goo blog サービス終了のお知らせ 

夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

独裁国家、中華人民共和国

2010年10月21日 | 政治問題
 北朝鮮は独裁国家だと誰もが思っている。しかし中国に対してはそうは思っていないらしい。少なくとも全国人民代表大会などが開かれて、後継者が決まっているように見える。
 しかし、中華人民共和国の総人口は13億人。その内の共産党員は7800万人ほどだと聞く。その内のほんのわずかが全国人民代表大会に参加出来る。その定数は3000を越えてはならない、とされているそうだから、3000÷13億で、0・00023%に過ぎない。あまりの少なさに何度も計算し直すが、間違いはない。何しろ13の後ろに0が8つも付くのだ。それが国家の意思になる。これは全く独裁以外の何者でもない。
 そしてその独裁者に国中が煽られている。各地での反日本のデモを政府は取り締まっているとは言うが、それは当然に表向きに過ぎない。陰で何をやっているか分かったもんじゃない。いや、「分かったもん」なのである。デモには扇動者が居る。先導者ではない。中共は一人っ子政策などと言う馬鹿な事をやっているから、男の子が増える。そうだろう。一人しか産めないとなれば、多くの人が男を欲しがる。だから女だと分かれば中絶してしまうのだと言う。
 自然の摂理では、女100に対して男は105になるのだと言う。男の方が弱いからそれくらい産んでおかないとバランスが取れない。それが現在の中共では男が115にもなるのだそうだ。
 その男の子は大切に育てられるからどうしても我がままになる。そしてそれが通る。その我がまま放題な男の子が煽動するデモがどんな物になるか。
 デモは内陸部で行われている。そこはまた貧困者の多い地域でもある。貧困に対する憤まんがこうしたデモに姿を変えている危険性は多々ある。そして政府はそれを利用しようとしている。矛先を日本に向ける事で、自分達を安穏な場所に置くのである。
 新聞は、近年は後継者が見える形で決まっている、と褒めるような事を書いているが、そんなに褒められた事ではないのがよく分かる。今までの暗黒政治に比べたら明るくなった、と言うだけの話なのである。
 私は今、「古代史をいいかげんに扱う人々」と言うブログを書いているが、こうした現在の事実に関してだって、いい加減に扱う人々は多いのである。被疑者をいい加減に扱う検察などはその一例に過ぎない。
 「いい加減」とは「好い加減」とも書き、本来は「加減が良い=適度」の意味である。その適度がどんどん度を越して悪い方へ進む。だから「嘘・ごまかし・でまかせ」にもなるし、「いい加減にやめてくれ」などと「限度を越えていて、我慢がならない」情況を言う事にもなる。
 私の使っている「いいかげん」はこの「限度を越えていて、我慢がならない」に近いのである。

転ばぬ先の杖と言うことわざがある

2010年10月01日 | 政治問題
 何事も用心するに越した事は無い。私は電車で座りたいものだから、いつも一番前に立っている。ホームにゲートが作られている場合は別だが、普通は一番前は危険である。先日も酔っぱらいに体当たりされて、線路に落ちて死亡した人が居る。息子が言うには、1時間も立っている訳じゃなし、たかが15分くらいなんだから、立っていた方が体のためにも良い。確かにそうだ。座るとどうしても姿勢が崩れる。
 それでも私は一番前に立っていたりして、その場合には始終周囲に気を付けている。不穏な人は居ないかと。幸いにと言うか、私の乗る電車の場合には客が少ないので、みんなホームで待っている時にも密集しない。え? と思ってしまうほど離れて立っている。
 つまらない事を書いているが、こうした普段の用心は簡単にする事が出来る。だが、簡単には出来ない用心がある。それが例えば外交である。世界のあらゆる事を見通せる人はほとんど居ないだろう。それでも、自分以外はすべて他人である、と言う事をきちんと認識している人の方が多いから、世界は何とかやって行けているのだと思う。だから読売新聞が書いているような「図体の大きな傲(おご)れる隣人」と周囲の諸外国は上手くやり合う事が出来ているようだ。

 だが日本は違う。相変わらずのお人好し根性で、あれほど人権を無視し、日本を馬鹿にしている中国に折衝に行くのだと言う。何かとんでもない人々を我々は選挙で選んでしまったのではないか、との危惧がある。別に頭を下げる訳ではない、と言うのかも知れないが、人を人とも思わぬ国に行こうと言うのが、そもそもは頭を下げている事になるのに、それが分からない。

 私は二つの職場を持っている。そのどちらにも常識を知らない、自分勝手な男が居る。その男に対して、周囲は一応は挨拶はするし、普通に付き合っている。しかし誰もが彼を無視している。大事な事は話さないし、話にも乗らない。話しかけられれば最低限の相づちは打つが、それだけ。だから彼は孤立している。何かがあっても、積極的に助けようとは誰も思わない。
 図体がでかいばかりの傲慢な隣人にはそのように対処すべきなのである。それが世界の常識なのである。そうでもしない限り、この隣人はいつまで経っても目が覚めない。目が覚めなくてもそれは勝手だが、隣国の諸国が多大な迷惑を被るのは許せない。
 自国の国民に大きな貧富の差を押し付けて、国民を自分達の思う通りに動かすだけの国が発展出来るはずが無い。だから見ていてご覧なさい。中国人観光客なんぞ、その内、経済破綻で一人も来なくなるから。日本政府は何を血迷っているのだろうか。そんなていたらくだから、何か中国に大きな権益を持っているんじゃないかと疑われたりもするのである。そうそう、「李下(りか)に冠を正さず」とのことわざもあるし、「瓜田(かでん)に靴を履かず」もある。落語には「じかに冠をかぶらず」「おでんに靴を履かず」だと面白おかしな解釈をする話がある。「じかに冠」の方は分かり易いが、「おでんに」は屋台でおでんを食べている時に靴を履き直そうとするのは、もしかして食い逃げの準備かと疑われる恐れがある、と言う話なのだが、中国との国交正常化を簡単に唱える政治家達は、この程度なのだろう。嘆かわしい、などと言っている場合ではない。それこそ国を売る行為になりかねない。転ばぬ先の杖なのである。

「コソボの独立は合法」に拍手

2010年07月24日 | 政治問題
 セルビアからのコソボの独立が世界中で賛否が半々に分かれていると言う。反対している国々には、国内に民族問題を抱えているロシア、中国、スペインなどがあるそうだ。それはそうだ。コソボの独立が認めれれば、我も我もと名乗り出るのは目に見えている。
 でも考えてみれば、民族問題を抱えていると言う事がそもそもはおかしい。民族が民族の独立を要求するのは当然だ。それでこそ「民族」と言えるのではないか。ユニークさを標榜している新明解国語辞典は、「民族」を次のように説明している。

 言語・宗教・生活慣習など、文化的な観点から見て、共通意識をいだいている一まとまりの人々。〔他民族に対する時は、個々の利害を超えた緊密な連帯感を持つことが多い〕

 これは見事な説明だと思う。岩波国語辞典も次のように説明する。

 人種的・地域的起源が同一であり(または同一であると信じ)、言語・宗教などの文化的伝統と、歴史的な運命を共有する人間の集団。

 これまた見事だと思う。
 例えば全く違う二つの家族が、これは同一家族なんだよ、とされて一緒に生活させられる事を考えてみたら分かる。国と家族とは規模がまるで違うから、国の場合には家族ほどの強烈な問題にはなりにくい。しかし根は同じである。単に感じ易いか感じにくいかの違いである。
 そもそもは「国」とは、ある特定の有力者が自分の住んでいる周辺の地域を統合した方が自分にとって都合が良いから、と囲い込みをしたのが起源なのではないのか。都合が良い、とは富を優先的に手に入れられる事を指す。
 地域が一つにまとまるのは、他に別の集団があると認識するからだろう。別の集団だから、下手をすれば奴隷にされる危険性がある。何をもって別の集団と考えるかは色々と問題があるが、現代のような発達した世の中で、我々は違うんだ、と強烈に認識するには、それだけの理由がある。
 こうした地域紛争は地域の住民に決める権利があるはずだ。そこに住んでいる人々が、我々は別の国なんだ、と認識すれば、それは別の国である、と私は思う。多くの民族を無理してまとめた国には無理がある。ソ連邦は崩壊した。ユーゴスラビアだって、チトー大統領の強力な力が無くなって、崩壊した。中国は今なお健在だが、それは中国の強権的な政治体制がかろうじてまとまりを保っているからだ。

 自分達だけではやって行ける自信が無いから、お互いに一つの国としてやって行きましょう、と言うのも手だろうし、相手の国におんぶにだっこ、と言う形だってある。あれ? どこかの国に似ているぞ。それはその国が決める事であって、ほかからとやかく言われる事ではない。
 コソボの独立は合法だと認めた国際司法裁判所の判断は正しいと私は思う。

安定せずに何が出来るのか

2010年07月13日 | 政治問題
 参院選で、民主大敗、自民躍進、の見出しが躍っている。それに乗って、自民党やみんなの党党首は、さあ政権交代だ、と息巻いている。世界の事情を私はよく知らないが、こんなにもころころと政権の変わる国があるのだろうか。あるとしても、それではどこからも信用などされないだろうと思う。私だって、どこかから仕事を貰うにしても、相手の社長がころころと替わるような会社では信用が置けない。
 自民党政権では駄目だ、と見限った人々が民主党に乗り換えた。その人々が今度は民主党からほかに乗り換えた。その乗り換え先が自民党であり、みんなの党なのだろう。気持としてはよく分かる。自分が信じられると思った相手が実は信じられなかった。だから信じられる相手を探す。
 それは分かるのだが、それではあまりにも自分が惨めにならないだろうか。自分自身の判断力の駄目さを感じはしないのだろうか。一体、自分は何を根拠に信じたのだろうかと。
 私は今、民主党を支持している。駄目な民主党ではなく、理想的な民主党をである。蓮舫氏のような筋金の入った、頭の良い、性格も良さそうな政治家に代表されるような民主党をである。民主党の駄目な政治家だけを見て、民主党を見限ったりはしない。自民党を支持しないのは、そうした立派な政治家が見当たらないからである。たとえ居たとしても、周囲の古参のそれも金権政治にどっぷりと浸かった古狸たちによって、よってたかっていじめられ、実力を発揮は出来ないと思うからである。

 そして、衆参ねじれ国会だと言い、それがいかにも駄目な事のようにマスコミは言うが、私はそうは思わない。衆参両院を民主党が仕切ってしまう事の方が怖い。一つの法案が簡単には通らずに、色々と「異見」を戦わせ、様々に検討した結果を踏まえて、より理想的に修正される事が理想なのではないか。ねじれ国会で良いのである。
 もしも、下らない、あるいはおかしな「異見」に左右されると言うのであれば、そんな「異見」を出すような政治家がおかしいのであり、そんな政治家を支持した選挙民が悪いのである。ねじれ国会の方が、議員の本当の考えや性格が明確に分かる、と言う利点は無いだろうか。内輪でしゃんしゃん、では実情は分からない。外でもまれる事で実情が明確になるのではないか、と私は思っている。

日本の平和度指数が世界第3位だって

2010年06月28日 | 政治問題
 確かに日本は平和である。と言うか、平和ぼけしている。だからすぐ隣に怖い国々が控えているのにも拘わらず、相変わらず脳天気である。そして近隣諸国の事もよく知らない。だいぶ前にビルマがミャンマーと国名を変えた。日本は最後まで「ビルマ」を使っていた。それを新聞が、よその国ではとっくの昔にミャンマーに変えているのに、日本だけ遅れている、と非難するような書き方をした。そして一斉に「ミャンマー」になった。
 ところが、そのミャンマーは民主主義などくそ食らえの独裁軍事政権だった。「ミャンマー」の国号はその独裁軍事政権が名乗った名前だったのだ。つまり、日本のマスコミはその独裁軍事政権を公認し、その肩を持ったのだった。アウンサン・スーチーさんが軟禁状態に置かれているのを知っていながら。
 そうした日本が世界第3位の平和国家だと言うのである。犯罪率が低い事と、防衛費の占める割合が国内総生産の1%にも満たない事が評価されたのだと言う。では、犯罪率は置くとして、日本と総人口がほぼ同じで、国内総生産が10倍もある国がその1%にも満たない軍事費だったら、やはり平和度が高いと言うのだろうか。軍事費の絶対額は日本の10倍もあると言うのに。

 アメリカが85位で、「ああ戦時国家なのだと改めて思う」と読売新聞の「編集手帳」は書いている。以下はその要約である。

 アメリカはテロ組織の根絶を図ってアフガニスタン戦争に突入している。その戦争をオバマ大統領は「必要な戦争、正しい戦争」と位置づけ、兵力を10万人に増強した。その戦いが思うようにいかない。戦死者は千人を越し、ベトナム戦争を上回る最も長い戦争になった。
 政権批判の発言をした駐留米軍司令官を解任した。「平和は犠牲を伴う」という大統領の言葉が重く響く。

 流れで読むと、司令官の政権批判はアフガン戦争に対する批判で、解任されたと言うからには、その戦争が無意味である、と言ったと思われる。それが何で、「平和は犠牲を伴う」と言う大統領の言葉と関係があるのだろうか。
 平和は犠牲を伴う、との言い方は、尊い犠牲があって、やっと戦争が終わり、平和になった、と言う事だと思う。つまり、アフガン戦争での千人以上の戦死者と言う犠牲があって、戦争が終結した場合には、そう言える。しかしまだ戦争は続行している。更には兵力を増強している。だからこの先犠牲者が何人増えるか分からない。
 それなのに「平和は犠牲を伴う」と言えるのか。そんな言葉が何で「重く響く」のか。私は編集手帳氏の言っている事が全く分からない。

沖縄米軍基地の愚論と正論

2010年04月27日 | 政治問題
 普天間の米軍基地を他県に移す案について、アメリカは移転先の意思を尊重せよ、と言っているらしい。それを26日のTBSテレビで、みのもんた氏が「アメリカがそう言っているんだよ。一体政府は何を考えているのか」と言うような趣旨の発言をしていた。これは明らかな愚論だと私は思う。
 移転先の意思を尊重するのは当然だとするなら、現在の基地を保持している現地の意思だって尊重するのが当然になる。しかも、アメリカが移転先の意思を尊重せよ、と言っているのは、例えばグアムに移転せよ、と日本が言えば、移転先のグアムの意思を尊重せよ、と言う事になるではないか。そんなアメリカの言い分を、みのもんたは正論だと思っているらしい。

 どの局だったか忘れたが、ニューヨーク市民の意見を聞いていた。
1 日本を守っているのだから、沖縄に米軍基地があるのは当然だ。
2 米軍はアメリカに基地を持つべきだ。アメリカの雇用事情も良くなる。ミサイル時代に場所は問題にはならない。
3 北朝鮮や中国の危険性を考えれば、沖縄基地は重要だ。

 ほぼこのような三つの意見に集約される。
 1は愚論である。米軍が日本を守るために沖縄に基地を置いている訳では絶対にない。アメリカ人がそう考えてもそんなにおかしくはないが、日本人にさえ、そのように考えている人間がいるから困るのである。
 2はまさしく正論である。米軍基地の在り方をこれほど正確に述べている人がニューヨークにも居るのだ。
 3は北朝鮮や中国の危険性に関しては正論だろう。だが、そのための基地が沖縄に必要だ、との点はどうだろうか。2の意見のように、ミサイルならどこからだって攻撃が出来るのだ。北朝鮮のミサイルだって太平洋にまで届いているのだ。アメリカのミサイルならグアムから北朝鮮や中国を的にするなんて簡単な事ではないのか。

 何よりも、自分の所は嫌だけど、沖縄県の米軍基地は必要だ、と考える人々の自分勝手さには腹が煮えくり返る。沖縄県も嫌だ、沖縄県以外も嫌だ、と言うからには、米軍はアメリカに戻るしかないではないか。
 26日朝の読売新聞は「編集手帳」で六、七年前の小泉・ブッシュ時代を「日米関係の黄金時代だ」と持ち上げている。冗談言っちゃあいけません。確かに日米交渉は楽だっただろう。「課長から局長、次官、閣僚、首脳と、上に上げれば、最後は小泉・ブッシュの協議で日本の主張が通ると日米双方が分かっていた」と言うのは事実だろう。
 だが、それは日本がアメリカに尻尾を振っていたからに過ぎない。アメリカが通すような日本の主張だけを上に上げていたのではないのか。「だから米側はその前段階で妥協してきた」などとも言っているが、妥協して来たのは日本であって、アメリカではないはずだ。多分、妥協した面はあるが、それはそれ以上の獲物を得る手段としてであるのに気付いていないのだろう。
 同コラムは「小泉元首相は、インド洋やイラクへの自衛隊派遣という重い決断をすることで米国の信頼を勝ち得た」とも書いているが、当たり前ではないか。アメリカの要求に沿った決断なのだから、アメリカの信頼を得たのである。それが「重い決断」なのも当然。日本国民を裏切り、アメリカに尻尾を振るのだから「重い決断」になるのは至極当然なのである。
 アメリカに日本人の貯金を格安に売り渡してしまうような郵政民営化を促進した小泉政策を持ち上げる読売新聞らしい考えである。読売を六ヶ月契約で取る事にしたが、半年持つかどうか、不安になって来た。まあ、どの新聞も大同小異だけどもね。

今朝の読売新聞にいい事が書いてあるのだが……

2010年04月09日 | 政治問題
 その記事は「編集手帳」と言うコラム記事で、次のように言う。

 税金を無駄にしない、カネにきれい、官僚の尻に敷かれない――民主党の提示した政権「完成予想図」に有権者が賛同し、自民党は敗れた。

 まさにその通り。ただ、「完成予想図」とは「マニフェスト」の事ではないのか。そして両者は違うのか、違うとすれば、どこがどのように違うのか、そうした事を明確に言ってもらいたい。私は「マニフェスト」と言う言葉に非常にうさん臭い物を感じている。正体不明の所があると思っている。日本人はカタカナ語にとても弱いと言う心理を巧みに突いていると思っている。
 さて上の記事の続き。

 鳩山政権の不人気は「実景」が約束の完成予想図と違うからであり、図面そのものを世間が見限ったわけではない。

 これまたその通り。完成予想図は決して間違ってはいない。それを自民党などは間違っていると言ってはばからない。その予想図を有権者はまだ信じたいと思っている。今、その実景が予想と多少違ってしまっているのだが、その違ったまま終わるのではない、と信じたいと思っている。
 しかしながら、ここに、首を傾げたくなる現実がある。それが小沢氏と鳩山氏のカネの問題だ。それと、鳩山首相が、幹事長に過ぎない小沢氏に遠慮ををし過ぎている事だ。それでも、鳩山政権を担っている多くの民主党議員に限って言えば、完成予想図に向かって、その実現を図ろうと走っていると思う。
 そうした面で、私はこの記事には賛成しかねる。
 更に次。

 民主党が持て余す完成予想図を横取りし、お株を奪う改革の魂を携えてこそ、新党は意義を持つ。その気概はありや。

 あれあれ、ちょっと風向きが違って来たぞ。完成予想図を民主党は持て余しているのだろうか。そんなはずは無い。だから世間だって、「図面そのものを見限ったわけではない」と記事は書いている。
 実景が完成予想図とは違ってしまっているのは、図面を持て余しているからではないはずだ。そのようには記事は書いていない。でもそうなると、どうして予想図と実景が違って来てしまっているのか。
 そこに有権者の疑問があるはずだ。完成予想図は今なお信頼している。それなのにその実景が違うじゃないか、と。それがなぜなのかを記事は書いていない、と私は思う。そのなぜなのかが、なぜか曖昧に処理されてしまっていると思う。

 民主党自体が何か複雑な事になっているので、よくは分からないのだが、私は民主党は完成予想図を完成させる力を持っていると思う。ただ、それを実行に移せない余計な力が存在しているのではないか。そして、その力と小沢、鳩山両氏の思いと動きが微妙に絡んで、完成予想図を完成させる邪魔をしているように思えてしまう。
 そこに持って来て、新党が相次いで名乗りを挙げた。それを記事は「民主党が持て余す完成予想図を横取りし、お株を奪う改革の魂」と歌い上げる。
 始め、すらっと読んだだけでは、ほほう、面白い事、納得出来そうな事が書いてあるな,と思った。しかし読み直してみると、何かおかしい。これはコラム氏が勘違いをしているのか、それとも、上手い記事の運びで、我々選挙民をたぶらかそうとしているのか。

 

みんなの党の目的は「党がなくなること」

2010年04月05日 | 政治問題
 新聞を整理していたら、東京新聞の3月30日付けに5回連載の最後の記事があった。前の記事をうっかりと読んでいなかったので、どのような連載か分からない。あいにくと、その前の新聞は何かに使ってしまったらしく、無い。
 見出しは次のようになっている。
・支持拡大の意味 みんなの党
・政界再編
・目的は「党がなくなること」

 これはみんなの党の目的が「党がなくなる」である。そうか、政党なんか要らない、と思っているのは私だけではなかった。みんなの党がそれなりに勢力を強めれば、民主、自民両党が分裂しやすくなり、将来的な離合集散につながると言う考え方で、再編こそが党の最終ゴールだ、と書かれている。
 民主も自民も、政策よりも過去の経緯や人間関係による結び付きだ形成されているとの認識なのだ。だから、そこからみんなの党の政策に賛同出来る議員の離党を促し、勢力を結集するのだと言う。つまり、過去の経緯や人間関係に囚われる事の無い政策を打ち出すのだと言っている。政策本意だから、国民が政治理念や政策によって投票出来るようになる。

 この第一ステップとして、同党は今度の参院選を狙っている。その結果、みんなの党が有望株である事が分かり、民主、自民両党の議員を引っ張ろうと言うのである。
 民主も自民も政権を担当出来ないとなると、党の存続は危うくなる。それでみんなの党は目的が達成出来る事になる。
 では、みんなの党はどうなるのか。代表の渡辺喜美は「使命は終わる」と言っているらしい。そう、党である必要は無い。本当に国民が自分達の政治をと願うそうした大きな勢力の中に融合される。なにか理想論のようにも思えるだろうが、これを現実にしなければならない義務を我々は背負っている。
 記事は最後にこう結んでいる。

 みんなの党は国民の「絶望感」を燃料に走っている。

 そう、我々は本当に絶望している。待望の政権交代が実現したと思ったら、カネを巡る問題で民主党の人気はがた落ちになっている。古い政治体質も浮き彫りになっている。人間は落ちる所まで落ちないと、そこから這い上がる勇気を持てないのか。もっとも、落ちていても、それに気付かず、這い上がろうともしない人々も現実に居るけれど。

新党が出来るのは大歓迎だが…

2010年04月03日 | 政治問題
 「与謝野・園田氏が新党」と新聞の大見出し。「平沼氏と合流視野」ともある。園田氏が「反民主党の受け皿として、ウイングを広げることが目的だ」と言っているが、「ウイングを広げる」なんて言っているのを見て、私は、ああ、これは駄目だろうな、と思った。ずいぶんと勝手な思いだが、こんな大事な事に安易に英語を使うなんて、とても性格が信じられない。まあ、右翼、左翼と言うから、「翼」もあり得るかも知れないが、でもこの右翼・左翼の言い方なら「右派・左派」の事でもあるのだから、単に「派閥を広げる」と言っているのか。
 そう、派閥を広げる、なのである。だって、「受け皿として翼を広げる」って一体どのような意味なのか。
 翼を広げるのは、普通には飛ぶためである。だから新しい旅立ちとして翼を広げる,なら分かる。だが、そうではない。「反民主党の受け皿」としてなのだ。反民主党の受け皿ならほかにもある。みんなの党などその最たる物だ。
 受け皿としてウイングを広げる、なんてさもかっこ良さそうに言っているが、単に新しい小さな政党を作るに過ぎない。どれほどの事が出来るのか,見守ってやろうじゃないか。

 私の持論は大きな政党なんか要らない、である。二大政党なんて言うから話がおかしくなる。そして互いに対立している。二大政党であっても、それは必ずしも対立する必要は無い。同じような政策で、ただ少し手法が違うから、政権交代だ、と言う事があったって良いではないか。今もそうだが、今までは、×か○か、だった。新しい政権が○だとするなら、それじゃあ、我々はずっと×でやって来させられたんじゃないか。馬鹿にするのも程がある。
 それに、民主党が○だとしている政策を自民党は×だと反撃する。民主党は自民党の政策が×だったからこそ、○の政策を掲げているのである。つまり、自民党は自分達の×の政策が正しかったのだ、と言っている事になる。すべてがそうではないが、そうである事の方が多い。これまた国民を愚弄している。我々は自民党の×の政策が嫌だったから民主党を支持したのである。

 ○か×かになるのは、二大政党だからだ。互いに相手を非難する事しか眼中に無いように見える。民主党も自民党も次の選挙で大負けすればいいと私は思っている。そして小さな政党が成長して、それが連立内閣を組む。現在とは違ってそれこそ平等に近い連立になる。私は元々政党その物が要らないと思っている。変に政党に属するから、「俗」にも「族」にもなるのである。そこでは個人としての意見が通らない。我々が直接票を入れたのは、個人に対してである。本当は政党になんか投票したくない。
 その個人が政党によって動きを封じられてしまう。だから政党なんか要らないのだ。小沢氏が個人として存在しているのなら、とっくの昔に辞任していたのではないか。民主党に属しているからこそ、生き長らえている。
 でも、せっかく新党を作るのだから、それこそ身命を賭してやって頂きたいものだ。自分の立場だけを守ろうとする新党なら、早晩、つぶれる。選挙民を馬鹿にしてもらっては困る。

普天間基地移転問題で勝手な事を言うな

2010年03月25日 | 政治問題
 誰も彼も身勝手過ぎる。鹿児島県知事は鹿児島県への移転は絶対反対だと言う。ほかの都道府県もみんな同じだ。みんな、自分の所は嫌だ、基地は沖縄で良い、と考えている。自分達は何の犠牲も払いたくないが、自分達の安全だけは守って欲しい、と非常に自分勝手な事を考えている。
 冗談言うなよ。自分の所に基地を置くのは嫌なのなら、アメリカに基地を撤廃しろ、と申し入れる覚悟が要る。そんな覚悟は当然ながら持っていない。自分は火中の栗は拾いたくないが、栗だけは食べたい。そんな身勝手が許されるとでも思っているのか。
 自民党だって勝手だ。自分達が基地撤廃など言い出せもしないくせに、民主党のやり方を批判している。どこがどのように違うと言うのか。全く同じ穴のむじなじゃないか。
 いざとなったら、アメリカを敵に回すくらいの覚悟があるのか。そんな覚悟など無いくせに、みんな偉そうな事ばかり言っている。アメリカを敵に回せないのなら、日本が受けている理不尽な事どもを、自らが背負う覚悟が絶対に必要だ。そんな覚悟もまるで無いくせに、口先だけは立派なのだ。あまりにも責任感が無さ過ぎる。

 前にも書いたが、アメリカ人で、アメリカをやめた、と言ってカナダに移住してカナダ国籍を取った人が居ると言う。同じく英語が通じるのだから、国を選べる訳だ。でも日本語は残念ながら、日本国内でしか通用しない。まあ、片言の日本語なら台湾とか韓国でも通用するようだが、そんな事をしてまで、台湾や韓国に移住はしたくない。しょうがないよね。日本人は日本にしか住めないんだ。
 だから自らの手で日本を良くするしか無い。民主党ならやってくれるか、と思ったらまるで駄目。もっとも、トップが交代すれば何とかなるかも知れないが。
 ねえ、本当に何とかしなければ。名古屋市の河村市長さんだって困ってる。オール野党になってしまっているんだから。議員はみんな御身お大切にで、自分の事しか考えようとしていない。
 でも、庶民はちゃんと見ているよ。国会や地方議会のお偉いさんがたよ、あとで後悔してももう遅いよ。