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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

官邸の情報収集力

2010年11月25日 | 政治問題
 テレビの朝のニュースワイドショーでは必ず新聞各紙の色々な記事を紹介する。そしてそれは記事をそのまま見せるだけである。そこにテレビ局独自の取材など皆無である。なぜか。取材をしていないからである。テレビが取材をしているのは、大きな事件とかで報道各社が一斉に出動する時だけのように見える。テレビの今までのニュースを録画している訳ではないから、明確な事は言えないが、事、情報に関してはテレビは遅れていると思う。
 テレビは新聞社から情報を貰っているのではないのか。そのテレビを見て、総理は今度の事件を知った。今回のテレビ報道が一番早かったのだろうとは思う。何しろ常に情報を流しているのだから、新聞は太刀打ちが出来ない。だが、それと総理がテレビで情報を知った事とは関係が無い。
 総理を経験したら、やめられない、と聞いた。何がそんなに魅力的なのか。聞く所によると、それは情報力だと言う。どんな情報も入って来ると言う。知らなくても良い事までもが入って来る。それはきっと面白いだろう。居ながらにして、裏の裏まで分かるのである。もっとも、それは官邸の力次第でもある。
 情報は何で官邸に集まるのか。それは情報が金になり、権力や利権に結び付くからだろう。何の得にもならないのに、御注進、御注進、とばかりに情報を持ち込むのは腰巾着くらいのものだろう。官邸には黙っていても情報が集まる仕組みなのだ。
 それが菅総理の官邸には無い。総理に力が無いからである。利権を餌にしていないらしいのは良いのだが、良い人材を登用すると言う方法はある。しかしそれすらしていないようだ。総理には、何よりも組織の長としての力が必要だ。それは人間性だけでは駄目だ。人間としての魅力も無い、組織力も無い、では当然に求心力が無い。多分、どんなに号令を掛けても情報は集まらないだろう。こうした時、普通は「私の不徳のいたす所でございます」と反省する。でも、総理には開き直りしか見えない。

 私は民主党内閣は不慣れでもあるから、初めからうまく行かなくても仕方がないか、と思っている。不慣れを問題にするなら、慣れた自民党内閣なら良い政治が出来る事になるが、そんな訳が無いのは国民がよく知っている。だからこそ、不慣れを承知で民主党を支持したのではないか。
 だが、不慣れもここまで来るとお手上げになる。一体、どれくらいの時間があれば慣れると言うのか。これはどうも慣れの問題ではないらしい。資質の問題である。「玉石混交」と言う言葉があるが、石ころばかりの中に二つとか三つくらい玉がある程度だろう。中には石ころではなく、どっかと居座った邪魔な石もある。なお、この「玉」は「たま」ではなく「ぎょく」である。「ぎょく」とは宝石の事である。
 宝石ばかりの内閣なんてあり得ないだろうから、仕方が無いが、それにしても石ころが多過ぎるのではないだろうか。菅さんはどうも磨いても光らないようだし。昔は光っていたように見えたけどなあ。その光だってまやかしだったようだから、もう、何をか言わんや。

 でも、こうやって、日本には情報力が無い、と言う事が世界中に知れ渡ってしまう事が恐ろしい。もっとも、そんな事はとっくの昔に知れ渡っていて、だから中共もロシアも日本に対して勝手をし放題なのだ。情報力も無い、知恵も無い、力も無い、となったら馬鹿にされるのは火を見るよりも明らかである。

裁判員裁判の死刑判決に裁判長が異例の付言をしたのはなぜか

2010年11月21日 | 政治問題
 裁判員裁判で初の死刑判決が出た。裁判長は被告に控訴を勧めるとの異例の付言をした。これに対して二つの見方がある。
 一つは、裁判員の心労に対する配慮だ、との見方。誰だって死刑の判決を下すのは辛い。だから、再考の余地があるんだよ、と裁判員に告げている、との考え方である。
 もう一つは、プロの裁判官が裁判員を信頼していないのだ、との見方。控訴になれば、今度はプロの裁判官だけになる。
 どちらも一応はもっともに思える。前者は、プロの裁判官がしても再び死刑の判決が出れば、裁判員の苦悩は少しは緩和されるかも知れない。だが、本質的な解決にはならないだろう。いくらプロと同じく死刑の判決を支持したのだとしても、その行為と言うか考えと言うか悩みと言うか、それは決して解決はされないはずだ。そこには人間が人間に対して死の宣告をする、と言う極めて重大な事が、相変わらず横たわっているからだ。
 後者は、もしかしたら判決が覆るかも知れないと言う思いがある。しかしそれは苦渋の選択をした裁判員に対する侮辱になる。
 どちらにしても、何ら解決にはならないと私は思う。死刑反対の考えは根強い。同時に死刑支持の考えもまた根強い。人間が人間に対して死を与える事への嫌悪感と、他人の人間としての存在を根本から否定してしまった殺人に対する絶対に許せない思いとは、同時に存在し得る。このどちらをも両立させるには終身刑しか無いだろう。アメリカには200年とか300年とかの刑があると言う。何で日本では無期懲役などと言う、いい加減な制度があるのだろうか。恩赦などの無い終身刑を設定すれば、被告を殺さずに、しかも罪の償いに近い事はさせられるだろう。
 死んで罪を償うと言うのは、一見残酷で、一見易しい。人間を平然と死に追いやる事は残酷だ。そして人間、死んでしまえば、もう何も出来ない。楽しみも無い代わりに、苦しみもまた無い。宗教で考えれば話はまた別になる。死んでも地獄の責め苦が待っていると信じていれば、何も死刑にしなくても、生きて罪を償えると考えるのだろう。
 宗教と言う目に見えない、心の世界の問題がからんで来ると話がややこしくなる。もちろん、裁判員の心の問題も重要だ。そして殺された遺族の心の問題もまた重要である。だから、一人の人間の命を断って事を終わりにするのではなく、生きている限り考えさせる事の方がずっと有益だと私は思う。生きられる命を無惨にも断ってしまった罪はそれほど大きいと考える。

国会が柳田法務大臣の失言で揺れている

2010年11月20日 | 政治問題
 法務大臣右は失言をしたのではない。単に本音を漏らしたに過ぎない。漏らした事が失策だっただけの事である。「失言」については調べた四冊の国語辞典が全く同じ説明をしている。曰く「言ってはいけない事をうっかり言ってしまう事」。
 言ってはいけないのは、それが他人を害したりする事もあるが、多くは本音だからである。本音を漏らした事はどのように言い訳をしても元には戻せない。うっかりと他人を害してしまう事はある。例えば、差別用語の使用など。私は差別用語との考え方をそもそもは信用していないが、盲目の人を「めくら」と言って、当人から不快感を示される事はあるだろう。話は飛ぶが「めくら」で私はすぐに思い出す事が一つある。それは昔『暮しの手帖』に載った話で、ある大阪の盲学校の児童が言った言葉である。
 「めくら、めくら、と馬鹿にするな。心の目が見えとるわい」
 本当にそうである。世間には心の目が見えない人が何と多い事か。そうした人を指す言葉としては「めくら」は誠に言い得ていると思う。そして盲目の人に対しては決して差別用語にはならないと信じている。差別とは、何よりも発言者の心の問題だからである。
 差別用語が失言になる事はある。しかし柳田法務大臣の場合はうっかりした失言などではない。うっかりはしている。それは本人が「うっかり人間」だからである。「うっかり=ぼんやりしていて忘れたり、気が付かなかったりする事」である。ぼんやりしていて、本音を漏らしてはいけない事に気が付かなかっただけの話なのである。

 こんないい加減で駄目な人間が一国の大臣を、それも法務大臣を務めている事がそもそもは信じられない。「今後何事にも真摯に当たる所存だ」などと言っているが、土台、そんな精神が無いと思えてしまうのだから、いくら真摯に、と言っても無駄である。駄目な考え方や感性に真摯になったって、どうにもならない。
 しかし、法務大臣は実は真実を語ったのだ、と私は思う。そうではないか。政治家の発言はみな、どれも立派に見えるが、その実、本心は案外とこうしたいい加減な気持に満ちている事が決して少なくない。だから野党が「国会を侮辱している」と怒るのも無理は無い。自分達のいい加減さを代弁してしまった事になるからだ。
 そうした野党の考え方の代表的な一つを山本自民党議員がしている。曰く「政権打倒」である。
 民主党政権は我々国民が選んだ結果である。政権を担当する事に不慣れな面は多分にある。それは国民は知っている。百戦錬磨の自民党ではないのだ。自民党はそれこそ汚い事もたくさんして来た。それを国民が嫌がって、政権の座を追われたのである。
 「打倒民主党政権」などと言われると、それこそ国民を侮辱している事にならないだろうか。確かに内閣支持率はじり貧である。しかしこうした世論調査は単なる人気投票にもなってしまう面がある。その証拠には支持率は簡単に上がったり下がったりする。そんないい加減に支持をしているのか、と思うほどである。一喜一憂していては、政治など立ち行かない。もっと不動の精神が必要だろう。
 あのねえ、山本くん。政治はさあ、○か×かじゃないんだよ。民主党が駄目なら自民党だ、なんてならないんだ。自分達だって、民主党政権が決めた事はすべて絶対反対だなんて思っていないはずだ。国民は政権担当者として民主党を選んだ。あとは、その方針を巡って、与党、野党が議論を戦わせれば良いだけの話ではないか。良い案なら賛成すれば良いのだし、納得の行かない案ならば、徹底的に議論を戦わせれば良いのである。
 だから私はねじれ国会で良いとさえ思っている。何でもかんでも多数党の思う通り、では駄目なのだ。ただ、日本の政治はまだまだ未熟だから、どうしても対決姿勢になってしまう。それが「政権打倒」の言葉となって現れてしまう。

 政権を担当する事は決して名誉な事でも得する事でもないはずである。言うならば火中の栗を拾う役目ではないのか。良い例が、対中国問題であり、対ロシア問題である。こんな難しい事は無いだろう。おどしたり、すかしたり、なだめたり、いやいや、もっも様々な手練手管が必要だ。私は相手は「ごろつき」と「暴力団」だと思っている。そんな奴らを誰が相手にしたいもんか。
 そうした難しい様々な問題に現実にぶち当たるのが政権なのであって、与党も野党もその応援こそするべきなのであって、いちゃもんを付けて退陣に追い込むのが仕事ではないはずなのだ。
 今、様々な失言が取りざたされている。失言はもちろん問題だが、それをどう考えるかに、政治家達の本音が現れている。それなのに、それに気が付かず、相変わらず、鬼の首でも取ったかのように錯覚して、自分自身を売り込んでいるその醜悪さ。
 それで、私はこうした失言騒動はとても有益な事だと考えている。みなさんの素顔が丸見えになる絶好の機会だからである。

海上保安庁の映像流出問題と朝日新聞の社説と

2010年11月18日 | 政治問題
 17日の朝日新聞の社説の一つが映像問題だ。以下はその要所の抜粋。●の段落が抜粋。△が私の感想。

●忘れがちだが、捜査の基本は在宅調べで、逮捕は証拠隠滅や逃亡の恐れがある場合の手段だ。これに照らせば身柄拘束にこだわる必要はない。肝心なのは流出に至る真相の究明である。これまでの捜査で驚かされたのは海上保安庁の情報管理のお粗末さだ。
●映像はどう保管され、ネットとどうつながり、どこまでの職員がアクセスすることができたのか。(略)映像は刑罰を科してでも守る秘密だったのか否かの判断にも影響する重要な問題だ。

△最初の段落で、そうか逮捕は最後の手段なのか、と改めて気付かされる。そして海保の情報管理のお粗末さは誰もがそう思っている。しかし、そのお粗末さの中身が明確にされる事と、映像が刑罰を科してでも守る秘密だったのか否かの判断とは明らかに別の事だと私は思う。
 以下、抜粋を続ける。

●朝日新聞は国民の知る権利の大切さを唱えてきた。だが外交、防衛、治安情報をはじめ、すべてを同時進行で公にすることがその中身ではない。
●情報の公開とそれに基づく討議は民主主義に欠かせぬという認識を互いに持ち、ケースごとに全体の利益を見すえて公開の当否や時期を判断する。この積み重ねこそが社会を鍛える。

△確かに、知る権利=すべての公開、ではない。相手との駆け引きがあれば当然に秘密の部分はある。そしてその重要な判断は、それこそ国民が政治を任せた以上は政治家の責務のはずである。しかしながら、今回は重要な判断が政治家には出来ていなかった。その事を社説は次のように書いている。

●今回の混迷のもとには、漁船事件に対処する方針がぶれたあげく、検察庁に責任を押しつけ、自らの姿勢を国民に丁寧に説明してこなかった政権に対する不信がある。そして、大国化する中国への感情やナショナリズム、党利党略がないまぜになり、感情論や思惑含みの発言が飛び交っている。

△この「混迷のもとには、…説明してこなかった政権への不信がある」との言い方が私にはよく分からない。説明が出来ていない政権への不信が混迷の要因になっているのではない。政権がきちんとした考えを持っていない事が不信の第一番の原因なのだ。それに、様々な事がないまぜになって発言が飛び交っているとは思えない。更には「混迷」しているのは、この書き方では我々を含む世間だ、と言っているようにしか取れない。「混迷のもとには、不信がある」と言っているのだからそうなる。
 しかし混迷しているのは政権その物であり、様々な報道機関である。我々は混迷などしていない。

●まだ真相が見えない。捜査を尽くし事実を解明する。それがネット時代の情報の公開や保全のあり方について冷静な論議を進めることにつながる。

△上記は社説の結論部分である。真相、つまりは事実の解明が重要だと考えている。複雑なネット情況で、何をどのようにしたら情報の保全が出来るのか。今回の真相が別のネット情況の保全につながるのか。情報の保全を図るのなら、ネットなどで流さない事が肝要ではないのか。情報は原本一つだけにとどめて、それを最高責任者が保全を図る。それだけで済むのではないのか。
 今回の事実はただ一つしか存在しない。日本の領海内で不法に漁をしていた中国漁船が、警告した海上保安庁の船に体当たりをして来た。その映像を秘密にした。それが漏れた。ただ、それだけである。ここに不信があるとすれば、それが日本領海内だけだったのか、だけだろう。
 映像の流出については、二つの見解がある。
 一つは、どのような事があろうとも、組織の仕組みは守らなければならない。つまり、漏洩は罪になる。
 一つは、国民の利益になる事が秘密にされたら、それを明らかにするのが、仕事とは別に、国民の役目である。
 組織に属している以上、組織に従うのは義務である。そして、国民としての役目も忘れてはならない。特に「国民として」は、「人間として」と置き換えられると思う。つまり、これは一種の内部告発ではないのか。
 話を複雑にして分かりにくくしているのは、この事件を取り上げて様々な論評をしている連中なのではないのか。そうした「混迷」の原因の一つがこの社説でもある。社説のタイトルは「まだ流出の真相が見えぬ」である。社説は今回の真相を突き止める事が「情報公開や保全のあり方についての冷静な議論」の要因だと結論している。
 流出の真相とは、本当はなぜこの映像を秘密としたか、のはずである。一番重要な事がすり替えられているとしか思えない。

 この社説を読んで、私は自分の文章の読み方が果たして正しいのかどうか、分からなくなっている。

尖閣ビデオの流出でバランス感覚が試されている

2010年11月11日 | 政治問題
 政府が公開を禁じたビデオが民間に流出してしまったから、大騒ぎになっているが、問題はたったそれだけである。けれどもそれだけでは済まない大きな問題をたくさん抱えている。だから余計に問題になる。
 ビデオの内容が明らかになる前から、なぜ公開を禁じているのかと大きな疑問があった。正しい方法(?)で見た議員達からは公開すべきだ、との声も挙がっていた。もうオーブンになってしまった映像を見た人々は、やはり何で公開を禁じたのか分からないと言っている。
 政府は国益を考えて公開を禁じた。だからその「国益」が問題になる。そして多くの人々が、それはむしろ国益に反すると思っている。つまり、国益一つ取っても、複雑な問題を抱えている。
 と言うのも、考え方がすっきりと一本筋が通っていないからではないのか。誰が考えたって、駄目な物は駄目なのである。間違っている事は間違っているのである。それなのに、駄目な事がそうではない、と考えられ、間違っている事が正しいと考えられてしまう。

 考えられない事だが、こうした重要な事に私利私欲が絡んで来る。自己の立場を守りたいとか、嫌いな奴に威張らせたくないとか、そんなくだらない事がまかり通っているらしい。日頃からの人間性がはっきりと現れてしまう。この事件がそもそもは非常に分かり易い内容だからこそ、その人間の駄目な部分があぶり出されてしまうのだと思う。
 日本の領海内で違法に漁をしていた中国の漁船が警告を無視して、体当たり攻撃を仕掛けて来た。事実はそれだけしか存在しない。それをビデオに収めた。これまた至極単純明解な事柄である。
 問題があるとするなら、本当に日本の領海内だったのかの確認くらいしか無い。それが出来ていないから、公開は禁止だ、と言うのなら分からなくはない。しかしどうもそうではない。こんな単純明快な事を誰が複雑怪奇にしてしまったのか。そいつが今回の重大犯罪人になるはずである。
 
 色々な人が様々な意見を述べている。それぞれにもっともと思える意見が多い。しかし枝葉末節にこだわれば、真実は見えにくくなってしまう。大事な事は真実の追及にあるはずなのに、それがぼかされてしまう。案外、それは「手」だったりする。
 だからパランス感覚が無ければ、真実の追及は出来ないだろう、と思う。それは常日頃から、この世の中はどうあるべきかを考えていない限りは養えない感覚だと思う。その根底には人間の幸せとは何か、がある。だから、金儲けばかりに夢中になっている人間にそうした考え方が出来る道理が無い。自分の権勢を守る事だけに汲々としている人間にも出来ない。自己保存の本能に頼らないパランス感覚の優れた人は市井の中には存在していても、こうした場合に世の中を導くような責任有る役職の人にはどうも見当たらない。

 何かとても理想的な絵に描いた餅のような話になってしまったが、要するに私の言うパランス感覚とは、例えば、今回のビデオを流出させた人間の罪を問題視するよりも、もっと大きな事を解決すべきだ、と言うだけの話なのである。確かに官公庁に籍のある人間がその上位の命令に違反するのは罪になる。しかし悪法もまた法なり、は通用しないだろう、なのである。まずは今回は総理大臣の責任が問われてしかるべきだと考えている。

官庁は泥簿の巣窟か

2010年11月10日 | 政治問題
 仕分けで廃止と決まった事業が、名前を変えて堂々と予算要求をしているとの話を見聞きして、何だ、官庁は「こそ泥」の巣窟じゃないか、と思った。
・こそ泥=人目を盗ぬすんでこそこそとわずかの物をとって行くどろぼう。
・こそ泥=こそこそと人目を盗んではいり、わずかの物をとる泥棒。
・こそ泥=わずかの物をぬすんで、こそこそと逃げる泥棒。
・こそ泥=すきをみて、こそこそとわずかな物を盗み取るどろぼう。
・こそ泥=人のすきをみて、こっそりと物を盗むどろぼう。また、わずかばかりの物を盗むどろぼう。
・こそ泥=人に知られないようわずかな物を盗むどろぼう。
・こそ泥=こそこそ忍び込んで、わずかなものを盗む泥棒。
・こそ泥=こそこそと、わずかもものをぬすんでいくどろぼう。

 共通しているのは「こそこそ」と「わずかな物」だが、官庁のこそ泥は違う。「こそこそ」ではあるが、「莫大な物」を盗む所が大きく違う。しかしだからと言って、官庁を「大泥棒」呼ばわりは出来ない。これは石川五右衛門のような泥棒を指す。因みに「大泥棒」はどの辞書にも載っていない。
 こうなって来ると、官庁のために新しく言葉を作り出さなければならない。
 官庁の「こそ泥」の特徴は、「こそこそ」ではあるのだが、反面「堂々たる」でもある。その破廉恥と言うか、犬畜生にも劣ると言うか。犬畜生なんて言うと、犬からクレームが付くだろ。俺たちはもっと高尚だと。そうだろう、そうだろう。
 あるテレビでは、蓮舫氏に食ってかかっていた、あの「女性なんとかかんとか」の主である「おばはん」のシーンを再現していたが、何が最も大事なのかをみなさん、何にも考えていない。いや、考えている。自分達の収入源だけが重要なのである。だから恥も外聞も無く、わめき立てるのである。もちろん、少しも恥だなどとは思ってもいない。その堂々たる振る舞いを見ていると、「堂々たるこそ泥」なんて言う、矛盾した言い方しか思い付かない。どなたか、びったりとした名前を付けてくれないだろうか。

尖閣ビデオは語る

2010年11月07日 | 政治問題
 インターネットで尖閣ビデオが流れていると言う。どこからどのようにして流出したのか、国はその調べをしているようだが、私はこれは面白いと思った。何しろ、あれだけ非公開だと騒いだ映像が一般のテレビで流れているのである。インターネットどころではない。もう出ちゃったんだから、しょうがないじゃないか、と言わんばかりの堂々たる出場ぶりである。それは十分な長さとは言えないが、相手が故意にぶつけて来た事は明白に分かる。
 誰がどのようにして、よりも私はこちらの方がもっとずっと面白い。流した人間は、インターネットで見させるのが主目的ではなく、こうして一つの事件にしてしまって、それを報道させる事によって、堂々と公開させる運びになる、と計算したのではないか、と思うからだ。もちろん、それが果たせなくても、インターネットなら多くの人々が見る事になる。
 私も見てみたが、どうした事かYou Tubeはマックが落ちてしまうし、あるチャンネルではフリーズしてしまう。それでも別のチャンネルで流出映像は見る事が出来た。テレビがその一番肝心な所だけを放映している事も分かる。まさに仕掛け人の狙った通りになっているのではないのか。

 それにしても、なぜ政府は非公開としたのだろうか。日本の船に故意にぶつけたと言う事実をなぜ隠さなくてはならないのか。これが日本の領海の外での出来事なら、日本にも落ち度があって、相手が怒ってぶつけて来た事はあり得る。現に中国人がそう言っている。ぶつけて当然だと。つまり、このビデオを非公開としたのは、政府にはこれが日本の領海での出来事であるとの確信が持てなかったのか。まさか、とは思うが、相変わらずの弱腰を見ているとそう思えてしまう。
 そんな駄目な日本をロシアは冷静に見ている。だから敢えて北方領土の視察を行った。
 ねえ、みなさん、我々は一度は辛い思いをしようじゃありませんか。何かが手に入らなくなったって、しばらく辛抱しようじゃありませんか。「欲しがりません、勝つまでは」の精神で突き進もうじゃありませんか。1億の国民が総決起すれば、いかに「ごろつき」の中共でも、「無頼」のロシアでも、無視は出来ないだろう。自分だけ安穏な場所に居て、やれ政府が弱腰だの何だのと言ったって始まらない。世界には正義の味方は絶対に居るはずである。それにこの時とばかりに日本を相手にするような国だってあるはずだ。中共やロシアに奪われていた物事を取り返すチャンスだと。

 こうした場合、中国本土に生産拠点を置く企業は困るだろう。でもなぜ中国本土に拠点を移したのかを考えてみよう。安い労働力を使って、少しでも安価な商品を作りたいからだ。それは日本人のためにもなる。しかしながら、その分だけ、日本の労働者は失業してしまう。それは収入を失う事に繋がる。そうなると、いくら安くても簡単には買えなくなる。
 これは一つの悪循環になるのではないか。国外で安い商品を作る。国内では失業が増える。安い商品でも買えない。では更に安くしたらどうか。国内生産の他の部門を国外生産に移すのである。そしてそれだけ、国内では失業が増える。
 物事がこんな簡単な仕組みではない事は分かっている。しかしこうした仕組みが日本を駄目にしている部分は絶対にあると思う。何かもっと根本的に考え直さなくてはならない事がたくさんあるのだと思う。こうした事の延長線上に領土問題もある。
 もちろん、領土問題に関しては、一時の怒りだけでは何も出来ない。用意周到な準備と覚悟が必要になる。でもそれが出来るのが日本人だと私は思う。これだけ文化や産業が発展している日本だからこそ、出来ると思っている。
 

朝顔から尖閣映像公開まで

2010年11月03日 | 政治問題
 朝顔の蕾がだんだん膨らんで来て、色付いて来る。あ、あした咲くな、と期待していると案の定、目が覚めた時には既に咲いている。ただ、ベランダの手すり側で育てているので、どうしても花は外に向かって咲くから、十分に花が楽しめない。来年は壁側で育てようと思う。まだまだ蕾があるから、当分楽しめそうだが、一体いつまで咲いてくれる事だろうか。季節感としては落第だが、何事にも季節感の無くなりつつあるこの時代、文句を言う事は無い。
 この朝顔は今年になって、2本に枝分かれした物を切って来て挿し穂した。水の中できれいに根が出たので鉢植えにしたら、2本のつるが共にすくすくと成長して、こんもりと茂った。琉球朝顔独特の丸くて濃い緑の葉が密生して、花が葉に隠れてしまう事が少なくないのが残念だ。

 朝顔に見とれていたら、テレビでおかしな話をしていた。国会議員が尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件のビデオを見た。30人の議員が国民を代表して見た事になる。どんな映像かは見た議員の語る事を聞くしか無いが、誰もが故意に衝突させた、と見ている。そうだろう。「よなくに」の場合には、停船していた船がエンジンを掛けて黒い煙をもくもくと吐きながら向きを変えて迫って来たのだから、故意としか考えられない。「みずき」の場合も、併走していた船が自然に寄って来たのではない。針路を変えて体当たりするようにぶつかって来た、と言っている。こうした映像を判断出来ない国会議員が居るとは思えない。
 ところが、このビデオを公開すべきかを聞かれると、公開すべきではない、と答えた議員が居る。新聞で見たら、それは全部で8人も居る。見た議員のおよそ4分の1が公開に反対なのである。朝日新聞では「ひとこと」と題して各議員のコメントが載っているが、問い掛けは「中国人船長の処分保留での釈放」問題も含んでいるから、そのコメントになっている場合も多いが、公開反対の議員とそのコメントは次のようになっている。ただし、公開反対のコメントがある議員のみ。

中井 洽 国会に提出されたビデオの一般公開はルール違反。
前田武志 あくまでも予算委の審議の資料だ。
川上義博 「公開」を外交カードとして持っておくのがベスト。
水戸将史 現在の外交情勢で、公開するのは適切ではない。
福島瑞穂 政治問題になっている。公開は慎重にすべきだ。

 私としては賛同出来るのは川上氏のみ。ただ、「外交カード」とは良い手段だが、今の政府にそんな芸当が出来るとはとても思えない。それが水戸氏の意見になる。ただし、「現在の外交情勢」がどのような事を指しているのかは問題だ。単に現状を認めているだけなら、そんな事だから日本は舐められるのだ、と言いたい。福島氏の考えはよく分からない。
 中井氏は何を言っているのか。確かに公開はせずに国会で見るだけにする、とのルールを決めた。それはその映像をどのように判断出来るかが分からなかったからのはずだ。しかしその判断は出来た。彼等30人はそれが出来た。だからこそ、明白に衝突させた事が分かる映像を公開すべきではないのか、と問うているのである。根本的に理解力が不足している。これが国会議員なのか。
 前田氏もおかしい。何ですか、予算委ではこうした難しい外交問題が審議出来る、少なくともあなたはそれが出来ると思っているのですか。

 公開賛成議員のコメントは次の通り。
塩崎恭久 世界に発信し、何が真実か示さないといけない。
武部 勤 首相がクビをかけて政治判断すべきだ。
井口邦子 公開しても国益に反しない。
小野次郎 見られる人を限定するのは全然理解できない。
片山虎之介 見せりゃいい。どうってことない。

 どちらとも言えないなどと政治家の資質を疑うようなコメントの岡島一正、笠井 亮、赤嶺政賢、阿部知子、植松恵美子、森ゆうこ、大門実紀史氏は無視した。国民を馬鹿にしているのか。それとももっと深い考えがおありなのか。
 上のコメントで正論は塩崎氏と小野次郎氏だけだと思う。衝突事件が起きた。その真実を報道してどこがいけないのか。国民になぜ隠しておくのか。しかも国際問題にもなっているのだから、全世界の声を聞くべきではないのか。首相に下駄を預けるのも解せない。片山氏の「どうってことない」は「中国が」と言っているのであれば正論だろうが、この言い方では「見せたって見せなくったって、どうってことない」とも取れてしまう。まあ、短いコメントだから難しいが、短いからこそ、適切な言葉を選ぶ必要がある。もしも、記者が端折ってこのように短くしたのなら、腕が悪いのかも知れない。

 先に無視した森ゆうこ氏は「すぐに公開すべきだという立場だったが、この間いろいろな外交交渉があったから、『公開すべきだ』とはなかなか言えない」と語っている。一覧表では、すぐに公開すべきだという立場だった事は分からない。
 確かに難しい問題ではある。何しろ、相手が一筋縄では行かない。言うならば、「ごろつき」である。これが普通に言う世間でのごろつきならば、容易に対処が出来るが、一応は国なのである。その上位の有効な存在は無い。国連など、その肝心のごろつきが拒否権を持っているのである。
 でも、だからこそ、日本ははっきりとした考えを態度で示すべきなのではなかろうか。それが難しい事くらい、分かっている。しかしその困難な事をしてもらうために、我々は国会議員を選んでいるのである。議員諸氏はその一番大事な事を忘れているようだ。覚えているのは、自分の事だけのように見えてしまう。

わずか10分で「懇談」と言えるのか

2010年11月01日 | 政治問題
 中共の温首相と日本の菅首相が「懇談」したとマスコミは伝えている。時間はわずか10分間。二人が話し合っても持ち時間は半分の5分間。そこに通訳が入る。菅氏が話してそれを通訳が訳す。それを温氏が聞いてそれに対応する。それを通訳が訳す。結局二人はわずかに2分半しか話せない計算になる。この計算、間違っているだろうか。
 間違ってはいないとするなら、本当にわずか2分半の「懇談」になる。「懇談」を国語辞典は次のように説明している。
・形式ばらず、打ちとけて話し合うこと。
・打ち解けた雰囲気で、お互いに自分の事情や立場などを説明しながら話し合うこと。
・うちとけて話しあうこと。
・打ち解けた雰囲気で、親しく話し合うこと。

 打ち解けるには時間が居る。会談の予定を直前にキャンセルした側とされた側が簡単に打ち解けられるはずが無い。打ち解けるだけで2分半などすぐに経ってしまう。一体、どんな話がされたと言うのか。
 私には日本語をいい加減に扱い、しかも人間性を無視した報道だとしか思えない。多分、キャンセルされた不名誉を「懇談」の言葉でごまかそうとしたのではないのか。こんな事で「懇談した」などと騒ぎ立てるから、日本は世界中から馬鹿にされるのである。何と甘っちょろい奴らかと。

 「中共」と私が書く事について質問された。「中共」の言い方は、一つには「中華民国」ではないのだ、である。中華民国は台湾に存在していると私は考えている。実際に台湾の人々がどう考えているかは知らないが、勝手にそう考えている。二つには「中華人民共和国」の略称である。「中国」なら「中華民国」の略称にもなる。三つには「中国共産党の政府」である。つまり、中華人民共和国と称している8億人の人々の代表政府ではない、と言う事である。

中共政府はやはり反日デモを利用していた

2010年10月25日 | 政治問題
 反日デモは反政府デモの目くらましだと思っていたら、案の定、真実が現れて来た。貧富の格差を訴えるプラカードや住宅の高騰を訴えるプラカードが出て来た。中共政府は反日デモである限りは目こぼしをして、それが反政府デモに向かい始めたら、抑圧すると言うストーリーが初めから出来ていたと私は思っている。警察が反日デモを取り締まるように見せて、その実、それは反政府デモを取り締まる役目を担っていたと思う。それは日本人の反中国感情を抑えるのに役に立つ。でも、駄目なマスコミは真実を見ずに、それを反日デモを抑える映像としてしか流さなかった
 事実は一つであっても、見方によってそれは異なる。それは当然である。だからこそ、マスコミと称する連中は物事のあらゆる見方が出来なければ、その資格は無い。では、誰が見ても同じように見える映像をどうやって流せば良いのか。だから解説者が存在している。解説者があらゆる可能性を説明すれば良い。それによって、視聴者や読者のその映像の見方は変わって来る。