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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

目くそ鼻くそを笑う政治家達

2011年06月24日 | 政治問題
 誰が内閣総理大臣になったって、どの党が政権を握ったって同じだよ、と国民は思っているに違いない。この大震災の被害、福島原発の被害に対して政治のやっている事を見ていれば、誰だってそう思う。何か、世間を知らないと言うか、常識を知らないと言うか、どこかの別世界の住人達のしている事としか思えない。
 何で彼等がこんなにまで狂ってしまったのか。その原因は黙っていても入って来る巨額のカネにあるらしい。それに「権威」が伴う。権威なんか無いのに、様々な特権がある。そりゃあ、誰だって慢心してしまうよ。
 昔、杉村太蔵と言う新人の衆議院議員が居て、えっ、こんなにもらえるんですか? と正直な発言をしてしまって、党のお偉方から大目玉を食らってしまった。その太蔵くん、日本の文化についてのここがおかしいとの外国人の批判に対して弁護すると言う趣旨の番組に出演して、大変面白い所を見せている。こちらの方がずっと生き生きしているし、本人の真面目と言うか、真剣なキャラクターが出ていると思う。

 結局、まともな神経では国会議員は務まらないのである。外から単に見ているだけの私でさえ、彼等の無神経ぶりには呆れ果てている。奥さんとか子供も居るだろうに、家族も分からないのだろうか。あるいは匙を投げられているのか。だから彼等が他人の批判をすれば、それはそのまま本人に帰って来る。なのに、それにさえ気付いてはいない。
 年がら年中首相の顔が変わっている国なんて、どこの国だってまともに相手にしてはくれないだろう。それがいかに恥ずかしい事なのかさえ分からない。いっその事、報酬を現在の10分の1くらいにしてみてはどうか。それでもなお議員であって国のために尽くしたいと言う人だけを残したらどうなのか。

国会を福島原発に限りなく近い所で開く事をお勧めする

2011年06月18日 | 政治問題
 もはや国会が国民の幸せを守るためにあるのではない事は全国民が知っている。単に自分達の党利党略だけが考えられているに過ぎない。それはつまりは自分自身の保身のため、生活の糧を得るために過ぎない。もっともらしい事を言っているが、その実、何の中身も無い事が多い。自分が嘘をついた事は棚に上げ、嘘をついてはいけません、などと、いけしゃあしゃあと言う人など、顔を見るだけでも虫酸が走る。みなさん、自分が世間からどのように見られているかをまるで知らないらしい。それとも恥を知らないだけなのか。おそらくはそのどちらでもあるのだろう。
 自分達はのうのうと安全な所で贅沢な暮らしが出来ているから、被災地の人の事など真剣に考える事など出来る訳が無い。考えても所詮は頭の中だけの考えだから、そこには痛みも悲しみも何も無い。妻と二人の息子を残して自殺した酪農家の苦しみや絶望など、まるで分からない。

 だから、雲の上になど居ないで、降りて来て外に出て、しかも原発に限りなく近い所で考えたらいい。住む所は仮設住宅で良い。津波で家を失った人は別として、放射能汚染を避けて仮設住宅に住まされている人の身になるべきである。どの党の時に原発が推進されたのか、などは関係が無い。常に政治に関わって来た国会議員全員にその責任はある。もちろん、常に態度を明白にして原発反対に徹していた議員は除外する。ぞうではないのに、自分は原発の事故には関係が無いとでも言うのなら、国会議員であった期間の全給与と得た特権を全額返済すべきだろう。それが嫌なら、被災地の仮設住宅に住んでそこで国会を開くしか道は無い。
 雲の上に居るつもりだろうが、雲なんてあんな頼りない物は無いんですよ。落ちない内に早く心を改めるべきなのである。
 

新聞で知った重要なニュース

2011年06月15日 | 政治問題
 イタリアで原発再開反対派が大勝利をしたのは知っていたが、ベルルスコーニ首相が棄権を呼び掛けたとは知らなかった。更には、同首相傘下の多くのテレビ局が国民投票のニュースを黙殺した事も知らなかった。国賊ものの首相のその地位が安泰なのも超不思議だが。東京新聞の「筆洗」は「露骨なメディア戦略がまったく効を奏しなかったのも痛感だった」と、今日のコラムを始めている。
 そこにはまだまだ私の知らなかった事が書かれている。

 超党派の国会議員が「地下式原子力発電所政策推進議連」なる団体をこんな時期に発足させる日本の政界とは雲泥の差だ。

 今朝、寝起きのテレビで地下室の利点を取り上げていたが、あれはこの話だったのか。
 国民投票に関する事では、日本では国民投票が出来るのは、特定の自治体の住民投票を除いて、憲法改正と最高裁判所裁判官の国民審査だけである事も私は無知で知らなかった。ホント、何にも知らない男なんだね。いや、そんな事はどうでもいい。そこに書かれている事が重要なのだ。

 世界第三の原発大国の日本では、国民投票は可能なのか。実施されれば、主権者の選択を「集団ヒステリー」(石原伸晃自民党幹事長)と評する「上から目線」は覆せるのだろうか。

 石原が主権者の選択を「集団ヒステリー」だと言っているとは知らなかった。テレビでもっともらしい顔をして非常につまらない事をしゃべっているあの顔を私はダイッ嫌いだが、こんなとんでもない事まで言っているとは。彼が憲法改正の国民投票を「集団ヒステリー」とは言わないのは、それはまずは実施に至りそうもないからだろうし、最高裁の国民審判なんて、実質的に意味が無いからである。最高裁の裁判官がどのような判決を出しているかなんて、重大な裁判でもない限りはニュースにはならないから、裁判の記録でも読まない限りは分かる訳が無い。
 「集団ヒステリー」と言うなら、政党こそその最たるものではないか。自分の事は何にも分からないで、他人のあら探しばかりしている。まさにその名に恥じず、である。だから私は政党は要らない、と考えている。
 菅総理を辞任に追い込もうとしているのも、原発推進派の揺り戻しの疑いがある、と言うのももっとも事だと思う。
 今、日本中の国民が日本の政治家のアホ、バカの実体を知ってしまった。何かを言えば言うほど、素性がすっかりばれてしまう事にも気が付かないらしい。ホント、救いようが無い、と言うしかないけど、救われないのは我々全国民なのだ。

政治の連立はなぜ難しいのか

2011年06月09日 | 政治問題
 連立構想が打ち上げは華々しいが、一向に実を結ばない。なぜなら理屈ばかりが先行している。やれ、方針の合意だ、何のと言っている。それぞれに自分勝手な党ばかりなんだから、方針の合意がそう簡単に行かない。そうしたそれぞれの党の身勝手があるからこそ、連立構想が出てきたのではないのか。
 連立と言うのは、みんなが一致団結して現在の困難な情況に当たろう、と言うのが目的のはずである。それなのに、連立を組む、と言う事がまず始めの障害になっている。本末転倒ではないのか。与党だの野党だのと言っているからまとまる話もまとまらない。だからこそ一つの内閣にしよう、と言う話ではなかったのか。

 結局、みなさん自分の立場を守る事に必死になっている。今必死にならなければならないのは、大震災からの復旧であり、福島原発の処理である。だから庶民のみんなからそっぽを向かれている。呆れ果てられている。それでもまだ気が付かない。テレビなどに登場してとくとくと自分の立場を主張している政治家達は、良い事を言っているつもりなのだろうが、結果としては馬鹿さ加減を披露しているに過ぎなくなる。何で目先の小さな事しか見えないのだろうか。
 多分、政治家の立場を離れたら、個人的にはちゃんとした人間であり、常識もあれば思いやりもある人達なのだろう。つまり、政治家と言う立場が魔物なのだ。なぜ魔物になるのかと言えば、政治家には名誉とカネが付いて来るからではないのか。名誉とカネ、世俗の最たるものである。だから高潔な政治家が存在しないのだろう。

 お詫びを一言。最近、ブログの休みが多くて申し訳ありません。さぼっている訳ではないのですが、どうにも忙しくて、ついつい目先の事に追われています。それにブログの調子が悪くて、本文のプレビューが出来ず、コメントの管理も出来にくくなっています。何とかしないと。

政争議員の総取っ替え

2011年06月02日 | 政治問題
 今日の東京新聞の読者の投書欄に、この終戦よりももっと大変な非常時に政争ばかりに血道を上げている議員をすべて取り替えたい、との意見が載った。大賛成である。私の周囲もみんな同じように考えている。結局、自分の事しか考えていない奴等ばっかりなのだ。それでも今までは多くの庶民がまあ仕方が無いか、とそうした議員等を大目に見ていた所がある。でもここに至って、すべての庶民が目が覚めたに違いない。もし、まだ目が覚めていない庶民が居るなら、その人は永遠に目が覚めないだろう。そうやって政争議員の餌食になっていれば良いのである。でも、そうした人が多ければ、健全な庶民の足をすくう事になるから、無責任な事は言えない。

 どっちを向いても不誠実な奴等ばっかじゃございませんか。のセリフが聞こえて来そうである。いやいや、不誠実なんかじゃない。悪党だと言っても良いくらいである。人を騙し裏切るような奴は悪党だとしか言えない。自分のして来た事にはまるで口をつぐんで、他人のこきおろしだけをしている。諸外国から正当な批判をされたも、まともに聞く耳を持たない。悪党である上に、極め付きの馬鹿としか言いようが無い。
 私のパソコンの日本語変換では、「政争議員」は最初「清掃議員」と出て来てしまった。そう、彼等は世の中をきれいに清掃するのではなく、この世の中から清掃されてしまう議員なのである。

30億円もかけて開発した原発用ロボットを廃止しただと?

2011年05月17日 | 政治問題
 それぞれに作業を特定化した複数台の原発用ロボットが10年以上も前に開発されていたと言う。しかしその後の予算が付かなかったため、保守が出来なくて、すべて廃棄されてしまったそうだ。その後の予算が付かなかったと言うのがそもそもはおかしい。当時の予算に関する関係者をすべて洗い出して責任を追及すべきである。
 結局はこれもカネ儲けの手段だったのか。開発でふんだんにカネを使うのが目的だったとしか思えない。こうやって次から次へ無駄な物を作り、無駄にカネを使っている。もちろん、ロボットは無駄なんかではないが、それを無駄にしてしまう仕組みが出来上がってしまっている。

 我々庶民は毎日せっせと働いて地道に暮らしている。それなのに、どこかでは膨大な無駄金が使われている。連日の様々な報道で、今、日本では政府を始めとして、重要なポストに就いている人間がほとんど無能で役立たずで、むしろ悪質な被害を我々に与えている事が明確になって来ている。
 その典型的な例が、原子力ナントカカントカ委員である。震災発生当時から彼等は最悪の事態を知っていたか、想像出来ていた。しかし二ヶ月以上もの間、安全を主張し続け、収束を約束し続けて来た。完全に我々を騙していた訳だ。多分、騙し通せると甘く見ていたに違いない。頭の悪さと共に根性の悪さがはっきりと分かる。
 菅総理にしても、最悪の事態が露顕してしまっているのにも拘らず、相も変わらず当初の能天気な工程表に固執している。前にも書いたが、よその国では10年とか15年とかを見ていると言うのに。
 事態の収束がいったいいつ終わるのかはそれこそ五里霧中だが、ある程度の目処が付いたら、こうした関係者をすべて洗い出して、その発言内容も明確にして、その責任を追及すべきである。
 それにしても、そうした騙しに易々と乗せられて来た政府関係者の頭の悪さは相当なものだ。少なくとも、我々の代理としての責任者とはとうてい言えない。我々庶民には出来ない事が出来るからこそ、高給を与えられ、特権を与えられているのではないのか。

政府は東京電力の株主への配慮を口にしているが

2011年05月12日 | 政治問題
 東電は福島原発での莫大な賠償金で屋台骨が揺らいでいる。だから当然に株価は紙屑のように下落するだろう。そこで政府が株主の事を心配する。なぜなら、東電の株主には東京都もいるし、大手企業もいる。多分、国も株主なのだろう。
 株は重要な資金の調達手段ではあるが、株主は利益配当が目的で投資をしている。だから大幅な利益が約束されている企業に投資をする。それは常識だ。更に株価自体が値上がりするのが確実な企業に投資をする。これまた常識中の常識だ。
 そして投資は自己責任である事も、これまた常識中の常識だ。たとえ自然災害が原因であっても、経済界は甘くはない。それに今回の福島原発の事故は圧倒的多数の人々が人災だと考えている。もちろん、人災である証拠はあまたある。
 今回の事故が想定外の災害が原因だとしても、それなら、あのリーマンショックだって想定外の災害である。あの時、株価は何分の一かになってしまった。私だって数百万円もの損害を蒙った。しかしどこからも損害の補償は受けてなどいない。誰だって同じだ。これだって、常識である。

 東電の場合は経済界に大きな影響を与えるから、が理由なら、とんでもない事だ。経済界が成り立っているのは我々庶民がいるからこそである。そうではない、と言うのなら、経済界は日本を離れても世界のどこででも活動出来ると言う事になる。経済界の中心は大手企業だが、中小企業も経済界を担っている。
 我々庶民は常にいいカモにされているような気がしてならない。

都知事選の結果に文句を付ける人々

2011年04月11日 | 政治問題
 東京新聞に大きく二人の人の意見が載っている。
 一人はノンフィクション作家の佐野眞一氏。次のように言う。

 都民は石原氏のリーダーシップに期待したのだろう。だが、それは都民の夢想ではないか。東京を大災害が襲ったとき、石原氏がリーダーシップを発揮できるとは思えない。
 都知事選の対立候補の顔触れは、首都のリーダーを任せるには小粒だった。

 ふーん、では現在、リーダーシップを期待出来る人がどこにどのように存在しているのか。政府を見たってそんな人物は居やしない。野党を見たって居やしない。そんな中では石原氏はリーダーシップがあると私は思う。佐野氏は石原氏は新銀行東京で失敗し、東京オリンピック招致では惨敗したと言い、謝るべきなのに、いつも誰かに責任転嫁し続けてきた、と言う。そうだろうか。特に東京オリンピックは都市が開催する物であっても、言うならば国家的な大事業である。どこの国だって国が大きく後押しをしているではないか。それなのに日本政府はほとんど何もしなかった。一人東京都知事のせいにするのは卑怯だろう。
 佐野氏は先の「対立候補は小粒だった」に続けて次のように言う。明確な争点もなかった。有権者は現職に託さざるを得なかったのだろう。
 現職に託さざるを得なかった結果が261万票になるだろうか。投票率は他の12知事選の中でも高い方で、しかも三重県、奈良県と並んで前回よりも投票率の高かった3都県の一つである。更には新人が当選したのは神奈川県と三重県、福岡県だけで、あとはすべて現職が当選している。つまり、この9都県もすべて「現職に託さざるを得なかった」のだろうか。佐野氏はどうやって東京の261万にも及ぶ有権者の心の中を知る事が出来たのか。

 面白い事には、この佐野氏の「現職に託さざるを得なかった」との結論が、もう一人の大杉覚氏の意見に繋がっている。首都大学東京大学院教授である。見出しは「都民は選択肢奪われた」。原因は震災一色だったからだと言う。築地市場移転、新銀行東京、五輪誘致など争点はあったから、しっかり議論すれば面白い結果もあり得たのに、と言う。
 これがしっかりと議論をすれば有益な結果が出たはずだと言う争点だろうか。どれも我々の暮らしとは直接には結び付かない争点ばかりだと私は思う。大きな問題はどこまで庶民の暮らしに目配りの出来る都政が実現するかだろう。小さな様々な事の積み重ねである。石原氏のやった東京の排ガス規制は有効な成果を挙げているのに、そうした事はまるで無視している。これはリーダーシップが無ければ出来ない事ではないのか。
 大杉氏は次のように言う。
 都民は石原都政に飽きており、若い世代では石原氏離れが顕著だ。
 そうなると、今回の261万人と言う人々は大杉氏の言う「都民」には入らないし、「若い世代」も居ない事になる。大杉氏には261万人の人々の顔や動向が見えているらしいが、そんな事があり得るか。何をもって、「都民は選択肢を奪われた」と言えるのか。それにそんなにもたくさんの選択肢があったとでも言うのか。

 二人共、理想論をぶち上げているとしか思えない。我々都民が「リーダーシッブを夢想せず」「候補者が争点をしっかり議論すれば」、あるいは東国原氏が当選した、あるいは渡辺氏が当選した、あるいは小池氏が当選した、とでも言うのか。そして二人共、有権者に対して非常に無礼である。我々有権者には何の選択眼も無ければ、現実を見る目も、理想を描く頭も持っていない、と言っているように私には感じられる。東京新聞も変な人の意見を載せるものだ。

「日本の力」とは何か

2011年04月05日 | 政治問題
 AC広告が普通の若者らしき人々に「日本の力を、信じてる」などと言わせている。もちろんあの震災からの立ち直りへの気合いである。そう、力が無ければ復興は成らない。多分広告の制作者達は「日本の力」とは震災に遭った人々は元気を取り戻して頑張る事であり、震災に遭わなかった人々は惜しみなく援助をする、と言うような図式を考えているに違いない。しかし、所詮はカネも力も無い庶民の事、どれほどの事が出来ようか。頼みに出来るのは政治の力と経済界の力だろう。それは単にカネだけではなく、日本をどう建て直すか、と言う知恵が鍵を握っていると思う。
 そうした知恵を日本人は本当に持っているのだろうか、と大きな疑念が湧く。

 世界有数の経済力と技術力を持っているはずなのに、中国からは徹底的に馬鹿にされ尖閣諸島を占領され、北朝鮮からは日本人を拉致されたまま、韓国だって竹島を占領しているし、ロシアからは北方領土を占領されたままだし、アメリカからは米軍基地はもちろんの事、様々な経済的圧力を掛けられている。米軍基地は、日本は戦争を放棄したのだからとの理由で、おんぶにだっこで何の不審も持たないから、アメリカの言う通りにするしか無い。
 それらに対して何の反論も反抗も出来ない情けない日本人に、はたして知恵があると言えるのか。もちろん庶民は反論し反抗もしているが、それが政治に反映しない。政治家を始めとして日本を牛耳っている役人や企業らが反論し反抗しようと言う勇気も知恵も持っていないからそうなる。
 でも、そうした駄目な日本を変えようと言う勇気と知恵を我々は実行に移せないから、結局は我々には知恵が無いのだ、と言う事になる。つまりはAC広告の言う「日本の力を信じている」は空念仏に終わっている。

 今やらなければならない事は、被害者の救済と被害地の復興、そして破壊されている原子炉を止めて安全を取り戻す事だ。しかし並行して、日本はこれでいいのか、と考え直す事もしなければいけない。国の繁栄はエネルギーが必要だ、それには火力だけでは足りないから、それ原子力だ、と短絡的に考えて来た事を反省するべき貴重な時なのではないか。
 列島全体が地震の巣であるような国で、安全な暮らしとはどのような事なのか、が今までに考えられて来ただろうか。自然の恐ろしさを知っているはずなのに、ちゃんと先人達がその記録を残してくれていると言うのに、自分達のお粗末な技術に慢心して自然を馬鹿にしている。確率からは大災害は数百年に一度であろうとも、それはこれから先すぐにもあるのかも知れない事をまるで考えようともせず、目の前の経済的繁栄だけを追い続けている。
 スーパーなどの店内が暗いのは寂しいが、今までは明る過ぎたのである。私達夫婦はいつだって眩しくて涙が出そうだった。多少暗くてもきちんと商品は選別出来る。電車の運行本数が少ないのは不便だが、それだって10分とか15分くらい普段よりかかる程度である。もちろん、これは計画停電とは別の問題で、計画停電を除けば、全国的にこうした事を恒常的に続けて行けば原子炉が無くたって電力が不足するような事は極力防げるのではないだろうか。そして同時に風力発電や太陽光発電をもっと身近な手の届く物にすれば良い。今は高い蓄電池だって量産すれば安くなる。それは太陽電池だって同じはずだ。

 超高層が出来てどんどん醜い姿になりつつある東京を始めとして、カネに任せた開発はやめようではないか。外国企業は特に欧米の企業は東京から脱出している。家具のイケアは千葉県船橋市の本社の機能の一部を神戸市に移したと言う。首都を移転せよ、などとは思わないが、何でもかでも東京一極集中の愚策を改めるべき時ではないか。
 労働力の安価な国外で生産するのをやめれば日本の労働力が使える。失業者が減るから購買力だって増えるはずだ。今のやり方では物が安くなっても買える人が居なくなる恐れがある。もっと地道な暮らしをすれば、今のような、それっ、もっとカネを稼がなくては暮らして行けない、と言う情況からは少しは抜け出せるはずなのだ。聞く所によれば、子供を預けて働く主婦が圧倒的に多い現状は、主婦が携帯電話の料金の支払いに追われているからだ、と言うような信じられない事が真実らしい。
 携帯がそんなにもバラ色の素晴らしい暮らしをもたらしてくれるのなら、携帯をほとんど使っていない私などはさだめし、暗い惨めな生活をしていると言う事になる。でも私は今の自分の暮らしを仕事が無いから苦しいなあとは思うけど、携帯が無い故の惨めさなどは微塵も無い。

 この世界が巨大な力で動かされているだろうとは思っているが、だからと言って、それにみすみす飲み込まれて、いい餌にされている事は無い。ただ、「日本の力を信じよう」と言わせている連中が自らも「いい餌」にされている事に気が付かないのだろうから、なかなか「日本の力」を信じる事は難しいだろう。もしかしたら、餌にされている事を知っていながら、「日本の力」なんて言っているのかも知れない。

食べ続けても健康に被害が無いホウレンソウがなぜ出荷停止なのか

2011年03月22日 | 政治問題
 ホウレンソウと牛乳の放射能汚染が毎日放映されている。しかし放射能は微量で、ホウレンソウは毎日食べ続けても人体に影響は無いと言い切っているにも拘らず、国の命令で出荷が停止されている。おかしいじゃないか。規制値を越えたかららしいが、健康に害を与えない規制値とは何なのか。
 健康に害が無いと宣言しているのは、原子力発電の擁護であり、出荷停止を命令しているのは、原子力発電の危険性の宣言である。そうとしか考えられない。
 新聞の投書欄に80歳の男性の次のような声がある。

 菅直人首相や民主党の皆さん、素人同然の政治力しかないあなた方の政治生命がほとんど終わろうとしている時、あなた方のするべき仕事はただ一つ。原発の見直ししかない。将来の日本のため、国民の生命を守るために、今のあなた方だからできるこの決断をくだすことが真に国民を思う政策として後世に残るに違いない。

 そう、原発を必死に安全だと言って擁護しているのは、それこそ原子力発電の専門家とそれによって利益を得ている連中だけだ。灰色の煙か水蒸気か分からないものが原子炉から立ち昇っていても、その正体も原因も分からないと言っている東電の技術者や専門家なんか絶対に信用出来ない。専門家が分からないのに、それに100%の安全を保証出来る訳が無い。自分達が推進した原子力発電だから、安全だと言い張っているに過ぎない。少しでも安全に疑念を抱く発言をすれば、それこそ袋叩きに遭って、恐らくは生きていられまい。
 投書者の言うように、政府は原子力の専門家じゃないのだから、訳も分からずに専門家の言う事に同調していてはいけない。それこそ「素人」として原子力発電に断を下すべきだろう。

 同じ投書欄にこんな話がある。地震直後、投書した女性はJRのターミナル駅に降りた。駅の対応は早く、さっさとシャッターを下ろし、人々を駅の外に追い出した。トイレの使用やテレビを設置して情報の共有も出来るだろうに、とその女性は怒りをぶちまける。「シャッターで人々の喧噪から離れ、ほっとしている公共機関には呆れました」

 JRは公共機関ではないのだ。民営化して、利益追求が最大の目的の交通機関に成り下がったのである。そんな事、今に始まった事じゃない。あの尼崎脱線事故に対する対応、何の反省も無く、経営の責任者達は一様に自分達には責任は無いと言い張っている。列車自動停止装置を利益を優先して後回しにしていたのはどこのどいつだ。
 JRのこのような対応はテレビや新聞は伝えない。だから体験した人々がそれを大いに語るべきだろう。そうした情報を交換し合って、この世の中で大きな力を持つ者達がどのような動きをしていたかを冷静に見詰める必要がある。そして、この際、我々は全面的に日本のすべての機構を考え直すべきだ。被災者への支援、我々自身の助け合いはもちろんだが、目の前の事だけに追われていると、重大な事を見逃してしまう。
 テレビの情報は大切だが、被災地の様子とかこまごまとした情報を伝える事に重点が置かれているのは、案外と、細かな事に目を奪わせて大きな事柄を見逃すようにさせる魂胆なのかも知れない。