夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

政治について教えて頂きたい事がある

2009年05月17日 | 政治問題
 日曜日はブログを休むつもりなのだが、どうしても知りたい事があって発信しています。どなたか教えて下さい。
 二三日前の新聞の社説に、与野党がこうしたていたらくでは、政治は国民に見放されてしまうだろう、と書いてあった。どうすれば我々は政治を見放す事が出来、またどうなる事が政治を見放した事なのかが分からない。
 私自身はとうの昔に政治を見放している。しかし世の中は何の変わりも無い。私は国民のほんの一人であって、「国民」その物ではないからだろう。そうなると「大多数の国民」である必要がある。その大多数の国民はどうやって政治を見放すのか。
 新聞を見放す、などなら分かる。誰も新聞を読まなくなる。それだけで十分だ。新聞は売れなくなり、そして潰れる。でも我々の暮らしは変わらない。
 となると、誰も政治に関わらなくなれば、政治は潰れる。だが、どうする事が政治に関わらない事なのか。そうか、国政選挙で投票しない事か。議員は居なくなり、組閣も出来ない。で、政治が出来ない。それでも、我々の暮らしは何とかやって行ける。直接には、市町村の政治があり、その上に都道府県の政治がある。これもまた見放す対象になるのか。
 そうなると、水道が止まり、ゴミの収集が無くなり、と言った直接我々の暮らしに支障が出てしまう。だから、こうした政治は見放す事が出来ない。それなら、国政だって同じではないのか。
 どのように考えても、国民が政治を見放すと言うその具体的な姿が私には見えて来ない。うーん、こんなにも私は馬鹿だったのか。それにしても、天下の大新聞がずいぶんと不親切な事である。新聞がこんなにも難しい物だとはつい最近まで思ってもいなかったのだが。それとも、私の痴呆症の始まりか。あっ、これは差別用語だった。何て言うんだったか。そうそう、認知症と言うんだったっけ。でも、これは「認知出来る症状」の意味に思えてしまうのだが、症状としては「認知出来ない」である。おかしい。それに私のパソコンの日本語変換では「にんちしょう」では「認知しょう」にしかならない。まだ、こなれた、定着した日本語にはなっていないらしい。それともパソコンが遅れているのか。
 あーあー、分からない事だらけだ。ホント、どなたか助けて下さい。

差別用語で重要なのは差別意識を無くす事だ

2009年05月16日 | 言葉
 今日の東京新聞の校閲部のコラムが差別用語を取り上げている。
 きっかけは長門裕之さんが妻の南田洋子さんについて「植物人間化したり」と発言した事にある。「植物人間」は人間の尊厳を傷つけるとして「植物状態化」や「植物状態」と言い換えた会社もあると言う。東京新聞も差別用語は書き換えているが、「本人の言葉となると、どこまで書き換えるか、悩ましいところです」と言っている。
 確かにそうだろう。本人の言葉を勝手に書き換える事になるのである。
 だが、「植物人間」を「植物状態」と言い換えたからと言って、人間の尊厳が保たれた事になるのだろうか。これは同社が使っていると言っている「記者ハンドブック」(私の使っている共同通信社の「記者ハンドブック」と同じと思われる)には次のような事が書かれている。

 「障害を持つ(人・子ども)」という表現も、障害のある人が自分から障害を持った訳ではないので「障害の(が)ある(人・子ども)」と表現する配慮が必要だ。

 へーえ、こんな程度の考え方なんだ、と私は感心してしまった。持っているがこの用字用語集を私はほとんど使っていない。なぜなら、あまりにもとんちんかんな事ばかり書かれているからである。お疑いの向きは同書の「動植物名の書き方」の項をじっくりとお読み下さい。わずか2ページほどの内容だが、非常に含蓄がある。真剣になって取り組んだら多分、一日では埒が明かないだろう。これをきちんと検討しようとして、私は十数ページの原稿を書かなくてはならなかった。
 余談はさておき、上の「持つ」が「自分から障害を持った訳ではないので」との解釈に私は唖然としてしまった。「持つ」を自分の意思と意思でない事に分けているのである。「ある事に関心を持った」と言う場合に、意思が無くても持つ事はある。「持って生まれた性質」なら、当然に「自分から」ではない。ではそうした場合、「持って生まれた障害」は差別用語になる訳だ。それをどのように言い換えろと言うのか。
 あるいは受け身の事故で障害を持ってしまった場合、これまた「自分から」ではない。
 事故が原因の障害を一つ一つ、これは「自分のせい」、これは「自分からではない」と書き分けなければならないのか。

 先のコラムでは、前述のように「植物人間化したり」は「植物状態化したり」になるのだろうが、それで人間の尊厳を保った事になるであろうか。直した結果だって、「人間が植物状態化した」と言っているのであって、何も変わりはしない。前者が尊厳を損なうのであれば、後者だって十分尊厳を損なっている。
 「障害」と言う言葉自体がそもそもは差別語である。ちょっとした肉体の不自由な状態でも「障害」と呼ぶ。「びっこ」は「足に障害のある人」と言い換えになっている。障害でなければ健全だ、と言うのだろう。誰だって少しずつ肉体に何らかの障害を持っているはずだ。全身健全な人間なんてそんなには居やしないだろう。障害も健全も紙一重ではないのか。それを「障害だから差別だ」と言う事が、そもそもは差別になるのである。あの人は障害があると認める事が差別意識なのである。障害と言ったって、たかだか他人より少しばかり行動が不自由なだけではないか。
 もっとはっきり言えば、人間はみんな何らかの脳の障害を持っているのではないのか。
 無料パスを使って堂々と不倫旅行をした官房副長官など、絶対に脳に障害があるはずだ。
 差別だ差別だと言い張る人間がまずは障害を持っているのである。

 ハンドブックでは「農婦」を「農家の女性・農村の女性」と言い換えよ、と指示している。農家の女性や農村の女性がみんな農婦な訳ないだろう。「農婦」のどこがいけないのか。「農婦=農業婦人」である。このどこに差別があると言うのか。いいですよ、「農婦」を「農家の女性」と言い換えましょう。でも、じきに「農家」は差別用語だと言われるようになるから。差別用語がそうした物なのである。何よりもこうした言葉に差別を感じる心が差別を生むのである。
 差別差別と言っている人は、絶対に他人を差別の目で見ている。そうでなけれは、差別語だ、などと思うはずが無いのである。差別意識を無くさない限り、新しい差別語が生まれる。まあ、一生涯、差別語と追いかけっこをしていればいいでしょうよ。
 もちろん、明らかに差別語と思える言葉はある。だがそれ以外の普通の言葉が差別語だと言われ過ぎている。パソコンのキーボードを見ないでの入力を以前は「ブラインドタッチ」と言った。「ブラインド」は駄目で、「タッチメソッド」なるおかしな分かりにくい言い方に変わった。では窓のシェードであるブラインドはどうなったのか。

値下げは消費者を騙しているか

2009年05月15日 | 経済問題
 14日の東京新聞に素晴らしい事が書かれている。第一面の「独白 企業腐食編」と題する記事である。その大見出しは「値下げ合戦なんて消費者をだましてる」である。大手スーパーの値下げは、売れずに在庫になっている衣料品を安くしているケースが目に付く、と言う。単なる在庫一掃セールだと言う。
 言われてみればそうである。この記事を書いているのは総合スーパーの衣料品担当の店員である。経験を伴った意見だから、納得が行く。
 彼は次のように言う。
 「でもね、適正な価格で適正な商品を売るのが一番いいはずなんです。みんなが値下げして、ユニクロ化したら似たようなシャツばかりになる。それでいいんですか」

 適正な価格と言うのが非常に難しい。この事については私も前に発言している。価格は安いばかりが能ではないと。安さばかりを求めるから、農薬たっぷりだったりする商品を作らせ、売らせる商売を成り立たせてしまうのである。
 物にはそれ相応の価格が存在するはずである。それをもっともっと安く、などと考えるから、あってはならない事を許してしまう事にもなる。
 では何が適正価格なのか。
 これはとても難しい問題だと思う。作っている人間にしかそれは分からない。例えば農作物。畑の土地代は既に在る物としても、土を改良したりするための資材や肥料が要る。種子や苗の代金。病虫害を防ぐための薬品(これには自然の植物や昆虫なども含む)も要る。そして労働力の代金。
 こうした物から適正な価格が生まれるはずである。買う側にしても、自分の労働力が適正に評価されて初めて生活が成り立っている。物を作る側の労働力を適正に評価しなければ、自分の立場まで揺るがす事になる。

 それを非常に手前勝手に、自分の労働力は適正に評価せよ、買う物は出来るだけ安く買いたい、と言うのである。これが通らないのは明らかである。そうした消費者の要求に応えるには、それこそ、騙しの値下げだってしなければならなくなる。
 自分の事を認めてもらいたいなら、相手をもまた認める必要がある。それなのに、相手は認めず、自分だけ認めて欲しいなどと虫の良い事を考えている。そうした事はすべて欲から生まれていると思う。
 今日15日の同じ欄では、「ハゲタカがいるからこそ、新陳代謝が進む」の見出しで、競争を賞賛している。外資やファンドの競争主義を、日本ではハゲタカと称して毛嫌いしているが、死肉をついばむから、新陳代謝が進むのだ、と説明する。その外資を嫌って、外資が中国やインドに向かうなら、日本の将来が見限られている事の証だと言う。資本主義は欲望をエンジンにして動き、競争で良くなって行くのだ、と結論づけている。

 うーん、例えは正しい。ハゲタカが死肉をついばむのが新陳代謝を進めるのは確かである。だが、日本人がハゲタカと言って嫌うのは、そうした自然の摂理に対してではない。生きている動物を狙って食べるよりもずっと平和的である。そうではなく、我々の考えているハゲタカのイメージは、「死肉」であり、その獰猛さなのだと思う。それが嫌なのだ。決して新陳代謝を促進する事を嫌っているのではない。この論理は肝心の所でわざと的を外しているように思う。それが「資本主義は欲望をエンジンにして競争で良くなる」との結論に結び付いている。いや、この結論に結び付けたいがためにハゲタカの例を出しているのだろう。
 私は全く反対の事を考えている。資本主義は欲望をエンジンにして競争したからこそ、堕落したのだと。その欲望とは、先にも述べたように、自分だけは得したい、他人はどうでも良い、との考え方である。
 余談だが、この欄の今日の担当は国際系弁護士と称する人である。顧客は外資系の企業やファンドである。だから彼等の肩を持つのだろう。そして黒子である自分達の存在価値は名声と報酬だと言う。それを値切られたらモチベーションが下がると言う。なるほど、国際系と称するだけあって、モチベーションで動いている訳だ。決して「意欲」や「誘因」「刺激」などでは動かない訳だ。多分、常に英語で考え、行動しているのだろう。だから日本の事は分からないんだよね。

地方ネタだが、鉄道の路線名について

2009年05月14日 | 言葉
 ローカル番組だが、テレビ朝日で朝、「ちい散歩」と言う番組がある。俳優のちいさんが、あちこちを散歩する。そして最後に今日の一枚と称してスケッチを紹介する。そのスケッチも魅力だが、知られていない地元の紹介がまた魅力になっている。ちいさんの人柄も好評の理由の一つらしい。破産した保険会社のCMをやっているのは、十分に人柄を疑わせると私は思っているが。
 今日14日は東京の高円寺界隈の散歩。これは中央線の駅である。だが、番組は「新宿から総武線で」と紹介したのである。馬鹿言うんじゃない。昔も今も新宿から西は中央線と決まっている。正確にはもっと東のお茶の水以西が中央線である。
 なぜこんな馬鹿げた間違いをしているかは明らかである。同線には中央・総武直通の電車が走っているからである。千葉から東京の八王子までを直通で走る。シンボルカラーは黄色。誰が見たって、一つの電車、一つの路線に思える。それでは、東京の錦糸町駅、これは総武線だが、それを「中央線の錦糸町駅」と言う人間が居るかと言えば、絶対に居ないのである。有名な秋葉原駅は総武線と山手線・京浜東北線の交差する駅なのである。絶対に中央線の秋葉原駅ではないのである。
 それに中央・総武線と並走している路線の西側の部分は明確に中央線快速であり、東側の部分はこれまた明らかに総武線快速なのである。いったい、どうしたらこんなとんでもない間違いが出来るのか不思議になる。

 東京の旅番組はほかにもある。そこでも中央線の駅を総武線だと言っている事がよくある。とても不思議なのだが、総武線の駅を中央線だ、と言う事は絶対と言えるほど無いのに、中央線の駅を総武線の駅だと言うのは頻繁にあるのだ。
 単に物事を分かっていない人間が番組を作っていると言うだけの話なのだが、作っている人間だけではない。そうしたコメントを読む人間も居るし、字幕を作る人間も居る。関わっている番組関係者は数多いのに、誰も注意をしない。番組がいかにいい加減に作られているかの証拠と言ったら言い過ぎだろうか。
 東京に何十年も住んでいる人間にとって、新宿駅が中央線の駅ではあっても、絶対に総武線の駅だなどと思うなどとは言語道断なのである。これは本当に常識なのである。
 前回、長野県の松本駅は中央線ではなく、篠ノ井線だ、と書いた。それを正確に直すのが校正の仕事の一つであると書いた。鉄道の路線名とは乗客の便利なように出来ているのではない。鉄道会社の都合で出来ている。だから、関西では名古屋から三重県の賢島まで直通の電車、あるいは大阪・難波から賢島まで直通の電車は、それぞれ幾つもの異なる路線を走っている。共通の部分と独自の部分がある路線を同じ名前で呼ぶ事は出来ないし、また別の名前で呼ぶ事も出来ないのは火を見るよりも明らかである。
 関東では、東京・浅草と栃木県・日光を結ぶロマンスカーは有名だが、これは「日光線」ではない。浅草からは「伊勢崎線」で、途中から「日光線」になる。鉄道会社の都合とは言っても、こうした事を正確にきちんとしていないと、混乱してどうにもならなくなる。このような間違いをするのは、乗客としての立場しか考えていない証拠である。つまりは自分勝手な人間である。公平な目配りの出来ない人間は校正には向いていないのはもちろんだが、こうした番組を作るのもふさわしくないと、私は勝手に考えている。

 ただ、こうした事を言うと、それじゃあ「山手線」はどうなんだ、と食って掛かる人が居るかも知れない。これは正確には「東北本線・東海道本線・山手線」から成る路線であって、正真正銘の「山手線」は全体の路線のおよそ半分にしか過ぎない。それなのに「山手線」と呼ぶのは、「山手線」はこうした形でしか運行していないからである。その運行形態を表すには「山手線」の呼び方しか無いのである。
 そうした事をいっしょくたにする事は出来ない。
 先に乗客の都合で、と言った。考えてみると、中央線を総武線と呼んで恥じない人は、多分、いつも総武線に乗っていて、中央線には乗っていない人ではないのか。乗る駅も最終的に降りる駅も総武線の駅なので、中央線の事はついぞ考えなかったに違いない。
 地方ネタとは言ったが、事柄の本質は決して地方ネタとは言えない。それこそあらゆる事柄に共通しているのである。

「未曾有」で麻生さんからかうの、もうやめようよ

2009年05月13日 | 言葉
 麻生首相が「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだお陰で「みぞう」と読めなくなった人はいない、と11日の東京新聞の「こちら編集室」が書いている。そこでは「有」を「う」と読むのは仏教語に由来する事を知っている人は少ない、と説明する。「奇跡・不思議」を意味する梵語を中国語に翻訳したのが「未曾有」で、仏の功徳の高さや神秘な事を賛嘆した言葉だと言う。ただ、現在では「今まで一度も起こった事がない事」を意味する。
 日本に伝わった仏教用語は呉音で読む。だから「ぎょう・こう」と読むのが一般的な「行」は「行脚」では「あん」と読む。で、「有」も一般的には「ゆう」だが、呉音では「う」になる。従って「有情」は「うじょう」であり、「有頂天」は「うちょうてん」である。
 こうした事はまさしく正しい。だが、ちょっと待って欲しい。「みぞう」の「う」と「有頂天」の「う」は少し違いはしないだろうか。「みぞう」は発音的には「みぞー」である。「みぞう」なのではない。「う」なんてどこにも無いではないか。と私は思う。
 私は、ずっと「未曾有」を「みぞうう」と読んでいた。発音を示せば「みぞーう」となる。そう読まなければ「う」が無いではないか。「みぞう」と明確に発音する人を私は知らない。みんな「みぞー」と発音している。「お堂」を「おどう」とは発音せずに「おどー」と言うのと全く同じである。
 元来、日本語の「う」の発音は非常に弱いのである。言葉の頭にあるから「う」と発音するが、中間や語末になれば有るのか無いのかはっきりしないくらいに弱くなる。それが自然なのである。それは「く」や「ふ」になっても同じ事。東京人にとっては、「く」や「ふ」を必要以上に強く発音するととても耳障りに聞こえる。それほど「く」や「ふ」も含めて「う」の発音は弱いのである。

 「有」は呉音だから「う」だ、と言うのは正しいが、「未曾有」でそれを言っても、はっきりと「う」と発音していないのだから、あまり意味が無いと私は思う。あまりにも「う」だ、「う」だ、と言うと、私のように「みぞーう」と読まなくてはならなくなってしまうではないか。「う」を意識して強く発音しようと思えば、「ぞ」を少し長く伸ばして「みぞー」とするのが自然なのではないか。
 自分が間違ったから言うのではないが、「未曾有」を「みぞうゆう」と覚えてしまったのは、そんなにひどい事ではないと思う。平気で「みぞー」と発音している「みぞう」が本当はおかしいのである。「航空機」を「こうくうき」と発音している人なんか居やしない。アナウンサーだって「こーくーき」と発音している。
 まあ、そうした「う」と「みぞう」の「う」は違うと言えば違うのだが、そんなに鬼の首を取ったように言う事ではないだろう。

 この記事では、宗教専門誌が「仏教者が努力しても浸透しない仏教語をたちまちに知らしめるとは、ちょっぴり悔しい」と、ユーモアたっぷりに皮肉っている事を紹介しているが、麻生さんは仏教語を知らしめたのではない。「未曾有」を初めて知った人も、認識を新たにした人も、みんなこれを仏教語として認識などしていない。何しろ、仏教語では「未曾有」は仏の功徳の高さや神秘な事を賛嘆する意味なのである。我々は「いまだかつて無かった」の意味にしか捉えていないのである。それは決して仏教語とは言えない。単に仏教語を起源とする一般用語である。この宗教家は何を勘違いしているのだろうか。そしてそれを「仏教界の気持を代弁している」などと評価する編集委員の能天気さ。

 思わず快哉を叫んでしまった?

 と、言うのは、この記事に不満を抱いたお陰で、辞書をよく調べる事になった。すると『新明解国語辞典』には「未曾有」の次のような説明があったのである。

 ミゾウ・ウの省略形。ゾウは、「曾」の呉音。最近は歴史を忘れ、ミ・ゾ・ウという文字読みをする向きが多い。

 これなら私が「みぞうう」と読んでいたのは由緒正しい読み方だった事になる。私が何を根拠に「みぞうう」と読んでいたのかは、残念ながら今となっては分からないのだが。そして念のために『大辞泉』を引いた。そこにもまた、意味として「希有。みぞうう」とあったのである。
 私が「みぞう」と読むのだ、と気が付いたのはもう何年も前の事だが、それ以来ずっと、変な発音の言葉だなあと思いながらも、自分の無知を恥じて来た。今考えれば、馬鹿な事をしたもんだ、と思う。仏教語として「有」は「う」だと言うのなら、本当に「みぞうう」の方がずっとずっと自然で、しかも明確な言葉なのである。

DNAの再鑑定は喜ばしいが、過去の反省を忘れてはならない

2009年05月12日 | 社会問題
 DNAの精度が格段に上がり、足利事件で無期懲役が確定した受刑者の再審が始まる可能性が強まったそうだ。素晴らしい事だ。無実を訴える受刑者に対して、それ以上何も出来ないなんて悲し過ぎる話である。それに対して、過去の鑑定の信用性が揺らいでいる。
 今までの精度は1万人の内、12人も一致してしまうような技術だったが、今は4兆7千億人からたった一人を識別する事が出来るのだと言う。それはいいが、それなら、過去には1000人に一人の割合で同じDNAの持ち主が居た訳だ。で、たまたま犯人と同じDNAの持ち主が犯人とされた確率は確かに低いと言えば低いが、あり得る事になる。
 そんな可能性で無実の人間が死刑にされたおそれは多分にある。そう思って新聞(東京新聞)のその記事を読んでいたら、ごく普通にさりげなく次のような事が書かれていた。

 92年に起きた福岡県飯塚市の二女児殺害事件で無実を訴えていた久間三千年元死刑囚は、この「黎明期」のDNA鑑定を有力証拠として死刑が確定。再審請求の準備をしていたが、昨年10月に死刑が執行されている。

 本当に、実に当たり前の顔をして書かれている。だが、その内容はとんでもなく重い。DNAの精度に対して疑いが持たれ始めたのはついきのうの事だろうか。そんなはずは無い。もっと以前から信頼性が疑われていたのではないのか。
 そうなると、去年の10月にはどうだったのか。
 死刑が確定した場合、法務大臣は6ヶ月以内に死刑執行の判を押す義務がある。だが、再審を請求している死刑囚なら、無実だと訴え続けている死刑囚なら、万一の事を思って判を押さないのが普通の人間ではないだろうか。過去、そうやって執行が延ばされて来た例は幾らでもある。法務大臣ともなれば、現在の司法制度がどの程度の絶対性があるかはご存じのはずである。そしてこの死刑囚に関しても、詳細を心得ているはずである。まさか、知らなかったとは言わせない。いやしくも法務大臣である。
 私は幾つもの納得の行かない判決を見ている。法律には詳しくなくても、普通の人間の感覚で考えて、何でそんな事が許されてしまうのか、と大きな疑問になる判決がある。私は20年以上、判決文の複製を校正する仕事をして来た。内容の如何を問わず、判決文を一体何千と読んで来た事か。特許に関わる訳の分からない難しい裁判もある。だが、普通に分かる判決は非常に多い。そうした中で幾つもの疑問に思う判決があった。たいていは罪の軽さに対する疑問だったが、それはこうしたDNA鑑定のような科学的証拠の無い事件での事であって、科学的な証拠だと言われれば、納得するしか無い。「科学的」の言葉で騙されていた訳だ。

 昨年、鳩山法務大臣が相次いで死刑執行の判を押した事で、朝日新聞が「死に神」と評して世間から指弾された。私もとんでもない言いがかりだと思うが、もしかしたら冤罪の事を考えての事だったのか。こうした死刑執行の中に、無実を訴え、再審を訴えていた人の居なかった事を祈るのみである。
 もしもDNA鑑定の精度がそれほど高くはない事を知っていてその結果を信用したのなら、鑑定した人間とそれで罪を決定した人間に大きな責任がある。全幅の信頼は置けないが、無実だとの証拠も無いからと死刑を宣告されたのではたまったものではない。過去のDNA鑑定に全く落ち度が無かったのか、つまりそれが正しいと信ずべきだったと証明出来るのかどうかをきちんと総括すべきである。
 たとえDNA鑑定は絶対だと判定者達が思っていても、その絶対性にも拘らず、無罪だと主張するにはそれだけの訳があるはずだ。そうした場合には当然にその鑑定の精度に疑問が湧くはずなのである。過去の事件の検証はもちろん必要だが、過去の鑑定の検証も必要だ。でも、そんな事、関わった科学者は自分の責任になるから、しないだろうねえ。と言う事は、関わらなかった科学者なら出来る訳だ。死人に口無しではあまりにもむごい。

 先に私は東京新聞がいともさりげなく、再審を望んでいる死刑囚が死刑を執行されたと書いていると驚いたが、その東京新聞の11日の社説は、足利事件の鑑定について次のように書いている。
 
 検察側鑑定人は「当時、刑事司法に適用する科学技術としては標準化が達成されていなかった」と述べ、精度の低さを指摘した。弁護団は「同じDNA型の男性は足利市周辺で七百人」という。刑事事件の証拠で採用するには次期尚早だったのではないか。

 こうした見解と先日の同紙の再審を望む死刑囚が死刑を執行されたと簡単に言っている記事の見解との間に、私は大きな断絶を感じる。
 4月22日のブログで、私は和歌山カレー事件の最高裁判決に対する報道機関の報道の仕方に文句を付けた。定期購紙が東京新聞なので、その報道の仕方の例を挙げて批判した。5月11日の同紙の「週刊誌を読む」では、報道の仕方について『週刊現代』で魚住明氏が採点している事を書いている。東京新聞は毎日、読売と共に70点だそうだ。朝日が45点、産経が40点、日経に至っては何と20点である。
 私はきちんと検討した訳ではないが、あの東京新聞の記事でせいぜい50点だと思った。そうなると、私が日経を読んだら、0点にもならず、怒り心頭に達してしまうのだろう。報道が何かとても浅い、単なる感想文のように感じられて仕方が無い。

テレビ番組の作り方がいい加減だ

2009年05月11日 | 文化
 家を劇的にリフォームして見せる番組がある。確かに「匠」と言えるほどそれは素晴らしい。どうしたらこんな発想が出来るのかと驚くくらいである。ただ、中には私だって出来るような物もある。例えば机やテーブルの中にサイドテーブルを仕込む事など。私はそれを実際に机でやっている。ただし、大掛かりな木工の工作は出来ないし、すべて既存の物を利用しての事だから、スケールは小さいし、完成度は低い。でも、机の甲板と下に納まっている引き出しとの空間を利用して、その間に縦長の厚さ8ミリほどのガラス板を入れ、それを引き出せば、簡単に30センチ×30センチほどのサブデスクが出来上がる。もちろん、ガラス板ではなく、木製の板でも構わない。私は余っているガラス板を持っていたからそれを利用しているだけの事。適当に重さがあるから、安定性が良い。
 使っている机はテーブルの利用だから、余っているもっと小さな普通の机の甲板を差し込めば、更に大きなサブデスクが誕生するが、仕掛けが複雑になるのでやめている。
 そうした工夫を徹底的にしかもあか抜けてやっている所が素晴らしい。
 そしてその結果に驚く家族の姿がまた面白い。しかしあまりにもやらせが過ぎる。明らかにおかしいと思う事を感心して見ている事は難しい。全面リフォームだから、家族も家具もすべて引っ越しをしている。だが、リフォームが完成して家族が初めて入ったはずの家には既に家具がきちんと配置されて、道具類は棚にきちんと収納されているのである。それって、きのうまで家族全員が使っていたはずの物である。それを簡単に荷造りして送り出すのはいいが、何をどこに置くのかは家族の考え次第である。あるいは家族の習慣に従う必要がある。それを一体誰がやったのか。家族が指図書を書いて、全く別の人間が配置した事は考えられる。でも、指図するには、どのようなリフォームが出来ているのかを知っている必要があるはずだ。家に入って初めて見て、びっくり、と言うような事とはどうしても思えないのだが。
 もしかしたら、番組で紹介する部分のみ、家族の指図通りに他人が物を置いたのかも知れない。それなら初めて入って、びっくり、感激、の図は出来る。しかしそれとても、やらせである。特にある程度は想定した上での事だから、驚くのが大袈裟過ぎる。
 これはドラマではない。現実にリフォーム希望者を番組は募っている。ドキュメンタリーとして、作り過ぎているのでは、と思う。あまりにも効果を狙い過ぎると、番組の底が浅くなる。リフォーム前のもの凄い使いにくさまでもがやらせだったのでは、と疑いたくもなる。

 この番組を1時間見て、9時からはNHKの「N響アワー」を見た。大作曲家の自筆の楽譜がテーマなので、面白いだろうと思った。出て来た楽譜はモーツァルトとベートーヴェン、ブラームスの三人。ベートーヴェンのは1ページ全部が破棄されている。完璧で書き直しが無いので知られているモーツァルトは、でもたった1小節だけだが、破棄されている。そうした破棄されている部分を使った曲が、完成した曲とどのように違うのかを聞かせてくれるのだろう、と私は思ったのだ。
 ところが、司会者はその破棄された1小節を簡単にくちずさんで説明しただけで終わりにした。その代わりにそれに関わる1楽章が演奏されている。もちろん、その演奏はきちんとした演奏会での演奏の一部である。それは単にある名曲の完全ではあるがわずかに1部分の楽章の演奏に過ぎない。モーツァルトのジュピターとベートーヴェンの第九、ブラームスの第四番の交響曲だからつまらない訳が無い。オーケストラと指揮者は超一流だから聞き入ってしまう。
 しかしながら、4楽章から成る曲の一つの楽章だけを聞いたって充実感は無い。歴史的名演じゃないんだから。しかも「名曲の自筆の楽譜」との関連は全く無い。一体、この番組の目的は何だったのか。
 新聞の番組欄にはこうある。
 「手書き原稿〈自筆譜〉が語る作曲家の素顔▽自筆譜から苦悩や迷いを読む」
 もちろん、私はこれを見て、番組を見ようと思ったのである。これで作曲家のどのような顔が分かったのだろうか。どんな苦悩や迷いが読めたのか。天才モーツァルトとて無謬ではない事なのか、ベートーヴェンは1ページのオーケストレーションをまるまるやった上で試行錯誤をするような作曲家だったと言うのか。ブラームスは確かページの余白に2小節付け足したのだったが。
 でも、そうした事なら、何もこのようなN響アワーでなくても出来るし、もっと完全に出来るはずだ。上の番組案内がよしんばNHKが作ったのではないとしても、番組の内容のピントが外れている事には変わりない。結局、私は1時間、無駄にしただけで終わった。

新型インフルエンザの「正しい怖がり方」とは

2009年05月10日 | 社会問題
 日曜日はブログを休む事にしているのだが、きのう書いた事で気が付いた事があるので発信している。機内での検疫は信頼出来るのか、との疑問についてである。今日の東京新聞には、どうもこの新型ウイルスはそれほど怖くはないらしいと書かれている。だから機内検疫は今やっている程度で十分らしい。で、その事は分かった。しかしまたまた分からない事が発生してしまった。
 「こちら特報部」と言う特集には「厚労相こそ冷静対処を」の大きな見出しが踊っている。そして次のように説明する。
 「新型ウイルスの現状はどうかといえば、慢性疾患や、体がウイルスに過剰に反応したために重症化したとみられる事例もあるものの、わざわざ「新型」と銘打つ割には病原性は低いことが各国の状況から分かっている。抗ウイルス薬を服用しなくても、自宅で療養して回復した例も多い。
 病原性については世界保健機関や米疾病対策センターの責任者から「通常の季節性インフルエンザと同じかそれ以下」というコメントも出されている」
 更には、政府の対策の遅れを指摘してきたと言う元小樽市保健所長の外岡立人氏の、舛添氏の早朝の記者会見への批判を載せている。
 「厚労相がまず発するべき内容は『ひとまず心配する必要なし。秋冬のインフル流行シーズンにも国はしっかり備えていく』のメッセージ。会見は逆のメッセージを伝えている」

 なんだなんだ、そんなに大騒ぎするような事ではないじゃないか。
 でも、そんな事を書いている当の東京新聞だって、大騒ぎしてたじゃないか。
・4月25日朝刊・26面 豚インフル 人から人感染 米国で7人、当局が断定 メキシコでは60人死亡か
・4月26日朝刊・1面 豚インフル WHO局長「事態深刻」 警戒水準引き上げも
・4月27日朝刊・1面 豚インフル拡大懸念 NZ、欧州でも感染疑い メキシコ死者81人に
・同夕刊・1面 豚インフル メキシコ便機内検疫へ 政府ワクチン製造急ぐ カナダも6人感染 メキシコの死者103人に
・4月28日朝刊・1面 WHO警戒水準上げ協議
・同夕刊・1面 新型インフル認定 WHO警戒水準初の「4」 感染5国、疑い10国
・4月29日朝刊・1面 新型インフル感染 オセアニア、中東に拡大 韓国女性も疑い濃厚
・4月30日朝刊・1面 新型インフル 米国内で初の死者 メキシコの1歳児 「警戒水準5に近い」WHOきょうにも緊急委
・同夕刊・1面 新型インフル 警戒5に引き上げ WHO「大流行差し迫る」
・5月1日朝刊・1面 国内初の感染疑い 新型インフル 横浜の男子高校生 25日、カナダから帰国 感染拡大抑止が焦点
・同夕刊・1面 新型インフル 疑い例 接触状況を調査 男子高校生、快方へ

 4月26日からはずっと1面のトップ記事だ。そしてこの5月1日の夕刊に初めて「慌てずに冷静行動を」との見出しの社会部の記者の解説が載った。
 「多くの専門家は、今回の新型は、大流行して多数の人命を奪う可能性は低いとみている。ウイルスが弱毒性とみられ、従来のインフルエンザと症状があまり変わらない。日本はこれから夏に入り、インフルエンザウイルスが不活発な時期になる。治療薬のタミフルやリレンザが有効―などが理由だ」
 そうは言いながら、5月9日、きのうの夕刊には1面のトップで白抜きの目立つ大見出しで「国内初の感染確認」が踊っている。サブ見出しは「成田帰国の3人 先月末カナダへ」

 冷静に、と言いながら、その当の本人が少しも冷静ではない。そして今日の1面は「別の生徒1人も濃厚」である。まあ、冷静だと言えば、そうだとも言えるだろう。しかし同じ紙面には「国内感染100万人想定も」ともある。そして同時に「正しく怖がって」の見出しもある。更には再び「実際には、季節性インフルエンザとさほど変わらない」との話を載せている。前出の外岡氏の「危険性を強調するべきではない」との見解をここでも紹介しながら、同氏の次のような意見と同紙の説明を載せている。
 「病原性の高い鳥インフルエンザに感染している豚や人の体内に、今回の新しいウイルスが入ってくると、こんどは強くて感染しやすいウイルスが誕生するおそれがある」
 今後、最も警戒すべきなのはこうしたウイルスの変異だ。変異で毒性が強くなることがあり、数十万人の死者を出した1918年―19年のスペイン風邪はその例。

 この「病原性の高い……人の体内に」の正確な意味が分からないのだが、ウイルスの変異の危険性があるらしい。何がどうなってこうした毒性の強いウイルスが生まれるのかは分からないのだから、安易に「安心だ」とは言えない。「正しく怖がって」と言うのだが、一体どのように怖がったらいいのか、私にはさっぱり分からない。多分、毒性の強いウイルスが生まれる危険性はほとんどゼロに近いと言うのだろう。しかし昔とは言え、スペイン風邪の例がある。専門家も新聞もおそらくは正確な事が分かっていないんじゃないか、と私は大いに疑っている


日本に新型ウイルス患者発生

2009年05月09日 | 社会問題
 カナダから帰国した3人が新型インフルエンザの患者だった。朝のそのニュースをテレビで見て、疑問に思う事がある。
 患者の一人は機内検疫では引っ掛からず、外に出てから具合が悪いと訴えたと言う。それで、その周囲に居た乗客が問題になっている。それは乗客名簿によってその後の様子の連絡を取ると言うのだが、私が疑問に思ったのは、それなら、機内検疫は何のためにやっているのか、である。そこでは何の異常も無かった人が、外に出てから異常を訴える。それなら今までの乗客すべてにそうした情況になる危険性があったのではないのか。
 しかし番組の中では誰もそのような事を言う人は居ない。これってとても大事な事だと思うのだが。
 考えてみると、機内検疫でははっきりと症状の現れている人だけが対象になる。そしてその周囲に居た乗客も白黒がはっきり付くまで滞留させられる。それしか取れる方法は無いのだろうが、症状が無く、すぐに家に帰れた人々は何の問題もなく出歩いている訳だ。その中にもしも症状の現れた人が出たら、どうなるのか。検疫は無事に通過しているから、乗客名簿の管理だってどうなっている事やら。それに中には架空の住所や名前を記入する者も居ると聞く。
 本当に防御体制って信頼出来るのだろうか。

 話は変わるが、テレビのこうした番組に専門家が出演して話をする事がよくある。だが、その専門家の話し方が非常に分かりづらい。早口だったり、発音が不明確だったり、難しい言葉を使ったり。大体が、話す事が得意の人ばかりではない。
 本人はすっかり分かっているからそれでいいのだろうが、大体が非常に難しい話なのだ。だから専門家を呼んでいるはずである。そして番組のスタッフはみなさん事前に勉強なさっているのだろう、やはりすらすらと分かっているらしい。まさか分かった振りをしているのではなかろう。
 もしかしたら、肉声とテレビのスピーカーでの音声との違いもあるのかも知れない。機械を通しているから余計に分かりづらくなるのかも知れない。でもそれなら、番組内ではことさらに分かり易く話す必要がある。
 今日のように突発的な場合には事前に勉強している暇が無いから、専門家に出演してもらってその場をしのぐのかも知れないが、専門家とてそんなに簡単に出て来る訳には行かないはずだ。それなら、番組のスタッフがそれなりに勉強して、きちんと対応する事は出来るはずだ。今日の話では、パニックになる事無く、冷静に、そして少しでも異常を感じたら速やかに保健所なり関連の施設に連絡を取って欲しい、と言う事が分かれば良いのである。それなら何も専門家に頼らずに、スタッフだけでも出来る。
 多分、労力を省きたいのと、専門家の権威を借りたいのと、両方の思いがあるのではないか、と私は疑っている。

 話を分かり易く、と言う事に関係者が少しも関心を抱いていない事は既に証明済みだ。ある朝の番組で男性司会者の話の半分が私には分からない。なぜなら、話の途中の言葉や語尾を飲み込んでしまって話すからだ。所々の単語は分かるが、その繋がりがまるで分からない。横に居るサブの女性アナウンサーの話はとてもよく分かるのだから、話し方の欠陥としか言いようが無い。女性の声と男性の声の違いでもない。ほかの男性の話はとてもよく分かるのだから。
 つまり、分かろうが分かるまいが、番組関係者は何の関心も持っていないとしか考えられない。番組が流せればそれで良し、なのだろう。
 だから私はその番組は見ない。話の分かり易い人々が話しているのは、エンターテイメントばかりだから、最後のわずか1分足らずの「今日のわんこ」だけを見る。日替わりで面白い犬が登場する。
 結局、嫌みになるだろうが、何もしゃべらない犬に負けているのである。

古代の日本語と朝鮮語の関係について

2009年05月08日 | 文化
 きのう、校正は難しい、と書いた。その例に挙げた事柄について、流蛍さんから御質問があった。以下では御質問と私の答の判別が付け易いように、御質問は原文通りの「ですます調」で、答は「である調」にしてある。

韓国語「ドギ」が日本語の「つき」の起源だと言う説ですが…。「それなら、それまでの日本人は一体「月」の事を何と呼んでいたのか」という夏木さんの問いは、こう考えられませんか? 
それまでは、日本語はなかったのでは? と。
私は八切止夫の日本史を評価している立場なので、日本に統一国家ができるまでは、南方系の人種、北方系の人種、中国系の人種などが各地の開けた平野にそれぞれ王朝をつくっていたと思うのです。それぞれの民族で「月」の呼び方は違っていたでしょう。
それは白村江の戦争後、日本が支那進駐軍の藤原氏に支配され、韓国系の天皇を傀儡的に押し立てて平安王朝をたてたとなれば、そこで藤原氏の支配地域(だんだん北に広がった)では、中国式か韓国式の言葉が強制されていったとも考えられませんか? 
しかしすべての言葉が朝鮮語から変化してきたと言えるかどうかは疑問ですけれど。日本原住民の主力たる南方系の平家一族の言葉はかなり主流だったとも考えられるでしょう。

 この「それまで日本語はなかった」との考え方はある意味で正しいと思う。だから私は朝鮮半島にも居た倭人(日本人)と書いた。誰もはっきり言わないのだが、古代朝鮮半島に居た倭人、隣国の新羅に時々食糧難で流れ込んで来た倭人は明確に同じ半島に住んでいた人々であり、多少の方言の違いはあったとしても、同じ朝鮮語のはずである。だから新羅語があり、百済語があり、高句麗語があり、倭人語がある。新羅語や百済語、高句麗語に言及しながら倭人語については無関心と言うのがそもそもはおかしい。その倭人語が日本列島だけにしか倭人が住まなくなって、半島との直接的な関係が途絶えて発達したのが日本語ではないか、と考えている。そこには先住民族であるアイヌ民族の言語の影響も多分にあった。日本列島では南方から漂着して来た人種も居る。そうした混合情況から生まれたのが日本語であると。だから、朝鮮語と同じ起源であると考えられている言葉も少なからず存在しているのに、朝鮮語とは構造はほとんど同じでも、全く異なる言語になっている。日本の京都方言と琉球方言がまるで違う言語のように思えるのと全く同じである。
 で、倭人語では朝鮮語の強い濁音は清音になる。朝鮮人は日本語の柔らかな濁音は発音出来ない、清音との区別が付かないと言う。倭人語では、朝鮮語の強い濁音の「ドゥギ」は柔らかな濁音の「どぅぎ」になり、倭人は濁音が頭に立つ事を嫌ったから「とぅき」になった。前回、日本語では「とぅき」、と書いたのはそうした事である。
 従って、件の著者が言う漢字を書き換えて、それを読み替えた、は完全に違う事になる。それが間違いであるのは時代がまるで違うのだから、誰にでも分かる。
 で、流蛍さんの言う「日本語はなかった」はそうした意味では正しい。でも、その当時既に日本人は「月」を「とぅき」と呼んでいたのである。私は八切止夫氏の日本史は読んでいないが、韓国式の言葉が強制されたのなら、もっともっと日本語に朝鮮語の影が色濃く残っているはずである。誇り高きシナ民族と朝鮮民族が簡単に日本の現地語に同化する道理が無い。何よりも、当時のシナや朝鮮は日本より遥かに先進国だったのだ。
 流蛍さんは「白村江の戦争後、日本が支那進駐軍の藤原氏に支配され、韓国系の天皇を傀儡的に押し立てて平安王朝をたてたとなれば、そこで藤原氏の支配地域(だんだん北に広がった)では、中国式か韓国式の言葉が強制されていったとも考えられませんか?  しかしすべての言葉が朝鮮語から変化してきたと言えるかどうかは疑問ですけれど。日本原住民の主力たる南方系の平家一族の言葉はかなり主流だったとも考えられるでしょう。」とおっしゃるのだが、シナによる韓国系の平安王朝と、日本原住民の主力たる南方系の平家一族との関係が私には皆目理解が出来ない。
 それに日本は白村江の戦いで負けて、シナに占領されたのか、との大きな疑問が私にはある。『日本書紀』に戦後、何度も唐の使者が日本を訪れたとの記事がある。そして大いに歓待されている。敗戦国に何の使者か、と私は疑問に思う。そして中大兄皇子は唐に警戒心を抱いて、九州の地の守りを固めさせている。とても占領されたとは思えない。シナ進駐軍=藤原氏との説にも疑問がある。
 ここには、朝鮮半島にも進出していた倭人の考えが無いように思える。その倭人は九州を中心とした王国のはずである。その王が卑弥呼であり、「倭の五王」であり、「多利思北孤」なのだ、と考えている。そう考えないから、子供にさえ分かるような無理で矛盾に満ちた説明しか出来ず、世界を見る目も持たない頭の悪い聖徳太子を作り上げてしまう結果になるのである。
 白村江の戦いの主戦力は倭国であって、日本ではない。日本ではないから、百済の救援と称して出発した斉明天皇の一行は難波を1月6日に出て、3月25日に博多に着くと言うのんべんだらりとした船旅を楽しんでいるのである。中間地点の松山までは8日しか掛かっていないのだから博多にはどんなに遅くとも1月中に着いていなければおかしいのである。それが3月25日だと。
 つまり、日本は戦争に参加する意思は無かったし、事実参加しなかった、と考えている。だからこそ唐の使者は大和朝廷にやって来たのである。それが占領のはずが無い。八切氏はシナの史書に、倭国と日本が列記され、しかもそれぞれにきちんと内容のある記事がある事をどのように理解しているのだろうか。そうした理解が、「白村江の戦い=シナによる日本の占領」との考えに繋がるのである。

嫌なことを言うようですが、「「都祈」の表記が出て来る朝鮮の史書」なるものが本当に信用できる一次史料なのかどうかも疑えば疑えます。
日韓併合のときに韓国の史書はほとんどが焚書にあっていますし、李朝そのものが、支那にべったりの王朝で、支那に媚びを売るために書物を創ってますから、仮に古い時代の史書が現存でたとしても、信頼性は極めて低いのです。

 朝鮮の史書は『三国遺事』で確か14世紀か15世紀の成立である。全文漢文である。朝鮮の古代史としてはこれと『三国史記』しか存在しないようで、どちらも中世の成立だから、どこまで古代史が確実視されるかには大きな問題があるが、あとは、日本に古代に伝わって今はその存在は『日本書紀』などの歴史書の中に引用として使われている物しか無いのではないだろうか。ただ、この場合、その史書が信用出来るか否かは問題にはならない。史実は別として、しかもこの「ドギ」の話は単なる神話として載せられているのであり、問題は「都祈=ドギ」と言う言葉の問題なのだから。
 そしてきのうは詳しくは書かなかったが、その神話には日月の精が新羅から日本に行って、日本の地方の王になってしまったので、新羅では光が失われてしまった、と書かれている。そこで新羅の王は使いをやって、どうか新羅に戻ってくれ、と嘆願する。だが、これは天のした事で、帰る訳には行かない。けれども妃が織った絹の布があるので、これで日月を祀れば光が戻る、と言う。
 その絹の布を祀った所の名前が「迎日県又都祈野」と漢文で書かれているのである。これは文字を持たなかった朝鮮や日本が自分達の言葉を表すために漢字を使った典型的な表現だと思う。即ち、その土地の名を「迎日県」と書き、「都祈野」と読む、である。「又」はそうした意味しかこの場合には考えられない。これを著者は「日を祀った所が迎日県」で、「月を祀った所が都祈野」と読んでしまった。そんな事は原文のどこにも書かれてはいない。その正しい読み方をしているのが、きのう挙げた朝鮮の学者の「都祈野」とは「日の出」を意味する、との説明である。日月の精は夫婦である。夫である日と妻である月を別々に祀らなければならない理由は何も無い。それに渡されたのは「絹の布」一枚のはずである。二枚を渡して別々に祀れと言ったのではない。
 この地名は現在に残り、それは「慶尚北道迎日郡都丘洞」だと著者は言う。そこには「日月趾」も保存されていると言う。つまりは同じ場所である。それに「月を祀った所=都祈野」なら、何で現在の地名が「都丘洞」なのか。これについて著者は、新羅のその地方では「ドギ」をなまって「ドグ」と言った、と書いている。そしてこれがまた日本の東国の「月」の方言「つく」と同じだと考えたのである。
 流蛍さんが質問してくれたので、これ幸いと書いているのだが、これは新羅の伝説なのである。だから出て来る場所は新羅である。そこでは「月=ドグ」だと言うならば、それは「都祈」なんかではなく、まさしく「都丘」のはずである。「迎日県又都丘洞」になる道理である。「都丘野」でもいいが。それに日本語の「つく」は「つき」よりもずっと古い言葉なのだ。それが近畿地方では「つき」になった。だから本当は「ドゥギ→とぅき」ではなく、「ドゥグ→とぅく」だったはずである。そうした事さえ、この著者は間違っているのである。ぶち当たった材料は何でも良いから、すべて自分の有利なように使う、と言うのがこの文学者の性格なのである。私は全4冊の著書を綿密に調べているから、分かる。
 そうした勝手な論理がどんどんおかしな考えを導き出してしまうが、本人は全く気付いていない。
 問題は史書が信用出来るかどうか、などではなく、史書であれ、神話であれ、それをいかに正確に読むか、なのである。

もう一つ。「韓国の文学者」とおっしゃいますが、古今東西、「文学者」ってものがいたのでしょうか? 文学者ってなんでしょう? 簡単に作家や詩人、大学教授などを「文学者」と呼びますが、その言葉は正しいのですか?
私はこの韓国の女性程度であれば、せいぜい「言語研究者」としますよ。そういう校正についてはいかがですか? 
いかにも世間ではこの程度を「文学者」と言いますから、お仕事としての校正では間違いと指摘する人はいないし、そんなことを言う私なんかは「変わり者」としてしか見られないでしょうが…。
学者と研究者、あるいは作家、評論家、随筆家などの違いは、どう校正されるのでしょう?

 校正者としては、書かれている肩書きに従うしか無い。あんたは文学者と言っているが、そんな資格はないのでは、などとは口が裂けても言えない。そんな事言ったら、即、仕事は来なくなる。文学者とは、などと考えた事も無かったので、辞書を引いてみた。
・詩人・作家・文芸評論家の類。文芸を研究する人
・文学作品をつくる人。作家。文学の研究者。
・詩・小説・戯曲などを作ったり、研究・評論したりする人。
・文学作品を創作する人。詩人・作家・劇作家など。文学を研究する人。
・文学作品を作る人。作家・詩人など。文学を研究する人。
 まあ、こんな所でいいのでは、と思っている。やっている事は様々だし、資格もまた色々ある。「学者」なんて、単に物知りの事を指したりもするのだから、きちんとした定義など、誰も問題にしていないのだと思う。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」との川柳もあるくらいだから。結局は本人や世間の認識に従うしか無いのだと思っている。
 この韓国の女性をせいぜい「言語研究者」だとおっしゃるが、「研究者」の方がずっと真摯な態度のように感じるのは私の勝手だろうか。「学者」の名前に奢らず、高ぶらず、真面目で、真剣で、熱心で……。もちろん、「研究家」でもいい。こちらは「物好き」の感じがあるが。そんな好意的な呼び方、私にはこの著者に対しては絶対に出来ない。「文学者」と称しているからまだ許せるのである。
 この著者の略歴には、著書、創作童話集24、随筆集5とあるから、「文学者」の名に恥じないと思われる。ただ、その最後に挙がっているのが、私が批判している四冊の「韓日比較言語に関する著作」とあるのだから、安易に略歴を信用する訳には行かないのだが。

 以上、流蛍さんの御質問に便乗して、不足の部分を書かせてもらった。倭国とか日本とかに対する考え方は、基礎には古田武彦氏達の考えがあるが、それに引きずられてはいない。有名な「魏志倭人伝」を始めとする歴史書や『日本書紀』を原文に忠実に読み、様々な可能性を追究している。下手に口語訳を信用すると、そこには訳者の勝手な考え方が反映している場合が往々にしてあるので、間違った考えに引き込まれてしまう危険性がある。例えば『日本書紀』には、唐の使者が「上表文を納めた函を奉った」と口語訳にあるのだが、原文は「進表函」である。「進める」がなぜ「奉る」になるのか。「表」がどうして「上表文」になるのか。現代語で読んでも意味が無いが、「表を入れた函を進呈した」とも読めるではないか。当時の唐が日本に上表する事など考えられない。
 また、歴史学者の中には文章の理解が出来ない人も居る。『古事記』にある「稗田阿礼の誦むところの勅語の旧辞を撰録して」とある文章で、「勅語の旧辞」と言う名前の書物があると思ってしまった学者が居る。そこからおかしな論理が展開されているのだが、これは「天武天皇が勅語で誦めと命じた旧辞」の意味なのである。だからその論理は見事に間違っているのだが、文章の理解が出来ずに史実の追究が出来るはずが無い。
 私は「こども」との言い方に疑問を持っているので、古くはどのように書いたのかと考えた。万葉集に「いざ子ども」の語句がある。読み下しにもそうある。しかし原文は「子等」なのである。「児ども」とある歌の原文は「児等」なのである。「等」がなんで「ども」と読めるのか。これでは「こども」との言い方が古代にされていたとの証拠にはならない。万葉仮名に「等=ども」などは存在しない。「児らが家道」は「児等之家道」である。万葉集の初句索引を見る限り、「こども」の言い方は無い。わずかに見付けた「こども」が「子等」なのである。これでは「こども」の言葉を調べる事も出来ない。
 老婆心ながら申し上げるが、流蛍さん、信用なさるのも良いが、世の中には権威あると当然に思うような本にも結構いい加減と言うか、著者の思い込みがある事を心しておいた方がよろしいと思う。画期的な発言なら、本当にそうなのか、と御自分で是非検証なさる事をお勧めいたします。私は自分で検証出来ない事ならば、半信半疑にしておきます。相手がどなたであろうとも、信用はしません。宇宙の事なども、一応仮説として、自分の考えも仮説の域を出ないのは言うまでもありません。