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訳ある仕分け

2009-11-14 22:17:27 | 日記・エッセイ・コラム

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 政府の行政刷新会議による「事業仕分け」作業を見ていると、どうしてそんな事業が必要なのかというものが多いことに、あらためて驚く。
Photo_4  これまでも、天下りのためとしか思えない外郭団体が増え続けていることに、イライラしていたが、それを飯の種(票の基盤)にしている自民党政権の元では、あきらめの境地に近いものがあった。

 各省庁の事業も、無理に作ったものが多い。
 就職支援の事業がいくつかあるが、就職斡旋もできないなど、役人の「就職」「職の確保」のための事業としか思えないものばかりだ。
 事業を続けるために赤字が生まれる。従って国税からの支援を受ける。多くの事業が使いづらく、手続きは非常に面倒である。

 見直し作業では、民主党若手議員の強引さも目につくが、官庁が「やる」と言った事業を中止できる機構は貴重だ。官僚出身の後輩議員にやり込められる幹部官僚も面白くないだろう。「なんでも通る」「なんでも取り上げさせる」ことに慣れた「官僚の官僚による官僚のための事業」を、面罵に近い形で質問。「廃止」「見直し」「削減」が、次々と決まっている。
 中止が決まったもので「それはないでしょう」というのは、ほとんどない。

 戦後の日本を、ここまで築いてきたのが官僚であることに異論はない。ここまで、官僚天国にしてしまったのは、無能丸投げ政治家集団だ。
 新政権は、有能で使える官僚を早く味方に付け、彼らに、事業仕分け・政策見直しの実務をさせるべきだ。副大臣、政務官だけで作業が行えるわけがない。そこまで信じるに足らない官僚だったら、早く人事異動をしろと言いたい。キャリアだけでなく、ノンキャリアにも、有能な人材はたくさんいる。
 役人の「やりたい放題」を制止できる制度は、今後も続けて欲しい。


卑弥呼の国。所在地は?国名は?

2009-11-14 14:34:20 | 日記・エッセイ・コラム

 奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡の大型建造物跡発見で、「邪馬Photo台国」畿内説」元気になってきた。
 中学生の頃、「魏志倭人伝」を、よく分からないままながら通しで読んで、それに対する「九州論」、「畿内論」の解釈を知ると、「これは畿内説に無理がある」と思った。ただ、単純に「これは九州だな」と感じたのだ。今でも、そう思っている。

 「三国志・魏志・東夷伝」の倭人に関する記述は短い。その記述が、どこまで信頼できるかという問題もあるが、どちらに比定するにしろ、記述に間違いがあるとしなければ「九州」にも「畿内」にもたどり着かない。
 先ず「陸行1月」が難題で、それぞれで解釈が違う。「月」は間違いで「日」が正しいとする説もある。
 「魏志倭人伝」は原本がなく、後世の「写本」が残る。写本だから、写し間違いもあるだろう。
 そもそも「邪馬台国」も「邪馬壹国と書いてある。「壹」の略字が、今でも使われる「壱(いち)」Photo_2 である。まだ、私が子供の頃は「正確にはヤマイチコク、あるいはヤマイコクと読むのだ」と聞いて、それが正しいと思ってきたが、今では、その説はあまり聞かなくなった。
 「邪馬臺国(邪馬台国)」とは、別な本にある記述だ。「臺」の略字が「台」である。
 「臺」と「壹」、「月」と「日」などは、後世の人が書き写す場合、間違えたり、勘違いすることはあるだろう。
 「魏志倭人伝」で「畿内説」を採るには、「南」を「東」と間違えているとする、私から見れば致命的も言える説を採用する必要がある。
 写筆している人は、この箇所で方角を記しているのが分かるから「東西南北」のどれかの文字から選ぶしかない。「南」を「東」を間違えるだろうか。
 距離や行程日数の大きい点が九州説の弱点となっている。放射状に表記したとの説。これは、よく分からないので、なんとも言えない。「いかに遠くまで中世中国の国力が及んでいたか」と、大げさに書く誇大表記や「見てもない人が書くいい加減さ」として指摘できるだろうが、少なくとも、方角は作り替える必要がない。
 この「南と東を替える」説が、「無理に畿内に持っていこうとしている。後のヤマト(大和)と結びつけるためなのだ」と感じてから、私は「九州説」に同調するようになった。

 最近は「魏志倭人伝」に依らず、物的証拠で議論するようになった。遺跡の発掘が有力な論拠となる。それが「吉野ヶ里遺跡」だったり、前述の「纒向遺跡」だったりする。
 決め手となるのは、魏から卑弥呼に下賜されたという「金印」の発見だが、相当、難しいだろう。後の権力国家に略奪されてしまった可能性もある。
 ひと頃、「三角縁神獣鏡」が、卑弥呼が貰った「鏡」だとして、関西以東で発掘数の多いことから、畿内説の論拠となったが、実存しなかった年号が書いてある点、中国本土からの出土がないことから、かなり怪しくなっている。「三角縁神獣鏡は国産ではないか」という説に賛同する。

 「邪馬台はヤマトと読む。後のヤマトと区別するためにヤマタイとする」
 こんな記述も読んだが、本当だろうか。
 やはり、「ヤマイチ、あるいは今の中国での一の発音”イー”と読んでヤマイー国なのじゃないのかな」素人考えながら、そう思っている。
 どなたかの本か忘れたが
 「邪馬臺国で使われている”臺”は、宮殿やそれが立っている丘(盛り土)のことで、皇帝の住む所を指す言葉であるから、それを使うわけがない。他民族を表記するのに賤字?ともいえる差別的な文字を使っているのに”東の蛮人・東夷の中でも倭の一部”だけには特別な”臺”の字を使うとは考えられない」
と、三国志の「魏志」だけでなく「呉・蜀」の記述部分などもを詳しく検証しているのを知った。
 「邪馬臺国」の”邪”、”馬”はどう見ても相手を尊ぶ文字ではない。発音に近い文字の中から蔑むような当て字を付けるのが常である。「卑弥呼」Photo_3 の”卑”など、その典型だ。”ひ”と発音する字は、他にもあるだろうに。
 出てくる国名も、「狗邪韓国」「末盧国」「奴国」「姐奴国」「鬼国」「鬼奴国」「狗奴国」など。倭の官職名も「卑狗」「卑奴母離」などと、ひどい文字を使っている。

 「倭人伝」に出てくる倭の国名から、現在の地名を比定して、異論のない所は全て九州である。そこから、それほど遠くない場所に「ヤマイコク」があるというのが、初めて通しで読んだ「倭人伝」での印象である。今でも潜在意識として残っている。
 距離の記述は「大風呂敷を広げる漢民族特有の記述」との印象を持っただけで、「方角は間違えるわけがない」ことが、決め手となった。
 九州に関係しているわけでも、応援しているわけでもないが、「ヤマト」に強引に?結びつけていることへの反発はあるかも知れない。
 現在の地名から、「ヤマイは柳井かな」「耶馬溪も関係あるかな」などと勝手に想像している。

 ただ、畿内・大和地方には、九州を凌ぐ力を持った「国」があった可能性や、九州から東遷してヤマトになった可能性は否定しないが、それは「卑弥呼」以降であろうと思っている。
 纒向(まきむく)遺跡は、3世紀後期より後の遺跡ではないか、と疑っている。


老いらくの奥入瀬(おいらせ)

2009-11-08 01:45:34 | 旅行記

夫婦ゆとり旅が、夫婦ふとり旅
 夫婦で時間がとれそうな数日間があるので、どんな予定も入れないで、東北か、九州かと、旅行を計画していたら、「阪急交通社」の「夫婦ゆとり旅 錦秋の東北」の新聞広告を見つけた。10月28日から31日の4日間。
 一度は行ってみたい「奥入瀬渓谷(おいらせけいこく)」がコースに入っていた。
 好きな場所に気ままに出かけ、温泉と海の幸の豪華な夜を楽しむのが私の旅行だ。だから、ツァー旅行は行きたいと思ったことがない。初めての経験だ。
 経験しての収穫は、ツァー旅行でも、楽でゆったりの企画もあることを知ったことだ。忙しく観光地を回って、お風呂に入る時間もなく夕食。朝風呂にゆったりつかる時間もなく、慌ただしくホテルを後にするのがツァーだと思っていたからだ。

 東北新幹線で盛岡へ。そこから四日間がバスの旅となる。
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 「ゆとり旅」と銘打つくらいだから、それは、ゆったりスケジュールだった。 
 初日こそ4時過ぎのチェックインだったが、二日目、三日目は3時台のチェックイン。体を休めてからゆっくり入浴。入浴後もゆっくりくつろいでからの夕食。食事は、最終日のホテルのバイキングは平凡だったが、他は大変おいしくて、山の幸がこんなに美味とは思いも寄らなかった。
 食べ過ぎで、誰かが言っていた。
 「夫婦ゆとり旅じゃない、夫婦ふとり旅だ」

きりたんぽとカニと牛ステーキ
 初日「湯瀬温泉」のホテル。部屋や施設は安価なツァーでも使われそうな所だったが、料理はおいしかった。元々、きりたんぽは好きな食べ物ではなかったが、ここでは満足して食べた。焼いたきりたんぽ。鍋のきりたんぽ、すべておいしい。ここで出た牛ステーキはやわらかく、特筆に値するおいしさだった。カニや刺身は海浜近くのホテルには及ばないが、きのこ、野菜を使った山の幸料理も良かった。
 二日目「浅虫温泉」」のホテル。部屋、施設はかなり良くなってほっとした。料理も良い。量も豊富で食べきれないくらい。別注文で頼んだ馬刺しが美味だった。
 三日目「奥入瀬渓流」のホテルは、設備、部屋、お風呂など、すばらしい。奥入瀬川が裏庭の一部のようだった。ホテルの庭を散策するだけでも紅葉を充分味わえる。
 問題は料理だ。バイキング形式で量も種類も豊富だが、ちょっとしたホテルなら、どこでも味わえる平凡な味。まずくはないが、もう一度おかわりを取って食べようというものはなかった。

囲炉裏で焼くきりたんぽ
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八幡平(はちまんたい)で
 山頂まで登った八幡平では、岩木山がよく見えた。 Photo_3

紅葉山(もみじやま)公園の紅葉(こうよう)Photo_2

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八甲田ロープウェイ
 山頂が霞んでいる。この日、早朝は雨。ホテル出発時には陽が出てきたが、八甲田ロープウェイに乗車するとき、上を見ると濃い霧が出ていた。山頂が見えない。Photo_5

山頂は、濃霧に覆われていた。霧で体が濡れるほど。10メートル先がやっと見える程度。ほとんどのツァー仲間は山頂駅の中で、映画「八甲田山」の撮影資料や放映されている映画を見ていた。私たち夫婦は寒い中、外に出た。映画の原作になった新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」で描き出されている横の兵士の顔も見えない猛吹雪が、映画では全く表現できていないことに失望したものだが(映画は、観客に見せるものだから、自分以外が見えないシーンの連続は無理だろう)、この山頂の濃霧の方がすごい。Photo_6

いよいよ奥入瀬渓谷だ
 何百枚、いや、何千枚の写真を見てきただろうか。新緑の奥入瀬。紅葉の奥入瀬。雪の奥入瀬。
 写真で想像すると、車から降り、かなりの距離を歩いて入っていくのかと思っていたら、車道と並行して奥入瀬川が流れていた。小一時間、遊歩道を歩いた。普通のツァーでは、バスから見るだけか、ほんの少しだけ歩くと聞いていたが、このツァーでは、写真を撮りながら、散歩する感覚で歩いた。
 前日、八幡平を歩いていたから、この程度なら楽だ。行くまでは、「奥入瀬渓谷」を歩いたら「老いらく警告」が出るのではないか心配したが、筋肉痛を感じる前に温泉三昧で、体はリラックス。
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ちいさな川が奥入瀬川に流れ込んでいる。小さな滝も多く、奥入瀬川の水量が増していく。主流は十和田湖からの水だ。枯れ落ち葉が多い。プロの写真では滅多にないシーンだ。Photo_8

川の両側の紅葉。かなりの葉が枯れ落ちていて、山の見通しがよくなっていることもあり、バスからでも、滝や流れがよく見えた。1

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激しい流れと穏やかな流れが交互に見られ、飽きることのない、小一時間の散策だった。07

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下の写真のように、自動車道路のすぐ脇を奥入瀬川が流れ、散策の遊歩道もすぐ脇にある。写真で見る奥入瀬には、こんな画像はないので、驚きだった。10

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ホテルの紅葉
 3日目のホテルは、すぐ裏に奥入瀬川が流れ、庭の紅葉が見事だった
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十和田湖
 カルデラ湖特有の水のきれいな湖。日本で3番目に深い湖だそうだ。
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十和田湖畔の乙女の像

 高村光太郎作の「乙女の像」。顔は智恵子。体は別な女性モデル(17歳と聞いた)。
 とても、乙女の裸像には見えない。「おとめの像でなく、ふとめの像だ」というのが分かる。像が実物大より大きいとしても、写真の妻の方がスマートに見える。像の写真も、頭を欠いてお尻を強調されているが、わざと、そうしたわけではない。
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展望台からの十和田湖
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青森のりんご
 青森といえばりんご。少し寂しい実りだが、記念に撮影。
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バスツァーの出発・終着駅「盛岡」
 東京・盛岡間の行き帰りは新幹線グリーン車。バスの漆館akemiさんの名ガイドで、この旅が、とてつもなく楽しいものになった。ゆったりのんびり、笑いの絶えない旅行が終わった。また会いたい。ツァーで知り合った人たちとも!
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