nakazumi's blog

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『関ヶ原合戦の史跡めぐり(1)』散策

2015年10月13日 | 文化・歴史散策

 2015/10/12  岐阜県の関ヶ原町に関ヶ原合戦の史跡めぐり(1)に行ってきました。

ハイキングコース>JR東海道線・関ヶ原駅下車・・・岡山(丸山)烽火場[黒田長政・竹中重門陣跡]・・・決戦場・・・石田三成陣跡・・・島津義弘陣跡・・・小西行長陣跡・・・宇喜多秀家陣跡・・・平塚為広碑・・・大谷吉継墓・・・大谷吉継陣跡・・・脇坂安治陣跡・・・福島正則陣跡・・・JR関ヶ原駅

関ヶ原合戦のあらすじ

関ヶ原の概略図

JR関ヶ原駅        ▼黒田・竹中陣跡

 

黒田・竹中陣跡への道   ▼黒田・竹中陣跡

 

史跡・岡山(丸山)烽火場 [黒田長政・竹中重門陣跡]

 戦況を把握しやすい高台に陣を置いた、黒田長政と竹中重門。戦機を見てここから烽火を挙げた。竹中重門は合戦当時の関ヶ原の領主であった。

 

岡山(丸山)烽火場からの眺め

 

国史跡・決戦地

 小早川秀秋の寝返りにより東軍優勢となり、西軍の敗北が見えた関ヶ原合戦。石田三成の首を狙う東軍諸隊が笹尾山を目がけて突進したことにより、ここで激戦が繰り広げられた。

 

島左近陣跡

 

矢来(やらい)

 

笹尾山山頂への道     ▼国史跡・石田三成陣跡

 

笹尾山・田三成陣跡

 石田三成は、関ヶ原が一望できる笹尾山に本陣を置いた。

 

笹尾山からの眺め

 

島津義弘の陣跡

 島津義弘隊は、小早川秀秋隊の寝返りで戦況が一変すると、東軍の中央を突破し、見事伊勢街道への脱出に成功するが、島津豊久は、当主であり叔父にあたる島津義弘を救うべく、その身代わりとなって討ち死にした。そして堺から船で、本国の鹿児島へたどり着いた人数はわずか約80名であった。

 

島津義弘陣跡

 

「関ヶ原戦跡踏破隊」の名碑

 

国史跡・開戦地

 決戦の朝、霧が薄くなった8時頃、松平・井伊隊が動く。先峰の福島隊の脇を通り抜けて発砲。これに怒った福島正則が、宇喜多隊に対して一斉射撃を仕掛けたのがこの場所である。

 

北天満山・小西行長陣跡

 小西行長隊は、合戦開始とともに北天満山から烽火を上げて味方に開戦の合図をした。午後になり、大谷隊が敗れたとの知らせを受け、山を越えて敗走する。

 

南天満山・宇喜多秀家の陣跡

 宇喜多秀家は、天満神社の境内に16,000騎という西軍の主力部隊の副総師として参戦した。開戦直後、福島正則隊に攻め込まれ、激しい戦いとなった場所である。

 

藤川台

 藤川台に大谷吉継、戸田重政、平塚為広等が布陣し、小早川秀秋隊等との壮絶な死闘が展開した。

 

平塚為広の碑

 平塚為広は、合戦当時、関ヶ原の隣の垂井1.2万石の城主であった。

 

国史跡・大谷吉継の墓

 大谷吉継の首を埋め隠した湯浅五助。それを藤堂仁右衛門に発見され、自らの首と引き換えに他言を阻止し、供養を託した。敵ながら感心した藤堂が合戦後に墓を建てた。隣には湯浅五助の墓が建つ。

 

大谷吉継の陣跡

 石田三成の盟友・大谷吉継は、病身を押して参戦。石田三成への「義」を貫いた。予想していた小早川秀秋の寝返りにも動ぜず応戦するが、配下の脇坂隊らの攻撃により大谷隊は混乱。あえなく自害した。

 

松尾山眺望地       ▼松尾山

 大谷吉継は、ここから松尾山に陣した小早川秀秋を監視していた

 

脇坂安治の陣跡

 脇坂安治は、西軍として松尾山魔に布陣した。松尾山の小早川秀秋隊が寝返ると、それに反応し大谷吉継隊へ攻撃。東軍の勝利に貢献した。

 

福島正則の陣跡

 開戦すぐに西軍の最強の宇喜多秀家隊(約16,000騎)へ攻撃をかける。

 

 関ヶ原合戦後、徳川家康は、地元の領主で東軍に参戦した竹中重門に1,000石を与え、関ヶ原の戦後処理(あとかたずけ)を命じたのである。

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関ヶ原布陣(youtubeより)

https://www.youtube.com/watch?v=97RvBs8tmrA

関ケ原の戦いにかかわる城と陣地(youtubeより)

https://www.youtube.com/watch?v=Y2rp3d7HKXk



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