日曜日はブログを休むつもりなのだが、どうしても知りたい事があって発信しています。どなたか教えて下さい。
二三日前の新聞の社説に、与野党がこうしたていたらくでは、政治は国民に見放されてしまうだろう、と書いてあった。どうすれば我々は政治を見放す事が出来、またどうなる事が政治を見放した事なのかが分からない。
私自身はとうの昔に政治を見放している。しかし世の中は何の変わりも無い。私は国民のほんの一人であって、「国民」その物ではないからだろう。そうなると「大多数の国民」である必要がある。その大多数の国民はどうやって政治を見放すのか。
新聞を見放す、などなら分かる。誰も新聞を読まなくなる。それだけで十分だ。新聞は売れなくなり、そして潰れる。でも我々の暮らしは変わらない。
となると、誰も政治に関わらなくなれば、政治は潰れる。だが、どうする事が政治に関わらない事なのか。そうか、国政選挙で投票しない事か。議員は居なくなり、組閣も出来ない。で、政治が出来ない。それでも、我々の暮らしは何とかやって行ける。直接には、市町村の政治があり、その上に都道府県の政治がある。これもまた見放す対象になるのか。
そうなると、水道が止まり、ゴミの収集が無くなり、と言った直接我々の暮らしに支障が出てしまう。だから、こうした政治は見放す事が出来ない。それなら、国政だって同じではないのか。
どのように考えても、国民が政治を見放すと言うその具体的な姿が私には見えて来ない。うーん、こんなにも私は馬鹿だったのか。それにしても、天下の大新聞がずいぶんと不親切な事である。新聞がこんなにも難しい物だとはつい最近まで思ってもいなかったのだが。それとも、私の痴呆症の始まりか。あっ、これは差別用語だった。何て言うんだったか。そうそう、認知症と言うんだったっけ。でも、これは「認知出来る症状」の意味に思えてしまうのだが、症状としては「認知出来ない」である。おかしい。それに私のパソコンの日本語変換では「にんちしょう」では「認知しょう」にしかならない。まだ、こなれた、定着した日本語にはなっていないらしい。それともパソコンが遅れているのか。
あーあー、分からない事だらけだ。ホント、どなたか助けて下さい。
二三日前の新聞の社説に、与野党がこうしたていたらくでは、政治は国民に見放されてしまうだろう、と書いてあった。どうすれば我々は政治を見放す事が出来、またどうなる事が政治を見放した事なのかが分からない。
私自身はとうの昔に政治を見放している。しかし世の中は何の変わりも無い。私は国民のほんの一人であって、「国民」その物ではないからだろう。そうなると「大多数の国民」である必要がある。その大多数の国民はどうやって政治を見放すのか。
新聞を見放す、などなら分かる。誰も新聞を読まなくなる。それだけで十分だ。新聞は売れなくなり、そして潰れる。でも我々の暮らしは変わらない。
となると、誰も政治に関わらなくなれば、政治は潰れる。だが、どうする事が政治に関わらない事なのか。そうか、国政選挙で投票しない事か。議員は居なくなり、組閣も出来ない。で、政治が出来ない。それでも、我々の暮らしは何とかやって行ける。直接には、市町村の政治があり、その上に都道府県の政治がある。これもまた見放す対象になるのか。
そうなると、水道が止まり、ゴミの収集が無くなり、と言った直接我々の暮らしに支障が出てしまう。だから、こうした政治は見放す事が出来ない。それなら、国政だって同じではないのか。
どのように考えても、国民が政治を見放すと言うその具体的な姿が私には見えて来ない。うーん、こんなにも私は馬鹿だったのか。それにしても、天下の大新聞がずいぶんと不親切な事である。新聞がこんなにも難しい物だとはつい最近まで思ってもいなかったのだが。それとも、私の痴呆症の始まりか。あっ、これは差別用語だった。何て言うんだったか。そうそう、認知症と言うんだったっけ。でも、これは「認知出来る症状」の意味に思えてしまうのだが、症状としては「認知出来ない」である。おかしい。それに私のパソコンの日本語変換では「にんちしょう」では「認知しょう」にしかならない。まだ、こなれた、定着した日本語にはなっていないらしい。それともパソコンが遅れているのか。
あーあー、分からない事だらけだ。ホント、どなたか助けて下さい。