夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

長崎の平和祈念式典の中継を見た

2009年08月09日 | 社会問題
 平和の誓いを述べるのは相も変わらず原稿の朗読である。せっかくの言葉の数々を忘れたりしてはもったいないし、参加者へも失礼になるから慎重に、と言う訳だが、何とも臨場感の無い事はなはだしい。後で文字で読んだって何ら変わりは無いと私は思う。自分の言葉で書いたんだから、自分の言葉で語れよ、と言いたい。
 被爆者代表の女性なら、用意した原稿を読むのは仕方が無い。そうした事には慣れていないのだろう、と思ったが、よく聞くと、長崎市を訪れる修学旅行生に原爆を語る語り部の役を務めていると言う。それなら話す事には慣れている。それと同じ事を何でこんな大事な式典ではやらないのだろうか。

 麻生総理が「来賓」として登場したのには驚いた。今までもそうだったのだろうが、いやしくも内閣総理大臣がこの平和記念式典の来賓とは。冗談じゃない、と思う。この式典は恐らくは長崎市の主催であろうし、広島も広島市の主催だったのだろう。だが、これは当然に国が主催すべき事である。国が全世界に発信すべき事である。

 長崎県知事の話の途中で、画面がしばしば浦上天主堂跡と思われる遺跡や千羽鶴になってしまうのは、話者に対して失礼である。そうそう、式典が始まってしばらく、テレビは遺族を始めとする様々な活動の話に夢中になった。バックからは誰かが何かを話している声が聞こえて来るが、それが何なのかはまるで分からない。式典は進行しているはずなのに、テレビは一向にそれを伝えようとはしない。大事ではない事だから無視したのか。
 でも、これは中継放送だ。勝手に演出するなら中継の価値は無い。それに被爆者の取り組みや活動などはまた別の話題である。そうした事はそうした事としてきちんと別の番組で伝えるべきだ。中継の中に演出を加えるから、そうした活動をしている人が式典中でクローズアップ出来る態勢になっている。非常に不自然だ。
 そうそう、献花では各政党代表の献花は画面には出なかった。またまた、別の準備していた画面が流れた。これって、もしかしたら意図的だったのか?

 国連総会議長が登場した。場内アナウンスでは手元のパンフレットにその内容が書かれているからご覧下さい、と言うような事を話している。外国語の話なのだから当然の処置である。だが、画面では同時通訳の声が流れる。私は聖徳太子ではないから、同時に二人の話は聞けない。もちろん、本人の話している外国語が分かるはずも無い。それでも肉声で聞きたいではないか。だから字幕を流せば良いのである。パンフレットでは出来ているのに、テレビではなぜ出来ないのか。
 この議長の話し方と言うか読み方もまた迫力に欠けていたから、どうしようもないのだが、結局は何か尻切れとんぼのようにして終わってしまった。

 会場に居る人々は被害者だったり、その遺族だったりする訳で、核開発への怒り、平和への思いは強烈にある。だから淡々とした進行でも別に問題は無いだろう。こうやって暑い日差しの中に集まって、核廃絶と平和への思いを新たにする事に意味がある。
 だが、テレビの前で、恐らくは冷房した部屋の中で気楽に見ている人々にはそうした思いは伝わりにくい。地方の一平和祈念式典ではないのだ。これは日本人全員が参加すべき、そして世界もまた参加すべき式典なのだ。
 それなのに、式典からは迫力と言ったらおかしいかも知れないが、熱意があまり伝わって来ない。そして中継の演出がそれを更に悪くしている。NHKって本当に下手だなあと思ってしまった。私はNHKが国民から視聴料を取って存在していて良いのは、こうした中継をするからだと思っている。娯楽番組などにはまるで意義を感じていない。それは民放にも出来る。
 しかしながら、こうした視聴率を稼げないような真面目な中継はNHKにしか出来ないのである。その唯一とも言える絶好の機会をうまく生かす事が出来ない。多分、勉強が足りないんだろうね。そして平和への熱意もまた足りないんだろうね。

 私は別に嫌みで見ているのではない。それどころか、被爆地の人々の熱い思いを聞きたいのである。それを式典に求めるのは無理だと言うのだろうか。もしも無理なら、式典の中継は意味を持たないのではないのか。何かあまりにも型通りに進み過ぎている。形式を重んじるから、どうしたって心が付いて行けない。一言一句間違えないようにと読み上げるから、気持が伝わらない、それと全く同じである。