要介護3に認定されたばかりの母を介添えして病院に行くと、老老介護が多いのに驚く。どっちが介護を受けているのか、待合室で座っている二人を見ると分からない場合がある。
顔が似ているので親子と分かる人も何組かいる。私たちもそう思われているだろう。待合室にいる人数を見て「こんなに待っているのか」と思うが、かなりの割合で付き添いがいるので、受診者は半分近くになる。時間をもてあまし、キョロキョロしながら「あの人も若い 頃は美男(美女)だったんだろうな」などと想像している、そんな時に、ふと思い出した人がいる。若い人は当然知らないだろう。私の世代でも、どのくらいの人が覚えているだろうか。映画俳優だった「伏見扇太郎」だ。
時代劇全盛の1950年代に隆盛を誇った東映。中村錦之介(後に萬屋錦之介)、東千代の介、大川橋蔵の次の世代になるだろうか。華奢な体つきと、女形も出来るような容姿で、 2本立て映画のもう一本(シングルレコードのB面に当たるか?)の主役を張っていた。「里見八犬伝」では主役の犬塚信乃で、なかなかカッコ良かった。準主役の犬山道節が、現在の「水戸黄門」里見浩太朗だ。
当時の芸能月刊誌で、新築の豪邸写真が出ていた。順風満帆だった。
1960年初頭までは主役をしていたが、次第に、出番が少なくなっていった。中学3年の時、友人と、東映の映画館で若山富三郎主演の「四谷怪談」を題材にした映画を見てショックを受けた。幽霊が大音響と共に出てくるシーンよりも、もっと驚いたのは、伏見扇太郎がチョイ役で、しかも残虐に殺される下人役で出てきたシーンだった。帰り道、友人が「なんで伏見扇太郎があんな役なんだ」と不満げにつぶやいた。 同じ感想を持っていた私も、なぜか悲しかった。チャンバラ遊びが大好きだった私には、中村錦之介と伏見扇太郎が二大英雄だったから、当然だろう。
その後、伏見扇太郎は映画から消えた。結核を患っていたことが原因だったとも聞くし、リアルな時代劇が主流になってくると、華奢で、いかにも力のなさそうな若者が、剣劇が強い不自然さ、これが受けなくなったからだとも言われている。そして、何年も経ってから、週刊誌の「あの人は今」的な特集で、東映系列のボーリング場で雑用をしている記事を読んだ。暴力事件もあったと聞いた。
次に消息を知ったのは、二十数年ぶりに映画に出るという話だった。古巣の東映で、吉永小百合が主演する映画だった。昔、売れっ子だった時代劇の俳優が、ファンだった興行主の好意で貰った仕事を、金だけ持ち逃げする、そんな役だった。適役というのも悲しいが、素直に喜んだものだ。若い頃の実際の映画シーンも出てくる。
その少し前、伏見扇太郎は、屋台で飲み屋を営むファンの女性(奥さんになっていたそうだ)に支えられているという記事があった。
この映画は、テレビで放映されたときに見た。一緒に見ていた母が「この映画に出ることになって、奥さんがうれしそうにテレビのインタビューに応えていたよね。ホステスだったけど、夫を支えるために屋台をやってるんだって。今もやってるのかねー。良い奥さんで幸せだよね」と言うのを聞いて、すぐに返事が出来なかった。奥さんがテレビに出たのは知らなかった。「うれしそうに‥‥」というのを聞いて、やるせなかった。伏見扇太郎の復活を支えに頑張っていたかも知れない女性の願い。それなのに‥‥。
その時既に、奥さんはこの世にいなかった。
奥さんは、屋台のお客に言い寄られ、拒絶した。その逆恨みから、客に殺されてしまったのだ。そのニュースを私は知っていたが、知らない母が、「うれしそうに‥‥」の話をし、妻は、それを感心して聞いていた。
奥さんは、映画を観ることが出来たのだろうか?
伏見扇太郎は十数年前に亡くなったそうだ。インターネットで調べたら、自殺と言われていると書いてあった。
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扇太郎も映画を観る機会はありませんが、里見浩太朗を調べて出てきました。どこかでお元気にされていると願っています
1973年あるいは1982年ころのどちらかの時期に高知市で一度だけお話をしたことがあります。
なぜこんなに時期がずれているのかというと、
私は当時ある地方局に勤務しておりましたが1973年に東京転勤、
1982年前後に再び本社勤務となって高知に帰りました、
ところがこのどちらの時期にお会いしたのか、記録も残しておらず今はもう判然としないのです。
当時伏見さんは料理屋か居酒屋を開店しており、さあ今からという時期だったと思います。
私もかっての東映時代劇のスターだという前提(当然、里見八犬伝など少年時代熱心に見ていました)
でお会いしたのですが、
ドーランも落として、一市井人となってしまった小柄な姿からは往年の輝きはなかったことが、
強く印象に残っています。
梨園とつながりが強かった錦之助はともかく、
里見浩太郎などがその後のテレビにある程度順応していったのを、
横目で見ながらいるのは辛かったことでしょうね。
最近なぜか気になりググって見て、このブログ主さんの記事にたどり着いた次第です。
その後、ウイキなどの資料をみると、「1983年11月26日に高知県で刃傷沙汰を起こし逮捕されたりもした」と
ありますので、私が会ったのはやはりおそらく82年ころですね。
この事件についての記憶が全くないのは、私自身が一身上の都合で83年春にはふたたび県外に出たためです。
その後、つくしてくれた妻の殺人事件なども起きたようでこれも心が痛みました。
自殺説や病死説(虹さん)もあり亡くなった場所も気になりますが、
ともあれ少年時代の映画スターに一期一会した者として、改めて冥福を祈りたいと思います。
奥様がお亡くなりになったばかりでしたが、そんな悲しさを微塵も見せずに舞台に立って、本物の役者魂を見せつけて下さいました。
当時の私は役者に成りたくて、その思いが強かった。
形は違えど、時折舞台に立って講演をする私にとって、生涯の宝物に成りました。
伏見先生、見ていて下さい!
必ず、あの世でお会いした時、胸を張ってご報告出来るように、今後とも、精進致して参ります。
( ̄^ ̄)ゞ
あの世があれば皆様にお会いしたいものです。