山口の母子殺人事件の高裁差し戻し審が始まった。
被告の非人間性はあらためて述べる必要もない。記事やブログでも、こんなに関心があるのかと思うほど、記事があふれている。
私は、うがった見方をしているで、結末にはそれを書いた。
妻が、被告の論旨を聞いて、怒り心頭。
「裁判所は、こんな勝手なことを言わせて、よいのか」と怒っていた。
「裁判では、自分の言いたいことを言う権利があるから、当然話させるだろうし、それを聞いて裁判所が判断するんだ」と答えた。それにしても、前言を翻し、「そこに母親を見た」「母親に甘えたい衝動に駆られた」などは、「よくもぬけぬけと」と、誰もが思う感想だ。
妻がさらに「弁護士がこんな知恵をつけたのか」とも言う。
もともと弁護側は、死刑廃止推進の立場から弁護をしているようだが、この裁判では死刑制度の是非からの観点でなく、死刑制度が存続し、被告もそれを十分知っている状況での犯罪に対し、死刑に値するか、被告が更生できるか、で争うべきだと思う。再犯防止・抑止効果(抑止効果はほとんどないように思う。裁判になり死刑を意識する犯罪者が多いのではないか)、そして被害者・遺族の感情なども、国民の関心事だ。
死刑廃止は、別なところで訴えるべきだ。終身刑もなく、最高有期刑が15年の日本で、「死刑は野蛮だから避けろ」と論じるから、「どうせ7年で戻ってくる」など言う殺人犯が出るのだ。
最高裁が、自ら判断しないで高裁に差し戻したことが、国際的な死刑廃止への流れに逆らう形で「最高裁判例」を出したくないから、下級審に戻したのだ、と論じる人もいる。また、弁護側の対応は、被害者の感情や、我々多くの国民の気持ちを逆なでしていると論じる人もいる。裁判を欠席したことなどは、どのような理由があれ、被害者への冒涜だ。
過去、「こんな被告には、一片の同情すら感じるものはありません。どうぞ極刑にしてください」と、弁護士が法廷で述べた裁判があった。その弁護士は、相当な批判を浴びた。「どんな極悪人でも、どこか弁護する部分を見つけるのが弁護士の仕事だ」と、非難された。
刑事事件の裁判で、極悪人の弁護は避けたいのが本音だろう。
死刑廃止を訴える目的で、弁護をすすんで受ける弁護士もいるだろう。
死刑を避けたいなら、殺意はなっかたと、今回、翻した内容で最初から争うか、反省の態度で、更生の可能性を見せることだが、被告は、前言を翻した最悪の印象で争う。これでは更生の可能性も感じさせない。元々、反省が感じられない被告に、弁護団が選んだ戦法が、荒唐無稽な「母親を感じた」作戦ではないだろうか。成長期に与えた心因を論じる、犯罪者への弁護の常套手段を取り、弁護の仕事はちゃんとやる。
しかし、この戦法で、体よく弁護を放棄したのではないかと思っている。死刑廃止。その目的に、逆効果になると判断して、今回の差し戻し審で、弁護側は方向転換をしたのではないかと、私は、思っている。この事件から死刑廃止論を訴えるのは無理と判断し、最悪の「前言訂正と陳腐な言い訳」で、理論と事件を切り離そうとしているのではないか。
成長過程での性格のゆがみや心理を論じる弁護方法で、あえて、死刑になる可能性を高めながらも、逃げる道を選んだように思えてならない。