それなら、他のほとんどの部分だって暗記出来るのではないか。いやいや、これこそが重要だから必死になって覚えたんだよ、などと無礼な事を言ってはいけない。能力のある人がなぜその持てる能力をフルに発揮しないのか。
 平和への誓いで、言うべき事はただ一つ。核兵器を今すぐに廃棄せよ、である。廃棄して欲しい、ではない。被爆国だからこそ、廃棄せよ、と言えるのである。広島、長崎で百万を越える人々が犠牲になった。その百万を越える人々の声が、「廃棄せよ」と訴えているのである。これほど強い叫びは無いではないか。
 被爆の苦しみを話すのもいい。知らない人々が居るのだから。だが、それは幾らでも話が出来る。それだけ残酷な事だった。しかし幾ら話しても話は尽きない。けれども「核兵器を廃絶せよ」なら、それだけで尽きる。それしか言うべき事が無い。原爆の悲惨な被害を伝える事は大切だ。それは日々行われている。修学旅行生に被爆の体験を伝える語り部が居る。資料館もある。学校は率先して生徒や児童に知る機会を与えるべきである。
 しかし記念式典はそのために行うのではないはずだ。核保有国に対して、体験国のみが言える言葉を聞かせる機会なのだ。理屈を言ったって始まらない。そもそもこれは理屈抜きの話なのである。

 そうした重要な場で原稿を読み上げていて良いはずがないではないか。国連総会議長が読み上げるのは仕方が無い。彼等は傍観者の立場にある。だが、我等は被爆体験者であろうとなかろうと、被爆国の人間として、世界で唯一の被爆国の人間として、訴える立場にある。それはひいては世界全人類のためでもある。
 我等が相手にしている世界は生易しい事では納得しないしたたかな連中ばかりだ。エゴの固まりと言っても良い。そこに我等の慎み深さが通用する訳が無いではないか。理路整然と話して聞く耳を持つ相手ではない。それこそ「力」が必要なのだ。今の日本はどうやらカネだけはあるらしい。国連に供出している金額は確かアメリカに次いで世界第二位のはずだ。
 だが、出す人間の力が弱いから、そのカネは力を持ち得ない。ああ、どこかの金持が出してくれたのね、で終わりだ。カネは出しても口を出せないのが今の日本である。
 平和記念式典で、穏やかに優しい口調で話したって、ああ、気の毒だったね、で終わりである。市長、県知事、総理大臣の話に「力」があったか。「力」を感じる事が出来たか。

 私は無理な事を言っているのかも知れない。だが「力」が無いのは当然なのだ。午前11時2分、日本全国のどれほどの人々が黙祷をしただろうか。テレビ局は、NHKの総合と衛星第二放送を除いては、すべて高校野球やバラエティー、バラエティー趣向のニュース番組をやっていた。高校野球などは、途中で黙祷をしたのかも知れないし、他の番組でもそうした機会があったのかも知れない。しかし途中で黙祷だけしたって、駄目だろう。
 報道機関であり、公器であると口幅ったい事を言っているテレビが揃いも揃って平和祈念式典を無視しているのだから、平和記念式典が「力」を持てるはずが無いではないか。
 みなさん、ホントに自分だけが、今の今だけが良ければ、それで良いらしい。

長崎の平和祈念式典の中継を見た

2009年08月09日 | 社会問題
 平和の誓いを述べるのは相も変わらず原稿の朗読である。せっかくの言葉の数々を忘れたりしてはもったいないし、参加者へも失礼になるから慎重に、と言う訳だが、何とも臨場感の無い事はなはだしい。後で文字で読んだって何ら変わりは無いと私は思う。自分の言葉で書いたんだから、自分の言葉で語れよ、と言いたい。
 被爆者代表の女性なら、用意した原稿を読むのは仕方が無い。そうした事には慣れていないのだろう、と思ったが、よく聞くと、長崎市を訪れる修学旅行生に原爆を語る語り部の役を務めていると言う。それなら話す事には慣れている。それと同じ事を何でこんな大事な式典ではやらないのだろうか。

 麻生総理が「来賓」として登場したのには驚いた。今までもそうだったのだろうが、いやしくも内閣総理大臣がこの平和記念式典の来賓とは。冗談じゃない、と思う。この式典は恐らくは長崎市の主催であろうし、広島も広島市の主催だったのだろう。だが、これは当然に国が主催すべき事である。国が全世界に発信すべき事である。

 長崎県知事の話の途中で、画面がしばしば浦上天主堂跡と思われる遺跡や千羽鶴になってしまうのは、話者に対して失礼である。そうそう、式典が始まってしばらく、テレビは遺族を始めとする様々な活動の話に夢中になった。バックからは誰かが何かを話している声が聞こえて来るが、それが何なのかはまるで分からない。式典は進行しているはずなのに、テレビは一向にそれを伝えようとはしない。大事ではない事だから無視したのか。
 でも、これは中継放送だ。勝手に演出するなら中継の価値は無い。それに被爆者の取り組みや活動などはまた別の話題である。そうした事はそうした事としてきちんと別の番組で伝えるべきだ。中継の中に演出を加えるから、そうした活動をしている人が式典中でクローズアップ出来る態勢になっている。非常に不自然だ。
 そうそう、献花では各政党代表の献花は画面には出なかった。またまた、別の準備していた画面が流れた。これって、もしかしたら意図的だったのか?

 国連総会議長が登場した。場内アナウンスでは手元のパンフレットにその内容が書かれているからご覧下さい、と言うような事を話している。外国語の話なのだから当然の処置である。だが、画面では同時通訳の声が流れる。私は聖徳太子ではないから、同時に二人の話は聞けない。もちろん、本人の話している外国語が分かるはずも無い。それでも肉声で聞きたいではないか。だから字幕を流せば良いのである。パンフレットでは出来ているのに、テレビではなぜ出来ないのか。
 この議長の話し方と言うか読み方もまた迫力に欠けていたから、どうしようもないのだが、結局は何か尻切れとんぼのようにして終わってしまった。

 会場に居る人々は被害者だったり、その遺族だったりする訳で、核開発への怒り、平和への思いは強烈にある。だから淡々とした進行でも別に問題は無いだろう。こうやって暑い日差しの中に集まって、核廃絶と平和への思いを新たにする事に意味がある。
 だが、テレビの前で、恐らくは冷房した部屋の中で気楽に見ている人々にはそうした思いは伝わりにくい。地方の一平和祈念式典ではないのだ。これは日本人全員が参加すべき、そして世界もまた参加すべき式典なのだ。
 それなのに、式典からは迫力と言ったらおかしいかも知れないが、熱意があまり伝わって来ない。そして中継の演出がそれを更に悪くしている。NHKって本当に下手だなあと思ってしまった。私はNHKが国民から視聴料を取って存在していて良いのは、こうした中継をするからだと思っている。娯楽番組などにはまるで意義を感じていない。それは民放にも出来る。
 しかしながら、こうした視聴率を稼げないような真面目な中継はNHKにしか出来ないのである。その唯一とも言える絶好の機会をうまく生かす事が出来ない。多分、勉強が足りないんだろうね。そして平和への熱意もまた足りないんだろうね。

 私は別に嫌みで見ているのではない。それどころか、被爆地の人々の熱い思いを聞きたいのである。それを式典に求めるのは無理だと言うのだろうか。もしも無理なら、式典の中継は意味を持たないのではないのか。何かあまりにも型通りに進み過ぎている。形式を重んじるから、どうしたって心が付いて行けない。一言一句間違えないようにと読み上げるから、気持が伝わらない、それと全く同じである。

「檄を飛ばす」で、漢字と言葉を考える

2009年08月08日 | 言葉
 「檄」とは通達文の事である。人々を諭したり、人々に呼び掛けたりする。従って、奮い立たせる場合も少なくないはずだ。どうもそこから「激励」との混同が始まったらしい。本来は「飛ばす」物ではないはずだ。有名な「魏志倭人伝」、あの卑弥呼と邪馬台国が登場する中国の歴史書には、魏の皇帝が卑弥呼に「檄を作って告諭した」とあり、その後継者である壱余にも「檄を以て告諭した」とある。別に激励をした訳ではない。
 従って、「檄を与える」と言うのが正しいはずだ。もちろん、どの辞書も「檄を飛ばす」との言い方を挙げている。
 その「檄を飛ばす」だが、次のような説明になっている。
Aの辞書 「俗」として、「指導者が選手・部下などの奮起を促すために、叱咤激励の声を発する」と説明している。「俗」とは「俗語」の意味だが、この辞書は何と、「卑俗な語、新しい語」として「俗語」を使っている。となるとこの「檄を飛ばす」の説明は正しい事になる。とんでもない辞書である。
 「檄=自分の主張などを強く訴え、多くの人々に賛同や決起を促す文書」との説明も上の説明を納得させてしまう。
Bの辞書 「決起を促す文書をほうぼうに送る」との説明だ。ただ、目立つように下に薄く紅色の地を敷き、「しかる」「はげます」の意味で使うのは、本来の用法ではない、と説明をしている。これは正しい説明である。でも「決起を促す」と「励ます」は同じような意味ではないのか。
Cの辞書 「檄を書いて、決起を促したりする」。俗に激励の意で用いるのは全くの誤り。
 この説明は正しい。しかし「決起をうながしたりする」とも言っているから、そう簡単には納得出来ない。「檄=人々を奮い立たせて、積極的な行動をとるように勧める文書」だから、どうしたって「激励」になる。激励にならない「決起を促す」と言うのが私にはどうにも理解出来ない。
Dの辞書 「檄を飛ばす」の説明は無い。「檄=敵の罪悪などをあげ、自分の信義・意見を述べて、公衆に呼び掛ける、また決起をうながす文書」である。
 ここにも「呼び掛ける」と「決起を促す」が同居している。
 ただ、「昔、中国で召喚や説諭のため政府・官庁から出した、木札に書いた文書」との説明もあるから、どうも、現代では本来の意味とは違って使われているのだ、と説明したいらしい。

 以上、いずれも非常に歯切れが悪い説明をしている。いや、そうした説明しか出来ていない。つまり、本来の「檄」は我々が想像しているのとはまるで違う意味なのだが、今ではどうも「激励」の意味に使われるのもしょうがないのではないか、と考えているらしい。
 この話を採り上げたのは、私が今までにも批判をしている東京新聞の「コトバ 言葉 知っている? 知りたい」との校閲部の記事を見たからだ。その「檄を飛ばす」の意味は「自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求める」である。民主主義の世の中だから、本来の「告諭」ではなく、「同意を求める」になっているが、それでも「激励」ではないから、正しいと言える。

 さて、ここで一つ問題がある。
 同社は紙面で「げき」と平仮名で書いていると説明する。つまり「げきを飛ばす」とか「げき文」としている。やっかいなのは、一部の辞書が「げきを飛ばす=励ます」も認めている事だ、と言う。これまた正しい。
 しかし私が問題だと思っているのは、「檄」を「げき」と仮名書きにする事にある。「檄を飛ばす」なら「激を飛ばす」ではない。注意の行き届く人なら、その違いに注目出来る。もっとも、「掘」の文字を知らず「堀る」と書く人や「堤」の文字を知らず「提」と書く人が少なからず存在しているから、あまり楽観は出来ないとの悲しい現実もある。
 しかしそうは言っても、「げきを飛ばす」ならそれは単に「激を飛ばす」の仮名書きにもなる。それでは「檄」と「激」の違いにはまるで気が付かない。安易に仮名書きを推奨する事はそうした危険を伴うのである。そうした事にこの記事はまるで関心が無い。そこが大きな問題だと思う。
 「檄」は常用漢字ではないから使えないだって? そんな事は百も承知。つまりは常用漢字以外は使わない、使えない、との決まりを作った事がそもそもはおかしいのだ。長い伝統と様々な知恵や工夫を持っている漢字と言葉がそんな安易な「常用漢字」で取り仕切れる訳が無い。思い上がってはいけない。最近はルビを付ける事もしているんだから、「檄」をルビを付けて使えば良いではないか。
 「げき」と書いて「檄」と「激」を区別せよ、なんて無茶な事を考えてはいけません。

 記事は最後に「正しい意味での使用を心掛けたいです」と締めくくる。えっ? 「心掛けたいです」? 「見たいです」「行きたいです」は決してこなれた言い方ではない。むしろ、まるで小学生の作文だ。「です」の丁寧ではない言い方は「だ」「である」だ。ならば「見たいだ」「行きたいである」と言えるか。
 希望を表す助動詞の「たい」は、そのままで終わるか、丁寧にするなら「ございます」を付けるしか無いだろう。だから「行きたい」はそのままか「行きとうございます」にしかならないのである。言うまでもなく、「行きたい」と「ございます」はそのままでは繋がらない。「行きたい」の形を連用形の「行きたく」にする必要がある。「行きたくございます」が言い慣れて音便の形「行きとうございます」となるのである。
 ただ、「行きたいですね」などになると、断定の「です」とは違った意味になるからおかしな言い方とは思えなくなる。これは単に形が違うだけではない。意味が違うのである。だから「行きたいですね」が成立するのだ。
 「心掛けたい」を丁寧に言うならば、「心掛けたいものです」とか「心掛けたいと思います」にしかならないはずだ。私はこの記事は考え方も言葉遣いも「なってない」と思う。

●裁判員制度をやってみて
 私は裁判員制度ははなから駄目な制度だと思っていた。司法界のがんじがらめの制度、上には逆らえない体質でどのような正義が全うされるのか大きな疑問がある。そうでしょう。あれほど多くの冤罪がある。痴漢なんて、一度女性が「この人が犯人です」と言ったが最後、どんな理屈も通りゃしない。
 そんな理不尽な場に、正真正銘の素人が参加して、一体何が出来ると言うのか。大人対子供、いや、大人対赤子の立ち会いで勝つのがどちらかは始めっから分かり切っている。
 だから、裁判員制度で、庶民の正常な感覚が生かされますよ、などとおためごかしを並べて、結局は司法当局のいいようにするだけの話。庶民が参加していたんだから、文句は言えませんよね、と言う巧妙な策略なのである。
 この事について、今日のメルマガ「頂門の一針」で馬場伯明氏が的確な批判をしている。是非お読み下さい。www.melma.comでアクセスすれば、左側に「頂門の一針」が人気メルマとして出て来るはずです。


犬と楽しく暮らしています

2009年08月07日 | ペット
 私が仕事をしているすぐ横で犬が気持良さそうに寝ている。眠っているのではない、ちょっとした事ですぐに目を覚ますから、寝ているのだ。同じ高さだから多分安心なんだろう。
 私の机は鍵型になっている。本当はコの字型にしたいのだ。もっと言えばロの字型にしたい。文字通り机に囲まれている状態だ。それなら、必要な物は何でもすぐに手に出来る。現在は狭いので実現出来ていない。
 私の仕事はたいてい多くの参考書が必要になる。国語辞書は最低小型が4冊、間に合わなければ大型が1冊加わる。それに古語辞典に漢和辞典。これも複数冊になる。時々は英和辞典や仏和辞典も必要になる。言葉の辞書とは別に、歴史事典、百科事典、園芸事典、日本地図や世界地図、それに時刻表も必要になる。場合によっては源氏物語、古事記、日本書紀、万葉集などがメインの参考書になる。これらを一度ではないが、その大部分が一緒に並ぶ。それを開いて並べて置くにはそれくらいの面積が要る。
 それにほとんどがパソコンがらみだから、パソコンにも場所を取られている。メインの机は食堂のテーブルを使った物だからかなり広い。だがそこに2台のパソコンと2台のモニター、それと2台のキーボードを置くと、もうそれだけで一杯になってしまう。だから最低限でもLの字型が必要になる。そのLの字の一方に今、犬が寝ている。

 時々目を開けては私の存在を確認して安心している。犬は私を仲間だと思っているらしい。どうも親とは思っていないらしい。遠慮が無さ過ぎる。でも人間の気持の動きを敏感に察知する。怒った顔を見せると、悲しそうにうつむいたり、怒ったりする。だからいつもニコニコしていなければならない。それに、自分が納得していない事で怒られると堂々と反抗をする。しつけは愛情だ、は犬の場合にも同じなのである。
 下手に怒ったり無視すると、それなら俺にも考えがある、部屋でしょんべんしちゃうからな、と実行に移してしまうのである。悪癖はどうもそれだけが原因ではないらしいのだが、まあ、怒るよりはまずは愛情を、と心掛けてはいる。結局、犬に自分の生き方を反省させられているような情況である。情けない。

 いやいや、そうではない。人間は動物に教えられる事がたくさんある。何よりも動物は強欲ではない。恨みや妬みで相手を殺したりはしない。人間なんかよりずっとずっと高等なのである。そうだろう、信じている宗教の違いで、互いに殺し合ったりするなんて、下の下である。宗教と言うさも高級らしく見える体裁の下に獰猛で野蛮で下劣な性格が隠されているだけに過ぎない。実は宗教を信じているのではない。宗教に取り憑かれているに過ぎない。
 人間は自分の欲得のためなら何でもする。自分が正義だと言いたいがために、自分と敵対する相手を悪者に仕立てる。それは簡単に見破られてしまうのに、それさえも気が付かない。今の中共のウイグル民族に対してがその典型だ。欲で目が見えなくなっている。多分、耳も聞こえなくなっているだろうから、これはもう、落ちる所まで落ちないと解決は付かないのだろう。

 汚い人間の事は考えるのはよそう。そうそう、犬の抜け毛で困ってはいませんか? 掃除してもしてもふわふわとした抜け毛が家中に落ちている。私の犬は毛の長いポメラニアンだから特にそうなる。私は仕事場に安いニードルパンチと言う名の敷物を敷いているが、そこに犬の毛が驚くほどくっついて来る。簡単には取れない。で、ある時素足の裏でこすってみたら、いとも簡単に毛が固まりになって取れる。犬のブラッシングは毎日するが、腹側とか手足の先までは行き届かない。やらせてはくれないのだ。だからそうした部分の抜け毛が多い。それが敷物にくっつく事で取れる。言うならば、「ブラッシング敷物」である。
 この犬は昔はブラシッングがとても好きだった。そして今でも「ブラシしようか」と言うと、すぐにブラシの置いてある所にすっ飛んで行き、ベランダのゴミ箱の上に乗せろと催促する。そこがブラッシングの定位置だからだ。ところが、この頃はブラシッングを始めると鼻にしわを寄せて怒る。噛み付きそうになって怒る。それをなだめながら全身をブラッシングする。なぜ怒るのかはよく分からないが、多分、一度何かで痛い思いをしたのだろう。まあ根気よくブラッシングの気持良さを思い出させよう。
 そろそろ机の上も飽きて来たらしい。仕事も一段落したから、この辺で紅茶でもいれて、それからブラッシングとしましょうか。