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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

前原氏の辞任を疑問に思う

2011年03月07日 | 政治問題
 外国人からの寄付を受ける事が許されないのは確かに政治家のイロハのイだろう。それが守られなかった。しかし違反していたのは後援会である。寄付金の一つ一つのチェックまで政治家がしている後援会があるのだろうか。議員と後援会の関係は、社長と例えば会計部長のような関係ではないのか。社長に一々首をつっこまれたら、部長はやりにくくてたまらないだろう。
 組織とは本来そうしたもののはずだ。だからこそ、その長には任命責任がある。私は前回のブログで前原氏を馬鹿だと書いた。それは政治家全部を含めての事なのだ。自民党を主とする野党のこの問題に対する意見を聞いていると、本当にみんな馬鹿なんだなあ、とつくづくと思う。
 こんなにコロコロと大臣が替わっていたら、外国からどんな目で見られるか。それでなくても、日本は傲慢で野蛮な国々に囲まれている。アメリカ、ロシア、中国なんか、その最たるものではないか。部下の不始末にその長たる者がいちいち責任を取っていたら、多分、何も出来ない。後援会は部下ではないが、それならなおさらの事、後援会の不始末に責任を取る必要は無いのでは無かろうか。
 牛肉輸入問題にせよ、郵政省の民営化にせよ、様々なアメリカからの勝手な外圧が掛かってくる。ロシアは北方領土の占領を正当化しようとする。中国は尖閣諸島を占領しようとする。そうした様々な無法に立ち向かって行こうと言うのに、一年5万円、5年間で25万円ぽっちの外国人寄付金で外務大臣が重大な任務をほっぽり出すとは信じられない。そのように要求している野党の政治家が全く信じられない。

 日本の政治家は、日本の発展よりも、自分達が日本国内で権力を握る事だけが目的なのである。だから、政府を応援するのではなく、その落ち度を見付けては何とか代わろうとするだけなのだ。そんなコップの中の争いをしていてい、日本が発展などする訳が無い。
 偉そうな顔をして、前原氏の辞任を要求していた自民党のお偉方よ、あなたがたは、北方領土をロシアから取り返す自信がおありですか。前原氏がロシアの外交筋から信頼をされていると言うのであれば(これは佐藤優氏の情報)、何とか前原氏の手腕を発揮させようと応援するのが日本国民としての役目ではないのか。
 ずっと昔に読んだ話なのでうろ覚えだが、 「どんぐりと山猫」 で、どんぐり達がこの中で誰が一番偉いのかとそれこそ 「どんぐりの背比べ」 をしていて、その審判を山猫に頼む。考えた末に山猫は、この中で一番駄目でどうにもならなくて、と様々な悪条件を挙げて、そいつが一番偉いんだ、と答えた。どんぐり達は沈黙してしまった。多分、こうした話だったと思うが、今の日本の議員達はみんなこの 「どんぐり」 並みである。そうそう、井の中のかわず、大海を知らず、と言うことわざもある。政治家達は蛙並みなのである。
 テレビで堂々と顔をさらして、前原氏の辞任を要求していた政治家達は本当に恥を知らないし、政治を知らないし、何よりも我々日本国民の幸福が何かを知らない。自分達だって日本人の端くれのはずなのにねえ。

前原外相の外国人献金問題

2011年03月05日 | 政治問題
 在日韓国人からの献金が4年間で20万円。大した金額ではない。しかし政治資金規制法で禁じられている事を「まえはら誠司後援会連合会」と言う名称の後援団体がした事が大きな問題だ。後援団体の主な役目は金銭的な支援である、と誰もが思っているはずだ。その最も重要な事に関して、政治資金規正法を知らなかった、は通らない。後援団体は故意にやったのである。前原氏自身は故意ではなかったと弁明しているが、それはそうだろう。知っていて、そんな金額で違法行為をするほどの馬鹿ではあるまい。
 だが、馬鹿ではある。後援団体を信頼し過ぎた。人の性格なんて、ちょっと付き合えば簡単に分かる。細かな情緒的な事は分からなくても、いい加減な人か、考え方のおかしな人か、悪い事の出来ない人か、と言ったような事は分かる。だから後援団体の責任者として適切かどうかなんて、簡単に判断が付くだろう。
 そうした判断が出来なかった、あるいはしなかった。だから馬鹿なのである。「後援」と言う名前に盲目的になってしまった訳だ。そこですぐに思い出すのが、佐藤優氏がロシアの外交筋では前原外相を買っている、と言っている事だ。私もブログでその話をした。一年間わずか5万円の違法でつまづくような人が、外交に対して手腕を発揮出来るのかと疑問に思う。

 結局いつも思う事なのだが、誰も彼もがカネに対して汚過ぎる。それが全世界の風潮になってしまっている。食糧を投機の対象にするなんてその最たるものだ。国家レベルでなら、アメリカがその代表だろう。我々の周囲を見回してみても、カネ、カネ、カネである。カネに目がくらんでいるから、真実が見えない。国内の産業を活発にするのではなく、他国の産業を活発にして、それで安い製品を作り、国内で売りさばいて儲けようと考える。その結果、国内の購買力はどんどん低下してしまう。そうした図式が全く見えてはいない。
 繰り返すが、前原さん、一年間たった5万円ですよ。もしかしたらもっとたくさん、別の件があるのかも知れないけど、今、問題になっているのはわずかそれだけの金額なんですよ。かわいそうと言うか、呆れて物が言えない。政治家の資質なんて、そんなもんなんですね。

にせものの平和に騙されるな

2011年02月11日 | 政治問題
 私は難しい重大な事の知識は持ち合わせていない。例えば、菅総理がロシアのメドベージェフの北方領土への訪問は暴挙だと言った。それに対して、外交交渉なのだから、相手が存在しているのだから、交渉を損なうような事は言ってならない、と言うメディアや知識人が多い。
 そうだろうか。菅総理が言ったのは「暴挙だ」と言う言葉である。それに対して、ロシア側は「占領」と言う実力行使をしている。でも、北方領土は現在はロシア領なのだ、と言うとすれば、現況に唯々諾々としている意気地なしだと思う。言うまでも無く、北方四島は日本固有の領土である。ソ連が日本の敗戦に乗じて図々しくも無法にも占領したのである。
 そのような無法に負けてたまるか。泥棒が正々堂々と白昼横行していて良い訳が無い。ロシアは大国だから戦争になったら負ける、などと理屈は通らない。平和の時代だから話し合いで解決せよ、との理屈も通らない。ロシアは話し合いで解決する意志は毛頭無いのだ。だから問答無用だと言っている。
 現在の所、日本が自由に北方四島を訪問する事は出来ない。日本の領土なのに出来ない。それなら、せめてロシアの暴挙だと言う事くらい何でもないではないか。
 一体、メディアや知識人達は領土問題を解決する勇気があるのか。もちろん、知恵も無かろう。私は先に言ったように、知恵は無い。しかし勇気はあるつもりだ。世界中で野蛮で無謀で貪欲で勝手な国々が弱い国々を痛めつけている。人間なんて、紀元前の時代からちっとも進歩していない。科学などは進歩しているが、人間性はまるで停滞したままだ。もしかしたら、退化しているのかも知れない。
 そんな世界で、どうして正義が通用しよう。人に平和をもたらすべき宗教が戦争をしているのである。

 メディアよ知識人達よ、無法な国々を諫める方法を示して欲しい。相手が居る事だからなどと、いい加減な事を言わずに、きちんと正しい方法を示して欲しい。あなた方は、暴力団などの無法な行為を、相手の事も考えて、などと言って野放しにする事に同意をしているだろうか。暴力団に理屈や正義は通用しない。それと同じく暴力・無法国家に正義は通じない。正義の観念がそもそもは違うのである。百年河清を待つおつもりか。

政党や政治家の能力が不足している、とのコラムがよく分からない

2011年01月30日 | 政治問題
 東京新聞のコラム 「筆洗」 が面白い事を書いている。政治制度には想定されたレベルがある、との話である。

 (二院制では) 衆院で過半数をとった勢力が参院で過半数を得られない 「ねじれ」 になることも当然ある。だから、たとえ、そうなっても対立を議論で乗り越えることができるレベルの政党や政治家が国会にいる、というのが前提である。

 まさに正論である。ただ、その次が私にはよく分からない。

  一つの勢力が両院を制す「まっすぐ」の時しか機能しないなら、二院制は、わが国の政治には高級すぎることになる。

  「一つの勢力が両院を制する時しか機能しない」 と言うのは、一つの勢力が両院で過半数を得て、「ねじれ」 は無いのだから、当然に対立を議論で乗り越える必要は無い。従って、それを乗り越える事が出来るレベルの政党や政治家も必要にはならない。
 だから、「こうした時だけしか二院制が機能しないなら、その政治は高級すぎる」 とはならないはずである。「過半数をとる」 と言う事は、現状の国会では、「問答無用」 で議案が通る、との事である。従って、過半数で問答無用である場合にも、「対立を議論で乗り越える事の出来るレベル」 が必要となれば、それは 「高級すぎる」 事になる、と言うらしい。
 しかし、そうでもないらしい。と言うのは、「一つの勢力が両院を制す時しか機能しないなら」 と言っている。普通はそのようには言わない。「一つの勢力が両院を制す時にも機能するなら」 と言う。本当は問答無用なのに、議論を戦わすのだから、「高級すぎる」 事になる。当然、それは日本ではあり得ない、との見解である。
 「議論」 は「 対立を乗り越える」 ためにされる訳だから、「対立」 はあるにしても、「乗り越えるとか乗り越えられない」 などと言う情況には無いはずなのだが、それは大目に見よう。

 結局、コラムは、「ねじれ」 で対立が起きても、議論で乗り越える事の出来るレベルの政党や政治家を前提としているから、二院制は成り立っているのだ、と言っているのである。だからもしもこれが一院制だったら、どうなるのか。一院制に 「ねじれ」 は無い。それは当然に一つの勢力が制するか、同じような勢力のどちらかになる。同じような勢力の場合、「高級なレベル」 の政党や政治家が存在するなら、「議論で乗り越えられる」。 ところが、コラムはそうは言わない。「高級すぎる」 と言ったそのすぐ後に、次の文章が続く。

 それでも、一院ではやはり心配、第二院は必要だとなると、今度は、国民の投票の 〝自由〟 が損なわれる。 「ねじれ」 ると、即、行き詰まるのだから、注意して、衆院で勝たせた勢力を、嫌でも参院で勝たせなければならなくなる。もう与党にノーも言えぬ…。そうならないための策は一つ。政党や政治家が制度の想定に沿う能力を見せることだ。

 これもよく分からない。過半数で制する場合には、一院制と 「ねじれ」 の無い二院制は同じになる。二院制で 「ねじれ」 がある場合のみ、過半数の勢力同士の議論が対立する。そして、コラムは明確に対立があるのが理想的だと言っている。それを議論で乗り越えるからこそ、そこに知恵が生まれる訳で、それは正しい。
 「一院制では心配で、二院制が必要だ」 と言うのは、過半数で制するのは駄目だ、と言う事になる。二院制、それも 「ねじれ」 のある必要がある。
 しかしながら、コラムはそうも言わない。「ねじれ」 が即、行き詰まりなのだから、「ねじれ」 は駄目だ、と国民が言っていると言う。「ねじれ」 ないためには、一つの勢力が過半数をとるしか無い。それがコラムの言う「 国民の投票の自由が損なわれる」 になるはずである。
 だから、そうしないためにも、「ねじれ」 は必要で、それには二院制が必要で、国民の自由な投票が必要で、つまりは現状のままで良い、と言っている。しかしそこに政党や政治家の能力が伴って来ないのである。それこそが、このコラムの言いたい事なのである。それが 「政党や政治家が制度の想定に沿う能力を見せることだ」 の結論になる。

 こうして色々と考えて分かったのは、コラムは結論として現在の政党や政治家の、相手と議論を戦わせて国民の求めている理想的な政治をしよう、と言う能力が欠けている、と言いたい。それを理想的に出来るのが、二院制で 「ねじれ」 がある場合だ、と言いたい。政党や政治家が制度の想定に沿う能力を見せる事を前提と考えているのだから、そうである。
 そこに、何かよく分からない例を持ち出して来た。だから、その例をじっくりと考えると、何が何やら分からなくなるのである。コラムは野球で、投手からホームベースまでの距離は案外と遠く、幼稚園児が投げるのが前提なら、そんな規則にはしない、との話から始まっている。ボールが届かなくてはゲームにならない。それと同じなのが政治制度だ、と。
 そして結論は、ちゃんとホームに届く球を投げて、決して幼稚園児ではない事を証明して欲しい、と結んでいる。これらの話はとてもよく分かる。途中をざっと読み飛ばせば、とてもよく分かる有意義な話である。だから、途中で戸惑ってしまった私が悪いのかも知れないが、私は先の文章を筋が通るように読む能力が欠けているのである。でも案外と、私の能力不足ではなく、コラム執筆者の能力不足かも知れない、などと考えているのである。

 それにしても、国会の様子を見る限り、政党と政治家の馬鹿な事、自分勝手な事、下品な事、どれを取っても政治制度に沿う能力など見られない。彼等を選んだのは我々国民なんだから、国民も同じレベルなのか。でも国民はもう少し馬鹿でも自分勝手でも下品でもないと思うのだけど。

役人の考え方とは

2010年12月29日 | 政治問題
 24日の朝日新聞がイラク戦争で日本の取った行動は正しかったかを検証している。大きな見出しは二つ。
 一つは 「小泉氏、閣内議論せず支持」。
 一つは 「外交分析ない政治風土」。
 これだけで何が言いたいのかはよく分かる。そして 「外交分析ない…」 の横には 「英は元首相ら140人超喚問」 とある。アメリカと最も親しいと思われているイギリスでさえ140人以上の意見を聴いている。
 同紙は開戦時に内閣官房副長官補として 「小泉政権がどう戦争に対処したか」 を知る立場にあった谷内(やち)正太郎元外務事務次官に話を聞いている。彼がどう考えていたかよりも私には興味深かったのが、締めくくりの次の言葉である。

 小泉元首相はリーダーシップがあった。だから広く閣僚らの意見を募って議論する、という発想はなかった。

 つまり、それで良いと考えている訳だ。しかしながら、リーダーシップと閣僚達の意見とは全く関係が無いと私は思う。 「リーダーシップ」 とは次のような事だ。
・指導権。指導的地位。指導力。統率力。
・指導者の地位・任務。指導者としての素養・力量・統率力。
・指導力。統率力。指導者の地位・任務。
・指導者としての地位・任務。指導者としての統率力。指導力。

 いつも引く小型の四冊の国語辞典の説明である。 「指導」 とは言うまでもなく、 「ある目的に向かって教え導くこと」 である。別の辞書はより具体的に 「官庁・会社・学校などで、望ましい方向に進むように、適切な指示を与えること」 と説明している。
 つまり、リーダーシップとは 「ある方向に向かって適切な指示を与える能力」 である。一つの辞書は単に 「ある目的に向かって」 としか言わないが、一つの辞書は 「望ましい方向に」 と言っている。別の二冊は 「直接指示を下したり、説明を加えたり、質問に答えたりして、教えること」 「知識・技術などを習得できるように教え導くこと」 と素っ気ない。
 だから、教える事の内容についてはありとあらゆる事があり得る。そしてたとえ 「望ましい方向」 だとしても、誰にとって、何が望ましいのかは様々に異なる。その様々に異なる内容が、一番重要なのである。それをほったらかしにして置いて、指導力も何もあったもんじゃない。この元外務事務次官の言っている 「リーダーシップ」 とは単にワンマンであっても良い訳だ。
 様々に議論を重ねて 「望ましい方向」 を見付け出す。しかしだからと言って、全員が言う事を聞く訳ではない。そこで発揮されるのが 「指導力」 のはずである。あるいは、 「望ましい方向」 を見付け出すために指導力が発揮される必要がある。誤解されては困るが、自分の思い通りに動かすのだ、と言っているのではない。日本の政治家は本当に何も考えていない人が多いから、指導力が必要になるのだ。

 最も重要な事がすっぽりと抜け落ちている。ただ、先の 「小泉元首相はリーダーシップ云々」 の考え方が、 「彼はワンマンだったから、閣僚の意見は聞くつもりは無かった」 と批判しているのなら分かるが、そうではない。彼は 「ベストな選択とはいえず、苦し紛れということはあったが、『×』 がつく解釈だったとは思っていない」 「米国がやるから嫌々従うのではなく、日本はもっと積極的にかかわるべきだと考えていた」 と言っているのである。見出しだって 「積極関与すべきだと思った」 なのである。
 彼がそう思っているのは別に構わない。しかし、だからと言って、広く閣僚達の意見を聴かなくても良い、と言う事にはならない。リーダーシップだけで物事がすべて出来るのなら、様々な大臣など要らなくなる。

 新聞などで聞き書きでまとめる場合には、本人の本当の気持とはずれてしまう事が多々ある。ただ、読者はそうした記事を丹念に読むしか方法が無い。そうすると、この場合はやはりこの 「リーダーシップがあったから…」 の考え方が重要になる。行政に携わる人々はこうした単純な考え方で何事も決めているのかと思わざるを得ない所に私は大きな危惧を持っている。

民主党のおかしな議員達

2010年12月14日 | 政治問題
 小沢氏のカネの問題について、民主党はまっぷたつに割れている。元々が寄せ集めなんだから、割れるんだったら割れたらいい。政権を取るためだけに集まった烏合の衆なら、散って当然。そして小沢支持者達がおかしな事を言っている。
 一つは、党を混乱させるのは悪である、と。
 そこには党内に問題があるとか無いとかはまるで無視されている。たとえ問題があったとしても、党内の混乱にならないように処置すべきであると彼等は言っている。それは身勝手な論理である。党が唯一の頼れる存在だと思っているからそんな考え方になる。自分達の保身にしか頭が回らない。
 だから、民主党に何の未練も持っていない庶民からは、確実に本心を見透かされてしまっている。そんな事にすら気が付かないのである。これではますます民主党の支持率は下がるしか無い。支持率と言えば、森ゆう子とか言う参議院議員がテレビで発言していたが、世論調査なんて当てにならないと。確かに世論調査はやり方次第でどうとでもなる面はある。あるが、様々な機関が色々な世論調査をしていて、その結果がほとんど同じだと言うのは、むげに否定は出来ないはずである。そこまでマスコミや庶民を馬鹿にしてはいけない。その前に自らの馬鹿さ加減を反省すべきである。
 党内を混乱させては困るのは、もしかしたら民主党が分裂するかも知れないからである。
 でもねえ、我々は民主党だからと投票した訳ではないんですよ。基本はあくまでも候補者その人に投票したのである。党がそんなにも大事ですか。そりゃあ、数が多ければ政権が取れる。だから単なる数合わせのような政党が出来てしまう。そもそもはそんな寄せ集めに過ぎない政党が問題なのだ。簡単に割れる党なら、割れれば良い。その方がずっと民意に適うはずである。

 もう一つには小沢問題は司法の管轄になったのだから、行政の出る幕じゃない、との論理。
 三権分立を盾に取っただけの馬鹿な考え方である。司法で問題にするのは、それが法律に触れるか触れないか、だけである。だからたとえ巨悪であっても、法律に触れないような方法を採りさえすれば、何ら問題にはならない。そんな事は一般の裁判で幾らでも見ているはずである。例えば割り箸が脳に突き刺さっていて死んでしまった事件。法的に医師に罪を認める事は出来なかった。しかし世間はそれでは納得しない。裁判長でさえ、納得は出来なかった。それが異例と思われた長文の「付言」となって表明されたのである。そこで裁判長はとくとくと、医師としての役割を説いた。役割が果たされていなかった、と裁判長は認めたのである。
 小沢氏を喚問しようとしているのは「政治倫理審議会」のはずである。裁判所とは違うのである。熱心な小沢支持者達はどうも日本語もお分かりにならないらしい。それ以前に一般常識すらも無いらしい。馬鹿な人達を選んでしまったものだ。彼等が小沢氏から多額のカネをもらっているとまでは言わない。
 小沢氏のカネの問題は多分、司法の場では罪にはならないだろう、と誰もが思っている。法の抜け道をきちんと調べて徹底した方法を採っているに違いない、と感じている。しかし、だからそれで良いとは絶対にならない。

 今問われているのは、小沢氏の人間としての資質なのである。それは司法とは関係が無いし、民主党の党内事情とも関係が無い。そうした最も基本的で最も分かり易い事が、熱心な小沢支持者達には理解出来ない。理解出来ないのではなく、理解したくないのである。なぜなら、人間としての資質で小沢氏が標的になれば、小沢氏の失墜は目に見えているからだ。
 国会とか議員とかは何も特別な存在ではない。我々庶民の代表に過ぎない。だから庶民が許さない事は、政治の場でも許されたりはしないのである。議員のみなさんは、何か特権階級にでもなったつもりで居るようだ。小沢氏の倫理審議を拒否する事は、自らの倫理審議をも拒否する事に繋がる。自ら墓穴を掘っている事に何で気が付かないのだろうか。お気の毒な人々である。

取り調べの可視化はやはり必要だ

2010年12月11日 | 政治問題
 鹿児島県の地裁で、死刑を求刑されていた事件で、裁判員裁判での判決が無罪になった。死刑と無罪、このあまりにも大きく衝撃的な違いの理由は何なのか。昨日、取調室の可視化について考えた。冤罪防止への努力を尽くすのは捜査機関の重要な事であり、捜査の原点が取り調べにこそある、との意見を紹介した。その意見を私は筋が通らないと批判した。捜査の原点である取り調べが冤罪防止への有効な方法であるとしたら、今回、裁判員達はその「有効な」方法を否定した事になる。
 一番重要な事は、被告の指紋が被害者宅に残っていたが、肝心の凶器となったスコップには被告の指紋が無かった事だろうと思う。そうした決定的な事柄が取調室でどのように取り扱われたのかが問題になる。証拠が灰色であるにも拘らず、検察は死刑を求刑したのである。それにはそれだけの理由が必要になる。そしてその理由を裁判員達は認めなかった。一般人の常識として認められない事が捜査機関では認められてしまう。それは実に恐ろしい事である。もしも、それが専門的な知識などの違いであるのなら、専門的な知識とはどのような物なのかを白日の下にさらす必要がある。それは取り調べの可視化が無ければ出来ない相談だろう。

 私は常々、専門家と一般人の違いを考えている。専門家は一般人の手には余る事が出来る。だから専門家なのだが、そこにある種の奢りがある。専門的な勉強をして来た者の奢りがある。そして、専門家と一般人との間に明確な越えられない一線を画してしまう。それは問答無用の世界なのだ、と。
 こうした情況からは有効な事柄は何も生まれない。物理学とか化学とか、特殊な知識を必要とする事柄ならそれでも構わない。しかし人の罪を問い、刑を決める事はそうした特殊な事では絶対に無い。自分と同じように生きている人を相手にしている以上、自分もそうした立場に立たなくては、専門的な知識の発揮のしようが無い。
 そうした事に気が付かない所に根本的な誤りが存在している。そうなると、もう本当に「専門馬鹿」としか言いようが無い。政治家はもちろんだが、検察も弁護士も裁判官もみな我々一般人と同じなのである。そうでなければそれらの任務は務まらない。
 裁判員の精神的な辛さがよく言われる。でもそれは裁判官だって同じはずなのだ。同じ人間である裁判員と裁判官とで、一体何がどのように違って精神的な負担があったり無かったりするのか。そんなはずは無い。裁判官だって辛い精神的な負担を感じているはずである。
 一つ言える事は、裁判官はそれなりの勉強をして来ているし、経験も積んでいる。報酬もそれなりに受けている。それで極刑を宣告しても裁判員のような辛さを感じなくなっている、との事はあるはずだ。そうした違いを無視して、裁判員制度には問題有り、と論ずるのは公平ではないだろう。中には裁判官の苦労を一般人に押し付ける制度だ、と言う意見すらある。
 そうではない。裁判官に全面的な信頼が置けないからこそ、裁判員制度が始まったはずである。高額の報酬をもらって、それなりに社会的な身分も保証されている裁判官の代わりに、誰が裁判員などになるものか。

 今まで専門家に任せっきりになっていて、闇の部分があると思われている検察や裁判の制度に一歩踏み込もうと言うのが、裁判員制度であり、取り調べの可視化なのである。専門家だけには任せて置けないからこそ、一般人が登場したり、一般人にも理解出来る情報を確保しようと言うのである。現行の制度を完全だと思い込んでいるからこそ、おかしな考え方が生まれてしまう。専門家は冷静に頭を冷やす必要があるし、一般人は決して卑屈になってはならない。同じようにこの世に生きる権利を持ち、義務を負っている同じ人間として、何の差も無い。あるのは単に日常の仕事としている業務の違いだけに過ぎない。




日本の米軍基地問題が分からない

2010年12月06日 | 政治問題
 沖縄県で普天間基地の県外移転を主張する現職知事が再選された。同基地は世界一危険な基地だ、との新聞の全面を使った意見広告が載った。基地の県外移転を願うのはもっともな事だと思う。
 占領のどさくさで沖縄に米軍基地が出来た。アメリカに取って、占領期間が長かっただけに自由が利いて都合が良かったからだろう。日本を守るのに、そして東アジアににらみを効かすのに、戦略的に絶好な場所だった訳でもないのではないか。
 基地が出来てもう何十年も経っている。戦争の形態は大きく変化している。当時は戦略的好立地だったとしても、今もなお、それが続いているとは思いにくい。接地戦ではないのだ。大陸間弾道弾などが主力になっている時代である。北朝鮮から日本列島を飛び越してミサイルが発射されてもいる。今一番の脅威を言うなら、北朝鮮ではないのか。その備えとしてなら、沖縄ではあまりにも隔靴掻痒の感がある。

 米軍基地は日本やアジアを守るためだろうが、結果的にはアメリカに大きな利益をもたらしているはずである。そうでなければ、誰が好き好んで、他国の防備のために国力を使うか。日本は防衛の肩代わりをしてもらい、アメリカは戦略的基地を得る事が出来る。それでお互いに利益が成立している。
 そうであるなら、米軍基地は何も沖縄に限る事は無い。日本の他の場所でも十分に役に立つはずである。沖縄からの県外移転を他の都道府県が認めないのは、単なるエゴに過ぎない。誰かが泥をかぶらなければならないが、自分達は嫌だ、ただそれだけのあまりにも汚い根性のエゴである。
 日本は軍備費が少ないようだ。それはアメリカに肩代わりをしてもらっているお陰でもあろう。だから、その浮いた分を沖縄県に提供してはどうなのか。その金で普天間基地の周囲を空き地にして、沖縄のほかの土地を再開発する。あるいは本州のどこかに広大な空き地を作って、そこに基地を持って来る。東京が再開発で超高層ビルを幾つも建てて人々を呼び込んでいるのと同じ事を他の諸都市でもやればいい。そうすれば、広大な空き地が生まれるはずだ。
 私は常々、都市の再開発と称して超高層ビルを建てている事を苦々しく思っている。何でそんなに様々な機能を集中しなければならないのかと。それはもっぱら金儲けの手段としてなのである。だから一念発起して、その金儲けを国民の利益のために方向転換したらどうなのか。

 私の考えは甘っちょろいかも知れない。しかし現に米軍基地で苦しんでいる人々が居る以上、何らかの方法を考え出す義務がある。日本は憲法で戦争を放棄した。それで世界が平和に収まるなら何も言う事は無い。けれども世界はそんなに甘くはない。だから軍備は捨てられない。それを日本は自らは理想を掲げ、代わりにアメリカにやってもらっている。それは果たして正しい事なのか。普天間が米軍基地ではなく、日本軍の基地だったら、話はどのように展開するのか。
 問題を初めからきちんと洗い直してみる必要があると思う。

国会議員の程度が低過ぎる

2010年11月29日 | 政治問題
 国会中継のニュースを見ていると、本当に情けなくなる。あまりに程度が低過ぎる。相手のちょっとした非をまるで鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てる。北朝鮮の馬鹿げた爆撃の時の総理官邸の対応のまずさを非難するのはまだいい。自衛隊を暴力機関とか何とかだと言ったと問責決議をしてどうなると言うのだろうか。ある人は広辞苑にそうした説明があると投書をしていたが、確かに自衛隊は暴力機関になり得る。それは官邸が言論の弾圧、圧政機関になり得るのと同じ事ではないのか。自衛隊は暴力機関になり得るからこそ、国を守る事も出来るのだと思う。官邸は圧政機関になり得るからこそ、有事に際してはやはり国を守る事が出来るのではないのか。
 物事の解釈は人それぞれに違う。性格もまた違う。議員とか政治家とはそうした存在で良いはずだ。常識があって、思いやりがあって、などが基本的な事だとしても、その「常識」とか「思いやり」にしても、人によって解釈が違う。この世の中に、これこそ文句無く満点を付けられるような人物は存在しない。みんな何かしらの欠点を持っている。そうした人間が互いに切磋琢磨して、色々と相談して大事な事を決めれば良いだけの話である。ただし、あまりにも欠点の多過ぎる、または大きい人は資格が無いが。

 国とは家庭と同じだと思う。家庭には農家の家庭もあれば、商家の家庭もある。サラリーマンの家庭もあれば、社長の家庭もある。代々の遺産で楽して暮らして行ける家庭もある。それと同じ事が国家にも言える。国はそれぞれにみんな性格が異なる。その国をどうやって運営して行ったら良いのか。
 それは家庭の運営と同じだと私は思う。夫と妻が常に文句を言い合っている家庭が、果たして良い暮らしの出来る家庭だろうか。それぞれに欠点や失敗があっても、それを補い合い、助け合いながら暮らして行くのが人間の暮しだと思う。
 でも今の日本の国は違う。事あるごとに相手を非難し、ののしり合って暮らしている家庭と全く同じである。選挙で多数を取った与党にしても、我々国民はその与党の絶対多数ですべてを乗り切ってくれ、などと頼んではいないはずである。舵取りをするのは与党であって良いが、独断では困ると考えているはずである。与野党が知恵を絞ってより良い道を探ってほしい、と思っている。
 何で与党と野党は対決姿勢になるのかねえ。それは単にそれぞれの議員の人間性が駄目な証拠だろう。○か×かだけで乗り切れるなんて本当に思っているのだろうか。まあ、国会でのあのやりとりを見ている限りでは、本当にそう思っているとしか思えない。そうした議員達を選んだのは我々の責任だ。でも、そうした議員候補しか居ないのもまた事実である。
 たとえ選挙中は立派な人だなあ、と思えても、当選して、どこかに属してしまうと、途端に変わってしまう。うーん、これは人間性だけの問題ではなく、政党とかの問題なんだろうなあ。でもその政党を率いているのは個人個人なのだから、結局は人間が出来ていないと言う事になるのかも知れない。そうした人間が日本を引っ張っているのである。

名古屋市議会リコール不成立に疑義がある

2010年11月27日 | 政治問題
 名古屋市議会の解散請求に対する署名が法定数を1万2千人分下回り、リコールは成立しないと発表された。
 その理由を日経新聞は次のように説明している。

1 署名者が選挙人名簿に登録されていない。約4万3千人。
2 代筆や署名集めをする「受任者」以外の人物によるなど収集方法に瑕疵がある。約2万3千人。
など。
 河村市長は24日夕、11万人以上の署名を無効とした審査結果に「悔しい。恐るべき民主主義の危機だ」と怒りをあらわにした。

 この記事を読んで、なるほど、選挙人名簿以外の署名は、これは駄目だろうな、と思う。しかし、2の「受任者」以外の人物による収集方法に瑕疵がある、との説明がよく分からない。
 しかし、朝日の記事を読むと、少し分かって来る。以下は朝日の記事。

 無効とされた署名の主な内訳。
1 署名した人の名前が選挙人名簿にないもの 4万3818。
2 署名の集め方に問題があったもの。2万2990。
3 自署ではなく、代筆とみられるもの。1万6787。
4 同じ人が2回以上署名したとみられるもの。1万0082。

 日経の2と朝日の2は同じである。この事について、新聞の記事を読み直しているのだが、私が見た記事がどこにも無いので困っている。それは確か、「受任者」以外の人が集めた場合は、そこに集めた人の署名が要る事になっているのだが、その署名が無い、と言うのである。それで無効になっていると言う。
 そして、その署名した人は、1でもないし、3でも4でもないらしい。その事は書かれていない。つまり、集めた人の署名が無いだけで、その署名は有効だとも考えられる。そうなると、その数を入れれば法定数を上回る事になる。だからリコールは成立する。
 この審査を行ったのは市選挙管理委員会で、その委員4人の内の3人は市議OBだと言うのである。そこに市長側の疑念も生まれている。
 こうした審査にどうして公明正大と誰もが思う人が選ばれないのだろうか。中身がどうあろうとも、リコール成立の法定数に近い署名が集まったのだから、事は重大である。市議側も民意を尊重すると言っている。それだけに、もっと誰もが納得出来る審査をすべきではないだろうか。