単なるテロ集団と言われていたのに
我が故郷であり、今も住んでいる日野は「新撰組のふるさと」が唯一の売りである。
私が子供の頃、新撰組は「勤王の志士を弾圧した憎むべき敵だ」と思っていた。鞍馬天狗の敵であり、怪傑黒頭巾(その前には紫頭巾というのもあった)や月形半平太の敵だった。これらは架空の人物だが、桂小五郎を追い続け、坂本龍馬を殺した(事実は違うが)、と思っていた。
最近は、土方、沖田の人気で、日野以外でも新撰組のファンが多い。
武闘テロ集団として扱われていたのに、えらい変わり様だ。作家・子母澤寛氏の功績が大きい。
私は、新撰組も興味があるが、幕末期で、もっとも魅力を感じる人物は「高杉晋作」である。昔は「桂小五郎」だったが、その魅力は、高杉晋作の比ではない。
早死にしたことと、晋作よりずっと劣っていた二流人物が出世して脚光を浴びたこともあり、評価が今ひとつ不足しているように思える。田中義一が爵位を貰い、栄達を欲しいままにしたことを考えると、多少無能でも、危険を避けて長生きする奴にはかなわない。
東行 高杉晋作
吉田松陰の松下村塾で久坂玄瑞と共に、英才ともてはやされたとあるが、佐久間象山に相手にされなかったことから、天下にとどろくような秀才タイプではないのだろう。
ただ、破天荒な行動と実行力。女をはべらせ、粋な都々逸をうなる遊び人。自ら、西行の向こうを張って「東行」と名乗った自信と皮肉、あるいはユーモアの精神。幕府軍と戦った小倉城攻防戦で見る指揮・指導力。そして、当時の教養上は常識だったのだろうが、清国人と筆談ができる漢詩・漢文の力量は並の清国人よりずっと上だった。
英仏などとの四国戦争で負けた長州藩の降伏交渉の責任者として、領土の租借には頑として応じなかった。清国の現状を見ていたから、租借を許すことだけは絶対に出来ないと決心していた。後の日本の外交への影響は、計り知れないほど大きかったといわれている。
吉田松陰の遺骸を、幕府の目をも恐れず堂々と運び移した事件。将軍の行列に「いよーっ、征夷大将軍」とかけ声をかけ、同行の伊藤らを慌てさせ、幕府の要人を悔しがらせた事件。
数えればキリがない痛快な行動力がうらやましい限りだ。
新撰組のふるさとから来た
ゴールデンウィークに長州へ出かけた。
史跡めぐりと温泉。刺身とお酒。
行く先々で、
「どこから(来た)」と聞かれたから
「新撰組のふるさと。日野から来たんだよ」と応えた。
木戸孝允(桂小五郎)の生家では、受付の女性から
「あらー、うちは多勢やられたんだよね。でもね。今はもう水に流してるのよ。この前も、会津の人が来てねー」と、なつかし人にでも会ったように話してくれた。
かと思うと、高杉晋作が決起した功山寺(こうざんじ)では
「ここで高杉が伊藤博文たちと決起したんだぞ」と妻に説明していたら、居合わせたお年寄りが
「ここに伊藤たちを残して、高杉はあそこから一人で寺内に入っていった」
「高杉は、この場所に立って、檄をとばしたんだ」
など、教えてくれた。
「高杉の作った奇兵隊は、当時、山縣有朋が実権を握っていたから、ここにはいなかったでしょう」と応えると、老人は
「よく知っているね。どこから来たの?」と訪ねてきた。そこで例の
「新撰組のふるさと、東京の日野市から来た」と言ったとたん、鼻白らんだように
「あっ、そう」と、どこかへ行ってしまった。
明治維新さえなければ
私が、勤王の志士びいきだった小学生の頃、父親がよく言っていた。
「世が世であれば、うちは‥」
「旗本300石だったんだ‥」
すなわち、高杉が功山寺決起さえしなければ、すなわち、吉田松陰が松下村塾さえ開かなければ、すなわち、明治維新さえなければ、働かなくても食える時代が続いたということらしい。
長州の高杉家は200石取りだった。現存している生家は、あまりにも小さい。伊藤博文宅と比べても小さい。石高は高杉の方がずっと多い。200~300石クラスの屋敷図面を数枚持っているから、想像が付く。多分、ほんの一部。しかも裏口側ぐらいしか残っていないのではないかと思う。武家が資産を切り売りする時代を経てこうなったのだろう。
「世が世なら」
それより、私が言いたいのは
「井伊直弼が開国さえしなければ、外国語の勉強なんかしなくて済んだのに」
「攘夷を叫んだ尊皇攘夷の志士たちの豹変ぶりは、なんだったんだ。鎖国さえ続けていれば、英語以外は点数が良かった俺だ。なんとかなったはずだ」
リタイヤした今でも言い続けている。
そうだったら、むろん、西洋音楽とは出会えなかっただろう。