私が時々、戯れに、そしてまじめに作る「創作昔ばなし」です。これも趣味のひとつ。
幕府の軍艦「あたご」の物語。
日本で、イージス艦が漁船を沈めるずっと昔のお話。
幕府の軍艦「あたご」。士気がゆるみ、常識では考えられない手抜きやミスが続き、イージーミス艦と呼ばれていました。
訓練終了後、母港に寄港する際も、「漁船が避けるのが当たり前だ」とばかり、風任せの直進(当時、これを自動運行と言ったか、どうか不明)を貫いていました。
ある夜のこと。ついに漁船と衝突して、沈没させてしまったのです。
慌てて停船しても、後の祭り。沈没したその周囲に、浮き輪、樽、板きれなど、遭難者がすがりつけるような浮く物を投げ込むこともせずに、たいまつをかざし、目視で捜すだけだったそうです。
後で、お叱りを受けないように、「相手船の緑の灯火が見えた」と、都合のよい情報を流すことを決めたり、いろいろ情報操作をしましたが、 むろん、漁船側に回避義務があったようにするためでした。
しかし、「あたご」は運が悪かったのです。周囲には仲間の漁船がたくさんいて、「あたご」の言い分と大きく食い違い、「うそばかりつくな」と言われてしまいました。「うそ」は通用しませんでした。
見張りが漁船を発見した時間でさえ、二転三転したのです。
幕府の軍事奉行は「報告が遅い」と怒りましたが、自分自身も、船の発見時間の真実を知ってから、丸一日も江戸市民への報告を遅らせていました。
江戸城の将軍様は「それはまずいですね」と、他人 事(ひとごと)のようにつぶやくだけだから、処罰なんて事は考えていないようで、頭の中は「街道整備」の「道路財源問題」でいっぱいでした。
将軍様は、「おぬしは余の顔を忘れたか」とか「この紋所が目に入らぬか。頭が高い」の鶴の一声を使いたいのですが、幕府の権威が地に落ちた当時の情勢では、ただ、騒ぎが静まるのを待つしかありませんでした。
「あたご」の乗員は、幕府の要職につくべきエリートたちだったので、幕府海軍内部では、むしろ同情されていました。
老中、若年寄からのお取り調べの前に、航海長を呼びつけ、内部調査と称して、口裏合わせをした形跡もありました。
「あて逃げしちゃえばよかったのに!」
そんな恐ろしいことを、つぶやく高官がいたかもしれませんが、それは伝わってきません。むろん、すぐばれることですから!
現在の防衛省、自衛隊では、こんなことないですよねえ。
まだ、江戸幕府があった頃の、お話です。多分!おそらく?