NHKの大河ドラマは圧倒的に幕末ものが多い。
今は、坂本龍馬が旬である。
土佐藩の上士、下士の身分制度。その差別の激しさが描かれている。妻は上司と勘違いしていた。
「お父さんも(私のこと)、上司に逆らってたからね。偉くなれなかったよね」
龍馬の家系が上士ではない理由を
「先祖が出張経費をごまかしたからなんだぜ」と説明した。
歴史に疎い妻である。いくら歴史音痴でも、こんな話は信用しない。
土佐の上士、下士の差別は、関ヶ原の戦い以降、山内一豊に従って土佐へ来た武士が上士。それ以前から土佐にいた武士、すなわち長宗我部氏の家臣だった者が下士とされた。元の主君、長宗我部盛親が、関ヶ原で戦わず仕舞いで退散。お家滅亡の危機を逃げる手立てがあったが、家督を奪われることを恐れ、実の兄を殺してしまった。結局、領国は没収された。
後年、豊臣家に乞われ大阪の陣に参陣するも、最後は逃げだし、自害することなく処刑され、さらし首となった。最後が武士らしくないことなどで、長宗我部氏は、その家来までが蔑まされた結果ではないかと思う。
坂本龍馬の暗殺犯は、その直後から新撰組が疑われていた。新撰組は、龍馬を慕う土佐 の志士から徹底的に恨まれた。現在、犯人は、京都見回り組であることが定説になっている。近藤勇の処刑は、土佐の意向が強かったからだとも言われている。
私の生まれ住んでいる日野は「新撰組のふるさと」がキャッチフレーズだ。
近所には、井上源三郎の家系の人が住んでいて、30年来、家族ぐるみでお付き合いしている。その方の墓地は、源三郎一門のお墓の中にある。
土方歳三の生家やお墓も市内にある。
近藤勇は、今の調布の出身だが、新撰組のスポンサーとも言える佐藤彦五郎も日野在住だったこともあり、市内では「誠」の旗を、あちこちで見かける 。
「近藤勇の子孫はどうしている」という妻の質問に
「近藤の息子は、剣豪に育って欲しいという願いから、宮本武蔵から名前を取り、近藤武蔵と名付けられた」
そこからは、私得意の創作歴史になる。もっとも、息子の存在も創作だ(養子はいたが)。
「近藤武蔵は、名前を呼ばれるとき ”コンドーム サシ” と姓と名を分ける箇所を微妙に離すと、ある物に間違えられて困ったそうだ。剣豪と認められるどころか、バカにされて育った」
「土方歳三は、武士の出身ではなかったので苗字はなく、石田村の歳三と呼ばれていた。伝来の薬を売り歩いていたが、貼り薬、塗り薬を売るときに、『肘、肩の凝りに効くよ。肘・肩の‥‥‥‥』 というところから、ひじ・かたの歳三になったんだ」
何処まで信用しているか分からないが、少なくとも「コンドームさん」と呼ばれた息子がいたというのは信じていない。
この週末、ひの新選組祭りが行われる。ここでは新撰組でなく、新選組と書かれているのが残念だ。当時、新選組と書かれたのは、隊士の手紙などであるが、公式文書にはない。あて字、あるいは誤字だったと思う。それが普通に使われるようになってしまった。
正しいのは「新撰組」だと主張している。
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