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防府市は今後「防災市」に名称変更を!

2009-07-23 17:30:18 | 日記・エッセイ・コラム

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 7月21日の豪雨災害で、山口県防府市では、特養老人ホームや国道が土石流で埋まり、多数の犠牲者、行Photo方不明者が出ている。
 県の砂防課は昨年3月、ホームがある一帯を土砂災害警戒区域に指定した。しかし、市側はその認識がなかったそうだ。従って、県が土砂災害警戒区域に避難勧告を出しても、市は特養ホームや周辺地域に通知・勧告は出していない。
 テレビニュースを見ていたら、市の担当者が
 「3千(3百だったかな)もある危険地域に対応するには人数が足りないから、(警告は)出していない」と言っていた。これには驚いた。避難勧告は災害が起きてから、やっと出すまで、どこの地域にもなんの通告もしていないようなのだ。要員不足なら、少ない人員でも可能なように、危険度合いによる優先順位など決めていないのだろうか。まして、県の警戒区域指定を知らないのでは、お粗末というしかない。
 防府市は今後、「防災市」に名を変えるぐらいのことをしなければ、市当局の災害防止・災害避難の意識は改善されない。
 災害3日後でも、特養ホームの中から外へ向かい、まるで川のように水が流Photo_2れている。元々含水量の多い山なのだろう。危険が予知されていたと思う。

 特養ホーム側は、河川災害や土砂災害が不安だとして、県や市に改善を要望していたそうだ。
 「河川の管理者は市だから防府市に相談しろ」
 「砂防事業は県だから山口県に言え」
と言われたそうだ。それぞれに申請していたようだが、時、遅し。
 豪雨時には、河川氾濫、山の崩壊・土砂崩れ両方が起きる危険地域がある。砂防は県。河川は市。一緒に対策を行うことが出来ない。時間もかかる。役所の縦割り行政の弊害が今も続く。

 今年5月、長州路を旅行した時、歴史資料の豊富な防府は、残念ながら、見学の時間がほとんどなかった。明治維新の頃は「三田尻」と呼ばれた地域である。山口-津和野の経由地とするだけではもったいない街だった。


「フラダンス」は「重箱読み?」

2009-07-21 12:13:31 | 日記・エッセイ・コラム

 フラを習っている妻が、口癖で「フラダンHulaス」と言うので
 「フラとはハワイ語でダンス(踊り)という意味だから、フラのひと言で済ませるのがフラ愛好家の基本だろ」
直すように言っているのだが、それでも、もう、癖なのだろう。未だに「フラダンス」と言い続けている。
 以前から気になっていたが、毎年、1100人収容の大ホールで行っている、フラとハワイアンの催し「フラ&ハワイアン」で、これまで司会を頼んでいた方が
 「フラダンスというのは、同じ意味の言葉を重ねた重箱読みです」との発言を、毎年のようにされていた。重ね言葉から重箱読Photoみを連想してしまったのだろうが、これは、全く意味が違う。

 「重箱読み」とは、音読みの「じゅう」と訓読みの「はこ」が、 並んでいるように、「音読み・訓読み」の漢字読み方を言う。ところが、重箱、そのものを知らない人が増えている。
 「音読み」自体が「重箱読み」だ。送り仮名の「み」が付いているから読める。「み」がなければ「音読(おんどく)」となり、意味が全く違う。

 「金星」とだけ書いてあると、「???」となることもある。天文観察が好きな私なら、迷わず「きんせい」だろうが、相撲ファンや「番狂わせ」を期待する立場にある人なら「きんぼし」の「重箱読み」だろう。
 「金玉」なら、スケベな私は迷わず「重箱」で読んで、「きんたまー」と大きな声で叫ぶ。もっとも、だいたいの人は、こう読むだろうが、純粋な人、きらびやかなことを好む人?なら「きんぎょく」だろうか。
 「工場」の場合、「こうば」あるいは「こうじょう」と、どちらで読むか?なんとなく、小さな工場を「こうば」、大きければ「こうじょう」とするイメージがある。

 「重箱読み」の逆、すなわち「訓読み・音読み」となるのを「湯涌(ゆとう)読み」という。「重箱」以上に「湯涌」は知られていない。そば湯を入れたり「茶漬け」のお湯を入れるのが「湯桶Photo_3 (ゆとう」で、これを知らない人だけでなくとも、風呂で馴染みの「ゆおけ」と読むのが普通だろう。
 こちらには、「雨具(あまぐ)」 「粗利(あらり)」 「野宿(のじゅく)」などがある。
 「手数」も前後に、言葉がなければ読みが違う。人により、または職業により「てすう」の「湯涌読み」とするか、あるいは「てかず」と、どちらで連想するだろうか。

 「重箱読み」「湯涌読み」。どちらも、かなり多いが、間違いである場合も多いそうだ。読みが違う場合、どちらかが「当て字」の場合が多い。

 いずれにしろ、「フラダンス」が重箱読みではないことだけは、はっきりしている。


笛吹童子の私は「紅孔雀」が好きだった

2009-07-03 01:22:44 | 日記・エッセイ・コラム

 北村寿夫(きたむらひさお)といっても。、忘れていたり、知らない人が多いだろう。「笛吹童子」の原作者だというと「へえーっ」と思い出す人が、いくらか出てくるかも知れない。
 北村寿夫原作「新諸Photo国物語」の中で、「笛吹き童子」は最初のヒット作だ。一番のヒット作として紹介されることが多いが、NHKラジオで放送され、当時(昭和28年前後)の少年少女が一番夢中になったのは「紅孔雀」だと思う。ラジオの前に座り夢中で聴き、頭の中は空想であふれたものだ。
 子供達の人気度合いは、「萩丸・菊丸」よりも「那智の小四郎」の方が上だった。
 「新諸国物語」は、善い方と悪い側がすぐ分かる。「白鳥党」と「しゃれこうべ(されこうべ)党」とに分かれているので、間違えるわけがない。
 放送されていた頃、私は小学校の1年生から3年生くらいだ。どう考えても、白鳥党に所属したいだろうに、なぜあんな、どくろの党「しゃれこうべ(されこうべ)党」に入る人たちがいるのか、信じられない思いだった。しかも、初めは、いつも悪い方が多く、優勢なのがくやしい。
 
 「ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ 誰が吹くのか ふしぎな笛だ 
 (中略) タンタンタンタン タンタンタンタン 野越え 山越え」

 これが笛吹童子の主題歌。

「まだ見ぬ国に住むという 赤きつばさの孔雀鳥(どり) 秘めし願いを知るという 秘めし宝を知るという」
 これは紅孔雀の主題歌。
 紅孔雀の歌は、年中歌っていたから間違いない。You Tububで画像と共に聴けるが、これは後のテレビ放送で、沢村精四郎(現、沢村籐十郎)が小四郎だが、その当時、見た記憶がない。この人は、東映の伏見扇太郎主演「里見八犬伝」に出ていて鮮明に記憶に残っている。主題歌はそのままで(ラジオ放送当時の録音ではないか?)、懐かしくて涙が出そうになる。

「旅の仲間は三角帽子 (中略、というよりよく覚えていない) 燃えてラクダの鈴が鳴る シャララン シャララン シャン シャララン
 これは、「七つの誓い」の主題歌。

 曲は全て、福田蘭童という尺八の達人と聞いていたが、後に、クレイジーキャッツの石橋エータローのお父さんと知る。詞はだれだか覚えていない(北村寿夫かも?)が、笛が「ぴーひゃら」でなく、「ヒャラリヒャラリコ」だったり、鈴が「ちりんちりん」「からんからん」でなく「シャララン」という表現だったのがすごい。

 十数年前、テレビで深夜に「紅孔雀」が放送されることを知り、タイマー録画をしたつもりが失敗。くやしい思いをした。今ではDVDになって販売している。先ほど注文をしたばかりだ。
 ラジオでは「オテナの塔」というのも放送していたが、映画化にあたって、お決まりの東映ではなく、大映?東宝?どちらかになって大変なショックを受けた覚えがある。当時の中村扇雀が主役だ。東映館以外は場所を知らないので見られない。配役だって、絶対に、中村錦之介、東千代之助、大友柳太朗、高千Photo 穂ひづる、でなければいけないのだ。東映の映画ほどヒットしなかったのではないだろうか。
 ピークは「紅孔雀」だった。

 「笛吹童子」だjけでなく、「紅孔雀」では千代之助の浮寝丸(うきねまる)が笛を吹く。とにかく笛が出てくる時代劇である。
 「笛吹童子」の笛が吹きたくても、当時、子供が手に入れることが出来るのは、「横笛」ではなく、咥えて吹くタイプの「たて笛」しかなかった。篠笛(しのぶえ)だということも、邦楽器店で売っていることも知らず、まして、作ることも出来ず、指をくわえていた。刀剣(かたな)は、買って貰ったおもちゃがあったから、それを肩から斜めに下げて気取っていたが、そこには、どうしても横笛が欲しかった。たて笛ではカッコつかず、ましてや当時得意だったハーモニカでは陳腐である。
 それでも「那智の小四郎」を気取り、近所の可愛い子をヒロイン「久美」にして、いわゆるチャンバラ遊びを愉しんでいた。近所のガキ大将だった私だから出来た遊びだ。

 後年、念願の笛吹童子(フルート奏者)となってからは、篠笛も吹けるようになったが、むろん「ヒャラリヒャラリコ」なんて音はしない。


注文したDVDが来る前に歌いたくて、歌詞をインターネットで調べたら、いくらでもありました。
やはり、福田蘭童作曲、北村寿夫作詞でした。

笛吹き童子
ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
誰が吹くのか ふしぎな笛だ
ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
音も静かに 魔法の笛だ
ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
タンタンタンタン タンタンタンタン
野こえ 山こえ

ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
どこで吹くのか 笛吹童子
ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
金と銀との 蒔絵の笛だ
ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
タンタンタンタン タンタンタンタン
蒔絵の笛だ

ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
誰も知らない 笛吹童子
ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
どこで吹くのか ふしぎな笛だ
ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
タンタンタンタン タンタンタンタン
笛吹童子

紅孔雀
まだ見ぬ国に 住むという
紅きつばさの 孔雀どり
秘めし願いを 知るという
秘めし宝を 知るという

まだ見ぬ国は 空のはて
青き潮の 海の底
深き眠りに うずもれて
今もこの世に ありという

まだ見ぬ国に 住むという
紅きつばさの 孔雀どり
秘めし願いを 知るという
秘めし宝を 知るという


七つの誓い
旅の仲間は 三角帽子
だまり坊主の 影一つ
空は夕焼け あかあかと
燃えてラクダの すずがなる
シャララン ジャララン シャン シャララン

(うしろ)向いても お山は見えぬ
生まれ故郷は 雲幾重
あのこあの人 さようなら
白い月夜の 一人旅
シャララン ジャララン シャン シャララン

親にもろうた 三角帽子
風にとられて なるものか
吹くな砂漠の 蒙古風
(もうこかぜ)
走るラクダの 鈴が鳴る
シャララン ジャララン シャン シャラ
ラン


ふざけるな!そのまんまでいろ!

2009-07-01 18:23:23 | 日記・エッセイ・コラム

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 東国原宮崎県知事が、やはり国会議員になりたくて、またぞろ、画策しだした。
 その言い草が陳腐極まりない。Photo
 「知事として限界を感じた」
 「地方分権を進めるために国会議員として国政の場で活動することが必要だ。その絶好のチャンス」
などと、理由を付けて、国会議員のバッチに舌なめずり。最近は、涎(よだれ)が垂れそうな顔つきになっている。
 宮崎県の公費セールスマンとしての実績は文句ない。支持率が高いのもその辺だろう。
 地方分権・地方自治に、それほど情熱を傾けていたなんて知らなかった。多分、本人も知らなかったのではないか。

 それだけ活躍できるだろうか。
 否(いな)。NO(ノー)だ。
 衆議院議員480人のうちの一人でしかない。有名な議員の一人で、しばらくは注目されるが、議会での影響力は480分の1だろう。他の1年生議員、あるいはタレント議員を見れば一目瞭然だ。しばらくは、マスコミに登場しても、そのうち、その回数も減るだろう。そして限界を感じるだろうが、そのときはどうするのだろうか。
 本人は、大臣の椅子を狙っているのだと思う。「総裁候補として認めろ」発言は、代案として、「閣僚の座」を狙っているんだな、と発言当初から感じられた。
 大臣なら影響力はある。実行できる力とは限らない。
 とにかく、舛添大臣を真似たいのだろう。

 舛添氏は、以前から、政治経済学者として一目おかれる存在だ。それでも、官僚が、大臣を畏怖し、尊敬し、言う事を聞いているようには思えない。年金確認作業は遅れる一方だし、不祥事続出でも、体制が一新されたようには思えない。
 しかも、現在、労Photo_2働者が置かれている厳しい立場を理解している人に思えない発言を思い出す。ホワイトカラーエグゼンプション法を、「家庭だんら ん法」に言い換えるよう指示を出したときはあきれてしまった。派遣法についても、労働者を守り育てる視点に立てる人とは思えない。一流の学識経験者でも、こうである。

 たとえ経済学士であっても、高級官僚からは、「そのまんま」氏も、ただの「芸人上がり」としか見られない可能性がある。とても役人を納得させて、指導力を発揮できるとは思えない。

 そんな、「そのまんま」氏に、選挙を頼ろうとしている自民党は末期症状というよりも、ご臨終を迎えていると言うべきだ。大臣の椅子をちらつかせている話もあるようだが、選挙に負ければ、むろんパーだ。野党になるのだから当然だ。
 たとえ勝ったとしても、内閣改造までだろう。ボロが出る前に代えたほうが無難だし、これまで実績を積んできた大臣待機組から文句が出る。

 地元の人は反対が大多数だとか。一部の賛成の人が
 「国政の場で、宮崎の為に働いて欲しい」などと発言していたが、宮城県知事だから宮崎の物産PRもできる。公費でも動ける。国会議員ではそうもいかない。それでも、代議士になりたいのは、知事が、県政のトップとしての決裁を求められる重い職務あることに比べ、議員なら党の方針に従って動いているだけでも済んでしまう。それでも「せんせい」と呼ばれ、持ち上げられる名誉ある立場。その魅力が一番なのではないだろうか?

 ふざけるな!東国原。
 これまで、どれだけ発言し (知事選の時は言っていたが)、活動してきたか分からない「地方分権の確立」で、もう挫折したの?大阪の橋本知事たちに、ちょっと刺激されて同調、「地方分権」を強調し出しただけにしか見えないのに、1期目の任期途中で投げ出すことは、明らかに県民への裏切りだ。
 「千載一遇」とは、「国政の場で地方分権を実現する」ことではなく「夢だった代議士になるチャンス」のことだ。
 そう素直に言えば良いのに、もっともらしく、任期途中で知事を辞める理由を付けようとするから不快を感じるのだ。
 これまで好意的に書いてきた(知事就任時の記事 & 宮崎のお米の記事)自分が馬鹿だった。
 
 ふざけたいなら「そのまんま東」に戻れ!!!!ばかやろーーう!!!