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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった、と言う学者が居る

2010年11月08日 | 歴史
 今、ある古代史の本を読んでいる。そこにタイトルのような事が書かれている。その本文は次の通り。

 『魏志』倭人伝によるならば、卑弥呼とは邪馬台国の女王ではなく、邪馬台国をはじめとした数十の国々より構成された倭国の女王、ということになっている。(中略)倭国というのは、中国の皇帝から認知された日本列島内部の独立政権のことであり、その所在地や支配領域は時期によって異なった。
 第一次倭国大乱後に、倭国は西日本全体を基盤とするものに拡大・発展したと考えられるが、『魏志』倭人伝は、卑弥呼をこの倭国を統治した女王と位置づけているわけである。

 倭国の女王であるのは間違いない。しかし、だからと言って、邪馬台国の女王ではないとまで言い切れるだろうか。著者が「倭人伝によるならば、卑弥呼は邪馬台国の女王ではない」と言うのだから、その倭人伝によって、書かれている事を検討してみよう。
 冒頭に「倭人は山島に依りて国邑を為す。今、使駅通ずる所三十国」とある。この全体を「倭国」と呼んでいる訳だ。そして「郡より倭に至るには」で始まって、まずは「その北岸狗邪韓国」に至り、始めて海を渡って、として対馬国が紹介されている。次に一大国、末廬国、伊都国と紹介され、「世々王有るも、皆女王国に統属す」と書かれている。代々、王を頂いているが、その王達は皆女王国に属している、と言っている。「女王国」が存在している。
 ただ、この女王国の登場の仕方が唐突ではある。何故に突然現れるのか。それは倭人伝の著者にとっては、「倭人伝」の主たるテーマであり、前提になっているからとしか考えられない。何しろ、倭国の風俗などはかなり概括的に書かれているのだが、卑弥呼に関してはその遣使の内容も、隋の皇帝からの返礼の内容も非常に具体的なのである。
 そしてその後も「女王国より以北」とか「郡より女王国に至る万二千余里」などと言っている。それで分かる、との前提なのである。
 伊都国の後は、奴国、不弥国、投馬国と続き、その後に「南、邪馬壱国に至る、女王の都する所」となって、やっと邪馬台国が登場する。原文は「邪馬壱国」だが、ここでは「邪馬台国」としておく。女王の都する所が即ち邪馬台国だ、と言っているのだから、卑弥呼は邪馬台国の女王になる。そうではないと言うのなら、邪馬台国の王は誰なのか。
 と書いて、紹介されている国の王の名前などまるで出て来ない事に今になって気が付いた。「世々王有るも」と書かれているのにも拘わらず、出て来るのは「官」であり「副」なのである。それは当然である。国々には現在は王は存在しないのだ。それぞれの国が王を頂いている状態では国同士の争いが収まらないので、共有の王を立てた、と言っているのである。だからその下には役人である「官」や「副」しか居ない。
 卑弥呼が出て来るのは倭人伝の半分以上過ぎた所である。そしてそれ以降は卑弥呼の事が中心となっている。

 其の国、本亦男子を以って王と為(な)し、住(とど)まること七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰(い)う。

 さて、この「其の国」とは一体どこを指しているのだろうか。普通は前にある国を指す。前は、と見ると、伊都国がある。しかし伊都国が「其の国」ではないのは明らかだ。それにこの部分は、「女王国より以北には、特に一大卒を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す」なのである。
 先に卑弥呼が登場するのは半分を過ぎた所だ、と述べた。その前半分は倭国の説明である。従って、「其の国」は「様々な国を含む倭国」だと考えるのが普通の理解の仕方だろう。多分、この本の著者はこうした部分を捉えて、「其の国=倭の諸国」なのだから、卑弥呼は「倭の諸国」の王なのであって、邪馬台国の女王ではない、と言うのだろう。でもそうなると、「女王国」が何を指すのかが分からなくなる。「女王国」が「倭の諸国」の中の一国を指しているのは明らかなのだ。
 確かにこの文章は卑弥呼は「倭国の女王」だと言っている。その倭国とは「倭国と称する諸国」である。だからこそ「相攻伐する」とか「共に一女子を立てて」と言っているのである。
 つまり、「倭国」と言う名の下に諸国がある。その諸国には王は存在しないのである。しかし諸国はある。卑弥呼はその諸国の女王である。しかしまた、邪馬台国の女王でもある。それがおかしな事だろうか。
 現在のイギリスは「グレート・ブリテンと北アイルランドの連合王国」である。イギリスの女王はグレート・ブリテン王国の女王であり、同時に連合王国の女王なのである。北アイルランドには王は存在しない。このグレート・ブリテンを小さくして、北アイルランドなどの国を多くすれば、倭国の情況に似て来る。それでも倭国の女王は邪馬台国の女王ではない、と言うのだろうか。
 グレート・ブリテンと北アイルランドの関係は事細かな事まで分かっている。しかし邪馬台国とその他諸国との関係は明瞭ではない。『魏志』に書かれている事を根拠にするしかない。そしその記述は十分だと言えるのか。その記述を元にして、卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではない、と断言するのはあまりにも専断と偏見ではないのか。

 卑弥呼が倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではないと言うのは実際にはどのような意味を持つのだろうか。それで邪馬台国関連の古代史が変わって来るのだろうか。変わらないのであれば、何も卑弥呼が邪馬台国の女王ではなく、倭国の女王である、と目くじらを立てる必要は無い。
 と言うのは、こうした事を言うからには、それが正しい論理であるのかを考えなくてはならなくなる。そして、私はこの論理がおかしい、と思っている。そうなると、著者の次の論理展開もまた、簡単に、はい、そうですか、と聞く事は出来なくなる。
 そのすぐ次の論理展開は「卑弥呼は女王の名前ではない」なのである。「卑弥呼」を当時、どのように発音したかは分からないが、著者は「特殊な霊力を持った貴人」または「特殊な霊力を持った高貴な女性」と考えている。だから後世で言うならば、「ひめみこ(皇女・女王)」に相当する言葉だと言う。
 ここから、卑弥呼とは職名であり、初代卑弥呼職に就任した女性の名前は残念ながら分からないが、二代目はなぜか明確に「台与」(原文は「壱与」)と分かっているのであり、「中国史料が倭人の名前に関して大きな誤解を犯すことがあることにもっと注意を向ける必要があろう」と言うのである。

 これが何を意味するかは明白だ。例えば『隋書』は朝貢して来た倭国の王を「姓は阿毎、字は多利思比孤」と紹介している。これを大王の名前を姓と名に分解すると言う間違いを犯している、と言うのである。「阿毎多利思比孤」で一つの名前だと。それはこれがほかならぬ聖徳太子であると、信じているからである。そうしないと、この名前が聖徳太子の名前の説明にならないのである。その説明もまたとんでもなくおかしいのだが、すべて著者の頭の中には一つの日本の古代史が出来上がってしまっている。そしてそれに合わせたいと思うから、それとは事実の異なる中国の史書を間違いだと断言するのである。

 このような論理展開になって来ると、非常に危険である。そこでは中国の史料を疑う事から始まるのである。中国の史料を原文に忠実に読むのではなく、頭から誤解を犯しているのではないか、と疑って読む事になる。疑っているから、当然に忠実になど読めはしない。先に引用した倭人伝の部分でさえ、原文に忠実に読んでいるとはとても思えない。
 古代史の門外漢である私でもこの著者の考えはあまりにも皮相だと思う。魏志倭人伝に書かれている事をそのまま素直に受け取って、私は倭国を統率するのが卑弥呼の邪馬台国である、と解釈している。しかし著者は違う。つまり、倭人伝の読み方がまるで違うのである。
 ただ、私はほかにも、この本で著者の読み方の間違っている事を見付けている。えっ? 何でそんな読み方しか出来ないんだ、と驚くばかりだから、この著者の文章の読み方の程度を知っているつもりである。そうした雑な読み方で論理を展開しているから、その展開の仕方も雑になる。だからそのほかの有益に思える部分もどうしても疑いを持ってしまう。そして、その疑いは疑いとは言い切れない。なぜなら、論理の展開が飛躍するのである。A=Bで、B=Cだから、A=Cである、と言うのだが、A=Bである事を、B=Cである事を何ら証明しない。あまりにも断言した言い方なので、読む方はなるほど、そうか、と思ってしまうが、よくよく考えると本当にA=Bで、B=Cなのか、と言う疑いがもくもくと湧き上がって来るのである。たとえ著者の別の著書でそうした事を述べているとしても、それでは通用しない。
 しかしこの著者は様々な出版社から色々な古代史に関する著書を出している。だから誰もが考え方が間違っているとか、文章の読み方がおかしい、などとは思ってもいないはずである。そしてかなり先鋭的な事も言っている。だからこそ、余計にその内容を吟味しなければならないのだ、と私は思う。
 でも本当に疲れる。著者の言う事実が正しいのかどうかを考える前に、言っている事が正しい論理なのかどうかを吟味しなければならないのである。当然に、これが事実だ、と言う事と、言っている事が正しい事とは次元が違う。そんな吟味をしていたら、とても本など読めやしない。
 そう、だからこそ、中身がどのようであろうとも、一定の評価を受けている著者の本は文句なく売れるのである。

 中国の歴史書がどんなにいい加減かを説明している部分を一つだけ紹介しておく。もちろん、私はいい加減だとは思っていない。
 著者は卑弥呼を職名だとしている。その卑弥呼職にあった女性が女王とされたのは、『魏志』倭人伝を書いた中国人のもつ中華思想と男尊女卑思想ゆえの誤解と偏見にもとづくという方向で十分に解釈が可能なのではないかと思われる、と言うのである。
 中華思想は認める。男尊女卑思想も認めよう。しかしそれと、卑弥呼職にあった女性を女王とする事と、何の関係があると言うのか。卑弥呼を女王だと言っているのはその中華思想の持ち主なのである。中華思想なら、倭国など野蛮な国の一つに過ぎない。そこでは女王などは存在せず、単にシャーマンとしての卑弥呼職があるくらいなのだ、と言うのでなければ筋が通らない。男尊女卑思想ならば、まさに卑弥呼は卑弥呼職でしかなく、女王などと呼ぶはずが無い。
 このおかしな論理展開がこの著者の考え方の基本なのである。

 これで終わりにしようと思っていたのだが、そうそう、神功皇后の話があった。仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母である。皇后を架空の人物だとする説もあるが、『日本書紀』は神功皇后で一つの巻を立てている。それは十分に天皇に匹敵するとの意味になる。
 ただ、神功皇后の治世は異常に長い。摂政として69年も政務を執り、何と100歳もの長寿を全うしている。そこには創作がある。後の武烈天皇の崩御は継体天皇の即位と関わるので、ごまかしが利かない。そこでそれ以前の天皇の寿命を長くする事でつじつまを合わせている。そのひずみの一つが神功皇后なのである。それともう一つ、皇后を卑弥呼だとしたいがためでもある。
 摂政13年、太子を中心にした宴会が開かれた。皇后の話はそこで一旦終わる。次の話は26年も飛んだ39年である。なぜなら、これが倭の女王が魏に朝貢した景初3年に相当するからである。しかし実際には3年は間違いで2年である。続いて40年、43年と魏志の記事が引用されている。この三つは本当に魏志の記事だけである。皇后の事は何の言及もしていない。倭の女王卑弥呼が神功皇后だと言いたいだけなのである。
 日本書紀の編纂者達は知っていた。その昔、大和朝廷以外の国があった事を。彼等は先進文化国である中国大陸の歴史書を信用している。そこに邪馬台国とあり、女王卑弥呼が居る。それを無視する事は出来ない。そこで神功皇后にすり替えようとしたのである。
 つまり、日本書紀編纂の時代でさえ、卑弥呼は女王だと信じられていたのである。大和朝廷には女王は存在しなかった。だからこそ、神功皇后を立ててまで、女王卑弥呼を取り入れたのである。日本書紀の完成は720年、卑弥呼の朝貢は239年、およそ500年経ってはいるが、卑弥呼より1700年以上経った現代の時点よりもずっと真実に近いではないか。技術の点では、現代ははるかに進んでいるが、物事の捉え方や表現の仕方などが、古代よりもずっと進歩しているとは思えない。多分、同じ程度なのではないのか。そんな程度の人間が、一つの事実を500年後に考えるのと、1700年後に考えるのとでは、どちらがより真実に近いだろうか。それに、卑弥呼が単なる職名だと言うのなら、神功皇后も単なる職名になる道理である。
 何よりも神宮皇后の巻があるのはなぜなのか。そして唐突に卑弥呼朝貢の事が出現する理由は何なのか。そうした事をきちんと解決して、始めて、卑弥呼は女王ではなかった、などの話に入れるのではないだろうか。