夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

東京新聞の「せめてもの救いだ」に疑問。菅家さん事件

2009年08月06日 | 言葉
「冤罪と裁判員制度」と題する記事がある。初めての裁判員参加の裁判が東京地裁で始まった時でもあり、読んだ。だが、私は途中で何がなんだか分からなくなった。
 ある記者が17年前、警察署でじりじりしながら取り調べの推移を見守った、との話から始まる。菅家さんの足利事件である。DNAという動かぬ証拠があるのに、なぜ容疑を認めないんだろう、と言うのが記者の思いであり、菅家さんに対する不満だった。
 話はがらりと変わる。小見出しは「痛恨事」である。
 記者が菅家さんと再会したのは無期懲役が確定した2000年。取材時の記憶も薄れていたが、菅家さんが公判の途中から一貫して無罪を主張している事に衝撃を受けた。ここからは記事の引用である。

 弁護側の主張を読み込み、解説記事で次のような指摘をした。
 「最高裁が『DNA型鑑定は万能』とお墨付きを与えたわけではない。捜査機関は『過大評価は冤罪を生み出す』との弁護団の意見を謙虚に受け止めるべきだ」「鑑定の過大評価は地道な基礎捜査を軽視する危険性もはらむ。あくまでも『間接証拠』と位置づけた抑制的な運用が求められる」
 鑑定の過大評価を戒めたのはせめてもの救いだが、菅家さんを犯人視した報道を繰り返した汚点は消えない。上告審での確定後も再審請求の動きを注視せず、昨年末に再鑑定実施の動きが出てきた時までまるっきり無関心だったことは、司法の取材が長い私の記者人生の中で痛恨事だ。

 私が分からなくなってしまった最大の原因が「せめてもの救いだ」にある。
 「救い」とは「救う」とは別の言葉である。岩波国語辞典は載せていないが、新明解国語辞典には「どん底にある(悲惨な思いをしている)人の気持を幾分でも解放させるもの」との説明がある。明鏡国語辞典も同じように「人の気持に安堵感や安心感を与え、ほっとさせるもの」と説明している。
 上記の引用記事で「悲惨な思いをしている」あるいは「安堵感を持っていない」人に相当するのはこの記事を書いた記者ではなく、菅家さんが犯人である事に疑惑を抱いてその記事を読んだ読者なのである。「鑑定の過大評価を戒めた」事がそうした読者にとって救いになったか。とんでもない。記事は相変わらず菅家さんを犯人視し続けたのだから、何の救いにもなっていない。

 はっきり言って、この記者は言葉を知らない。自分は現在でこそ「悲惨な思い」をしている。なぜなら、菅家さんを犯人視し続けたのだから。それが「消えない汚点」であり、「痛恨事」なのである。「せめてもの救い」なのは、現在から考えれば、なのであって、当時は救いにも何にもなっていないのである。何と自分に甘い事か。
 でも、記者たる者、言葉遣いを知らないはずが無い。そこで記事を読み返した。そして改めて気が付いた。記者は1991年から2008年末に至るまで、ずっと菅家さんが犯人とされた事に無関心だった。と言うより、犯人であると思い込んでいたはずだ。
 それなのに、途中の2000年に、DNAの過大評価は冤罪を生み出す、との弁護団の意見を謙虚に受け止めるべきだ、と書いたのである。それが「弁護側の主張を読み込」んだ結果であるのは明白だ。だがそれなのに、菅家さんを犯人視した報道を繰り返したのである。では、一体、何のために過大評価を非難したのか。意図が全く分からない。

 上記の文章は何度も推敲を繰り返してやっと完成した。それほど私にとっては難しい記事なのだ。
 「過大評価に疑問を投げ掛けた」とある。しかしそのすぐ次の段落は「鑑定の過大評価を戒めたのはせめてもの救いだが」とあるので、えっ? 「疑問を投げ掛けた」のは別の記者だったのか、と思ってしまったのだ。そうでしょう。そこまでの記事で、現在は菅家さんの無実が確定しているのだから、記者が明らかに間違っていた(間違った捜査と判決に同意していた)のがはっきりしている。私は捜査した人間も判決を下した人間も共に菅家さんと同じ期間、懲役刑に服すべきだとさえ思っている。従って、こうした判断に盲従していた記者は最悪なのである。それなのにそこに「せめてもの救いがある」と言うからには、二つの記事の筆者は違う事になる。
 実にお粗末な捜査と司法判断に追随した記者は全面的に×で、過大評価に疑問を投げ掛けた記者は○である。ただ、その大きさは×の方がはるかに大きくて、○はゼロに近いくらいに小さい。判決に何の影響も与えなかったからだ。単に主張しただけに終わった。ただ、正義の心で立ち向かったとの点で評価出来る。それが「せめてもの救いだ」になるはずなのである。

 そこまで読んで、何でこの記者は自分の犯した過ちを全面的に反省するのではなく、逆に賞賛しているのか、と不思議に思った。「せめてもの救い」にはそれだけの重さがあると思う。彼は安易に周囲の動きに流され続けて来たのである。それなのに「せめてもの救いだ」と自分を持ち上げる。ここには反省がまるで感じられない。いくら「痛恨事だ」と言っても口先だけにしか聞こえない。だから私は分からなくなったのである。記事の締めくくりは「裁判員を冤罪に巻き込まないためにも、取り調べの全面録音・録画を求めたい」だから、主張している事は分かるのだが、以上のような経緯なので、私にはこの記者の真意が信じられないのである。そんなはずはないのだから、自分の頭の程度を疑ってしまうのである。

 これは「メディア観望」と題する8月3日の朝刊の記事で「記者の眼」と言う括りの中の一つである。論説室の記者が書いている。だからこそ、余計に自分の頭が疑われるのである。

横浜市長の引退は投げ出しだ

2009年08月05日 | 政治問題
 少々時期遅れだが、横浜市長の中田氏の突然の引退は一体何なんだろう。任期半ばにして逃げるのは安倍、福田で懲りている。中田氏は逃げたのではない、と言っている。更に高い所を目指してだと言っている。それを応援している市民も居る。
 馬鹿を言っちゃいけない。彼は横浜市のためだと言って立候補し、それを認めた市民によって選ばれた。であるからには、最後まで責任を全うすべきである。約束は横浜市民の暮らしを良くする事ではないか。それを任期途中でほっぽり出す。そんな事が許されるものか。
 彼には彼なりの考えがあるのだろう、などと市民が物分かり良い必要は無い。彼なりの考えがあるのなら、それを始めに堂々と主張すべきなのである。横浜市政よりももっと重要な事態が起きれば、すぐにそちらに転向します、と言っておくべきだったのである。こう言う奴を「御都合主義」と言う。
 辞書には「定見を持たず、その時その時の状態に応じて都合のいいように行動するやり方」とある。どんなに自分にとってはこれだ、と思う時期に当たったとしても、約束した責任は果たさなければならない。そうでなければ、人とは言えない。

 テレビが取材した横浜市民の声は半分が中田氏に同意していた。本当だろうか。もしもそうなら、私の横浜市に対する思いは百八十度転換してしまう。まあそれは私の勝手だが、「横浜」と言う東京人も憧れを抱く都市がそんなにもいい加減でだらしのない都市だったとは。
 人間、歯を食いしばっても我慢をしなければならない時がある。中田氏は多分、入れ歯なんだろうね。だから歯を食いしばる事が出来ない。年がら年中、歯を食いしばっていたせいで、歯がぼろぼろになってしまったと言う話をよく聞く。芸能人でさえ、そうした人が居る。
 中田氏は言うならばエリートである。市長にまで上り詰めた人間が何で芸能人にも及ばないのか。芸能人を差別しているのではない。でも、誰が考えたって、芸能人よりも市長の方が上だろう。そのまんま東氏が宮崎県知事に当選した時、世の人々は多分、呆気に取られたはずだ。かく言う私もそのような事が起こるとは思いもしなかった。
 人間、その人その人の生きるべき道がある。芸能人が政治家になったって、政治家が芸能人になったっていい。でもそれはその人にそうした器が備わっていたからだ。政治家の素質がある人間がたまたま芸能人をやっていた、あるいは芸能人の素質のある人間がたまたま政治家になっていた、それだけの話ではないのか。
 ただし、本当に東国原知事に知事としての資質があるかどうかはまた別問題だ。それが今試されている。だから、下手に国政に色気を出すべきではないだろう。古賀氏との問答は果たして本気だったのか、古賀氏を馬鹿にしただけだったのか。
 常識では計れない人間が登場して来るから、ホント、振るい分けるのに苦労してしまう。常識と言うと、馬鹿にされる事も多いが、「常識」の意味は「正常なあるいは健全な社会人ならば持っているはずの、あるいは持っている事が要求される、ごく普通の知識・判断力」である。辞書を替えても「正常なあるいは健全な社会人・一般人」との定義は変わらないだろうと思ったのだが、残念ながら6冊調べて内、2冊にしかこの定義は無い。他は単に「一般人・社会人」である。
 なるほど、正常ではない、あるいは健全ではない一般人の知識や判断力だから、多くの場合に騙されてしまうのである。そう、今の世の中にはあまりにも正常ではない、健全ではない人間が多過ぎる。

●今日は旧暦の6月15日
 えっ? と思ってしまう。6月15日ならまだ梅雨の真っ最中である。まあ、日本全国が梅雨のようなはっきりしない天候ではあるが、それにしても一ヶ月と二十日遅れている。普通、我々の「常識」では旧暦は一ヶ月遅れくらいである。一ヶ月以上遅れるが、それでも二ヶ月近くにはならない。
 近くの商店街は旧暦で七夕祭りをやっている。でも実際の旧暦なら七夕は今月の26日になってしまう。私は旧暦の方がずっと実際の季節感にふさわしい、と常々考えているのだが、こうなるとそうとも言えなくなる。いずれにしても、季節感の本当に薄れた今日この頃である。
 これもまた、カネで動いている世の中であれば仕方の無い事なのかも知れない。私はカネが無いから言うのではないが、カネよりも、心で、感覚で動く世の中でありたいなあと思う。

青信号は緑信号ではない

2009年08月04日 | 言葉
 子供達に「さあ青だよ、渡れるよ」と声を掛けた。そこは車の交通量の多い幹線道路の横断歩道である。すると通り掛かったクロネコヤマトの服を着た中年の男が、「青じゃないよ、緑だよ」と私を馬鹿にして通った。
 信号の青が、果たして青なのか緑なのかがひと頃話題になった。確かに色としては青緑と言うか、緑である。しかしこの色でこれを「青信号」と言うのである。同様に、黄色の信号、あれは橙色である。今はオレンジ色と言うらしいが。しかしそれを「黄信号」と言うのである。
 因みに黄信号は、交差点内にこれから入るのは駄目、入っている場合は速やかに出なさい、との合図である。「注意」ではない。
 ただ、言葉としては「黄信号=注意」「青信号=安全」「赤信号=危険」として浸透している。
 私はよほど先の男を追い掛けて行って、馬鹿言ってんじゃない、と言おうと思ったが、馬鹿馬鹿しいからやめた。

 日本には古くは赤、黒、白、青の四つの概念しか無かったと言う。
 赤は「明るい」、黒は「暗い」が語源になっている。白は「しるし」、「いちじるしい」の「しるし」である。つまり、「目立つ」である。そうなると、残る青は「目立たない」になる。つまり、古代には、ぼんやりとした色はすべて「あお」で通っていた。もちろん、漢字の「青」ではない。「青」になったのはずっと後の事だろう。
 青=ぼんやり、の証拠は宮中の行事である「白馬の節会」にある。これは「あおうまのせちえ」と読む。「節会=節目の行事」。なぜか「白馬」が「あおうま」である。当然にこれは「青馬」なのではない。そんな色の馬なんか見た事も無い。
 「あお馬」はどうも、黒でも栗毛でも白でもない、灰色の馬を言ったらしい。これは古語辞典に説明がある。灰色=ぼんやりした色、である。これは「青」がブルーと認識されるずっと以前の話である。だから、緑を「あお」と言っても少しもおかしくはなかったのだ。その伝統が今も脈々と息づいている。「青々とした緑の葉」なんて、先の男には絶対に通じないはずだ。で、件の男はそうした言い方を知らない、しない、と言う事も絶対にないはずなのである。本当に馬鹿な奴だよ。

 まともな話に戻って、日本人も段々と色に敏感になって来た。それは色々な染料が中国から入って来た事にもよる。そうなって来るといつまでも「あお=ぼんやり」は通用しなくなる。「あお=青=ブルー」が定着し始めると、灰色をいつまでも「あお」とは呼べない。節会に使うあの灰色の馬は「白い馬なんだ」と思うようになった。
 そこで文字は「白馬」と書き、でも読み方は古来の宮中行事でもあるから元のまま「あおうま」とした。
 これは私の独自の見解である。古語辞典などを見てもここまでは書かれていない。まあ、すべての辞書を見た訳ではないが。結構詳しい『岩波古語辞典』でも駄目だ。
 「白馬の節会」とは正月の人日(じんじつ=1月7日)に「あおうま」を見ると一年の災いが取り除かれる、と言う行事である。宮中の庭に引き出された「あおうま」を天皇がご覧になったのである。

新聞を読んで、私と同じ事を考えている人が居た

2009年08月03日 | 文化
 昨日の東京新聞の紙面批判に「掲載基準の明確化を」と題して、山田健太氏(専修大学準教授・言論法)と言う方が書いている。
 「毎週金曜日のシネマガイドは、他紙では広告扱いだが、同紙では記事扱いで、でも下の広告と連動した色付き表記を見ると、ウ~ンと唸ってしまう」と言う。
 「一方で、記事スタイルを守るがために読者の欲求が満たされない例もある」とも言う。これはある有名アイスクリーム店の紹介で、詳細なメニューや店名はあるのに住所がない、と言う。

 この事は私も前に気付いた事がある。確か味噌を見直そう、との記事だった。東京だったと思うが甘い味噌を作っているメーカーがある。どじょう汁などに使われているとあったので、その旨さは分かる。私は浅草の「駒形どぜう」のどじょう汁しか知らないが、こってりと甘くてどじょうととてもよ良く合っている。
 ああ、あの味噌なら使ってみたいな、と思った。ところが、どこで買えるのか、どこで作っているのかが書いてない。つまり、これは記事であって広告ではない、と言う事らしい。でも、味噌を見直そうと言いながら、その実際の見直し方が分からないなんて、羊頭狗肉もいい所だ。
 そしてこれは前にブログで書いたが、第一面の目立つ所にコラムがあるのはどこも同じだが、そこで採り上げている本がそのすぐ下の通称「さんやつ」と呼ばれる広告として出ていたのである。私はウ~ンと唸ってしまうどころか、これは明らかに不正行為だ、と思った。その時にも書いたが、広告は仕方が無いとしても、コラムの内容は掲載をずらせば良いのである。コラムなんだから日時を争ったりはしない。

 記者の考えは様々だし、一部しか担当していない。だからこそ、デスクと称する編集部長が存在しているのではないのか。総合的に目配りして一つの基準に収めるための役割である。校閲は一つ一つの記事にしか目を通す事が出来ないのか。それなら、なおの事、全体を統轄する人間の出番は重要になる。その大事な役目が果たせていない。

●あした、あさって、しあさって
 突然に変な事を言うが、今日の朝のテレビで、今日から裁判員参加の裁判が東京地方裁判所で始まる話をした。そして何日か掛かって判決が出る。それを臨時司会者の葛西アナが「あした、あさって、しあさって、ですね」と言った。もちろん、私もそう思った。そして番組の誰も異を唱えない。司会者は三人、そしてゲスト出演者が二人。その誰もが何も言わない。
 葛西アナは確か東京育ちだったと思う。でも他の四人についてはどうだか知らない。もしも東京以外で育った人が居れば、「あれっ? それっておかしいんじゃないの」と言うはずである。まさか全員が東京育ちではあるまい、と思う。
 首都圏では東京以外では「あした、あさって、やのあさって、しあさって」と数えるはずなのだ。東京では「しあさって、やのあさって」の順になる。
 ふーん、東京以外にも東京方式の数え方が浸透したか、とも思うが、いやいや、基本的な言葉なんてそう簡単に変化するものじゃない、との思いもある。そうした事から、結局、多くの人々があまり他人の話に真剣になっていないのではないか、と思い至った。もしかして、出演者達全員が東京育ちだったとして、それでも部外者からはおかしいぞ、との声が挙がるはずなのである。それとも、やはりあまり真剣には聞いていないのか。
 もう一つ別の考え方も出来る。これは私の体験だが、「あさっての次の日を何と言いますか」と聞いたのである。大阪育ちの男性は「そんな事、人によって違うんじゃないですか」だった。京都育ちの女性は「そんな事、考えた事もありません」。
 ふーん、これで世の中は成り立っているんだ、と私は感動してしまった。でもあさっての次の日の事ぐらい、考えますよねえ。まあ、多くの人々が言葉にはあまり関心を持っていない事が分かった。これだけで言うのもなんだけど。ただ、私のブログを読んで下さる方は別ですけど。

とても素晴らしいCMがある

2009年08月01日 | 文化
 離れた所で暮らしている息子から老齢と言える母親に電話が掛かって来る。
 「おれおれ、どう元気?」
 「ああ、おれおれさんね、お久し振り。で今日はどんな手口なの」
 「もう母さんったら。しばらく声聞いてないから、どうしてるかなって」

 ここで、「あなたの声を聞きたい人がいる」と言う文字が流れる。母親と息子の会話が続く。

 「で、そちらはどうなの」
 「うん、まあまあ仕事で忙しくて」
 「そう、それは良かったね。じゃあ振り込みは要らないね」
 「もう。その内に帰るから」

 提供は「公共広告機構」。会話の内容は正確ではない。概要を伝えただけだ。是非御自分で見て下さい。母親の顔も話も素敵だし、息子の声も話もまた素敵なのだ。普通のさりげない会話のようで、とても機知に富んでいる。そして温かい。こんな母親だったら素晴らしいなあ、とつくづく思ってしまう。もちろん、対応している息子もいい。私が見ているのはテレビ朝日の朝の10時半近く。ほかの局ではどうなのかは知らない。そもそも、あまりテレビは見ないので。
 で、ふと気が付いた。いつもこの時間帯には私の嫌いなアリコのCMが流れる。何度も流れる。そのアリコがクレジットカードの情報が漏れて、多くの被害を出している。アリコは外部からの侵入か、内部からの持ち出しかは分からないので、調査待ちだと言っていた。
 で、当然にCMの自粛になる。で代わりに登場したのがこのCMだとすると、代役にしてはあまりにも品格が違い過ぎる。はっきり言って、どんなCMも太刀打ち出来ない品格の高さだと私は勝手に評価をしている。逆に言えば、あまりにも品格の無いCMが多過ぎる。

 私の嫌いなCMの一つにJAの保険がある。
 男女二人の勧誘員が夫婦を訪れる。色々と話があったらしい所で、男の勧誘員が「で、奥様の御意見は」と聞く。すると夫が、こいつは私がいいと言えばそれで、と言うような事を言う。すかさず男の勧誘員は「いいえ、私は奥様の御意見が聞きたいのです」と遮る。妻は遠慮深そうに「私は、この人が健康で……」。
 そこでこの訪問シーンは切れる。最後は何か男の勧誘員が万歳をしているかのようなシーンで終わる。
 夫の役は渡瀬恒彦さん、妻の役は和久井映見さん。妻のおとなしそうで優しい雰囲気に比べて、夫はすごく我がまま勝手な男のように描かれている。私は見るたびに、この夫に同情してしまう。
 この夫婦は勧誘員なんかが知らない夫婦の愛情に包まれているのだ、と私は思う。それが妻に対する自信のある言葉になるのだし、妻も夫さえ健康ならば、との控えめな発言になるのだと思う。
 それに比べて、客の発言を途中で遮る勧誘員の強引さにいつも腹が立って仕方がない。それとも控えめな妻を出して、夫婦愛を語りたかったのか。もしそうなら、成功していないと私は思う。はっきり言って何を言いたいのかまるで分からないCMなのである。
 このCMを見たJAの人達がこれをいいCMだと思ったのだとしたら、私はJAの資質を疑う。いや、そうではない。私が感じたそのままがJAの性格なのだろう。JAは「農協」である。何で「農協」では駄目なのか。やっている事に自信があれば堂々と「農協」で通せば良いではないか。世間の感じが気になるって言うのか。世間の評価はその実体に即して行われる。駄目な団体が良い評価を得られる訳が無い。
 だから名前でごまかそうとする。良い例がJTである。「日本たばこ産業」ではあまりにも駄目な印象が強いので、意味がすぐには分からない略称でごまかしているのである。それに巧妙だよね。たばこのCMは出来ない。だが、医薬品のCMなら堂々と出来る。そこでたばこ以外の産業に手を伸ばしてそのCMを打つ。見る人はたばこのCMとは当然に思わないが、そうやって知らず知らずの内に「日本たばこ産業」の宣伝をしているのである。人々を救う医薬品を作る会社が毒物を作るはずが無い、と人々に思わせる魂胆なのだが、それは着々と成功しているのである。

 JAのCMが私の感じているような物ではないとしても、私には勧誘員の男性の横暴さしか見えては来ない。いやしくも営業で客のお宅にお邪魔しているのである。保険を売る側としては「お客様のために」が合い言葉なのだろうが、それがそのまま客に通じる訳が無い。客に不愉快な思いをさせて、少なくともこの夫は不愉快に思うだろう、それが客商売か。私が夫なら、失礼だなあ、帰ってくれよ、と言う。あんたが何を聞きたいかなんて、俺の知った事かと。

 月の始めなので、楽しい事を書きたいと思った。で、楽しく素晴らしいCMの話になった。でもすぐに嫌な話になってしまう。嫌でも思い出してしまうのだ。人間は嫌な事の方がずっと印象が強いのである。だからこそ、余計にこうしたほのぼのとしたCMが目立つのだ。公共広告機構のこのCMを作った方、これからも楽しみにしていますよ。