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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

国会中継で、総理の所信表明演説の一部を見て思った)

2011年09月14日 | 政治問題
 総理が震災からの復興について熱心に語っているのに、終始何かを叫んでいる男の声が聞こえる。なぜやめさせないのか、と不思議に思った。口をパクパクさせている若い男の姿が一瞬映ったが、画面はすぐに変わってしまった。叫んでいる男を映せばいいのに、と思う。国会の、しかも総理の所信表明演説中なのである。不心得者は即退場、でも構わないだろう。私は国会中継をほとんど見た事が無いので、今頃になって気が付いたのだと思うが、何で放っておくのだろうか。
 そして思った。演説は聴いて分かるのだから、その間じゅう、ずっと一人一人の議員の姿を名前入りで映したら良いのではないか。重要な事に関して、一人一人がどのように対処しているかが良く分かる。居眠りをしているのもはっきりと分かるし、プライバシーの侵害にはならないはずだ。国民の代表として国会に臨んでいる以上は、一人の私人ではなく、公人なのである。

 それにしても、真面目に聴いている振りさえ出来ない議員が居る事に呆れ果てる。人の話を聴くのは難しい。長い演説ならなおさらに難しいだろう。多分、事前に演説内容は配られているのだろうから、今更聴くまでも無いと思っていたとしても、聴く振りをするくらいは国民への義務ではないか。国会に出席して報酬をもらっているんでしょうが。
 

挙党一致内閣がそもそもはおかしい

2011年09月03日 | 政治問題

 野田新内閣が期待されているが、興石氏の起用で小沢派にも目配りをして、挙党一致体制で臨んでいるとの考え方があるが、そもそもは政権を担うとの覚悟であれば、挙党一致の体制は当然のはずである。心を合わせないで政権が担えるものか。
 つまりは、政権を担うと言うのは利権が目当てなのではないか、と疑られて当然である。自分の都合の良いように動くのだから、挙党一致になる訳が無い。違い過ぎる政策を掲げる人々が一つの同じ政党を作るのが間違っている。だから単なる数合わせに終わり、党内を統一する事に追われる。
 そんな事にかまけているから、肝心の政策が疎かになるのは目に見えている。何て愚かな連中なんだろうと呆れるが、そうした連中しか今の政界には居ないらしい。それもこれも我々選挙民がして来た結果である。今朝のテレビで自民党の偉い人が、民主党は我々自民党がやって来た事と同じ事をしている、と言うような意味の事を述べていたが、その通りだと思う。我々にとっては、単に自民党政権がその名前を変えただけに過ぎないようにも思えてしまう。

 今は絶好の目標がはっきりと見えている時ではないか。絶好と言うと語弊があるが、震災の復旧・復興、被災者の救済が第一である。もちろん、原発事故の処理と被災者の救済もある。そんな目標があるにも拘らず、その対策が一向に進まない。宿題が出されているのに、何もしない、出来ない生徒とまるで同じではないか。学校の生徒のような程度の連中に政治を任せる訳には行かないが、悲しい事には今の我々にはそうした事で我慢するしか無い。

野田新総理に特に文句は無いのだが

2011年09月01日 | 政治問題
 日本の総理は5年間に計6人になるとか。干支じゃないんだから、毎年変わる必要は無い。それに諸外国に対しても恥ずかしいじゃないか。もちろん、我々日本国民に対しても恥ずかしいはずなのだが、我々はもうとっくに呆れ果てあきらめている。
 我々は身近な事でも一年で成果を出そうとするのは無理な事が多い。それにそんなに簡単に成果の出せるような事なら、大した事はないのだ。でも、今回の震災の被害に関しては一年で成果の出せる事柄は一杯あるはずだ。一日も早く、と期待されている事は多いはずだ。それに対して菅内閣はその成果を出したとはとても言えないし、また、後継の内閣にしても成果を出せるとは思いにくい。何しろ、同じ体質の議員達が内閣を作り、国会を運営している。根本が何ら変わらないのだから、表面だけ、トップだけが変われる訳が無い。

 過去にも短命の内閣はあった。近い所では、羽田内閣の64日、宇野内閣の69日、細川内閣の263日、森内閣の387日などがあるが、その前後はそんなに短命ではない。
 急に人間の器が小さくなった訳ではなさそうだし、人材が枯渇している訳でもなさそうだから、結局は選ぶ人間の質と言うか、彼等の所属している社会、それは国会なのだが、それが変わったとしか思えない。何か、みんな、目先の自分の私利私欲ばかりに走っているような気がする。

二位以下だった下位が連合してトップになるのはおかしい

2011年08月30日 | 政治問題
 民主党の代表線で、第1回投票で二位に41票の差を付けた海江田氏が第2回投票では34票しか上積み出来ず、二位だった野田氏が113票も上積みしてトップになった。政界の常識を破ったと新聞は書いているが、政界だからこそ、こうした事が起きるのではないだろうか。
 誰もが信念を持って立候補しているはずだ。それぞれに信念が異なるから何人もの候補になっている。それが、トップになれなかった候補を支持している議員達が連合した。それって、候補者の信念はどうなってしまうのか。これは明確に、トップになった海江田氏に政権を渡したくないと言うだけが動機になっているはずだ。
 つまりは、元々が支持した動機が不純なのである。親小沢か、反小沢か、が支持の基盤になっているのだから不純この上無い。
 東京新聞の政治部長は、この選挙を「ドラマチックな展開」だなどと言っているが、少しもドラマチックではない。最初から魂胆が見え見えである。これをドラマチックだと捉えるなら、単にうわべだけを見ている事になる。

 民主党にしても自民党にしても、みんなちっぽけな政党ではないか。大きな視野を持てないから、誰一人として、原発をどうするのかを明確に言えない。数だけを揃えたに過ぎない。そんな連中がコップの中の争いを真剣になってやっているらしいから、まるで茶番劇を見ているようで、何の関心も持てない。世論の過半数が相変わらず、誰が総理になったっておんなじだ、と諦めている構図は変わらない。、
 議員のみなさんよ、結構な報酬をもらっているのだし、様々な特典だってあるのだから、もう少し真面目に、真剣になってもらえないだろうか。ここまで馬鹿さ加減を発揮する事は無いと思うよ。まあ、耳に痛い事は全く聞こえないと言う都合の良い耳をお持ちだろうから、言っても仕方がないけれど。

恥ずかしい政治家の考え方)

2011年08月27日 | 政治問題
 民主党の渡部恒三氏が次のように言っている。

 「どなたが新代表になっても全面的に支え、『やはり政権交替してよかった』と国民に思ってもらえる内閣にしないといけない」

 何とまあ、当たり前の事を麗々しくおっしゃっているのだろうか、と思ってしまう。「やはり政権交替して良かった」は抜きにしても、これは誰が、どの党が政権の座に就いても当然に通用する事である。通用しなければいけない事である。
 なぜ渡部氏がこんな事を言っているのかと言えば、当の民主党にそうした考え方が無いからである。党の代表選の候補者を、鳩山は誰を推す、とか、小沢は誰を推す、などと言っている。これは選挙の時だけではないだろう。自分が推していない候補が代表になれば、多分、そっぽを向く。現に、菅総理の時がそうだった。「誰が代表になっても全面的に支え」などと言う構図はまるで見られなかった。
 そんなに一つの党にまとまれないのなら、鳩山党を、小沢党を作ればよいではないか。でもそれだと少数政党になって政権が取れない。何の事は無い、政権の座に就きたいがために、形だけ「民主党」と言う一つの党になっているだけではないか。政権を取れなければ口を出せない、と言う日本の政治の現実が駄目なのだが。

 党の実力者が自分の政治信念に最も近い候補者を推すのは分からなくはないが、誰々の政治信念が最も良い、などと言う事はあり得ないと思う。それぞれに一長一短があり、それぞれの意見を出し合って互いに歩み寄り、多くの人々が賛同出来る方針を打ち出すのが本当の政治ではないのか。

 上記の渡部氏の考えは野党に対しても通用する原理である。「どの党の誰が総理になっても、全面的に支え、『今のような政治家達で良かった』と国民が思える政治でなければいけない」のである。
 言うまでもなく、内閣は国民に全責任を負っている。その内閣が誕生した事には野党も含めて、全国会議員が責任を負っている。野党が与党になれなかったのは単に支持者の数が足りなかっただけの事である。白か黒か、で争い、負けたのではない。ほとんどが灰色の中の濃淡の差でしかない。
 言うならば、ドングリの背比べであって、国民はあのドングリは駄目で、このドングリは良い、などと思ってなどいない。どのドングリだって同じだとしか見ていないはずだ。同じドングリなのだから、変な政権争いは見苦しいだけではなく、心底、その人間性が疑われてしまうのである。ああ、恥ずかしい。いや、恥ずかしいのは当の議員達であって、我々国民は悲しく、怒り心頭に発しているのである。


首相は菅氏では駄目で、なぜ他の人間なら良いのか

2011年08月26日 | 政治問題
 菅さんは総理の器ではないらしい。しかしそれならなぜ彼が民主党の代表に選ばれたのだろうか。いや、全員一致じゃないよ、と言うのかも知れないが、多数であった事は確かである。そして全員一致ではなくても、自分達の党の代表で、それが一国の首相になるのだから、全員一致で後押しをするのが党としての役目ではないのか。結局、民主党もその他の党と全く同じで、内部の派閥が権力を握っているのだ。党のため、それは国民の暮らしのため、に直結しているのだが、そんな事は毛頭考えていない。派閥の意向に沿った政治をしたからと言って、国民が幸せになるとは思えない。
 代表選では今、前原氏が話題になっている。しかし、鳩山がどうの、小沢がどうの、と取り沙汰されている。彼等が協力しなければ、たとえ前原氏が首相になったとしても、党内の協力が得られなければ駄目なのだ、と言っている事になる。
 菅さんの場合だって、鳩山や小沢が協力すれば、良い政権になったのではないのか。
 庶民はみんな、誰が首相になったって同じだよ、と、とっくの昔に諦めている。そう、庶民はみんな知っている。この国の政治がどんな連中が駄目にしているのかを。

みんな政治に絶望している

2011年08月21日 | 政治問題
 地震の被災者達が怒っている。国会は我々を馬鹿にしている、と。誰だってそう思う。国会議員達の頭の中にあるのは、自分達の利益の事だけである。中には心から被災者の事を思っている国会議員も居るだろうが、その姿は見えては来ない。圧倒的多数の人でなしの国会議員達の中に埋没してしまっている。国会はまさに烏合の衆だ、と言おうとして、辞書を調べたら間違っていた。「烏合の衆」とは、統一も規律も無く集まっている連中を言う。国会は変な統一や規律はある。自分達の利益を守るとの点で、統一の形を取り、ある種の規律もある。正義の人を造反者だと言って排斥する「規律」がある。
 それに烏はある程度、頭が良い。しかし国会議員は頭が悪い。頭が悪いのではなく、性格が悪いのだと思うが、いやいや、頭も性格も悪いのだろう。

 様々な被害を含めれば何万人もの人々が苦しんでいると言うのに、何も出来ない連中を頭も悪ければ性格も悪いと言って、何の不都合があろうか。いやいや、また間違えた。何も出来ないのではなく、自分達の権益を守る事だけは出来ている。
 民主党の首班指名に誰が立候補するのかとマスコミは話題にしているが、国民のみんなが、誰がなったっておんなじだよ、と匙を投げている。大事なのは誰が総理になるか、ではなく、政治に携わる全員が力を合わせて被災者を救い、国民全員のしあわせのために努力する事しか無い。それには抜本的な政治感覚の改革が必要だから、まあ、絵に描いた餅でしかない。

 外国から見たら、本当に馬鹿だと思うだろうねえ。総理がころころ変わる。そんな信用の置けない国なのに、円だけは強いなんて、本当におかしい。日本は資源は乏しいし、食糧の自給率は4割を割っているから、日本にどんどん物を売り付け、産業をどんどん国外に流出させ、日本を潰そうと言う陰謀があったっておかしくはない。日本には、下手すると、陰謀に加担する連中ばかりが居て、陰謀を潰そうとする人なんて居ないのかも知れない。そもそもは陰謀がある事にも気が付かないだろう。
 いくら自分の権益を守ったって、日本全体が沈没してしまえば、元も子も無いのに。日本は地震や津波で沈没するのではない。人でなしの連中によって、沈没させられてしまうのである。

原発の規制をする人間が推進する人間と同一人物である

2011年08月20日 | 政治問題
 歴代6人の保安院院長の内、5人までもが原発推進側の資源エネルギー庁に在籍の経験があった。もっとも、規制する原子力安全・保安院と推進する資源エネルギー庁が同じ経済産業省の管轄の下にある事自体が間違っているからどうしようも無いのだが。
 こうした事から分かるのは、5人の院長は何ら自主性の無い人間だった、と言う事である。原発を推進するとはどのような事なのか。原発を規制するとはどのような事なのか。幾つもの面があって、ある面は推進して、ある面は規制する、などと言う事ではないはずだ。原発は使いようによっては大きな効果があるが、その反面、大きな効果が大きな危険になる。効果と危険は常に隣り合わせになっている。大きな危険があるからこそ、それをプラスに生かせば大きな効果になる。だからマイナスになれば途端に今度の事故のように危険度7と言う災害になる。

 つまり、一つの事柄をプラスから見る立場とマイナスから見る立場は、一つの立場なのである。だから一人の人間がある時はプラスだと思い、別の時はマイナスだと思う事になる。それを一人の人間が使い分けられると思えるだろうか。使い分けられるなら、情況に応じてどのようにもなる主体性の無い人間でしかあり得ない。
 現在の院長は次のように言っている。

 「私の経験から申し上げて、同じ役所の中に規制側と推進側があることにより、安全規制をゆがめたことはなかったと思う」

 新聞は、問題ないとの認識を示した、と書いているが、つまり、この院長は規制側と推進側を行ったり来たり師しながら、何の問題にも直面しなかった、と言っている。それは真面目に仕事をして来なかったと言っているのと同じだと私は思う。すべて、いい加減にやりこなして来たからこそ、安全規制をゆがめた事はなかった、などとうそぶくのである。
 安全規制を歪めたのではなく、安全規制に何ら関心を持っていなかったのである。もちろん、それはこの院長だけには限らない。すべての推進派の連中が安全規制などに関心が無かった。テレビや新聞での発言を見聞きしていれば、そんな事は誰にだって分かる。それが「想定外の事故」との言葉に明確に現れている。

役人は骨の髄まで腐り切っている

2011年08月17日 | 政治問題
 経済産業省と文部科学省が交付金で原発の後押しをしている。それは既に分かっている。その交付金の財源が我々の税金である事も分かっている。原発も誘致している自治体は、原発無しでは生活が成り立たないと言うのは事実だが、原発関係で働く事で収入を得ていると言う事自体は原発に関する労働の対価だからいいが、その原発を稼働させる事に関して我々の税金がふんだんに使われている事は筋が通らない。結果としては、原発関係で働いて収入を得ているその収入の何分の一かは我々の税金だと言う事になる。

 こうしたおかしな事が堂々とまかり通っている事自体が許せないが、今日の東京新聞には原発新設の後押しを上記の二官庁がやっていた、と書いている。新設の場合、交付金を増額するのである。しかもそれを決定した日が問題だ。福島原発の事故の国際的尺度をチェルノブイリと同じレベル7に引き上げた翌日なのである。
 当然にそれらの官庁の役人はレベル7に引き上げられた事を知っている。そしてその後始末がいかに困難であるかも知っている。それなのに、である。
 新聞はそれを「改正」だと書いているが、「改悪」の間違いである。評価を抜きに報道するのが新聞の役目であると言うのなら、「改訂」あるいは「改定」とすべきである。「改正」には既に「正しい」との評価が含まれてしまっている。

 それにしても役人の奴等は非常に姑息である。資源エネルギー庁はこの改定を記者発表はせず、ただ官報に告示しただけだったと言う。これは4月13日の事である。しかし今日は8月17日だ。昨日分かった事実なのだろうが、何と官報での告示から4ヶ月も経っている。その間、誰も気が付かなかったのか。新聞社には官報を読む役目の人は居ないのだろうか。官報は簡単に手に入る。官報などの販売書店は各地にあるはずだ。
 役人のやっている事は何から何まで、ほんの小さな事からすべてチェックする必要があるだろう。全く違う話になるが、税務署など、租税の申告書のほんのわずかなミスまでも厳格にチェックし、税金を徴収している。カネの事だから細かくうるさくなるのだろうが、どんな仕事だって、結局はカネの問題になるのだから、税務署並みの厳格さが求められるだろう。
 この改定の責任者である海江田万里と高木義明の二人の大臣の責任は厳格に追及されるべきである。

駄目な民主党が再び駄目な代表を選出する

2011年08月13日 | 政治問題
 駄目だ駄目だ、と言われている菅さんを選んだのは民主党の議員達だ。その全く同じ連中がどうやったらもっと良いと思える代表を選べるのか。まあね、全員一致で菅さんを選んだ訳でもないのだろうから、やり直せば少しは増しになるかも知れないが。本当に「少しは増し」だろうね。なぜって、あんなに大きな被害を与えている福島原発の事故を目の当たりにして、しかも現在も被害は拡大していると言うのに、原発によるエネルギーはエネルギー全体の問題として考える必要がある、などと馬鹿な事を言っているのである。エネルギー全体の問題なんて言えば、原発を否定する事は誰だって出来ないじゃないか。エネルギー全体の問題、などと言うのは、現在の日本をそのまま肯定している考え方に過ぎない。

 庶民は今までの贅沢な暮らしを反省している。夜でも昼のように明るい暮らしはおかしいのだ、と気付いている。だから様々な節電にも協力しているではないか。今、世の中の事を一番よく知っているのはそうした庶民だけである。苦しさに直面しているからこそである。しかしながら、政治家達は誰も苦しさに直面などしていない。更迭される人間に上積みの退職金を支払って当然だと考えている連中なのである。

 北海道の高橋はるみ知事を私は骨のある人だ、と思っていた。しかし簡単にその思いは裏切られた。安易に原発再稼働にゴーの指示を出したのである。

 みんな、背骨の無い連中ばっかりではないか。頭も無い。顔だけはある。その顔は時によってどのようにも変わる。まるで化け物だ。そんな化け物連中が牛耳っている日本が良くなる訳がないじゃないか。これは多分、百年河清を待つ、だろうね。

 知人が、新聞に素晴らしい俳句が載っていたと言う。
 「八月や六日九日十五日」
 三つの日付を並べただけで誰にでも共感の出来る名句になっている。こうした思いを果たして政治家達は身に沁みて感じているだろうか。まずは絶対的に感じてなどいないだろうね。東北大震災の被害者の事も福島原発の被害者の事もすっかり忘れて自分達だけの事しか考えていない連中に、人間としての最低限の事さえ期待は出来ない、と私は思う。